ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

公明党の民主主義

2006年10月17日 | ニュース・現実評論

北朝鮮の核実験にからんで、それが連鎖的に日本の核武装へと波及することの懸念は欧米の論調でも多く見られる。もちろん、その根本的な理由は、日本の民主主義の成熟度に対する不審によるものだ。
海外からは、北朝鮮とならんで日本もまた、中川政調会長の発言のように「どうみても頭の回路が理解できない国」とまだ見られている。

さる十五日のあるテレビ番組で、自民党の中川昭一政調会長が、「核があることで攻められる可能性は低いという論理はあり得るわけだから、議論はあっていい」との認識を示したそうである。私もそうした意見は、自由な国民の中から当然に出て来てよいと思うが、今なおこうした問題では、「議論さえするな」という意見があるようだ。

これを報じていた朝日新聞の記事は以下の通りである。
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自民政調会長「核保有の議論必要」 首相は三原則を強調
2006年10月15日18時50分

 自民党の中川昭一政調会長は15日、北朝鮮の核実験発表に関連し、日本の核保有について「核があることで攻められる可能性は低いという論理はあり得るわけだから、議論はあっていい」との認識を示した。安倍首相は国会で「我が国の核保有という選択肢は一切持たない」と答弁している。だが、日本も核武装するのではとの見方が海外の一部で出る中での与党の政策責任者の発言は、波紋を広げそうだ。

 テレビ朝日の報道番組などでの発言。中川氏は非核三原則は守るとの姿勢を示したうえで、「欧米の核保有と違って、どうみても頭の回路が理解できない国が(核を)持ったと発表したことに対し、どうしても撲滅しないといけないのだから、その選択肢として核という(議論はありうる)」と語った。

 一方、安倍首相は15日の大阪府内での街頭演説でも「北朝鮮が核武装を宣言しようとも、非核三原則は国是としてしっかり守っていく」と明言。中川秀直幹事長も記者団に「首相の発言を評価している」と語り、党として議論するつもりはないことを強調した。

 また、公明党の斉藤鉄夫政調会長は同じ番組で「議論をすることも、世界の疑念を呼ぶからだめだ」と反論。民主党の松本剛明政調会長も「今、我が国が(核を)持つという方向の選択をする必要はない」と述べた。


http://www.asahi.com/special/nuclear/TKY200610150124.html

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この記事で気になったのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長が「議論をすることも、世界の疑念を呼ぶからだめだ」と反論したとされていることである。

このようにして人はタブーを作り、自己規制し、思考停止に陥るのだ。そうして頭だけ布団に隠したつもりでも、危険は消えてくれる訳でもない。

この記事が真実なら、やはり公明党員らしい発言だなと思った。というのは、公明党は本来的に民主主義政党ではないと思っていたからである。もちろん、公明党が「民主主義」をその政党の基本的な原理にするかどうかは、公明党やその支持者の自由である。ただもし、多くの国民が公明党を民主主義政党であると考えているなら、再考の余地があるのではないかと言いたいだけである。そして、それが真実なら、民主主義を支持する国民はこの政党を支持しないだけの話だろう。

「議論することもだめだ」と言うのは、もちろん、「言論の自由」とその価値を知っている人の発言ではありえない。この報道が真実なら、公明党の政策責任者の「自由と民主主義観」がどのような程度のものであるかが、そこに計らずも露呈したのだろう。ふだんから民主主義が血肉になっている人には、ケガにもこうした発言は出てこない。こうした事実にも、公明党が本質的に民主主義政党ではないことを証明していると思う。もちろん、先にも述べたように、公明党が民主主義政党でなければならないということはない。日本の憲法は共産党などの全体主義的な政党も合法として存在を認めている。

ただ、近代現代を通じての人類の歴史的体験からも、自由と民主主義を原理としない組織は、それがたとえ政党であれ、国家であれ現代の組織形態としては、国際的にも公認されにくいというのが歴史的な事実ではなかろうか。そして実際、そうでない政党や組織、国家は事実として歴史からも姿を消していっている。

いずれにせよ、こうした事実からわかることは、宗教的に自由に解放されていない国民や民族が民主主義を標榜することは、やはり茶番や喜劇に過ぎないことである。これは何も公明党員のみに限らない。今イラクでアメリカは民主主義的な国家、政府の樹立を目指して、軍事的にも苦闘しているが、その困難の背景には、やはり、イラク国民、イラクの民衆の多数がいまだ自由な宗教に解放されていないという歴史的な現実がある。宗教改革を経ないそのような民族や国民が、そのままで国家や政府を民主化することはできないのである。少なくとも内在的に民主主義国家を形成することはむずかしい。

日本国がまだ事実として半民主主義国に留まっているのも、この公明党の斎藤鉄夫政調会長に見るように、国民の多数としては、いまだ自由の宗教へと解放されてもおらず、また「宗教改革」も経験していないからである。この事実は、いわゆる左翼であっても右翼であっても変わりはない。

もちろん、ある歴史的な段階にある国民や民族にとっては、民主主義的な統治形態が必ずしも適切であるとは限らない場合もある。それは先のタイで起きたクーデター事件でもみた通りである。ただ、そうした後退があるとはいえ、それでもやはり人類の進むべき歴史の方向は、自由と民主主義であることは認めてよいと思う。

  宗教と国家と自由 

  タイ国のクーデタ事件に思う

2006年10月16日


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3 コメント

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Unknown (Rudy)
2007-01-17 13:00:07
本当にそう認めてもよいとお思いですか。もう少し考える余地はありませんか。
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日本の場合は事情が違うところも・・・ (あきとし)
2007-03-02 13:43:02
こんにちは。
日本は確かに宗教改革というものをなしえてないという
指摘もわからないでもありません。
しかし、この宗教改革という言葉自体も私には少し陳腐
な言い方に思えます。
宗教改革、政教分離などは、一神教では必要な定義だが
(国の教えになる恐れが多分にある)、日本のような
多神教の考えを持つ国の場合、それぞれの宗教がもつ
矛盾をすでに解消しており、それぞれの信教の自由を
これほど高度に実現している国もないからです。
そのあたりはどう思われますかね?

日本だけが、なし得た究極の自由主義であり、労働面や
保障面などでは究極の共産主義をなし得たのは、日本人
が持つ特有の宗教観も大きいと思いますが・・・。

乱文申し訳ありません。では。
返信する
日本人はすでに究極の自由主義を実現したか (そら)
2007-03-06 10:11:56
あきとしさん、コメントありがとう。返事が遅くなり申し訳ありません。ブログを見なかったり、コメントに気がつかなかったりして、返事が遅くなることがあります。ただ、エチケットとして必要とされる返事はするつもりですので、こりずに覗いてみてください。あなたのアドレスがわからないので、少し長くなるかもしれませんが、ここに現在の私の考えを書いておこうと思います。

あなたのお考えの趣旨は、「わが国は多神教であって、すでにそれぞれの宗教は矛盾を解消してしまっているから、宗教改革の必要はない、日本はすでに究極の自由主義を実現している」ということだと思います。
あなたの考えの内容は、

①わが国は多神教で、それぞれの宗教の間の矛盾は解消してしている。
②日本は究極の自由主義を実現している。

の二つ命題として取り出すことができると思います。

それに対し、私がこの『公明党の民主主義』の記事で問題にしたかったことは、公明党の斎藤鉄夫政調会長をふくめて日本国民の「自由」についての「意識」の実際の内容はどのようなものかということでした。そして、一応の結論として見出したのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長に典型的にみられるように、日本人の「自由」の意識は、(もし欧米の自由の意識が、出自の本場で、もし、それが普遍的なものであるとすると)、全く違うものになっているというのが、考察の結論でした。ですから、私の結論からは、あきとしさんが仰るような「日本は究極の自由主義を実現している」という見解には同意できないことになります。

その理由としては、次のようなことが言えると思うからです。

まず日本人の「自由」の意識には、キリスト教を信仰することによってもたらされる本来の自由の感覚と意識があるのだろうかという問題です。日本人一般には、キリスト教が本来持つ、神の戒律と人間の原罪との間の根本矛盾の自覚はそれほど鮮明ではないと思います。ですから、その根本矛盾の解消ということから生まれる自由の側面が、日本人の「自由」の意識の中にはないように思います。これは善悪の問題なのではなく、事実としてそうだと思います。

そもそも日本には自由の意識の本来の母胎であると考えられるキリスト教世界を伝統として持っていませんでした。したがって、欧米のキリスト教世界が必然的に到達したのと同じ自由の意識に達するための必然的な背景を日本人は持っていないといえるわけです。ですから日本国民の「自由」についての意識は、この自由の概念の出生地である欧米の本来の自由の意識にくらべれば、そして、西洋人の自由観が普遍的なものであるとすれば、日本人の「自由観」は本来の普遍的な自由の概念に一致していない特殊なものではないか、もっとはっきり言えばゆがんだものではないかということに注意を喚起しようとしたものです。

さらに、日本の多神教の問題ですが、確かに、日本には伝統的に多くの宗教が並存し、民族として、とくに支配的な宗教はもたないのかもしれません。仏教や民族宗教としての神道、それに、擬似宗教としての儒教などがあるかもしれません。そして、近世になって、キリスト教も入って来ました。

日本人の宗教が多神教であり、キリスト教などの一神教とは異なるとは、よく言われますが、私にはまだ多神教と一神教の概念の正確な識別ができません。だから、日本人の宗教意識においては、神々の間の矛盾は克服してしまっているというあなたの考えについて、今のところ、私の考えを述べることはできません。ただ本来の多神教とは、一つの宗教体系の内部に、絶対的な神が存在せず、神々が相対的に存在するような宗教だと思います。ですから、日本人は多くの宗教体系を並存させている多宗教の民族であるとは思いますが、多神教の民族であるのかどうか今のところよくわからないのです。

また、多神教の伝統の世界には、絶対的な人格神は存在しません。それは、神が人間としてのイエスに受肉されて私たちに現われたというキリスト教の独自の存在だと思います。ですから、非キリスト教世界に、人格と人格が対峙する経験はないと思います。そして、プロテスタントの宗教改革とは、直接に「人格」と人格が対峙することが認められることであり、その間に救いの絶対的な要件として教会などの仲介者の存在を必ずしも必要としないことを証明したことであると思います。

本来宗教を信じることによってもたらされる自由を、どの宗教を信じるかの「自由」として、あなたが捉えておられるところにも、あなたの「自由観」が現われていると思います。しかし、それは単なる思想的な、宗教的な無節操とどう違うのでしょうか。そんな疑問をもちました。


自由の問題や、多神教、一神教の問題については、まだ勉強中ですので、今のところ、これぐらいの事しか考えられませんが、ただ、あなたの仰るように、「日本人は、究極の自由主義を実現し、また諸宗教の矛盾を解消してしまっている」などとは、とうてい言えないようには思います。

欧米人の自由観については、以前も一度取り上げたことがありました。参考にしていただければと思います。

『必然性と運命』
(http://anowl.exblog.jp/2626536/)
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