哲学の使命について、プラトンについて論じる中で、ヘーゲルは次のように言っている。
「プラトンのなかには、当時一方では現存している宗教や国家憲法(国家組織)と、他方では今や自分の内面性を意識しつつあった自由が、宗教や政治的状態に対して行ったさまざまな、いっそう深い要求との間に現れた分裂に関する認識がいっそう明確に芽生えつつあった。プラトンは、真実の憲法や国家生活は理念に、すなわち永遠の正義という普遍的で真実な原理にさらに深く基づくべきであるという思想を理解していた。この理念を把握し認識することは、たしかに哲学の使命であり仕事である。」(岩波文庫版『精神哲学下§552』)
日本国憲法の改正が日程に上りだしている今日においても、ヘーゲルのこの指摘は正しいし、実際、哲学の課題は、永遠の正義(法)という普遍的で真実な原理が何であるかを探求することだろう。
そして、この原理のなかには「自由」はまちがいなく含まれるだろうが、「民主主義」が含まれるかどうかは、問題である。たしかに、F・フクヤマ氏が述べたように、歴史的に見ても、民主主義が人類にとって、普遍的で最終的な政治的形態であるように見えもする。しかし、それが、「真実な普遍的な原理」であるかどうかは、まだ証明されたわけではないと思われる。この証明の検証も困難ではあるけれど、哲学の課題であると思う。
そして言うまでもなく、新しい日本国憲法が制定されるに当たっては、この「自由」と「民主主義」の理念についての日本人自身による認識が前提になるけれども、自民党の憲法草案を見ても、この作業が十分に行われているようには見えない。また、その能力があるのかも疑問である。
そうした絶対的な理念についての意識を欠いたまま憲法が「作られる」とすれば、それに基づいて形成される国家というものは、はたして、一体どのようなものになるのだろうか。また今日の日本で、これらの国家の原理が、現実のなかに入り、国民の意識の中に十分に浸透しているといえるだろうか。少なくとも日本の知識人の一人である藤原正彦氏にはそうではないことが、氏の著作『国家の品格』を検討してみて分かっている。
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