日々の聖書(11)―――密かな弟子
そしてこの後、アリマタヤのヨセフという、ユダヤ人を怖れてイエスの弟子であることを密かに隠していた者が、ピラトにイエスの死体を引き取ることを願い出ると、ピラトは許したので、彼は、イエスの身体を引き取った。
(ヨハネ書第十九章第三十八節)
公然と信仰を告白することが、昔からなかなかできなかったことは、すでにイエスの在世時からであったことがここでもわかる。イエスに対する公然の信仰告白が、昔から事実として、多くの犠牲なくしてできない場合が多かったことを示している。このアリマタヤのヨセフはユダヤ人たちから村八分にされることを怖れたために、イエスの教えの真理であることがわかっていながら、それを公然と告白することができなかった。
しかし、信仰告白がたんに村八分ぐらいで済んでいればまだ幸いである。とくに、わが国の織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの戦国武将のキリスト信徒に対する弾圧は苛烈を極めた。
それは何もキリスト信徒に対してのみではなく、当時の封建的な戦国時代そのものの気風が本質的に過酷な統治で人々に臨んだものだった。信長は一向宗徒を焼き討ちにしたし、豊臣秀吉の甥の秀次ですら、一たび謀反の疑いをかけられると、一族郎党が皆殺しにあった時代である。
安土桃山の時代に布教が始まったキリスト教も当初は多くの信者を獲得したが、その教義の実体が時とともに明らかになってくると、戦国の武将たちは警戒を隠さなかった。長く続いた戦乱の不幸を痛切に知っていた徳川家康は、それが天草の乱として彼らの地位を揺るがしかねないことがわかると、あらゆる手段で禁圧弾圧に及んだ。内政的には檀家制度によって仏教で民衆の思想統制を強固に図るとともに、外政的には鎖国制度をしいて、海外からのキリスト教の流入を防ぎ、国内からキリスト教の完全な排斥につとめた。
今日でもその事実はさほど明確に自覚されてはいないけれども、徳川の幕藩体制を、その内政と外政を大きく規定したのはキリスト教の威力に対抗するためであったと言える。そうした過酷な時代に、アリマタヤのヨセフのような多くの隠れキリシタンの日本人がいたとしても責めることはできない。
かっての徳川家康の居城であった駿府城の一角に今ではカトリックのミッションスクールがあるし、現代では、イエスに対する信仰を明らかにしたからといって、誰も生命を奪われることもない。信仰の自由は憲法によって守られる時代だからである。
そしてこの後、アリマタヤのヨセフという、ユダヤ人を怖れてイエスの弟子であることを密かに隠していた者が、ピラトにイエスの死体を引き取ることを願い出ると、ピラトは許したので、彼は、イエスの身体を引き取った。
(ヨハネ書第十九章第三十八節)
檀家制度は石田光成の考案した戸籍制度です。
即ち、檀家制度の名をかり、戸籍の整備、及び国勢調査し易くするためです。
流浪人対策等の社会制度です。
葬式は、今まで僧侶だけの物を、庶民にもやらせる必要が出てきました。で、困ったのは僧侶。ココから葬式に戒名を(即ち死んでから出家させる)つける事の始まりになったと思います。
あなたのコメントの趣旨がよくわからないのですが、檀家制度の創設はたしかに徳川家康ではなく豊臣秀吉の時代であなたのおっしゃるように石田三成の考案になるものかもしれません。
しかし、徳川幕府が「宗門改め」を行なった際に「宗門人別帳」を作って、寺請け制度として仏教寺院の檀家として登録させ、キリスト教徒でないことを証明させることによって、檀家制度が確立したとは言えると思います。
歴史の細部にわたる実証的な研究は苦手ですので、お許しいただきたいのですが、論理的に推測しますに、石田三成が檀家制度を考案したとしても、この制度はすでに秀吉による天正15年のキリシタン禁令を潜在的に企図していたと考えられるのではないでしょうか。ただこの制度の本質は徳川幕府によって明確になったといえると思います。
なお、天草の乱(島原の乱)の起きた1637年(寛永14年)当時は、すでに家康は逝去(1616年元和2年)していて、家光の治世になっていましたから、『長く続いた戦乱の不幸を痛切に知っていた徳川家康は、それが天草の乱として彼らの地位を揺るがしかねないことがわかると、あらゆる手段で禁圧弾圧に及んだ。』という記述は誤りで、次のように訂正したいと思います。
『長く続いた戦乱の不幸を痛切に知っていた徳川家康たちは、キリスト教の布教が彼らの地位を揺るがしかねないことがわかると、あらゆる手段で禁圧弾圧に及んだ。』