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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

詩篇第百三篇註解

2006年12月13日 | 宗教・文化

詩篇第百三篇

ダビデの歌

私の心よ、主を誉めたたえよ。
私の全身で主の聖なる名を誉めたたえよ。
私の心よ、 主を誉めたたえよ。 
主の恵みのすべてを忘れてはならない。
主はあなたのすべての罪を許し、すべての病を癒される。
主はあなたの命を墓穴から救い出され、
あなたに愛と憐れみの冠をかぶせられる。
あなたの口を善き物で満ち足らせ、
あなたの若さを鷲のように新たにされる。
主はすべての虐げられたもののために、
正義を行い、裁かれる。
主はご自分の道をモーゼに、
み業をイスラエルの子たちに教えられた。
主は憐れみ深く、豊かに恵まれる。
怒るに遅く、愛に富み、
主は常に責められることはなく、永く怒られることはない。
主は私たちの罪にしたがって扱われることはなく、
私たちの悪にしたがって報いられることもない。
天が地を高く越えるように、
主の愛は、主を畏れる者の上に深く、
東が西から遠いように、
主は私たちから犯罪を遠ざける。
父がその子を憐れむように、
主を畏れる者を憐れむ。
まことに主は私たちがどのようにして造られたかを知っており、
私たちが土くれに過ぎないことを覚えておられる。
人の生涯は草のようなもの、
野の花のように咲く。
風が吹けば、散って消え、
跡形さえも知られない。
だが、主を畏れる者たちの上に、
主の愛は永遠から永遠に至る。
主の正義は子から子へと。
主の契約を守り、主の命令を覚えて行なう者の上に。
主は天に固く御座を据えられ、
主の御国はすべての者を治められる。
主の御使いたちよ、主を誉めたたえよ。
主のみ言葉に聴き、主のみ言葉を行なう強き勇士たちよ。
主のすべての軍勢よ、主を誉めたたえよ。
主に仕え、主の御旨を行なう者よ。
主の御手に造られた物はすべて、主を誉めたたえよ。
主の支配するすべての土地で、誉めたたえよ。
私の心よ、主を。

詩篇第百三篇註解

主を誉めたたえる歌である。詩人は主を誉めたたえる。全身全霊で主に感謝している。なぜなら、詩人の犯したすべての罪が許され、すべての病が癒されたから。

罪とは心の病でもある。それが、主の愛と憐れみによって癒され、病から回復して、若い鷲のように全身に力が回復するのを感じる。それゆえ、詩人は主に感謝し、主を誉めたたえざるをえない。
罪からの病のために、死の墓に降ろうとしていたのに、主の愛によって贖い出されたのだから。(第4節)
ここでも、思い出されるのは、死んでから四日もたち、手や足や顔を布で覆われて葬られていたラザロを、墓の穴からイエスが呼び戻されたことである。       (ヨハネ書第11章第38節以下)

また、詩人は何らかの理由で虐げられている。(第6節)
聖書はもともとユダヤ人の本であるが、ユダヤ人はモーゼによるエジプトからの奴隷的な境遇からの解放後も、多くの苦難に見舞われてきた。この詩人もそうした迫害を受けていたのだろう。詩人はみずからの受ける虐げを主の怒り、主への反逆の報いとして受け取っていた。

しかし、主の怒りが永遠に続くことはなかった。父がその子を憐れむように、 主を畏れる者を憐れんでくださるという。(第13節)
イエスが主を放蕩息子を迎える父として喩えたことはよく知られている。詩人もそこに主の憐れみと忍耐を感じている。主の愛は天が地を超えるように高く深い。一度は失われた息子の帰還を歓ぶ父の無償の愛と同じである。それと同じものを詩人は感じたのだろう。

第14節からは一転して、人間の果敢なさ、虚しさが歌われる。詩篇は論文ではないから、必ずしも内容が論理的に展開されるわけではない。全身全霊に感じるままに、心の赴くままに、その奥底から湧き上がる思いを言葉に込めて歌われる。

人間とは大地から土でこねて主が造りあげたものである。(第14節、創世記第2章)そして、人間の生涯は、かってモーゼによって歌われたように、野の草のようにはかない。(詩篇第九十篇)
人間の生涯のはかなさは野の草花に喩えられる。朝が来て花を咲かせても、砂漠の熱風に吹かれて夕べには萎れて枯れる。哲学が概念によって世界を把握するのとは異なり、詩はそうした喩えによって、直覚的に人生観や世界観や神を表現する。

主を畏れる者に、主の契約を守る者に対する主の愛は、ここでも繰り返し歌われる。主の契約とは、第7節に歌われているモーゼを介して教えられた、主の道であり、いわゆる主の十戒のことである。それを心にとめて生きる生き方のことである。

第20節で主のみ使いについて歌われているが、主のみ使いとは、いわゆる天使のことであるが、天使とは、ここで述べられているように、主の言葉を聴き、主の御旨を行うものである。その意味では、預言者や使徒たち、また主を信じる人々を考えてよいのだと思う。預言者や使徒たち、さらには主を信じる者たちは、また主の兵士でもある。その軍勢があまりに多いために、彼らを率いて現われる主は、万軍の主とも呼ばれる。

その主は天に玉座を据えられ(第19節)、そこから万物を支配される。イエスも天に上げられ、神の右の座に着かれた。(マルコ書第16章第19節)そうして、この世の国もまた、主と御子イエス・キリストのものとなり、永遠に統治されるものとなる。(黙示録第17章第15節以下)

主を誉めたたえるのは、み使いたちだけではない。主に造られたものすべてが、空の鳥も、海の魚たちも、野の草花も、山も空も、夜空の星々も、創造された万物すべてが主の創造の御業をたたえるようにと言い、何よりも詩人は自分の心に向かって、全宇宙にその栄光を現わされた主を誉めたたえるよう呼びかける。

 

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日々の聖書(8)―――心と肉体

2006年12月11日 | 宗教・文化

日々の聖書(8)―――心と肉体

気を付けて祈っていなさい、誘惑に引き込まれないように。心は欲していても、肉体は強くはないから。   
(マタイ書第二十六章第四十一節) 

               
この言葉はイエスが弟子たちとともにゲツセマネというところに来て祈られたときに、イエスが祈っておられる間ですら、こらえ切れずに眠ってしまわれた弟子たちをいましめられた言葉である。

キリスト教が「心」と「肉体」を明確に分離して考えるようになったのは、おそらくイエスのこのような考えから来るのだろう。仏教や儒教などにおいては、これほどまでに心と肉体を分離して捉える思想的な伝統はない。

そして、私たち日本人にとって、キリスト教のわかりにくさの原因の一つも、この肉体と心を二分的に見る人間観と、その「心」が具体的に何を表しているのか、その概念が明確ではないことにあるのではないだろうか。

実際に、この「心」は、場合によっては、「精神」とか「霊」とか「魂」とかに訳されたりする。いずれにせよ、それは、神が人間を創造するときに、大地から土をこねて人を形づくり(肉体)、その鼻に「命を与える息」(精神)を吹き込まれることによって、人間が生きるようになったことから来ている。(創世記2:7)

だから、聖書における「心」「精神」「魂」「霊」などのもともとの語源は、「息」とか「風」のように、目に見えないものであり、神から与えられた生命の源である。この「息」がなくなれば、すなわち、「心」や「精神」がなくなれば、人間の肉体は死ぬものである。

もともと神から与えられた生命の息、心、精神はどんなに強くても、土で造られた人間の肉体は強くはない。だから、人間はどんなに心で神の教えや戒めを守ろうとしても、弱い肉体はそれを犯し破ってしまう。ここに人間の生まれながらに持つ悩みがある。イエスはその悩みに苦しまないように、忠告されて言われた。

気を付けて祈っていなさい、誘惑に引き込まれないように。心は欲していても、肉体は強くはないから。
   
(マタイ書第二十六章第四十一節)

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日々の聖書(7)――唯一の主

2006年11月30日 | 宗教・文化
日々の聖書(7)――唯一の主

日の昇る所から来る者も、日の没する所から来る者も、私の他に神はないことを彼らは知るだろう。私は主であり、私に並ぶものはない。

私に立ち返れ。そうすれば救われるだろう。地の果てから来る者たちよ。私は神である。並ぶものはない。

(イザヤ書第四十五章第六節および同章第二十二節) 

               
パレスチナから見て、日本は明らかに日出ずるところの国である。イザヤは
やがて全世界から唯一の主なる神を求めて人々の立ち返ることをこうして預言している。

紀元前六世紀頃のユダヤ人たちは、彼らの腐敗と堕落のために主なる神より裁きを受ける。バビロニアの王ネブカドネザルによってエルサレムの町と神殿は破壊され、王たちは拷問を受け、殺される。主だった住民もバビロンに連れ去られた。

しかし、裁きを受けたイスラエルもやがて主に立ち返って贖われ、解放される。上の言葉は主なる神が、ユダヤ人にパレスチナ帰還を許したペルシャのキュロス王に対して、イザヤを介して告げられた言葉である。こうしてバビロンに捕囚されたユダヤ人たちは解放される。

聖書においては神はこのような存在として教えられている。預言者や使徒たちら知恵ある人々によって書き記された、聖書のさまざまな物語や啓示や教訓などを通じて、神について知ることができる。

聖書の神は、絶対的な一者として教えられる。また、神は被造物のように有限ではなく、無限であり永遠の存在である。

また絶対的な存在であるから、唯一である。絶対的なものが二つとしてあるわけがない。二つあるのものは絶対的ではありえない。

神は何ものによっても侵されない。神聖にして人間から隔絶した方である。また、神は万物を創造し、自然と歴史の摂理を通じてみずからの意思を実現する絶対的な力である。その力によって神はまた裁かれる方である。

神はまた恵みであり愛である。それは被造物をそのままに存在を許される方であるから。神は悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせる方である。

日の昇る所から来る者も、日の没する所から来る者も、私の他に神はないことを彼らは知るだろう。私は主であり、私に並ぶものはない。

私に立ち返れ。そうすれば救われるだろう。地の果てから来る者たちよ。私は神である。並ぶものはない。

(イザヤ書第四十五章第六節および同章第二十二節)

 

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日々の聖書(6)――人間の分別と神の知恵

2006年11月27日 | 宗教・文化

日々の聖書(6)――人間の分別と神の知恵

心を尽くして主に頼り、決してあなた自身の分別に寄りかかってはならない。   
(箴言第三章第五節)                

私たち現代人は個性を大事にし、自分たちの自意識と知識を最高の価値として誇っている。何人にとっても自分ほど大切なものはない。そして、自分のもてる知識と教養を誰しも誇る。現代人はお互いに学歴を最高の栄誉としている。受験が戦争と化しているわが国の現実を見よ。

しかし、聖書は必ずしもそうは教えない。現代人が金科玉条のように大切にする個性とは、本当にそんなに貴重なものだろうか。現代教育がモットーとするほどに、人間各自の個性には価値があるのだろうか。人間は弱いもの、間違うもの、過つものとして、自分とはもっとも頼りにならない者であると教える。むしろ、自分の分別に頼ってはならない、と言う。人間の個性など、もっとも価値なきものではないのか。

人間は自分自身が賢明であると思うほどには賢明ではない。だから決して、自分の奇抜な思いつきや思考に思い上がり、自惚れてはならないと忠告する。          (同章第七節)

聖書が教えるのは、惨めで間違いやすい自分の考えにしたがって生きるのではなく、真の叡智である主を畏れ、神の知恵を見出すものが幸せであると言う。

心を尽くして主に頼り、決してあなた自身の分別に寄りかかってはならない。   
(箴言第三章第五節) 

 

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日々の聖書(5)――人間の努力

2006年11月26日 | 宗教・文化

日々の聖書(5)――人間の努力

そして私は見た。人間の成功をめざして行なうすべての骨折りは、隣人の持ち物を妬んでのことであることを。これもまた空しい、心の虚しさである。

(伝道の書第四章第四節)                

現代人は今日もまた働き蜂のように、アリのように勤勉に働きつづける。とくに日本人やドイツ人などは勤勉な民族だと思われている。
砂漠の民やラテン民族などは、日本人ほど几帳面でもなければ、働き蜂でもないかもしれない。

それにしても、いったい人間がこれほど勤勉に働く本当の動機は何なのだろうか。もちろん、それはまず衣食住の充足のためであることは言うまでもない。しかし、ただそれだけだろうか。単に、飲んで食べて着て、そして住まい、交わるだけであるなら、たとえ日本人であっても、こんなに過労死するほどに働かなくても済みそうである。

しかし、いわゆる資本主義社会では、人間の欲望は社会的に作り出されるものである。とくに、社会の構造上からも、企業は利益の追求と獲得とを余儀なくさせられるから、社会的動物で見栄っ張りの人間の欲望はそれでなくとも否が応でも刺激され、駆り立てられる。

欲望とは絶対的なものではなく、相対的なものである。現代先進国の私たちの私有する財産は、アフリカやエスキモーの人々の何百倍に達しても、それでも、先進国の人々はその富を隣人と比較させられるかぎり、貧困感から来る疎外感は避けられず、隣人以上の富の獲得をめざして駆り立てられる。

この人間的な真実は、何も現代人のみに留まらないようである。聖書の『伝道の書』の著者であるコヘレトもすでに数千年前に、富と成功をめざして努力する人々たちの、倦むことも疲れることも知らない人間の骨折り、労苦を見ていた。そこに真の安息から遠い人間の心の営みを見て、人間の心の働きの本来的な虚しさを歌う。日本のつれづれ草の兼好法師も、差し迫る死を忘れてアリのようにうごめきまわる人々を描写していた。

改めて、静かに聖書などを精読、黙考しながら、本能的に刺激されて虚しく働きまわる思考回路を一度は断ち切って、私たちの骨折りや人生の意義を反省する機会を持ちたいものである。

そして私は見た。人間の成功をめざして行なうすべての骨折りは、隣人の持ち物を妬んでのことであることを。これもまた空しい、心の虚しさである。

(伝道の書第四章第四節)                

 

 

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日々の聖書(4)――私の彼

2006年11月22日 | 宗教・文化

日々の聖書(4)

夜ごと寝床に、私は心より愛している人を捜し求めました。私は彼を捜しました。しかし、見つけることができませんでした。(私は彼を呼びました。しかし、彼は私の声を聴きませんでした。)

(雅歌第三章第一節)
※()内は、七十人訳聖書のみ。

SEPTUAGINT(セプチュアギント)の訳者 Brenton氏の訳

By  night on  my  bed  I  sought  him whom  my  soul  loves :
I  sought  him , but   found   him  not ;
I  called   him,  but  he  hearkened  not  to  me.

私の彼


人間にとって出会うべき人と出会えないことほど哀しいことはない。
生涯に出会うべき愛しい異性に出会えないことは、どれほどつらく悲しいことだろう。だから彼や彼女たちは、自分たちが出会うべき人と出会えるよう、必死になって捜している。

今日のように携帯電話やネットが発達して、出会系サイトなどが繁盛するのも、やはり、人がどれほど出会うべき人に出会うことに憧れているかを示すものだろう。

だから、人は自分の愛する人にいまだ出会い得ないことほど切なく哀しいことはない。彼女はそのとき、夜ごと寝床の上で、切なくため息をつき、愛する人と出会えぬゆえの孤独とさびしさに心で泣いている。

この雅歌の主人公である娘も、いまだ恋い慕う彼に出会うことができなかった。彼女は床から起きだし、部屋を出て、通りや広場に愛する彼を捜し求める。最後には娘は彼を見つけるけれども、彼を見失っているときの彼女の気持ちはどれほど不安で切ないものだったろうか。

信仰する者が、愛する神を見失ったときの気持ちも同じなのかも知れない。

夜ごと寝床に、私は心より愛している人を捜し求めました。私は彼を捜しました。しかし、見つけることができませんでした。(私は彼を呼びました。しかし、彼は私の声を聴きませんでした。)

(雅歌第三章第一節)


 

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日々の聖書(3)──日曜日(第七日)

2006年11月19日 | 宗教・文化

日々の聖書(3)

第七日めに、神は行っていたご自分の仕事を終えられ、そして、第七日めに、神は行なっていたご自分のすべての仕事から離れて、お休みになられた。     (創世記第二章第二節)

日曜日

今日は日曜日で休日である。キリスト教に言う安息日である。ユダヤ人は、金曜日の日没から土曜日の日没までは、SABBATH(サバス)と呼んで、この時間は完全に日常の仕事から解放される。この安息日のSABBATH(サバス)の語源には、第七日めという意味が含まれているのではないだろうか。SEVENという語と発音も似ている。

それはとにかく、今日の欧米のキリスト教国では、昔ほどにはその宗教的な意義は自覚されていないにしても、それでも人々の意識の奥底には、日曜日のその宗教的な意味合いは残されて底流していると思う。

しかし、わが国のように仏教、儒教、神道の伝統の国では、そもそも一週間や日曜日という時間のサイクルさえなかった。お盆やお彼岸など祝祭日にはもちろん、仏教や神道などの宗教的な意味は残されているが、しかし、今日の日曜日は、キリスト教徒以外には、全く宗教的な意味を持たない。日曜日は単なる休日であって、そこには何の宗教的な色彩もない。

せめてキリスト教徒の間では、日曜日を「聖日」と呼ぶようにすれば、この一週間の中の日曜日という日の貴重さを、もう少し実感できるのかも知れない。少なくとも欧米のようなキリスト教の伝統のある国々のように、日曜日を聖日として、ただでさえ忙しい日常の仕事から日本人も完全に解放されて、家で静かに家族と団欒に過ごす時間を持つようにすればよい。

一週間のうちに、せめて日曜日くらいは家族と食卓を囲み、子供や妻たちと日ごろ話し合えないようなことを話題にしたり、また家族と一緒に音楽を聴いたり、流行の小説を話題にしたり、またできれば聖書の一節を朗読しあったりする時間を持つようにすればよい思う。

週に一度巡ってくるこの日曜日を、神のために捧げる感謝の一日として、子供や妻との団欒の日にすれば、離婚や、その結果として起きる幼児虐待や、さらには子供たちの自殺など、わが国で今日おぞましく流行している悲劇も、少しは防ぐことにもなるのではないだろうか。日曜日を聖日として、神様に倣って、この世のための仕事から完全に解放される時間を持ちたいものである。

第七日めに、神は行っていたご自分の仕事を終えられ、そして、第七日めに、神は行なっていたご自分のすべての仕事から離れて、お休みになられた。     (創世記第二章第二節)

 

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日々の聖書(2)

2006年11月16日 | 宗教・文化

日々の聖書(2)

「かってあったことは、これから先もあり、かって行われたことは、これからも行われる。太陽の下に新しいものはない」(伝道の書第一章第九節)

民族の質

教育基本法の改正が国会の日程に上っている。安部内閣は「美しい国」造りを目指すという。決して、悪いことではない。目指せばよいと思う。しかし、その結末は明らかである。「美しい国」は実現しない。私がそのように考える理由は次のようなものである。

「人は石垣、人は城」と武田信玄が言ったように、国家や民族の質は、それを構成している人間の質によって決まる。そして、その人間がどのような人間であるかは、その人間の崇拝する神によって決まる。この道理は自然の法則と同じで、神の摂理であって真理であるから、人間の恣意で勝手に都合よく変更できるものではない。

ちょうど小泉前首相や安部首相によって行われようとしている日本の政治の改革も、もちろん全く無駄であるとは言わないが、底の浅い改革で、所詮はたいした効果をあげ得ないことは明らかだろうと思う。理想の高い私たちの眼には、そんなものは改革の名にも値しない。だから、そうした改革に希望を託したとしても、失望するに至るだけだと思う。

教育についても同様である。真実の神を教えるという根本を避け、それを外した功利主義的な教育で、人間と国民の質を改革できると彼らは思っている。人間の根本の質を変えないで、どれほど多くのお金と労力を注ぎ込んでも、国民が期待するような成果をあげ得ないことは、日を見るよりも明らかである。

教育諮問会議が安部内閣の許でも持たれる。しかし、それも結局、文部科学省の役人や政治家たちの仕事のネタを提供してやるぐらいの意義しかないだろうと思う。率直に言って税金の無駄である。


かって受験本位の教育を改善しようと鳴り物入りで始まった「ゆとり教育」が否定され、今では諸悪の根源のように非難されている。新しい教育改革で理想の教育が実現できるなら、実行してみればいい。それは「教育の改革」を目指したい人たちに任せるしかない。しかし、真理は頑強である。根本のゆがみが正されるまでは、枝葉末節をいくらいじったところで問題は解決されないだろう。


要するに、国家と国民の質、民族の質、人間の質が改まらない間は、教育基本法であれ憲法であれ、どのような法律を制定し、さまざまな会議、タウンミーティングを開催し、どのような政治が行われようとも、「この世」は昔のままの「この世」でありつづけるだけである。私たちは人間に期待することは止めようと思う。神のみに希望を託そう。それも一つの知恵だと思っている。

 「かってあったことは、これから先もあり、かって行われたことは、これからも行われる。太陽の下に新しいものはない。」(伝道の書1:9)

 

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日々の聖書(1)

2006年11月15日 | 宗教・文化

日々の聖書(1)


聴く耳のあるものは聴くべし。(マタイ書第13章第43節)


青少年の頃より愛読してきた聖書は、今も、相変わらず私の座右にある。おそらくこれからも終生私の傍らにありつづけるのだろうと思う。

ただ最近、歳もとったせいか、日々の生活の中で聖書を繙読していて、感じたこと考えたことをもう少し簡単に記録してゆきたいと思うようになった。もう少し日常的に、「日々の聖書」という形で聖書についての「感話」というか感想を記録して行こうと思う。もちろん、宗教や哲学に関する学問的な個人的な研究も蓄積してゆきたいと思っている。だから、それら宗教や哲学に関する専門的な記事は、「海」や「夕暮れのフクロウ」といったブログに記録して行くつもりだ。
日々の生活の営みに忙しい人々にそれらが無縁であるとしてもやむを得ない。


それにしても最近、多くの不愉快な事件が、この日本社会にも著しく目に付くようになった。私自身は戦後の生まれであるけれども、おそらく、日本国民の質が、太平洋戦争の敗北を契機として、明らかに変質してきていると思う。戦前や明治期の日本人と明らかに異なってきているという印象をもっている。

よくなっているかと言うと、必ずしもそうはいえないと思う。最近の率直な感想として、一昔前よりも日本人の風貌に「品格と深み」がなくなってきていると思うようにもなった。もちろん、現在の若者たちにはそんな印象も自覚もないだろうと思うけれど、まあこれは、私のアナクロニズムがはなはだしいせいだけかも知れませんが。

たしかに現代の大人たちの多くは、自分たちの金儲けなどに必死で、青少年のことを決して本当に考えて行動しているとはいえない。むしろ、青少年たちが大人たちに金儲けの食いものにされている。


そうしたなかで私が青少年の頃より人生の指針としてきた聖書の言葉に、現代の青少年たちの目にも触れ耳にして、またそれが彼らの人生の何らかの指針にもなれば、決して無意味ではないとも思う。

幸いにして、こうしてブログなどの形で、容易に発信できる時代になったのだから、これを活用しない手もないだろうと思う。そこで、彼らの間に何らかの議論も広がれば、そして、それが少しでも将来の国家や国民の何らかに役立つならば、決して無意義ではないかも知れない。


「聴く耳のあるものは聴くだろう。」(マタイ書13:43)

 

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イエスの証明について―――ヨハネ書第五章第三十一節以下

2006年11月10日 | 宗教・文化

イエスの証明について―――ヨハネ書第五章第三十一節以下

もし私が私について証言するなら、私の証言は真理ではない。
私について証言する方は他にいる。そして、その方が私について保証される証しこそ真理であることを、私は知っている。
あなた方はヨハネの許へ人を遣わした。そのとき彼は真理について証しをした。
しかし、私は人からの証は受けない。それにもかかわらず、あなた方が救われるように、これらのことは言っておく。
ヨハネは燃えて輝く明かりだった。
あなたたちは、しばらくの間、彼の光の近くで楽しもうとした。
しかし、私はヨハネに勝る証言を持っている。
父が私に成し遂げるようにお与えになった仕事が、私が行っている仕事そのものが、父が私をお遣わしになったことの証しである。
そして、私をお遣わしになった御父ご自身が私についてお証しになっておられる。あなた方は父の声をかって聴いたこともなければ、その姿を視たこともない。
そして、あなた方の中に父の言葉を留めていない。というのは、父がお遣わしになったその人を信じていないからだ。
聖なる書を調べよ。その中にあなた方は永遠の命を得ると考えているからだ。まことに、それらは私について証しをするものである。
しかし、あなた方は命を得るために私のそばに近づこうとしない。
私は栄誉を人から受け取らない。
むしろ、あなた方の中には神への愛のないことを私は知っている。
私は父の御名において来た。しかし、あなた方は私を受け入れようとしない。もし、他の者が彼自身の名において来れば、あなた方は彼を受け入れるだろうに。
どうしてあなた方は信じることができるだろうか。お互いの栄誉は
受け取るのに、ひとり神からの栄誉だけは求めようともしない。
私があなた方を父に訴えるだろうなどと考えるな。あなた方を訴える者がいる。それはあなた方が信頼しているモーゼその人である。
というのは、もしあなた方がモーゼを信じていたなら、あなた方は私をも信じていただろうから。彼は私について書いたのだから。
それなのに、あなた方が彼の書いたものを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。

ヨハネ書第五章後半註解

イエスが神の子であることを、一体誰が証明するのだろうか。イエスがユダヤの人々の間に、みずから神の子と名のり、多くの奇跡を行われていたときである。みずから神の子と名のるこの驚くべきイエスの言葉をユダヤの人々が聞いたとき、彼らがイエスの言葉に反発したことは容易に察しつく。「彼はヨセフの息子のイエスで、我々はその父も母も知っている。」(第六章)イエスが神の子であるなど、信じることができようか、誰が、イエスの言葉が真理であることを証明するのか。

それについてイエスは自分勝手に神の子であることの証を行っているのではないと言う。自分で自分を証しするのは真理ではありえない。
そこでユダヤ人たちは彼らが信じていた洗礼者のヨハネの許に人を遣わして、彼の意見を訊こうとした。そのとき洗礼者ヨハネは「自分はメシアではない。御父は御子を愛してすべてをその手に任せられた。聖霊によって洗礼を授けるイエスこそが神の子である」と言って証言した。(第一章)

ここにイエスと彼に先行した洗礼者ヨハネとの人格的な思想的な類縁関係を見て取れる。

確かにヨハネは世の光ではあったが、しかしイエスは人間ヨハネによる証を求めなかった。イエスが神の子であることを証明するものは何か。それは死すべき人間などによって証をされるものではない。イエスはその証を人間に求めようとはしなかった。イエスはご自身の仕事がそれであると言う。イエスの言葉と行い、その全生涯が神の子であることを証しているという。

そして継いで、イエスが神の子であることは聖書が証明していると言う。このとき、まだ新約聖書は成立していなかったから、聖書とはモーゼの五書などをさすが、聖書の中に永遠の命があるとユダヤ人たちは考えて、熱心に聖書を調べていた。それをイエスは、自分を知ることが永遠の命を得ることであると言い、聖書はそれを証していると言う。

それなのに、人々はイエスのところに来ようとはしない。なぜか。それは彼らの心に神への愛がないからであり、人からの栄誉は求めるのに、ただひとり神からの栄誉は求めないからであるとイエス言う。イエスはただ神からの誉れのみを求めていた。その純粋と徹底のゆえに彼のみが神の子と認められた。

そして、同胞のユダヤ人からも受け入れられないイエスは、最後に、
ユダヤ人が砦と頼むモーゼ自身がユダヤ人たちの不信を告発するだろうと言う。モーゼの書いたのはイエス自身についてであるから、モーゼの書いたことを信じていないからこそ、イエスの語ることも信じられないのである。父なる神から遣わされた使命の孤独と悲しみをイエスはこのとき深く感じたことだろうと思う。

イエスのこの言葉は、もちろんイエスご自身の存命時だけの話ではない。イエスに出会うとき、イエスから人はすべてこのイエスの言葉をなげかけられる。
「もしあなた方がモーゼを信じていたなら、あなた方は私をも信じていただろうから。彼は私について書いたのだから。
それなのに、あなた方がモーゼの書いたものを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。」

06/11/14追加

イエスが神の子であることを証言するのは、こうして、それぞれの信仰者の精神であるが、ここでは神が、抽象的な父なる神としてではなく、神の子として、イエスという歴史的にして現実的な一個の人間として認識されている。だから、キリスト教の立場からは、イエスを知らない者は神を知らない。キリスト教だけが人間イエスのみを神の子として、神的な存在として認めている。

しかし聖霊が降った後は、神の子であることを証言するものは、イエスの業である奇跡ではもはやなく、イエスが真理であることについての人間の理性的な精神の絶対的な確信である。その確信は信仰する人間の精神そのものである。しかし、それはまだ信仰であり、絶対的な感覚的な確信であって、概念的な証明にまでは達していない。もちろんその証明は哲学の課題であって、宗教はただ人間の精神に神の表象を啓示し、人間の精神に神の精神を知らせ、その境地へと高めることにある。この信仰における知識の絶対性についての主観的な確信が証言となる。ただカトリック教においては教会の教義がその証言になる。

 

 

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