作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

「自衛隊」という名の「軍隊」

2022年02月15日 | 国家論


「自衛隊」という名の「軍隊」

 

旧日本国軍の総括 - 作雨作晴 https://is.gd/d1UrqO

沖縄問題と新日本国軍 - 作雨作晴 https://is.gd/qmD8p9

という二つの記事が、今日の「このブログの人気記事」の項目の中に、一番目と三番目に挙げられていたので、久しぶりに再読した。時間の経過も早いもので、前者は2007年10月09日に、後者は2007年10月15日に書いたものである。すでにそれから15年の歳月が過ぎている。

この「旧日本国軍の総括」という小論を取り上げたのも、沖縄県で10万人を集めて?「旧日本軍の強制による集団自決についての教科書の記述変更に反対する集会」があったそうで、多数の大衆動員による政治的圧力で「歴史の真実」を決定するかのような沖縄県の現状を見て、「旧日本軍の強制による集団自決」の強制の「真実」がどのようなものであったのか、は純然たる歴史的、客観的事実の問題として「真実は多数決では決まらない」ことを主張しようとしたものである。

また同時に、そこに沖縄県民に代表される「戦後民主主義の軍隊観」に問題を感じたので、それに対して批判的に考察したものである。

現代国家においては、軍事組織は必然的であって、世界に軍事力を保持しない諸国家はない。しかし、唯一の例外は現行日本国憲法を看板にする日本であって、  そこには

第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦
権は、これを認めない。

と規定されている。したがって、我が国においては、憲法上は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」ことになっている。

この第二章の規定は明らかに、日本の大東亜戦争の「敗戦」の結果としてのGHQの占領統治という歴史的な背景の上に制定されたものであり、歴史的にも国際政治的にも非現実的な規定であることは論を俟たない。

この第二章の規定によってもたらさる矛盾の結果として、我が国では「陸海空軍」ではなく、警察組織の延長のようなヌエのような軍隊もどきの「自衛隊」という組織しか持ち得ないことになっている。しかもなおそれを保持したまま一世紀を迎えようとしている。

「自衛隊」は、憲法上も保持することのできない「陸海空軍」ではないはずであるから、日本橋でも銀座の大通りでも二重橋でも国民を前に堂々の分列行進すらできない。このような憲法下では、日本国は到底まともな「国家」であることができない。

だから国軍の名称についても、相変わらず「自衛隊」などという哀れな恥しらずの名称に留まっているし、その自衛隊の階級称についても「一等陸佐、二等陸佐、二等海尉、三等海尉」などという笑えるような呼称のままになっている。

 

 

 


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