日々の聖書(14)――人か神か
主は言われる。
呪われよ。人に信頼し、
肉にすぎないものに頼る者は。
彼の心は主から離れている。
だから、彼は荒地の枯れ木のように、
恵みの雨を見ることもなく、
誰も住まない荒野の干からびた塩の地に、
住まうことになるだろう。
幸せだ。主に信頼し、
主に望みをおく者は。
彼は小川のほとりに植えられた木、
流れに深く根を張り、
日照りに悩むこともなく、
その葉は青く繁っている。
旱魃の年を恐れることもなく、
果樹が実を結ばないこともない。
(エレミア書第十七章第五節~第八節)
ここでも人間の二つの類型が示されている。肉にすぎない人間に頼る者と神に頼る者である。人間不信もここに極まるというべきか。しかし、これが聖書の人間観であることは否定しようもない。エチオピア人がその黒い皮膚を、豹がその斑の毛皮を変えられないように、人間は罪深く、直く正しい人には変われない。(エレミア書13:23)
そんな人間であっても、人に頼らず、神に頼るものは幸せであるという。
なぜか。人に依頼するものは結局は、彼の心は神から離れるからである。
唯一の神、主を前にしては、常に選択を迫られる。お金か神か。人か神か。
人間は二人の主人には仕えることができないからである。(マタイ書6:24)
エレミアもつねに詩篇に慣れ親しんでいた。それは、ここでも明らかである。
エレミアの口には、詩篇冒頭の数節がおのずから口ずさまれて来る。
主の教えを愛し、日夜口ずさむ者は、小川のほとりに植えられた木のように、
その葉はつねにみずみずしく、いつも果実を実らせている。
ただ詩篇の第一篇では神の教えを愛する者と神に逆らう者とが対比させられていたが、
ここではエレミアは人間に頼る者に対し、神に頼る者とを比べている。
この人間類型は、現代においても基本的には変わらないのだろう。
科学や民主主義や自己に頼るものは、結局は人間に頼るものである。
エレミアの眼には、彼らの心はすべて主から遠く離れている。
だから彼らは、砂漠の枯れ木のように、恵みの雨を見ることもない。
それに対し、主に信頼し、主に望みをおく者は、
彼は小川のほとりに植えられた木のように、
葉は青く繁り、旱魃を恐れることもなく、
果樹は豊かに実を稔らせるという。
新約聖書ではイエスを信じる者には、聖き霊が生ける水となって流れてくるとも言われている。(ヨハネ書7:38)
エレミアにもイエスにも、詩篇冒頭の川のほとりに植えられた木のたとえが、つねにその心に湧き起こってくる。
主は言われる。
呪われよ。人に信頼し、
肉にすぎないものに頼る者は。
彼の心は主から離れている。
だから、彼は荒地の枯れ木のように、
恵みの雨を見ることもなく、
誰も住まない荒野の干からびた塩の地に、
住まうことになるだろう。
幸せだ。主に信頼し、
主に望みをおく者は。
彼は小川のほとりに植えられた木、
流れに深く根を張り、
日照りに悩むこともなく、
その葉は青く繁っている。
旱魃の年を恐れることもなく、
果樹が実を結ばないこともない。
(エレミア書第十七章第五節~第八節)
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