作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ドイツ文化と日本文化

2007年04月25日 | 宗教・文化

 

ここしばらく、個別・特殊・普遍の論理を事物の発展の中に検証しているが、特に人類の精神の発展について考察しているときにやはり興味がもたれるのは、人種や民族のそれぞれの精神の特殊性についてである。民族の精神をもっとも個性的に発展させているのはヨーロッパの諸民族であるように思われる。ドイツ、イギリス、フランス、スペインなどは、それぞれに民族的な特徴を際立たせている。

それと比較して、東アジアの諸民族の文化、特に中国、朝鮮、日本のそれぞれの文化は、それぞれの個性よりもむしろ共通的な性質の方が濃厚であるように思われる。これらの後方東アジア人、モンゴル人種の文化的な共通点は、儒教文化圏として、その特殊性を包括的に捉えることができるのではないだろうか。いまだなお、これらの諸民族においては、戦前の日本の天皇制軍国主義や毛沢東の文化大革命、北朝鮮の個人崇拝などに見られるような、家父長制的な精神構造がなお支配的であると思われる。

それにしても、これらの民族精神を根本的に規定する要素は何かという問題については、繰り返し問う価値のある興味あるテーマであると思う。民族精神の形成においては、その地理的な条件や気象条件などの自然的な条件がやはり決定的であると考えられるけれども、宗教などの人文的な条件も大きな影響をもっていると見なさざるを得ない。

いわゆる市民社会を、マルクスの用語で言えば資本主義社会をもっとも早く発展させたのはヨーロッパであり、とくにその経済的な背景としてイギリスの産業革命は世界史的にも特筆されるが、この市民社会の発展と膨張は、必然的に人類の諸民族のすべてを同一の世界史の土壌にのせることになった。現代においては、グローバリズムとして、世界史の新たな質的発展の段階に入ったと思われる。

ユーラシア大陸の極東に位置する日本も、ぺリー提督の黒船来航以来、精神文化においても科学技術においても、欧米文化の圧倒的な影響下に置かれてきた事実は、現代日本人の生活に見るとおりである。

それでも百年や二百年ぐらいの歳月は、民族精神の変化や変質に要する時間としては十分ではない。ただ、議院内閣制や民主主義を導入しても、一方において象徴天皇制を保持しているように、日本人の精神的な民族的な特徴に本質的な変化はないと思われる。

それに対して、インドや香港、フィリッピンなどの植民地化された国民や民族の場合は、精神的にもより本質的に欧米の影響を受けやすかったといえる。香港人やフィリッピン人が、キリスト教の洗礼名を公的に使用していることなどがその端的な例である。

ただ、日本人の場合は、キリスト教の受容においても、過去の仏教や儒教の受容の場合と同じく、島国という特性もあって、他の大陸諸民族や熱帯、亜熱帯民族に比べても、その文化的な受容は、伝統的にも地理的にもきわめて主体的に行われたといえる。

ただ、今日の現代日本の、とくに太平洋戦争の敗北という未曾有の歴史的な混乱の後に生きる現代日本人の民族的な精神的な混乱状況は、もっとはっきりいえば、その腐敗と退廃の文化状況は、戦後の日本人が、その政治的な、文化的な歩みを、十分に主体的に進めることができなかったことに根本的な原因があるように思われる。

その意味で、現在の半植民地的な文化的状況から、真に日本に文化的な主体性を回復するためにも、現在の安倍内閣が目指しているような、憲法改正を契機とする戦後の連合国占領統治体制からの脱却は、その目的とするところは評価はできる。ただしかし、問題は、安倍晋三氏の目指すいわゆる「美しい国」のその具体的な内容である。その回復しようとする政治と文化状況の内容である。

確かに、安倍晋三氏は「自由と民主主義」を否定はしていないし、むしろ、欧米諸国とその点で、価値観を共有してゆくことを明言さえしている。それは肯定できるとしても、問題はその方法論である。

安倍晋三氏は、その保守的な思想の動機としては、岸信介や安倍晋太郎という保守的な政治家を、たまたま祖父、父に持ったこと以外に見当たらないのである。氏の「自由と民主主義」に何となく浅薄さを感じる理由である。

自由も民主主義も、思想的な出自、宗教的な出自としては、事実としてキリスト教を背景にもっている。にもかかわらずキリスト教の自由と人権意識なくして、「自由と民主主義」が論じられているように思う。そのせいか、非キリスト教徒の「自由と民主主義」論に直観的に胡散臭さを感じる。丸山真男氏や樋口陽一氏の「民主主義論」についても同じである。

おそらく、宗教改革という文化革命を日本国民が通過しないかぎり、そして、実質的にプロテスタント・キリスト教が日本国の支配的な宗教とならない限り、日本国民は主体的に「自由と民主主義」を国民自身のものにできず、したがって真に「美しい国」も現実的な可能性を持ち得ないのではないのかと思う。

だから、いくらスローガンとして「美しい国へ」を、掲げようと、日本国が真の自由と民主主義国家に生まれ変わることができず、民主主義の奇形とも言える現代全体主義への変質の可能性は、消えてなくならないのである。

とくに現代日本の政治家、教育者、マスコミ関係者たちの、「自由と民主主義」についての、その宗教的、思想的な未成熟と教養の不足は、日本国民にとって根本的な欠陥となって、悪循環を再生産しているように思われる。ドイツやイギリスやデンマークやオランダは、いずれもプロテスタント諸国である。そうした諸国の精神的、文化的な特質を、日本国民が民族の精神として主体的に自らのものにするに至るまでは、それらを手にすることはできないのではないかと思う。個別・特殊・普遍の論理を検討する中で、それぞれの民族の精神、それぞれの国民のもつ精神について思い至るとき、このような印象をどうしても拭い去ることができない。

参考    toxandoriaドイツの旅行記 

      日本の内なる北朝鮮 

 

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詩篇第百二十八篇註解

2007年03月14日 | 宗教・文化

詩篇第百二十八篇

巡礼の歌

何という幸せか、主を畏れ、主の道を歩むものはすべて。
あなたがその両手で労した果実は、まさにあなた自身が食す。
あなたは幸せである。善き物に恵まれるだろうから。
あなたの妻は家の奥にあって、葡萄の木のように豊かな房を実らせる。
あなたの子供たちは、オリーブの若木のように、
あなたの食卓を囲む。
見よ、主を畏れるものは、まさにこのように祝福される。
シオンから主があなたを祝福されますように。
そして命あるかぎりエルサレムの恵みを見るように。
そして多くの子供たちや孫たちを見るように。

イスラエルの上に平安あれ。


詩篇第百二十八篇註解

この詩篇にも、「巡礼の歌」という標題が付せられている。エルサレムに祭りがあり、そこへ参る途上で人々が和しながら歌ったものと思われる。ある意味では私たちの生涯も巡礼のようなものである。
それは死へ向かう旅路であり、また私たちは天上のエルサレムに向かう旅人でもある。

キリスト・イエス自身は生涯妻を娶ることもなく独身であったし、また彼自身も独身生活を勧めもしたが、聖書には家庭の幸福を描いている個所は少なくない。この詩篇第128篇もそうである。短い詩の中に、このうえなき家庭の幸福を描いている。このような幸福な家庭像はまさに永遠の理想であって、時間や土地によって、時代や民族によって変化するものではない。どんなにフェミニストたちが、独身女性たちの身分を謳歌しようとも。

わが国でも妻のことを「奥さん」と呼び習わしているけれども、この聖書の詩篇の精神に見事に一致している。妻は、家の奥にあって、葡萄の木々のように豊かな房を実らせている。そして、食卓に連なっている子供たちは、一度もまだオリーブを搾り取られたことのない若木のように青々として幼い。

このような幸福な家庭を手にすることのできるのは誰か。
それは主を畏れ、主の道を歩む者である。彼はこのような家庭に恵まれるという。幸福な家庭を手に入れたものは、すでにこの世にいながらにして半ば、すでに天上にあるようなものである。それほどに幸福な家庭は貴重である。

人は誰も二人の主人に仕えることができないように、幸福な家庭にも主人は一人しかいない。わが国では妻は夫のことを主人と呼ぶが、これも聖書の精神に適っていると思う。しかしそれは厳密には正しくはない。なぜなら、どのような家庭にあっても真の主人はただ一人、それはキリスト・イエスのみだからである。

現代の日本の家庭の多くが、離婚や崩壊に面しているとすれば、それぞれの家庭が、この唯一の主人を抱かず、妻と夫が主人の地位を争うような誤った家庭観に囚われてしまっているからではないだろうか。

 

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日本人はすでに究極の自由主義を実現したか

2007年03月05日 | 宗教・文化

以前に私のブログに書いた『公明党の民主主義』という記事にコメントをいただきました。そこでは日本の自由と民主主義のかかえる弱点を論じようとしたものですが、それに対して、あきとしさんという方から、日本ではすでに信教の自由をふくめて究極の自由を実現しているのではないかというコメントがありました。こうした問題について、ふだんから興味をもっておられる方は他にもおられるだろうと思い、いただいたコメントの返事を、新たに記事の形でも投稿することにしました。読者の皆さんの意見なども聞かせていただければ幸いです。コメントをいただいた、あきとしさんご本人のアドレスが分からないので、承認はとっていません。記事は次のリンクにあります。お目通しいただければ幸いです。

『公明党の民主主義』

あきとしさん、コメントありがとう。返事が遅くなり申し訳ありません。ブログを見なかったり、コメントに気がつかなかったりして、返事が遅くなることがあります。ただ、エチケットとして必要とされる返事はするつもりですので、こりずに覗いてみてください。あなたのアドレスがわからないので、少し長くなるかもしれませんが、ここに現在の私の考えを書いておこうと思います。

あなたのお考えの趣旨は、「わが国は多神教であって、すでにそれぞれの宗教は矛盾を解消してしまっているから、宗教改革の必要はない、日本はすでに究極の自由主義を実現している」ということだと思います。
あなたの考えの内容は、

①わが国は多神教で、それぞれの宗教の間の矛盾は解消している。
②日本は究極の自由主義を実現している。

の二つ命題として取り出すことができると思います。

それに対し、私がこの『公明党の民主主義』の記事で問題にしたかったことは、公明党の斎藤鉄夫政調会長をふくめて日本国民の「自由」についての「意識」の実際の内容はどのようなものかということでした。そして、一応の結論として見出したのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長に典型的にみられるように、日本人の「自由」の意識は、(もし欧米の自由の意識が、出自の本場で、もし、それが普遍的なものであるとすると)、全く違うものになっているというのが、考察の結論でした。ですから、私の結論からは、あきとしさんが仰るような「日本は究極の自由主義を実現している」という見解には同意できないことになります。

その理由としては、次のようなことが言えると思うからです。

まず日本人の「自由」の意識には、キリスト教を信仰することによってもたらされる本来の自由の感覚と意識があるのだろうかという問題です。日本人一般には、キリスト教が本来持つ、神の戒律と人間の原罪との間の根本矛盾の自覚はそれほど鮮明ではないと思います。ですから、その根本矛盾の解消ということから生まれる自由の側面が、日本人の「自由」の意識の中にはないように思います。これは善悪の問題なのではなく、事実としてそうだと思います。

そもそも日本には自由の意識の本来の母胎であると考えられるキリスト教世界を伝統として持っていませんでした。したがって、欧米のキリスト教世界が必然的に到達したのと同じ自由の意識に達するための必然的な背景を日本人は持っていないといえるわけです。ですから日本国民の「自由」についての意識は、この自由の概念の出生地である欧米の本来の自由の意識にくらべれば、そして、西洋人の自由観が普遍的なものであるとすれば、日本人の「自由観」は本来の普遍的な自由の概念に一致していない特殊なものではないか、もっとはっきり言えばゆがんだものではないかということに注意を喚起しようとしたものです。

さらに、日本の多神教の問題ですが、確かに、日本には伝統的に多くの宗教が並存し、民族として、とくに支配的な宗教はもたないのかもしれません。仏教や民族宗教としての神道、それに、擬似宗教としての儒教などがあるかもしれません。そして、近世になって、キリスト教も入って来ました。

日本人の宗教が多神教であり、キリスト教などの一神教とは異なるとは、よく言われますが、私にはまだ多神教と一神教の概念の正確な識別ができません。だから、日本人の宗教意識においては、神々の間の矛盾は克服してしまっているというあなたの考えについて、今のところ、私の考えを述べることはできません。ただ本来の多神教とは、一つの宗教体系の内部に、絶対的な神が存在せず、神々が相対的に存在するような宗教だと思います。ですから、日本人は多くの宗教体系を並存させている多宗教の民族であるとは思いますが、多神教の民族であるのかどうか今のところよくわからないのです。

また、多神教の伝統の世界には、絶対的な人格神は存在しません。それは、神が人間としてのイエスに受肉されて私たちに現われたというキリスト教の独自の存在だと思います。ですから、非キリスト教世界に、人格と人格が対峙する経験はないと思います。そして、プロテスタントの宗教改革とは、直接に「人格」と人格が対峙することが認められることであり、その間に救いの絶対的な要件として教会などの仲介者の存在を必ずしも必要としないことを証明したことであると思います。

本来宗教を信じることによってもたらされる自由を、どの宗教を信じるかの「自由」として、あなたが捉えておられるところにも、あなたの「自由観」が現われていると思います。しかし、それは単なる思想的な、宗教的な無節操とどう違うのでしょうか。そんな疑問をもちました。


自由の問題や、多神教、一神教の問題については、まだ勉強中ですので、今のところ、これぐらいの事しか考えられませんが、ただ、あなたの仰るように、「日本人は、究極の自由主義を実現し、また諸宗教の矛盾を解消してしまっている」などとは、とうてい言えないようには思います。

欧米人の自由観については、以前も一度取り上げたことがありました。参考にしていただければと思います。

 
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日々の聖書(13)――イエスの平常心

2007年02月27日 | 宗教・文化

日々の聖書(13)――イエスの平常心

さて、ある日イエスは弟子とともに舟に乗った。彼は弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう。」と言った。そうして彼らは漕ぎ出して行った。
しかし、弟子たちが帆を揚げたとき、彼は眠り込んでいた。すると湖に嵐が吹いてきて、舟は水に浸かってしまい、弟子たちは恐れおののいて、彼の所にやってきて彼を起して言った。「先生、先生、溺れてしまいそうです。」 すると彼は起き上がり、風とうねる大波にむかってお叱りになった。するとすっかり静かになった。
そのとき彼は弟子たちに言われた。「あなた方の信仰はどこにあるのか」
すると弟子たちは、恐れ驚いてお互いに言いあった。
「この方は何という人だろう。命ぜられると風も波も彼に従うではないか。」

(ルカ書8:22~25、マタイ書8:23~27、マルコ書4:35~41)

この一節からも、さまざまの事柄が読み取れると思う。自然をさえ従わせることのできるイエスの権威、あるいは、すべてに超然としたイエスの態度、あるいは、弟子たちの神に対する信頼心のなさなど。
弟子たちとその師であるイエスと間に見られるこの態度のちがいは何によるのだろうか。仏教などにおいても、修行を積んだ禅僧などにもイエスのような何事にも動じない平常心をしばしば見ることができる。ただ外見的には同じような不動心、何事にも超然とした平常心であっても、その由来は異なるようである。

「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言われるように、無神論の仏教ではその境地は無を観想する修行に由来する。

それに対して、イエスの教えによれば、畏れるべきはただ永遠の存在である神のみである。そこから、自己の生命に対しても、有限な存在としての人間の存在の本質的な虚しさの自覚も生まれてくる。そうして神以外の存在の一切に対する本質的に無頓着な態度から、生命の危機に対してさえも超然とした姿勢が生まれてくる。

だからイエスは言った。「身体を殺しても、それ以上に何もできない者を怖れるな」(ルカ12:4)と言い、「自分の命のために何を食べようか、何を着ようかと思い患うな」(ルカ12:22)と言った。哲学者ヘーゲルはこれを評して、歴史上もっとも革命的な言説であると言っている。

そして、さらにはイエスの祈りの精神がある。彼は弟子たちに「倦まず弛まず気を落とさず絶えず祈ることを教え」(ルカ18:1)彼自身も、血の汗を滴らせながら(ルカ22:44)祈った。イエスの不動心はこうした祈りの修練によってももたらされたのだろうと思う。そしてキリスト者とは、キリスト・イエスを唯一の師と認める者のことだから、イエスのこの境地は、当然にキリスト者の目指すべき境地でもあるのだろう。


さて、ある日イエスは弟子とともに舟に乗った。彼は弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう。」と言った。そうして彼らは漕ぎ出して行った。
しかし、弟子たちが帆を揚げたとき、彼は眠り込んでいた。すると湖に嵐が吹いてきて、舟は水に浸かってしまい、弟子たちは恐れおののいて、彼の所にやってきて彼を起して言った。「先生、先生、溺れてしまいそうです。」 すると彼は起き上がり、風とうねる大波にむかってお叱りになった。するとすっかり静かになった。
そのとき彼は弟子たちに言われた。「あなた方の信仰はどこにあるのか」
すると弟子たちは、恐れ驚いてお互いに言いあった。
「この方は何という人だろう。命ぜられると風も波も彼に従うではないか。」

(ルカ書8:22~25、マタイ書8:23~27、マルコ書4:35~41)

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詩篇第百三十三篇註解

2007年01月10日 | 宗教・文化

詩篇第百三十三篇

都のぼりの歌。ダビデの。

見よ、何と善く、何と楽しいことか。
兄弟たちが仲良く共に座っている。

頭に注がれるかぐわしき油が、
髭に流れ、アロンの髭に滴り、
彼の着物の袖口にまで流れ滴る。

ヘルモン山の露が、
シオンの山々に滴り流れるように。
まことに、そこで主は祝福を永遠の命さえも約束せられた。

詩篇第百三十三篇註解

すべての詩篇の中で、いや聖書全巻の中でも、もっとも貴重な一篇といえる。ここに人類の理想があり夢が尽きるといってもよいかもしれない。兄弟たちが仲良く食卓を囲んで語らっている。その楽しさは体験し記憶されているだろう。

人間がただ人間であるということだけで、楽しく食卓を共に囲み、歓談と談笑にふける。そこには宗教の差別も、人種の差別もない。

私たちはこうした姿がいつの日か地上に実現される日の来ることを恋い願ったことだろう。しかし、そうした日はいつことになるか、人類は罪と涙と共にその日の到来を待ち焦がれるだけなのだろうか。それとも、主はそこで永遠の命と祝福を約束されたのだから、それを信じて待つべきか。

たとえ、私たちの幾世代においては地上での実現は難しくとも、天上においてはそうした楽しき食卓は叶えられるにちがいない。

アロンとはモーゼの兄で、主の命によって油注がれて初代の祭司職に任ぜられた。モーゼたちの兄弟に対する主の祝福と見ることもできるが、必ずしも限定的にではなく、一般的な象徴と解してよいと思う。

エルサレムへの巡礼の折などに歌われたらしい。

 

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日々の聖書(11)―――密かな弟子

2006年12月27日 | 宗教・文化

日々の聖書(11)―――密かな弟子

そしてこの後、アリマタヤのヨセフという、ユダヤ人を怖れてイエスの弟子であることを密かに隠していた者が、ピラトにイエスの死体を引き取ることを願い出ると、ピラトは許したので、彼は、イエスの身体を引き取った。

(ヨハネ書第十九章第三十八節)

公然と信仰を告白することが、昔からなかなかできなかったことは、すでにイエスの在世時からであったことがここでもわかる。イエスに対する公然の信仰告白が、昔から事実として、多くの犠牲なくしてできない場合が多かったことを示している。このアリマタヤのヨセフはユダヤ人たちから村八分にされることを怖れたために、イエスの教えの真理であることがわかっていながら、それを公然と告白することができなかった。

しかし、信仰告白がたんに村八分ぐらいで済んでいればまだ幸いである。とくに、わが国の織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの戦国武将のキリスト信徒に対する弾圧は苛烈を極めた。

それは何もキリスト信徒に対してのみではなく、当時の封建的な戦国時代そのものの気風が本質的に過酷な統治で人々に臨んだものだった。信長は一向宗徒を焼き討ちにしたし、豊臣秀吉の甥の秀次ですら、一たび謀反の疑いをかけられると、一族郎党が皆殺しにあった時代である。

安土桃山の時代に布教が始まったキリスト教も当初は多くの信者を獲得したが、その教義の実体が時とともに明らかになってくると、戦国の武将たちは警戒を隠さなかった。長く続いた戦乱の不幸を痛切に知っていた徳川家康は、それが天草の乱として彼らの地位を揺るがしかねないことがわかると、あらゆる手段で禁圧弾圧に及んだ。内政的には檀家制度によって仏教で民衆の思想統制を強固に図るとともに、外政的には鎖国制度をしいて、海外からのキリスト教の流入を防ぎ、国内からキリスト教の完全な排斥につとめた。

今日でもその事実はさほど明確に自覚されてはいないけれども、徳川の幕藩体制を、その内政と外政を大きく規定したのはキリスト教の威力に対抗するためであったと言える。そうした過酷な時代に、アリマタヤのヨセフのような多くの隠れキリシタンの日本人がいたとしても責めることはできない。

かっての徳川家康の居城であった駿府城の一角に今ではカトリックのミッションスクールがあるし、現代では、イエスに対する信仰を明らかにしたからといって、誰も生命を奪われることもない。信仰の自由は憲法によって守られる時代だからである。

 

そしてこの後、アリマタヤのヨセフという、ユダヤ人を怖れてイエスの弟子であることを密かに隠していた者が、ピラトにイエスの死体を引き取ることを願い出ると、ピラトは許したので、彼は、イエスの身体を引き取った。

(ヨハネ書第十九章第三十八節)

 

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日々の聖書(10)―――富と貧しさ

2006年12月21日 | 宗教・文化

日々の聖書(10)―――富と貧しさ

富貴の人に気に入られようとする者は多く、贈り物をくれる者には誰しもが友だちになる。だが貧しい者は、兄弟にすら憎まれる。まして友人たちはいっそう彼から遠ざかる。貧しい者の言葉には誰も耳を傾けない。

(箴言第十九章第六~七節)

富は多くの友人を作るが、没落して貧して窮した者には、兄弟や信じていた親友すら離れ去る。このような事実を体験するのは、バブル経済に天国と地獄を体験した平成の世の日本人のみに限らないらしい。

紀元前200年、300年もの昔に作られた聖書の『箴言』のなかにもこのように語られているからである。砂漠に生きたアラブ人、ユダヤ人、エジプト人たちもそうだったらしい。人間の本性というのは、古今東西そんなに変わらないことがわかる。


豊かになるにしても貧乏になるにしても、実際の世の中は、往々にしてままにならないものである。人は誰しも好むと好まざると、運命の巡り合わせから、不本意な境遇に陥ることはある。人間の生はもともと不安である。だから誰しもそれなりの覚悟はしておけということなのだろう。

私たちは、この聖書の言葉から、何を学ぶことができるだろうか。それは第一に人間のもって生まれた弱さだろう。そうした行為は弱さから来るからだ。もちろん、人間にはもって生まれた強さというものもある。しかし、弱い人間の限界の一面として、この箴言が記しているような態度をとる人間は多い。それを恨んでも仕方のないことである。

それは人間の弱さのせいであって誰も非難はできない。だから、人は逆境に立ち至ったときのために、ふだんから人間関係にそれなりの覚悟をしておくことだろう。また一方で、そうした事態を招かないように人事を尽くすことだろう。

さらに望ましいことは、イエスを私たちの共通の絆として、同じ主と仰ぐことのできる友を得ることだろう。なぜなら、彼はその堅き信仰によって、不確かな富に望みをおかず(テモテ前6:17)、主の貧しさによって豊かであるから(コリント後8:9)。彼は、富める時も貧しいときも支えてくれるにちがいないから。

イエスを友として授かれば、ましてなおさらである。彼ならこのような態度をとることはありえない。しかし、この世ではこれが大方の人間の真実なのだろう。

富貴の人に気に入られようとする者は多く、贈り物をくれる者には誰しもが友だちになる。だが貧しい者は、兄弟にすら憎まれる。まして友人たちはいっそう彼から遠ざかる。貧しい者の言葉には誰も耳を傾けない。

(箴言第十九章第六~七節)

 

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詩篇第百十二篇註解

2006年12月19日 | 宗教・文化

詩篇第百十二篇

主を誉めたたえよ。
何と幸いなことか、主を畏れる人は。
彼は主の戒めをまことに歓ぶ。
彼の子孫は地上の勇士となり、
正しい者たちの世代は祝福される。
彼の家は富と財産に満ち、
彼の正義は永遠に揺るがない。
正直な者たちは、暗闇の中に光輝き、
豊かに恵み、憐れみ深く、正しい。
良い人は、憐れみ深く、物惜しみしない。
彼の言葉は、裁きの場でも受け入れられる。
永遠に揺らぐことなく、義しい人は永遠に忘れらることもない。
彼は悪評を恐れず、
彼の心は堅く主に信頼している。
彼の心は堅く揺るがず恐れることもなく、
ついには敵どもの敗北を見る。
貧しい人々には豊かにふるまい、
彼の正義は永遠に揺らぐことなく、
彼の角は栄光のうちに高く掲げられる。
悪人はそれを見て怒り、
歯ぎしりして消え去る。
神に逆らう者たちの願いは滅びる。

 

詩篇第百十二篇註解

ハレル(誉めよ)ヤー(主を)ではじまる賛美の歌。また、各句の冒頭は暗記しやすいように、日本のイロハかるたのように、アルファベット順に並べられている。ユダヤ人たちはそうして詩篇を暗記して昼夜口ずさむのだろう。

ここでも幸福な人とは、主を畏れる人である。しかし、たんに主を畏れるという消極的なことではなく、主の教え、主の戒めは詩人にとっては深い歓びと慰めの源でさえある。(1節)

このように主の教えを愛する人の子々孫々は、勇敢で強く、主の教えに従う人たちの世代は祝福された幸福な世代である。そんな彼の家族には豊かな富がある。

旧約では、正義と富とは一致すると楽天的に信じられている。決して間違いではないとしても、往々にして成金的な富は正義に反して得られる場合が多い。しかし、そうした富は長続きしないのだろう。
それは市場原理主義の現代でも同じだと思う。

ユダヤ人にも貧しい人は少なくないが、世界的な長者も少なくない。人口比から言えば、もっとも大金持ちの多い民族だろう。おそらくそれは、この詩篇に歌われているように、ユダヤ人には、先祖代代にわたって主の教えを愛し、正義に生きる人々が多かったことによるのだろうと思われる。キリスト教徒の場合でも同じだと思う。古い家系のキリスト教徒に裕福な家族は少なくない。富や豊かさは、もともとは神からの贈り物なのだろう。


山上の教訓で、イエスが「心の貧しい人は幸いである」(マタイ書5:3)と言ったことから、従来のキリスト教は貧しさを尊ぶ傾向が強いけれども、経済的な貧困自体は不自由なものである。貧困自体は良いものではない。本来の趣旨は、「心の貧しさ」、「謙遜」の価値を語ったものだと思う。ここで良い人、正しい人とはどのような人であるか語られる。それは、憐れみ深く、物惜しみせず与える人だという。(4節5節)そして、彼は法に従って行動するから、裁判所でも彼の言葉は信頼される。そして、何よりも、死後に行なわれる神の前での審判においても、彼の証言は受け入れられる。

また、主に信頼する人は揺るがない。(6節)だから、人から悪評を立てられても恐れない。実際に人から悪口を言われなかった者はいないだろうし、また、人の悪口を言わない人も少ないのではないか。人の口から悪口を絶つことはできないし、人間とはそうした者である。主に信頼して支えられているから詩人は悪評も恐れず、信じる道を歩んでゆく。そしてついには、敵の敗北を目に見る。そうして彼の角は主によって高く掲げられる。角とは、勝どきを上げるラッパのようなもので、それは力と支配を表すシンボルである。

正しい人がそうして主に支えられるのを見て、悪人は憤り歯ぎしりして怒るが、やがては力を失い、彼らの野望も消えてなくなるという。この詩も主の教えに忠実であることの歓びと慰めを歌っている。

 

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日々の聖書(9)―――緑なす葉

2006年12月14日 | 宗教・文化

日々の聖書(9)―――緑なす葉

流れの河岸に植えられた木のように、彼は時が来れば実を結び、その葉もしおれることはない。
   
(詩篇第一章第三節)

あらゆる生命にとってなくてはならないものがある。それは水である。人間は少々食べなくても生き長らえることはできるけれども、水がないとそうはいかない。遭難にあったときに、水があるかどうかが運命の分かれ道になる。

そして、「みずみずしい」という日本語があるように、水に潤っていることが、生き生きとしていることの、活きていることの証しになっている。植物と同様に人間も水がなければ萎れて枯れ、やがて死んでしまう。

人間は肉体と精神からなる生き物である。肉体にとって水が不可欠であるように、精神にも水を欠くことができない。肉体と同様に心や精神の成長のためにも水はなくてはならないものである。

しかし、肉体にとっての水に相当するものは、精神にとっては何か。詩篇の第一章では、それは主の教えであるという。信じる者にとって、日々に主の教えを口ずさむことは、心に水を注ぐようなもので、それで心もふたたび生き生きとしてくる。精神が枯れ衰えることもない。

さらにキリスト教では、精神にとっての水は、ただに主の教えばかりではない。パンとぶどう酒に喩えられるイエスの身体もそうである。十字架の上で喉の渇くイエスは人々から酸いぶどう酒を飲まされたが、イエスのぶどう酒も渇きを癒してくれる。また、イエスを信じるものには、心に活きた水が川のように流れ出てくる。(ヨハネ書第7章第38節)だから、イエスも、喉の渇いている人は誰でも来て飲むように言われた。こうして、彼から日々に生ける水を飲むものには、岸に植えられた木々のように、彼の心や精神はいつまでも生き生きとして、枯れて萎れることもない。

流れの河岸に植えられた木のように、彼は時が来れば実を結び、その葉もしおれることはない。
   
(詩篇第一章第三節)

 

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詩篇第百三篇註解

2006年12月13日 | 宗教・文化

詩篇第百三篇

ダビデの歌

私の心よ、主を誉めたたえよ。
私の全身で主の聖なる名を誉めたたえよ。
私の心よ、 主を誉めたたえよ。 
主の恵みのすべてを忘れてはならない。
主はあなたのすべての罪を許し、すべての病を癒される。
主はあなたの命を墓穴から救い出され、
あなたに愛と憐れみの冠をかぶせられる。
あなたの口を善き物で満ち足らせ、
あなたの若さを鷲のように新たにされる。
主はすべての虐げられたもののために、
正義を行い、裁かれる。
主はご自分の道をモーゼに、
み業をイスラエルの子たちに教えられた。
主は憐れみ深く、豊かに恵まれる。
怒るに遅く、愛に富み、
主は常に責められることはなく、永く怒られることはない。
主は私たちの罪にしたがって扱われることはなく、
私たちの悪にしたがって報いられることもない。
天が地を高く越えるように、
主の愛は、主を畏れる者の上に深く、
東が西から遠いように、
主は私たちから犯罪を遠ざける。
父がその子を憐れむように、
主を畏れる者を憐れむ。
まことに主は私たちがどのようにして造られたかを知っており、
私たちが土くれに過ぎないことを覚えておられる。
人の生涯は草のようなもの、
野の花のように咲く。
風が吹けば、散って消え、
跡形さえも知られない。
だが、主を畏れる者たちの上に、
主の愛は永遠から永遠に至る。
主の正義は子から子へと。
主の契約を守り、主の命令を覚えて行なう者の上に。
主は天に固く御座を据えられ、
主の御国はすべての者を治められる。
主の御使いたちよ、主を誉めたたえよ。
主のみ言葉に聴き、主のみ言葉を行なう強き勇士たちよ。
主のすべての軍勢よ、主を誉めたたえよ。
主に仕え、主の御旨を行なう者よ。
主の御手に造られた物はすべて、主を誉めたたえよ。
主の支配するすべての土地で、誉めたたえよ。
私の心よ、主を。

詩篇第百三篇註解

主を誉めたたえる歌である。詩人は主を誉めたたえる。全身全霊で主に感謝している。なぜなら、詩人の犯したすべての罪が許され、すべての病が癒されたから。

罪とは心の病でもある。それが、主の愛と憐れみによって癒され、病から回復して、若い鷲のように全身に力が回復するのを感じる。それゆえ、詩人は主に感謝し、主を誉めたたえざるをえない。
罪からの病のために、死の墓に降ろうとしていたのに、主の愛によって贖い出されたのだから。(第4節)
ここでも、思い出されるのは、死んでから四日もたち、手や足や顔を布で覆われて葬られていたラザロを、墓の穴からイエスが呼び戻されたことである。       (ヨハネ書第11章第38節以下)

また、詩人は何らかの理由で虐げられている。(第6節)
聖書はもともとユダヤ人の本であるが、ユダヤ人はモーゼによるエジプトからの奴隷的な境遇からの解放後も、多くの苦難に見舞われてきた。この詩人もそうした迫害を受けていたのだろう。詩人はみずからの受ける虐げを主の怒り、主への反逆の報いとして受け取っていた。

しかし、主の怒りが永遠に続くことはなかった。父がその子を憐れむように、 主を畏れる者を憐れんでくださるという。(第13節)
イエスが主を放蕩息子を迎える父として喩えたことはよく知られている。詩人もそこに主の憐れみと忍耐を感じている。主の愛は天が地を超えるように高く深い。一度は失われた息子の帰還を歓ぶ父の無償の愛と同じである。それと同じものを詩人は感じたのだろう。

第14節からは一転して、人間の果敢なさ、虚しさが歌われる。詩篇は論文ではないから、必ずしも内容が論理的に展開されるわけではない。全身全霊に感じるままに、心の赴くままに、その奥底から湧き上がる思いを言葉に込めて歌われる。

人間とは大地から土でこねて主が造りあげたものである。(第14節、創世記第2章)そして、人間の生涯は、かってモーゼによって歌われたように、野の草のようにはかない。(詩篇第九十篇)
人間の生涯のはかなさは野の草花に喩えられる。朝が来て花を咲かせても、砂漠の熱風に吹かれて夕べには萎れて枯れる。哲学が概念によって世界を把握するのとは異なり、詩はそうした喩えによって、直覚的に人生観や世界観や神を表現する。

主を畏れる者に、主の契約を守る者に対する主の愛は、ここでも繰り返し歌われる。主の契約とは、第7節に歌われているモーゼを介して教えられた、主の道であり、いわゆる主の十戒のことである。それを心にとめて生きる生き方のことである。

第20節で主のみ使いについて歌われているが、主のみ使いとは、いわゆる天使のことであるが、天使とは、ここで述べられているように、主の言葉を聴き、主の御旨を行うものである。その意味では、預言者や使徒たち、また主を信じる人々を考えてよいのだと思う。預言者や使徒たち、さらには主を信じる者たちは、また主の兵士でもある。その軍勢があまりに多いために、彼らを率いて現われる主は、万軍の主とも呼ばれる。

その主は天に玉座を据えられ(第19節)、そこから万物を支配される。イエスも天に上げられ、神の右の座に着かれた。(マルコ書第16章第19節)そうして、この世の国もまた、主と御子イエス・キリストのものとなり、永遠に統治されるものとなる。(黙示録第17章第15節以下)

主を誉めたたえるのは、み使いたちだけではない。主に造られたものすべてが、空の鳥も、海の魚たちも、野の草花も、山も空も、夜空の星々も、創造された万物すべてが主の創造の御業をたたえるようにと言い、何よりも詩人は自分の心に向かって、全宇宙にその栄光を現わされた主を誉めたたえるよう呼びかける。

 

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