作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

永遠の今

2008年09月08日 | 宗教・文化

 

永遠の今


さきに福田首相が辞任を表明されたとき、ご自身のメルマガの中で、「太陽と海と伊勢神宮」に触れ、「永遠の今」について語られようとした。魑魅魍魎の徘徊する政界の、虚妄と有限の地獄図に嫌気がさした福田氏の心のなかに、このとき潜んでいた菩提心がふと思わず顔を出したのかもしれない。

「太陽も海も伊勢神宮」も、もちろんすべて「真に永遠なるもの」ではない。それらも所詮はその影にすぎない。真に永遠なるものはただ神のみだからである。というよりも、私たちは真に永遠であるものを神と呼ぶのである。だから、真に永遠であるものが存在しなければ、神も存在しない。

政治という有限と虚妄の世界に疲れ果てた福田氏(「公共」と「家政」)が思わず口にされた「永遠の今」とは、無限が有限に自己を啓示する瞬間であり、有限が無限を垣間見る瞬間の事である。無限と有限とがきびすを接する瞬間が「永遠の今」である。このとき、人間は神を見、神はご自身を人間に啓示する。芸術も哲学も、この永遠なるもの、神を見ようとする人間の切ない憧れを示す試みである。

そして、この永遠なるものに、神にささえられたときにはじめて、「有限なる今」も政治もまた空しいものでなくなる。

福田氏が総理大臣の職を辞するに当たって、「政策を立案する際、この「永遠の今」を想うことがありました」と言うとき、思わずこの「想う」という言葉をつかったのも、決して偶然ではない。福田氏は政治という虚しくはかない今に耐えきれず、思わずそれを「永遠」という堅い杭につなぎ留めようとしたのである。ただ、それが「永遠なるもの」の影にすぎなかったとしても。

 

 

 

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イザヤ書第24章を読む

2008年04月08日 | 宗教・文化

2008年4月8日(晴)

イザヤ書第24章を読む

聖書を読むことがあるとしても、そのときは日本語訳よりも英語訳などの外国語訳で読む場合が多い。今現在、聖書を読む場合に使っているのは、主として「和英対照聖書」である。その日本語訳は新共同訳であり、英語訳の方は GOOD  NEWS  BIBLE である。ネットで調べてみると,このテキストGood News Bible(Today's English Version)はRobert G. Bratcherという人の翻訳であるらしい。日本の共同訳のように多数の学者による共同訳ではないようである。
(Good News Bible  http://www.bible-researcher.com/tev.html  )

日本語訳にせよ英語訳のいずれにせよ、もちろん不完全な訳で、それぞれの翻訳者たちの生きた時代と国民性によってそれぞれに解釈された聖書であるにはちがいない。

聖書やキリスト教については、私は次のような立場に立っている。テキストとしては、新旧約聖書については七十人訳旧約聖書(Septuagint)とコイネー新約聖書を最終的なテキストとして認めている。そして、神学としてのヘーゲル哲学。基本的にはこの立場に尽きているといえる。

ただ、もしブログ記事などで英語訳聖書を引用することがあるとすれば、1851年に英国でSeptuagint Bibleの英語訳の労をとられたSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳を使いたいと思っている。日本とは異なって、欧米の聖書研究は今もなお盛んなようで、幸いにもSir Lancelot C. L. Brenton氏の翻訳は、ネットでも読める。
(Septuagint Bible Online http://www.ecmarsh.com/lxx/index.htm )

ただ、残念なことに現在のところ私のコイネーギリシャ語の能力はきわめて不十分で、Septuagint Bibleも原典新約聖書も十分に読めない。コイネーギリシャ語の能力の向上は今後の課題であると思っている。学生時代に、もし教養科目としてギリシャ語があって、そこで基本的な学習をしておればヨカッタのにと、この年齢になって後悔している。もちろん、外国語の能力の不足は聖書やキリスト教の本質についての理解の障害になるものではないけれども。

Esaias  Chapter 24

24:
1 Behold, the Lord is about to lay waste the world, and will make it desolate, and will lay bare the surface of it, and scatter them that dwell therein.

 2 And the people shall be as the priest, and the servant as the lord, and the maid as the mistress; the buyer shall be as the seller, the lender as the borrower, and the debtor as his creditor.

3 The earth shall be completely laid waste, and the earth shall be utterly spoiled: for the mouth of the Lord has spoken these things.

4 The earth mourns, and the world is ruined, the lofty ones of the earth are mourning.

5 And she has sinned by reason of her inhabitants; because they have transgressed the law, and changed the ordinances, even the everlasting covenant.

 6 Therefore a curse shall consume the earth, because the inhabitants
thereof have sinned: therefore the dwellers in the earth shall be poor, and few men shall be left.

 7 The wine shall mourn, the vine shall mourn, all the merry-hearted shall sigh.

 8 The mirth of timbrels has ceased, the sound of the harp has ceased.

 9 They are ashamed, they have not drunk wine; strong drink has become bitter to them that drink it.

 10 All the city has become desolate: one shall shut his house so that none shall enter.

 11 There is a howling for the wine everywhere; all the mirth of the land has ceased, all the mirth of the land has departed.

 12 And cities shall be left desolate, and houses being left shall
  fall to ruin.

ここで描かれているのは、神の世界審判である。そして、この世界審判の理由は、住民たちの犯す罪のためであり、人々の律法に対する離反のためである。イザヤをはじめとする預言者たちのこの認識は一貫している。

私たちは、すでに第一次、第二次世界大戦を神の世界審判として経験している。次に世界審判があるとすれば、それは核による世界戦争として現象するのではないだろうか。その意味でもイスラエルをめぐる中東の情勢については注視される必要があるだろう。ユダヤ人とその周辺諸民族との紛争は、今に始まったことではなく、人類の歴史的な記憶以来の、5、6000年来の出来事である。

 

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主の祈り

2008年01月22日 | 宗教・文化

 


主の祈り


「天におられる私たちの父よ、
御名の聖められますように。御国の来ますように。
御心の天におけるように地にも行われますように。
私たちに必要な糧を今日もお与えください。
私たちに咎ある人を私たちが赦すように、
私たちの罪を赦してください。
私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。

まことに、御国と力強い御業と輝かしい栄光は、
永遠にあなたのものです。」


マタイ書第六章第八節以下より

彼らのまねをしてはならない。あなたたちの父はあなたたちが求める前から、あなたたちの必要とするものをご存知だ。
だから、あなたたちはこのように祈りなさい。
「天におられる私たちの父よ、御名の聖められますように。御国の来ますように。御心の天におけるように地にも行われますように。私たちに必要な糧を今日もお与えください。
そして、私たちに咎ある人を私たちが赦すように、私たちの咎めを赦してください。さらに私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。」





ルカ書第十一章第一節以下

その人はある所で祈っておられたが、その祈りが終わると、彼の弟子の一人が言った。「主よ、私たちにも祈ることを教えてください。ヨハネが彼の弟子たちに教えられたように。」そこで、その人は彼らに言われた。「あなたたちが祈るときにはこう言いなさい。天におられる私たちの父よ、御名の聖められますように。御国の来ますように。御心の天におけるように地にも行われますように。私たちの日々の糧を日ごとにお与えください。私たちに咎ある人を私たちが赦すように、私たちの罪を赦してください。そして、私たちを試みに遭わせず、さらに私たちを悪よりお救いください。」


福音書のこの二カ所の記述は内容は本質的にはおなじであるけれど、微妙な違いもある。

マタイ書の文脈では、イエスが丘に登られたときに、ともに附いてきた弟子たちに、イエスの教えにとって核心となる事柄を「丘の上の教訓」として教えられたが、この「主の祈り」はその際に教えられたものである。そしてイエスはさらに、隠れたところにおられる父なる神に祈る場所として、自分の部屋を勧められ、それも長々と言葉数を多くする異邦人のまねをしないようにさとされた後に、この祈りを一つの型として教えられたものである。

ルカ書の文脈では、ただ単純に、イエスがある場所で祈り終えられたときに、弟子の一人に請われて教えられたことになっている。

しかし、いずれも主が弟子たちに直接に教えられた祈りであることから、これらは「主の祈り」として、キリスト者の祈りの核となっている。

この小さな祈りの中には、キリスト教の核心的な概念が含まれている。哲学もまた、無限に深い興味をもって、それらの概念を研究の対象とするものである。哲学はこれらの宗教的な表象を概念的に把握することをめざしている。「御国」「御心」「御名」「罪」「咎」「悪」「誘惑(試み)」「赦し」「救い」が具体的にどのようなものであるか。「名は体を現す」とも言われるが、名(概念)の実体が問題である。

このきわめて短いこの祈りの文言に明らかなように、イエスは、「父なる神」が私たちの祈りの対象として活けるものであること、その「神」は「天」におられること、天においては神の「御心」が行われているが、この地上にも神の御心が行われて、「神の国」の到来するように祈ることを教える。

後半は私たち自身のための祈りであり、それは、飢えや身体のために日々の糧を求め、心の幸いのために悪や誘惑から救われ、また私たちの犯した罪や咎の赦しを願う祈りである。

しかし、それにしてもイエスはこのような「祈り」をどこから学んだか。それは言うまでもなくエリヤやイザヤの旧約聖書からであり、さらには詩篇そのものからである。詩篇第百四十五篇第十一節の賛美歌は、この「主の祈り」に付け加えられて、キリスト者の日常の祈りの言葉になっている。

詩篇第百四十五篇第十節以下

あなたに造られた全てが、主よ、あなたに感謝し、
あなたの愛に生きる人は皆、あなたを誉め讃える。
彼らは御国の輝かしい栄光を言い、
あなたの力強い御業を語る。
主の力強い御業と
御国の輝かしい栄光を人の子らに知らせるために。
あなたの御国は永遠の王国で、
あなたの支配は代々にわたる。


 

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キリスト教と武士道

2007年12月09日 | 宗教・文化

 


キリスト教と武士道


キリスト教も武士道も、人間関係のあり方を示す倫理や道徳を教えるのは同じであるが、しかし、それぞれ独自の性格をもっている。その違いをわからない人はいない。それはちょうど、同じ花は花でも、バラと菊ではその香りも色彩も葉型もそれぞれ異なった独自の特徴を持っているのと同じである。

また、武士道だけではなく、仏教も、儒教も、またイスラム教なども同じ宗教としては、倫理道徳の体系としてそれぞれが独自の教義をもっている。それはちょうど、同じ植物で樹木であっても、杉や松や樫や檜などが、樹木としてそれぞれ異なった特質をもっているのと同じである。

さらに、同じ宗教であっても、仏教の体系に属する念仏宗と法華宗との間の違いは、たとえば、イスラム教のシーア派やヒンズー教との違いほど大きくはないだろう。それは、植物や動物などが、属と種に基づいて分類されるのと同じである。種の違いは、属の違いほど大きくはない。プロテスタントとカトリックの違いは、仏教とキリスト教の違いほど大きくはない。

そして、キリスト教であれ武士道であれ、また唯物論であれ、はたまた儒教その他であっても、それぞれが、思想、信念の体系として独自の性格と価値観をもっている。そして、有限な人が有限の生を何らかの思想や宗教をもって生きようとするとき、そこに選択と決断が行われざるを得ない。

仏教とイスラム教の二つの宗教を信奉することはできない。人は二人の主人にかね仕えることができないからである(マタイ書7:24)。それは、キリスト教と武士道の間についても同じである。それぞれが異なった独自の性格と体系をもっている以上、冗談でなければ、そのいずれかを選ばざるをえないものである。



 

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聖霊とは何か

2007年11月15日 | 宗教・文化

聖霊とは何か

キリスト教の神は、三位一体の神として知られている。父なる神、子なるイエス・キリスト、そして、聖霊である。この三者は本質的には同じものであり、それぞれとして現象として異なっているにすぎないとされる。

父である神とは、天地万物を創造された主体である。子であるイエス・キリストとは、言うまでもなく、新約聖書に記録されている神としての人であり、その精神は言葉・理性(ロゴス)としてとらえられている(ヨハネ書第一章)。イエスは父なる神と性質を同じくする。

そして、イエスの「死後」に、私たちにイエスの「精神」を告げ知らせ、教えるものが、いわゆる「聖霊」であるとされる(ヨハネ書14:16)。また、この「聖霊」とは、私たちに真理とは何かを悟らせるものでもある(ヨハネ書16:13)。同じキリスト教でも正教会においては、「聖霊」は「聖神」と訳されている。

使徒言行録には、イエスが使徒たちに、まもなく「聖霊」が降って力を受けることを告げられた後に、天に昇られたことが記録されている(使徒言行録1:8)。また、使徒言行録の同じ章には、「聖霊がダビデの口を通して預言している」(使徒言行録1:16)とも書かれている。この「使徒言行録」は「聖霊」の働きを受けた初期のキリスト教徒たちの活動の記録である。

もともと聖書で「霊」と訳されている言葉は、原語では「ルアハ」である。父なる神が土から人間を形作られたあと、その鼻から吹き込まれたものが「ルアハ」である。(創世記2:7)それによって人は生き(息)るものになった。ルアハには「息」とか「風」の意味がある。

英語では「スピリット」に相当する語である。そして、息を吹き込み、ふるいたたせるのは、「インスパイアー」である。芸術家が創作する原動力となるものが「インスピレーション」であり「霊感」である。ドイツ語では「ガイスト」に相当する。

もともと漢字の「霊」には、「雨の水玉のように清らかな、形や質量をもたない精気」を指すらしい(漢字源)。それは、目に見える形ある肉体に対して、目には見えない精神を指している。それはまた、目には見えない力であり、やがて、生きている人間に幸いや災いをもたらす、神や死者などの眼にはとらえることのできない主体を指すようになった。とくに、中国や日本では、この意味合いに使われる場合が多い。

しかし、「聖霊」の「霊」とは、ヘブライ語聖書の「ルアハ」や「吹く」という意味を持つギリシャ語の「プネウマ」の訳語であり、漢語や日本語の「死者の霊」や「怨霊」などに残っている死者の魂というような意味合いはもともとない。

イエスの死後は、イエスの精神は「聖霊」として働き、「信仰」によってその働きを受けた(インスパイアーされた)人々は教団を形成する。だから「聖霊」とはいわば、教団や教会などの共同体の精神でもあり、「ハギオ・プネウマ」「HOLY SPIRIT」「Der Heilige Geist」とは、むしろ、個人の観点からすれば「良心」としてとらえた方が、事柄をより的確に捉えることになるかもしれない。しかし、いずれにせよ、この「聖霊」の概念は、倫理的な存在である人間の精神に由来するものである。

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ユダヤ人、プロテスタントそしてカトリック

2007年10月31日 | 宗教・文化

ユダヤ人、プロテスタントそしてカトリック

イエスはカトリック教徒ではなかった。また、必ずしもユダヤ人でもなかった。
イエスはキリスト教徒そのものである。イエスはキリスト教徒の初心であり概念である。

それではカトリックでもないプロテスタントは、ユダヤ教にもどるのか。確かに、ユダヤ人とプロテスタントの間には共通項は多い。プロテスタントとユダヤ人は似ている。プロテスタントは現代のユダヤ人と言ってもよい。

しかし、本当のプロテスタントは、ユダヤ人に還るのではない。ユダヤ人でもないカトリックでもない、イエス・キリストそのものに還るのである。


神と私の間に、誰をも介在させることなく、神に私が直ちに接する。父なる神、聖霊、イエスのみが唯一の権威である三位一体の神に還るのである。そこに自由と独立がある。

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政治と金

2007年07月10日 | 宗教・文化

「政治とカネ」問題続々、政党は説明不足…参院選争点に(読売新聞) - goo ニュース

長官・次官、歴代8人返納拒否 年金記録紛失問題(産経新聞) - goo ニュース

政治と金の汚濁と腐臭にまみれた世界から国民はいつまで救われず、茶番を繰り返すのか。それはこの国民の倫理文化と無関係ではない。経済における小さな成功におごり、いくら富と知識を誇っても、倫理の根幹が腐っていれば、立ち枯れてゆくだけである。

 

 詩篇第三十七篇

ダビデの詩。

悪事を働く者のことで怒るな。
不義を行う者をねたむな。
彼らは草のように瞬くうちに刈り取られ、
草のようにすぐ枯れるから。

主に堅く信頼し、善きことを行え。
そうすればこの地に留まり、揺るぎなく暮らしてゆける。
そして、主によって深く歓べ。
あなたの心の願いを主はかなえてくださる。

あなたの道を主にゆだねよ。
そして主に依り頼め。
主が取り計らってくださる。

あなたの正しさは光のように輝き、
あなたの正義は真昼の中に明らかになる。

黙して主に向かい、主を待ち望め。
栄え誇る道を行く者や、
悪をたくらむ者のことでいらだつな。

怒りを静め、憤りを捨てよ。
悪をたくらもうとしていらだつな。

悪をたくらむ者は切り棄てられる。
しかし、主を待ち望む者は地を継ぐ。

しばらくすれば悪しき者は、姿を消している。
彼の立っていた場所を見よ。彼はもういない。

しかし、柔和な者は地を継ぐ。
そして豊かな平和に深い歓びを見出す。

悪人は正しい人にむかって、
歯ぎしりし、悪事をたくらむが、

私の主は彼を笑われる。
彼に定められた日の来るのを見るから。

貧しく虐げられた者を倒すために、
悪人たちは剣を抜き、弓を張り、
真っ直ぐな道を行く者を屠ろうとする。

しかし、彼らの剣は自らの心臓を貫き、
彼らの弓は折られる。

正しい人のわずかな持ち物は、
悪人たちの多くの富よりも善い。

悪人たちの腕はへし折られるから。
しかし、主は正しい人を支えられる。

主は無垢な人の日々を知っておられる。
彼らの資産は永遠のもの。

悪しき時にも失望することなく、
飢饉の年にも満ち足りていられる。

しかし、悪しき者たちは滅びる。
主の敵どもは太ったいけにえの羊のように、
煙となって焼き尽くされる。

悪人たちは借りても返さないが、
しかし、義しい人は憐れみ深く貸し与える。

祝福された者たちは地を継ぐ。
しかし、呪われた者は絶たれる。

勇者の歩みは主によって整えられ、
その辿り行く道を楽しむ。

倒れても決して打ち棄てられることはない。
主が彼の手を堅く支えられるから。

若い頃から年老いた今も、
私は見たことはない。
正しい人が打ち棄てられ、
その子供たちがパンを乞い求めるのを。

生涯憐れみ深く、恵み深くあれ。
そうすれば子供たちは祝福される。

悪を避け、善を行え。
そうすれば、永く住み続けることができる。

主は正義を愛されるから。
主はご自分に忠実な者を見捨てることなく、
彼らを永遠に守られる。
しかし、悪しき者たちの子孫は絶たれる。

義しい人は地を継ぎ、永遠に住む。

義しい人の口は智恵を語り、
彼の舌は正義を告げる。

神の律法は心に刻まれ、
彼の歩みは揺らがない。

悪しき人は義しい人を待ち伏せ、
彼を殺すことを狙う。

しかし、義しい人が悪人の手に陥ることを主は許さず、
義しい人は裁かれても罪に定められない。

主を待ち望み、主の道を守れ。
そうすれば主はあなたを高めて地を継がせる。
あなたは悪人が切り倒されるのを見るだろう。

無慈悲な悪人が野の木々のように、
うっそうと繁るのを私は見た。

しかし見よ、時が過ぎるともう彼はいない。
彼を捜しても、彼は見つからない。

純潔な人を覚え、正直な人を見よ。
終わりにはその人たちに平和が訪れるから。

しかし、背く者たちはともに滅ぼされ、
終わりには悪人たちは切り倒される。

義しい人の救いは主から、
主は苦難のときの砦。

主は彼らを助け、悪人どもから救い出される。
彼らは主に遁れるから。

詩篇第三十七篇註解

ダビデの教訓詩といってもよいかも知れない。とくに難しいことが書かれているわけではない。記憶して口ずさみやすいように、いろは歌のように、原詩では各句はアルファベット順に並べられている。拙訳ではそこまで訳しだすことはできない。

聖書全体と同じように、この詩篇第37篇のテーマも、善と悪を巡るものである。創世記のアダムとイブがエデンの園で、りんごの木から智恵の実を食べて善悪を知って以来、人類はそれを知ることによる呪いから免れることはできない。

そして、聖書の人間観というか世界観というものも一貫している。その基本的な思想は、善を行う者は救われ、悪を行うものは滅びるというものである。この見解に賛成するか反対するかはとにかく、これが聖書の、そしてまたこの詩篇の主張であることには変わりはない。

この詩篇の作者ダビデ王自身が、必ずしもこの詩の教訓のように、主なる神に生涯忠実に生きたわけではない。彼はバテシバを自分を妻とするためにその夫である部下のウリヤを殺した。その悪行の結果として、ダビデは愛する息子を失い、やがてその国には内紛がおきるにいたる。

しかし、そうした弱点があったにもかかわらず、ダビデ王が稀有に敬虔な王であり、賢明な指導者であったことは紛れもない。このイスラエル民族を始めとして、多くの聖書民族に共通する特徴は、その指導者たちがたんなる政治的な支配者ではなく、いずれも神に忠実な、敬虔で倫理的な指導者である場合が少なくないことである。

とりわけイスラエルは、その父祖アブラハムに始まり、モーゼという稀有の指導者を抱き、それ以来も多くの王や指導者を持ったが、その多くが神に忠実な敬虔で倫理的な指導者であった。イギリスのクロムウェルなどをはじめ、アメリカやその他の聖書民族もそうである。こうした伝統も他の諸民族と大きく異なるところである。

日本においても鎌倉幕府などに北條時宗のような禅宗に通じた指導者を持ったが、それはごく例外にすぎない。織田信長や豊臣秀吉をはじめ近代の伊藤博文などにいたるまで、実際の政治的な指導者の多くは本質的に倫理や敬虔とは無縁であった。それは東洋の仏教や儒教などの文化圏の政治の特徴でもあるともいえるし、今日においてもなお、これらの諸国家、諸民族の多くにおいては、政治は宗教的な文化とは無縁な背景において行われている。これも現代の日本の政治が品位を持たない理由のひとつでもあるだろう。

イスラエルをはじめ、多くの聖書民族においては、政治はこのダビデ王のような倫理観と心情を持って執り行われてきたのである。そのために、多少なりとも政治が形而上的な倫理的な色彩を帯びることになった。それは国民の倖不幸にもかかわることである。

もちろん、この詩篇をはじめ聖書そのものは政治や世俗のことについては本質的には無関心である。この第三十七篇においても、国家や民主主義などについて何らかの具体的な政治的な思想が語られているわけではない。しかし、人間に倫理的な敬虔を教えることによって、詩篇や聖書は文化そのものの根底に影響を及ぼしてゆくのである。

人間から悪は断ち切れない。そして、悪人の多くが栄え満ち足り、一方で敬虔な者の多くが苦難に遭い、苦悩に見舞われるのも事実である。それも世界の事実であるだろうし、それがゆえに神の存在が疑われもする。

しかし、そうした事実があるとしても、この詩篇はまた、ついの終わりには、悪人は雑草のように枯れ、大木が切り倒されるように滅びる一方、正義と憐れみに富み、主なる神に遁れる柔和で誠実な者たちは、時が来て主に救われて地を継ぎ、平和に歓び生きることになることを約束して慰めを与える。

 

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日々の聖書(16)――イザヤ、異邦人の預言者

2007年07月06日 | 宗教・文化

日々の聖書(16)――イザヤ、異邦人の預言者

このように主は言われる。
律法を守り、正義を行なえ。
私の救いは間近く、私の裁きも明らかになる。

幸せである。
これを行う者、それらを堅く守る人の子、
安息日を守りそれを汚すことのない者、
その手を悪に染めない者は。

主のもとに集い来る異邦人の子たちよ。
言ってはならない。
主は自分たちを主の民から分け隔てられると。
宦官たちも語ってはならない。
自分たちは枯れ木に過ぎないと。

主は宦官たちに言われる。
安息日を守り、私を歓ばせることを選び、
私との契約を堅く守るなら、
我が家において、我が城の中で、
息子や娘たちに勝る分け前と名誉を与える。
私は彼らに永遠の名を与えて、切り離すことはない。

また、異邦人の子どもたちが、
主のもとに集い来て仕え、
主の御名を愛し、
安息日を汚すことなく守り、
私との契約を堅く守るなら、

私は彼らを私の聖なる山に導き、
私の祈りの家で歓びを与える。
彼らの完きいけにえと捧げ物は、
私の祭壇のうえで受け入れられる。
私の家はすべての人々のための
祈りの家と呼ばれるからである。

(イザヤ書第五十六章第1節~第7節)

主の救いと恵みは、たんにモーゼの律法がはじめて啓示されたユダヤ人に対してのみ賜るのではない。それは全世界の人々に対しても、すべての民族にも及ぶものであることを、イザヤはここで明白に告げている。

そして、イザヤはその救いと恵みが、ただ一人の選ばれた主の僕の苦難と死によってもたらされることも預言している。私たちの罪のすべてを、ただ一人の選ばれた主の僕が身代わりに担うことによって、そのことによって多くの者の罪が購われる。イザヤは先の第五十三章でこうしてイエスの生涯を預言し、イザヤは旧約におけるイエスの最大の証人になった。イザヤ書の第五十三章ほどイエスの出現を明確に預言している個所はない。

はじめはイスラエルの人々の教えに過ぎなかったモーゼの律法が、異邦人の、全世界の人々の教えとなることがこうして告げられる。一民族の特殊な宗教に過ぎなかった教えが、その偏狭な民族の限界を克服して、普遍的な宗教へと発展してゆく軌跡をここに見ることができる。モーゼの啓示がはじめてイスラエルの人々にもたらされて、一つの民族の特殊な教えに過ぎなかったのに、その民族の境界が乗り越えられることによって、この真理を信じる者はすべて救われるというその教えは全世界に、すべての民族に伝えられることになる。

預言者イザヤはその意味で旧約と新約とをつなぐ太い綱であり、それゆえに、ユダヤ人たちはこのイザヤ書を、とくに、そのイザヤ書の第二部をあえて取り上げようとしない。なぜなら、この個所のイザヤの預言によって、新約においてイエスの生まれ来るその必然性の証明をユダヤ人は認めざるを得ないからである。

モーゼの教えがイスラエル人のみならず、すべての国民の、すべての民族の教えとなることによって、あまたの特殊の中から普遍性の生まれ来る過程をこのイザヤ書第五十六章は明らかにしている。それはモーゼの倫理的世界が本質的に持つ普遍性のゆえである。イエスも、「天と地が消え失せるまで、モーゼの律法はその一点一画も消え失せることはなく、そのことごとくは成就される」(マタイ5:18、ルカ16:17)と語って、モーゼの律法の完全性、永遠性、絶対性を告げている。それゆえに、この地上にあるあまたの民族宗教の中で、ただモーゼの律法に連なる教えだけが、世界性を獲得し、時間と空間を超越して行く。イエスもまたイザヤの預言に深く通じることによって、自らの使命を自覚するに至ったに違いない。イザヤはこうしてキリスト・イエスの出現とその教えが異邦人たちに、全世界に伝わり行くことの証人となった。

 

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日々の聖書(15)――神の裁き

2007年06月05日 | 宗教・文化

日々の聖書(15)――神の裁き

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

神の裁きは、哲学においては必然性として捉えなおされる。哲学は必然性を追求するのものであり、そこに神の意思を探求しようとするからである。論理学が「神の叙述」であり、ロゴスの把握であり、その意味で、哲学が神を対象としていることは、宗教と同じである。

そして、神が世界を裁くという聖書の世界観は、歴史において理性が働いているという哲学の認識と本質的には同じである。聖書においては、神が天地を創造したとされるのであるから、そこに、自然や人類の歴史に、神の意思が貫かれていると見るのは当然である。かって老子も「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉で同じ事柄を表現している。

路傍のあやめの花にも、空の鶯の囀りにも、神の働きを感じることもできる。そこにも神の摂理が働いている。時には、何の罪のない幼児がさまざまな事故に遭遇して、命を失うこともある。それも、ある意味では「神の意思」であるというほかない。それは、われわれ人間の想像を超えている。人類の歴史的な産物である国家もまた同じである。国家もその働きから言って、概念的には神の意思を担っている。

政治の世界も同じである。そこにも、また何らかの必然性が、宗教的に言えば、神の裁きが貫かれているとしか言いようがない。国家も国民も個人も、絶対的な神の意思によって裁かれるのであり、その裁きの網の目から漏れることのできるものはいない。

エレミヤの言葉にもまた、彼が生きた当時の人々、国民に対する神の裁きが告げられている。彼と同時代人の、彼の生きた社会の様相を、エレミアは記録しているが、それも、ただ記録するだけではなく、その「裁き」についても預言している。

エレミアは言う。

民衆は愚かで、分別もなく、
悪には知恵が働くが、善きことを行うことを知らない。(同書4:22)

エルサレムの通りを巡って人々をよく見るがいい。
市場に行って探してみよ。正義を行い、真理を求める者を一人でも探し出せるか。
もしいれば、主はエルサレムを許されるだろう。(同書5:1)

十分に食べ物を与えたのに、彼らは姦通し、
遊女とともに時を過ごす。
そして、太った種馬のように、情欲に燃え、
隣人の妻を慕い、いななく。(同書5:7~8)

預言者は嘘ばかり言い、
祭司は好き勝手なことをおこない、
人々はそれを喜んでいる。
お前たちは最後にはどんな目にあうか。(同書5:30)

エレミアとともにこうした時代を生きたエルサレムのユダヤ人たちは、紀元前587年ごろ、バビロニアの王ネブカドネザルによって、バビロニア(現在のイラク)に奴隷として囚われていった。ユダの王は目をつぶされ鎖につながれ、神殿も破壊された。そのときの悲惨な様子は、続篇のエレミアの「哀歌」の中に克明に描写されている。エレミアは明らかにそこに神の裁きを見ている。

こうした歴史的な事件は、何もエルサレムだけの出来事ではない。小ながらも、現代の日本においても、独立行政法人「緑資源機構」の汚職容疑で、関係者が三人、自ら命を絶っている。

その一人は、現職の農林水産大臣の松岡利勝氏だった。自らの命と引き換えにしなければならないほど、この事件が深刻なものになっていたということである。安部晋三内閣は、現職大臣の自殺によって守られたともいえる。農林水産行政で辣腕を振るった、松岡利勝氏が、そこまで追い詰められたということである。そこに働いていた過酷な必然性を、哲学もまた洞察せざるを得ない。個人の運命も、内閣の運命も、国家国民の運命も、神の御手からまぬかれることはできない。

猟師が籠を小鳥で満たすように、
彼らは家を偽りで満たしている。
そうして、彼らは強大になり、
金を蓄える。
彼らはますます太り、
脂ぎっている。
こんな悪人どもの行いを、
私は見過ごすことができるか。

孤児の訴えも取り上げず、
それでも、彼は栄え、
貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。

どうして、この民に報いて、
主は言われる、
罰せずにおられようか。
驚くべきおぞましいことが、
この地に起きている。

(エレミア書第五章第27節~第30節)

 

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日々の聖書(14)――人か神か

2007年05月23日 | 宗教・文化

日々の聖書(14)――人か神か

主は言われる。
呪われよ。人に信頼し、
肉にすぎないものに頼る者は。
彼の心は主から離れている。
だから、彼は荒地の枯れ木のように、
恵みの雨を見ることもなく、
誰も住まない荒野の干からびた塩の地に、
住まうことになるだろう。
幸せだ。主に信頼し、
主に望みをおく者は。
彼は小川のほとりに植えられた木、
流れに深く根を張り、
日照りに悩むこともなく、
その葉は青く繁っている。
旱魃の年を恐れることもなく、
果樹が実を結ばないこともない。

(エレミア書第十七章第五節~第八節)

ここでも人間の二つの類型が示されている。肉にすぎない人間に頼る者と神に頼る者である。人間不信もここに極まるというべきか。しかし、これが聖書の人間観であることは否定しようもない。エチオピア人がその黒い皮膚を、豹がその斑の毛皮を変えられないように、人間は罪深く、直く正しい人には変われない。(エレミア書13:23)

そんな人間であっても、人に頼らず、神に頼るものは幸せであるという。
なぜか。人に依頼するものは結局は、彼の心は神から離れるからである。
唯一の神、主を前にしては、常に選択を迫られる。お金か神か。人か神か。
人間は二人の主人には仕えることができないからである。(マタイ書6:24)

エレミアもつねに詩篇に慣れ親しんでいた。それは、ここでも明らかである。
エレミアの口には、詩篇冒頭の数節がおのずから口ずさまれて来る。
主の教えを愛し、日夜口ずさむ者は、小川のほとりに植えられた木のように、
その葉はつねにみずみずしく、いつも果実を実らせている。
ただ詩篇の第一篇では神の教えを愛する者と神に逆らう者とが対比させられていたが、
ここではエレミアは人間に頼る者に対し、神に頼る者とを比べている。

この人間類型は、現代においても基本的には変わらないのだろう。
科学や民主主義や自己に頼るものは、結局は人間に頼るものである。
エレミアの眼には、彼らの心はすべて主から遠く離れている。
だから彼らは、砂漠の枯れ木のように、恵みの雨を見ることもない。

それに対し、主に信頼し、主に望みをおく者は、
彼は小川のほとりに植えられた木のように、
葉は青く繁り、旱魃を恐れることもなく、
果樹は豊かに実を稔らせるという。
新約聖書ではイエスを信じる者には、聖き霊が生ける水となって流れてくるとも言われている。(ヨハネ書7:38)
エレミアにもイエスにも、詩篇冒頭の川のほとりに植えられた木のたとえが、つねにその心に湧き起こってくる。

 

主は言われる。
呪われよ。人に信頼し、
肉にすぎないものに頼る者は。
彼の心は主から離れている。
だから、彼は荒地の枯れ木のように、
恵みの雨を見ることもなく、
誰も住まない荒野の干からびた塩の地に、
住まうことになるだろう。
幸せだ。主に信頼し、
主に望みをおく者は。
彼は小川のほとりに植えられた木、
流れに深く根を張り、
日照りに悩むこともなく、
その葉は青く繁っている。
旱魃の年を恐れることもなく、
果樹が実を結ばないこともない。

(エレミア書第十七章第五節~第八節)

 

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