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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

憲法の要件

2013年02月13日 | 歴史

立憲君主国家も単なる一時代の政党政治家たちの思惑に左右されない。>><<RT @dt_reibunshu: 偉大な国家は政党の思惑に左右されない。(ビスマルク) Ein großer Staat regiert sich nicht nach Parteiansichten.


憲法は国民の伝統的精神によって貫かれた無条件に神聖で恒久的なものであってはじめて理性的な憲法といえます。日本国の永遠性と理性(ヌース)を体現したものでなければなりません。憲法は単に作られるものでは決してありません。一国民において歴史的に発展させられた限りの理念についての意識です。


RT @utabito: 武夫の鎧の袖をかたしきて 枕に近き初雁の声 詠み人:上杉謙信


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世界史の貫徹と歴史認識の根本的転換

2013年02月07日 | 歴史

中共人民解放軍の腐敗幹部たちは、日本との戦争を始めたくて仕方がない。日本国民はそのための覚悟と準備を。国家の道義性においても戦前と同じく日本はひたすら高潔に。>><RT @kaokaokaokao: ちなみにレーダーの件、中国の一部報道では、日本の炒作(扇動)だっていっている。


続・中国艦による火器管制レーダー照射。昨夜のNHK解説委員「自衛隊には交戦規定がなく、正当防衛でしか反撃できない」。その他、すべてのマスコミが誤報中。レーダー・ロックオンは「正当防衛」要件を満たす「急迫不正の侵害」です(通説)。

shuzo atiさんがリツイート | 169 RT

失敗する人よりあきらめる人の方が多い。(ヘンリー=フォード) Es gibt mehr Leute, die kapitulieren, als solche, die scheitern.

shuzo atiさんがリツイート | 10 RT

人民解放軍を黙らせるには、安保条約によるアメリカの核抑止力と局地戦における自衛隊の圧倒的な制圧力。あくまでも自主防衛を追求しながら。RT @googlenewsjp: 「自制求める」中国軍艦“レーダー照射”に安倍総理 ( #テレビ朝日 ) #googlenewsjp bit.ly/UWrIMn


徳田毅衆院議員は議員を辞職すべきです。RT @fj197099: 【徳田政務官辞任】「泥酔状態で無理やり性的関係」と主張 当時19歳女性が提訴、1千万円で和解成立(sankei.jp.msn.com/affairs/news/1…)議員になる前の話とはいえ、政治家として人格が疑われる。


〈西行の冬の歌三詠〉559:津の国の葦の丸屋(マロヤ)のさびしさは冬こそわけて訪ふべかりけれ


560:さゆる夜はよその空にぞ鴛鴦(ヲシ)も鳴く氷りにけりな昆陽(コヤ)の池水


561: よもすがらあらしの山に風さえておほゐの淀に氷をぞしく


[新着記事]日銀総裁「異例」の辞任の読み方さて、次の総裁はだれが適任か - 高橋洋一の俗論を撃つ! bit.ly/12rO4tC

shuzo atiさんがリツイート | 6 RT

高橋洋一氏に同意。高橋氏を日銀総裁にすればどう。「財務省の国際畑の人は、外為特会の利権を失うまいと必死になっている。今回のアベノミスクでわかったように、為替は介入で変動するのではなく通貨の交換比率で動く。」日銀総裁「異例」の辞任の読み方 p.tl/kTHh-


人民解放軍の一部の幹部たちがそれほど我が国と戦争をしたがっているのなら、この際だから日本も受けて立って、民主化を求める中国人たちが大陸に「自由と民主主義の連邦国家」を造る手助けをしてやればどうか。チベット、ウィグル、モンゴル、シナを共産主義から解放する第二次大東亜戦争である。


アメリカの国務省・ヌーランド報道官は5日、今回の中国側の行為は日中間の緊張を高めるだけでなく、「地域の平和と安定を損なうおそれがある」などと強い懸念を示した。>><<中国艦船が海自護衛艦にレーダー照射、米国も懸念表明 - 朝日新聞デジタル t.asahi.com/9nkr


歴史的過去のことを今さら云々しても詮のないことではあるけれども、ルーズベルトはスターリンに丸め込まれて、共同して満州から日本を追い出し、中国大陸の 共産化を許した。米政府はその付けを今支払いその責任を取らなければならない義務がある。歴史はすべて因果応報の理であってこれも神の裁き。


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柳条湖事件

2012年09月18日 | 歴史
今 から81年前に、柳条湖事件 があったそうです。ここから満州事変へと発展してゆく端緒になったとされる事件です。中国では本日この日に反日デモが行われ、暴徒化しています。この事件 の歴史的な背景をあらためて概略的にも知っておくために、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から、〔柳条湖事件〕の項を参考にさせ ていただきました。GOOブログでは字数制限の関係で、全文は引用できませんでしたので、項目全文は、次のブログに引用掲載してあります。

夕暮れのフクロウ:柳条湖事件

この事件を契機にして、満州事変から1945年8月15日のポツダム宣言の受諾による日本の敗戦に至るまでの、東アジア大陸において中国と日本の間で戦われた日中戦争と太平洋を挟んで日本と主にアメリカを中心とする連合軍との間に戦われた戦争については、このブログではさしあたっては『東アジア戦争』と呼んで、その歴史研究を進めてゆきたいと思います。従来この戦争の呼称については、「太平洋戦争」とか「大東亜戦争」が一般に用いられていますが、このブログでは、原則としては『東アジア戦争』という用語を用いることにします。

柳条湖事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
事件直後の柳条湖の爆破現場

柳条湖事件(りゅうじょうこじけん、英語: Liutiaohu Incident)は、関東軍謀略によって起こった、満州事変の発端となる鉄道爆破事件[1]1931年昭和6年、民国20年)9月18日午後10時20分ころ、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件である[2]。事件名は発生地の「柳条湖」に由来するが、長いあいだ「柳条溝事件」(りゅうじょうこうじけん、Liutiaogou Incident)とも称されてきた(詳細は「事件名称について」節を参照)。

なお、発生段階の事件名称としては「柳条湖(溝)事件」のほか「奉天事件」「9・18事件」があるが、その後の展開も含めた戦争全体の名称としては「満州事変」が広く用いられている[3][注釈 1]

目次

[非表示]

※出典

ウィキペディア:フリー百科事典

柳条湖事件

http://goo.gl/TAFsf

 

 

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日本族インディアン国酋長の感謝と詫び状―――歴史のカリカチュア

2010年08月15日 | 歴史



日本族インディアン国酋長の感謝と詫び状―――歴史のカリカチュア

アメリカ・インディアンも日本人も同じモンゴル人種で、気の遠くなるような遙か遠い昔に、一方は、モンゴル平原やシベリア大陸からベーリング海峡を越えて東に向かい、南北両アメリカ大陸に渡った。もう一方ではユーラシア大陸の東辺境に沿って南に降りて行った。前者がいわゆるアメリカ・インディアンたちで、後者はやがて、満州族や朝鮮人となり、さらに日本人となった。

同じインディアンでも、北アメリカに渡ったアメリカ・インディアンたちは、二百年ほど前に、西部開拓を押し進める南北ヨーロッパからの白色人種の移民たちによって、殺されたり追い払われたりした。今は狭い居留地に閉じこめられて、自閉的で退廃的な生活を過ごしているらしい。

それから約百年も経たないうちに、ヨーロッパからの白人移民たちはアメリカ人となって、北アメリカ大陸の西海岸に行き着いた。しかし、そこで彼らは行き所を失って海に、広い太平洋に出ざるを得なかった。そして、彼らがやがて辿り着いて出会ったのが、ユーラシア大陸の東の半島や島々の辺境地に住み着いていた満州族や朝鮮族、日本族のインディアンたちだった。

とりわけ日本族インディアンたちは、アメリカ・インディアンを退治するようには簡単に始末できなかった。南太平洋の島々でさんざん梃子づらせたあげくに、広島と長崎に原子爆弾を二発投下してようやく、彼らを力づくで押さえ込むことができた。

そして、マッカーサーを首領として日本列島に乗り込んできたアメリカ人たちは、彼ら日本族インディアンたちが二度と反抗することのないようにと、武器を二度と持たさせないために「平和憲法」を拝ませてやる代わりに、被害者意識で日本族インディアンに対する憎悪に凝り固まった漢族共産主義者たちから、彼らを守ってやらなければならなくなった。

アメリカ・インディアンと同様に今やテレビやサッカーなどの娯楽に夢中で、昔のサムライ精神を忘れて腰抜けになった今の日本族インディアンたちには、これからも狭い日本列島におとなしく居留させてやる代わりに、自分を守れない彼らをアメリカ人は保護してやる責務がある。

すでに、日本族インディアンがアメリカ人にやっつけられてから今年で六十五年目に入った。今年もまた日本族インディアン国首相である菅直人氏は、靖国神社にはA級戦犯たちが祭られているという理由で、参拝にも行かないそうだ。

敗戦で属国になってしまった国の酋長、菅直人氏は、やはり宗主国の意向に逆らう度胸もなく、今となってはアメリカ合衆国日本州の知事でもあるのだから、勝者であるアメリカ合衆国が六十五年前に厳かに宣言した東京裁判の判決を、唯々諾々と踏襲するのも、もはや当然といえば当然のことなのかもしれない。

A級戦犯というのは、確かアメリカ人たちが自分たちに反抗する日本族インディアンの酋長たちに被せた罪名だったはずだった。が、戦争が終わってすでに六十五年にもなるというのに、アメリカ人たちが反抗日本族インディアンたちを懲らしめるために裁判でつけたこの罪名を、今なお後生大事に守っている。

同じ日本族インディアンの酋長である菅直人氏は、七十年数年前に強大な敵に立ち向かって誇り高く戦った同胞の先輩たちを、A級戦犯と呼んで今なお何の疑問を持つことも恥じることもない。

自分たちの占領政策のこれほどの絶大な効果に、きっとアメリカ人たちは、眼から涙を流して腹の皮のよじれるくらいに笑っているに違いない。それなのに、愚かにも愚かな日本族インディアンの酋長、菅直人氏の、アメリカと全世界に対する感謝と詫び状は、六十五年度目に入った今年もまた以下のようなものであったらしい。

★敗戦65周年記念、敗戦日本族インディアンの酋長菅直人氏の感謝ならびに詫び状(別名、全国戦没者追悼式内閣総理大臣式辞 )

本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族並びに各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を挙行するに当たり、政府を代表し、式辞を申し述べます。

 終戦から六十五年が過ぎ去りました。祖国を思い、家族を案じつつ、心ならずも戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、異郷の地に亡くなられた三百万余の方々の無念を思うとき、悲痛の思いが尽きることなく込み上げてきます。改めて、心から御冥福をお祈りいたします。

 また、最愛の肉親を失われ、決して癒されることのない悲しみを抱えながら、苦難を乗り越えてこられた御遺族の皆様のご労苦に、深く敬意を表します。

 先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えました。深く反省するとともに、犠牲となられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。

 戦後、私達国民一人一人が努力し、また、各国・各地域との友好関係に支えられ、幾多の困難を乗り越えながら、平和国家としての途を進んできました。これからも、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を語り継いでいかなければなりません。

 世界では、今なお武力による紛争が後を絶ちません。本日この式典に当たり、不戦の誓いを新たにし、戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、世界の恒久平和の確立に全力を尽くすことを改めて誓います。

 戦没者の御霊の安らかならんことを、そして御遺族の皆様の御健勝をお祈りして、式辞といたします。

平成二十二年八月十五日
内閣総理大臣 菅直人


ところで、平成二十二年に棚からぼた餅で酋長になった菅直人氏の談話の前にも、とくにその馬鹿さ加減で歴史に名を残すことになったのは、ちょうど敗戦後50周年に当たる年に、たまたま日本族インディアンの酋長の地位にあった村山富市氏の酋長談話である。今年の酋長、菅直人氏の談話も、この村山富市氏の感謝ならびに詫び状を踏襲されたものであるから、この村山富市氏の談話も併せてここに記録しておくことにする。

★敗戦50周年記念、敗戦日本族インディアンの酋長村山富市氏の感謝ならびに詫び状(別名、村山内閣総理大臣談話)
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」

戦後五十年の節目に当たりまして、総理大臣としての談話を述べさせていただきます。

 先の大戦が終わりを告げてから、五十年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様一人一人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。特に近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この二つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 いま、戦後五十周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

平成七年八月十五日
内閣総理大臣 村山富市

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

向後百年後、二百年後の日本国民にこれらの歴代首相たちの談話の再評価に期待したい。が、しかし、すでに退嬰的で自閉的になった日本人には村山富市氏や菅直人氏らと同じように、相も変わらずの、アメリカと世界に対する「感謝と詫び状」を見直すだけの気概も主体性もすでに持ち合わせないかもしれない。

その場合には、アメリカ・インディアンと同じ運命が、哀れにも日本族インディアンたちをも襲ったことの証明にはなるだろう。歴史の非情に涙せざるを得ない。


参照

生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣

歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン









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歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン

2010年06月03日 | 歴史
 
                                
歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン―――歴史の見方


部分的な真実と全体的な真実


歴史を見る場合でも同じことがいえると思う。真相を把握するためには、単に物事を部分的に見るばかりではなく、全体的に見なければならない。事物について思考し判断する場合と同様に、歴史についても部分を精察するとともに、全体を俯瞰し眺望する必要がある。

先に行われた第二次世界大戦の一環として日米の間で戦われた太平洋戦争についても同じことが言える。二〇世紀も中盤になって太平洋を挟んで日本とアメリカが対峙しあった太平洋戦争も、それを大きな歴史的なパースペクティブで捉えることは欠かせない。

アメリカ大陸の東海岸に―――彼らがその地を後にニューイングランドと名付けたように――上陸したピューリタンたちを端緒として、イギリスからの本格的な入植が始まった。やがて、それも産業革命にともないイギリス本国の産業の発展によって、当時のイギリスの植民地としてアメリカ大陸への入植はいっそう活発になった。入植者たちは新しい新天地と富を求めて、西へ西へと向かう西部開拓を押し進めてゆく。やがてカリフォルニアに金鉱が発見され、いわゆるゴールドラッシュによって、アメリカの西部開拓はさらに加速される。

しかしすべてに終末があるように、いわゆるWASPの後裔たちが、西へ西へと活路を求めていった西部開拓も、彼らがやがて北アメリカ大陸の西岸、カリフォルニアにたどり着いたとき、もはや大陸本土での新天地はなくなった。しかし、工業力の発展に伴って彼らが豊かに生み出すようになった商品や植民地での産物の販路を求めるためには、必然的に太平洋の大海原に乗り出さざるを得ない。北アメリカ大陸からは太平洋の大海原の向こうにあるユーラシア大陸の極東岸にも、遅かれ早かれ彼らもたどり着く。そこに日本は地理的に位置していた。

こうしたいわば歴史的な必然のもとに、ペリー提督が神奈川県沖の浦賀に到達したのである。このとき日本は、まだ江戸幕府300年の太平の眠りについていた。北アメリカ大陸においては、西部開拓の途上で、彼らに敵対していた先住民であるいわゆるインディアンたちは、すでにその牙もすっかり抜かれて、ほとんどの部族は消滅させられていた。彼らは土地を奪われ、狭い居留地に押し込められてゆき、多くのインディアンたちは、西洋人の持つ近代的な武器の前に殺されていった。

アメリカ合衆国人の立場からすれば、太平洋を乗り越えて極東で出逢うことになった日本人もまた、二〇世紀における新たなインディアンに他ならない。このことは、俳優の渡辺兼やトム・クルーズらが登場して、西洋人が彼らの視点から日本人を描いてひととき話題になった映画『ラストサムライ』を見ても明らかである。この映画と、アメリカ・インディアンの視点から合衆国軍との戦いを描いたケビン・コスナー監督主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の二つの映画の本質的な同質性からも見てとれるものである。アメリカ合衆国人から見れば、十九世紀のアメリカ・インディアンも二〇世紀に太平洋戦争を戦った私たち日本人も本質的に異なるものではない。
 
すでに日本人は相応の文化を保持していたから、もちろん、アメリカ・インディアンとは異なって、簡単には部族を消滅させられることはなかった。むしろ、黒船来航を機に、日本人は明治維新をやり遂げて強力な軍事力を持つ近代国家を確立して、欧米列強と互角に対峙し得るまでになった。とはいえ、すでに歴史に見るとうり、日本人もまたアメリカインディアンと同様に、最終的には原子力爆弾の投下によって力ずくで壊滅させられ、そして、アメリカ合衆国軍による日本の占領統治は現在にいたるまで事実上続いている。

歴史を大きなパースペクティブから見つめるとき、つまり世界史の視点で自己を客観視するとき、あるいはヨーロッパ人やアメリカ合衆国人の視点で日本と日本人を見つめるとき、アメリカ・インディアンも日本人もさしたる違いはないのである。日本人は二〇世紀のインディアンに過ぎない。これからの世界史を私たちが生き抜こうとするとき、こうした歴史の教訓と立場を自覚しておく必要があるだろう。
 
 
 
 
 
 
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京都における吉田松陰の足跡

2010年04月27日 | 歴史

                                                                                            上の写真は松陰の書簡「水火和合ノ論」  http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/kaisetsu_j/no07.html   

 

京都における吉田松陰の足跡

久しぶりに、岩波の日本思想体系の中の『吉田松陰』の巻を取り出して読む。少なくとも、私にとって、この吉田松陰の『東北遊日記』や『西遊日記』などは、何よりも美しい詩的な作品として鑑賞できる。『西遊日記』は松陰二十一歳の時の作品、『東北遊日記』は松陰が二十三歳の時にロシアの南下に備えて、東北地方の地勢を探るための旅に出たときの克明な観察記録である。若き兵法家としての吉田松陰の才能が如実に示されている。

こうした紀行や日記を読むときにいつも痛感することは、また、それは福沢諭吉の著した『福翁自伝』などを読んだときにも思い知らされることでもあるが、幕末、明治維新期に至るまでに蓄積された、当時の日本の学術、文化伝統のそれ相応の高さである。吉田松陰、橋本左内、福沢諭吉、緒方洪庵、大槻文彦たちの当時の武士たちの意気と志の高さの一端を垣間見ることができる。

様々な時代に残された歴史的な記録を考察することは、現代に生きる私たちの時代を相対化して客観的に見るのに有益である。自己とその生きる時代を映し出す鏡があって、初めてそこに映し出された猿のような自画像も認識できる。とくに「民主主義」を金科玉条に生きてきた昭和の戦後日本人の退廃と堕落を自覚させられる。鏡がなければ自己の姿を認識できない。

私たちの受けて育った戦後教育を、歴史の普遍性という鏡に照らし出したとき、それが本質的にはどれほど醜く取るに足りないものであったかを初めて痛感させられる。私たちの受けて育ってきた教育や文化的な環境というものも、歴史における普遍という鏡によって客体化し、相対化することによってはじめて客観視できる。

戦後のいわゆる「民主主義」教育がどれだけの歴史的な人物を生み出したか、そのことによってはじめて歴史の評価を受けることになる。戦後世代の日本人に、はたしてどれだけ真に歴史の普遍的な評価に耐えうる人材を生まれ得たか。その成果の事例が鳩山由紀夫氏であり安部晋三氏などである。推して知るべし。 

松陰は、典型的な行動的人物である。それに比すれば、私は本質的にカント的な書斎人である。気質としては私と吉田松陰とは正反対の人間の型であるとしても、しかし、私が松陰の行動的な人生を愛し、評価していることも事実だ。松陰の本質が陽性であり、外向性を示すものとすれば、明らかに私のそれは陰性であり、内向性を示している。だから、私には無名性であることこそ、最高の報償である。このように気質や性格が反対方向であるとはいえ、私にとって彼の日記・紀行こそが真の文学作品としての意味を持つ。

ただ、松陰とは異なり、私はその行動力のすべてを著作に懸けるべきであるし、ある意味では、私の著作は本質的には、松陰と同等のエネルギーを秘めるべきものである。だから、私の内側に向けられたエネルギーは、条件さえ整うのなら、それは、いつでも、どこでも反転して、外側に向けられるはずである。それは、国家と社会をラディカルに変革する力を持たなければならない。カントの著作がそうであったように、もちろん、その弟子であるヘーゲルについては言うまでもなく、彼らや私の著作活動がそうした自覚の上に行われていることも、いまさら言うまでもない。それは、ちょうど聖書という一冊の本が、時と場所と人を得たとき、原子核のエネルギーが解放されたときのように、無限の変革の力の源泉になるのと同じである。

このように、吉田松陰は確かに私にとっては興味深い歴史的な人物であるが、さしあたっての時間を、吉田松陰の研究に専門的に振り向けることはできない。折に触れて、吉田松陰の事跡を、この京都においても探ってゆくつもりであり、その研究と認識の成果を、ブログ記事やホームページに蓄積してゆくつもりでいる。

吉田松陰は、京都に学校を建設して、そこに全国から「有用の人物」を結集することを計画していたらしい。この吉田松陰の考えは、もちろん彼の生存中に達成されることはなかったけれども、彼の弟子、品川弥二郎によって、尊攘堂として残され、今はその名残が京都大学の中に残されているという。現在の京都大学は、果たして吉田松陰の初志に叶うものになっているか。この「尊攘堂」は今も京都大学のキャンパスに保存され、その一部はホームページでも見ることができる。

京都大学附属図書館所蔵  
尊攘堂 貴重資料目録

<http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/sonjo/index.html>][2]

私自身は自己の本分を哲学にあると思っているが、歴史にももちろん、それなりに深い関心を持っている。幸いにも私の住んでいる京都には多くの歴史的な事跡が残されている。それもそのはずで、明治維新で東京に遷都されるまで、平安京以来、『京都は、桓武天皇が784年(延暦3年)の長岡京に続いて、794年(延暦13年)平安京に遷都したことに始まる千年の都である。』(ウィキペディア)

せっかくにこうした好立地に居住しながら、有効な歴史研究を実行できないでいるのは、私の無能力の故である。しかし、気持ちだけは、倦むことなく歴史研究を継続してゆくことはいうまでもない。もちろん、その際にも、私の唯一にして最大の師がヘーゲルであることはいうまでもない。彼の歴史哲学講義は、いうまでもなく、私自身の歴史研究が目指すべき頂上であることは言うまでもない。また、歴史研究のみならず、ヘーゲルの哲学大系自体が、哲学の徒である私の唯一にして最高の目標であることには変わりがないのである。

カメラとノートを下げて、最高の趣味として、京都の町の歴史探索に今でもいつでも繰り出さなければならない。その際に、自転車も大いに活用すべきであることはいうまでもない。私が京都に住んでいることの幸福を思う。

 

   

出典

 http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/big/0246021.html

 
 

 

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津山(二)――――種子と土壌の問題

2010年02月16日 | 歴史

 

津山(二)――――種子と土壌の問題

津山では、私も商店街を歩いてみましたが、多くの地方都市がそうであるように、たしかに気がつくかぎり、津山もまた商店街の一部にはシャッターが下ろされていました。それほどに活気があるようにも思えませんでした。

日本国の力強い経済復興は、そして地方都市の再生という困難な課題の解決は、鳩山由紀夫氏のような、夢想家の指導者には望むべくもありません。それどころか、現在の鳩山(小沢)民主党政権の政策のゆえに、やがて一億国民が総化して、かってのアルゼンチンなどのように、いずれ国家破産を招くことになるでしょう。

それにしても、津山で私が思ったことは、「文化の土壌」という問題です。文化の育つ土壌ということを考える時、その土地の歴史と伝統とは切り離せません。文化の一つの象徴的な事例として、キリスト教のことを取りあげてもそうです。

安土桃山時代に南蛮文化が渡来してからも、キリスト教は全国に普及しましたが、徳川政権によって、その切支丹禁教政策によってほとんど息の根を止められてしまいました。

明治時代に入ってキリスト教は解禁になりましたが、しかし、それが受け入れられるとしても、全国津々浦々というわけには行きませんでした。

おなじイエスの教えを聴いても、それを受け入れる土壌がなければ枯れてしまいます。それが育つためには、それなりの土壌が必要だというわけです。このことについては、イエスが「種を蒔く人」にたとえて話されたことで有名です。

その種子がやがてどんなに美しい花を咲かせる可能性を持っていても、その種が道端に落ちてしまっては、鴉が啄んでいってしまって、花も咲きませんし、石だらけの土地に落ちても根付きません。茨の間に落ちても、成長を妨げられて育ちません。(マタイ書第十三章)

これまでも限りなく多くの人がキリスト教についても聴いているはずですが、津山の森本慶三や信州の井口喜源冶のようにそれを根付かせる者は限られていたという事実です。

ここでの私の問題意識は、キリスト教であれ何であれ、一つの文化的な事象が「根付くか根付かないか」その根本的な差異はどこから生まれるか、という問題です。その背景にその土地の文化、その場所の「歴史と伝統」があると考えざるをえません。

森本慶三の育った津山という土地、あるいは場所は、かっては織田信長の小姓であった森蘭丸の弟の森忠政が美作国津山藩の初代藩主となったところでした。しかし、その後、跡継ぎを得られなかった森家は断絶し、津山藩は改易となりました。そうして一六九八年(元禄11年)に越前松平家から、松平長矩(宣富)が美作津山藩を拝領して藩主となり、江戸幕府の直轄地となってそれが幕末、明治維新まで続きます。幕末、明治に日本の洋学の発展に尽くした箕作 阮甫などはこの津山藩主松平家の藩医として抱えられた家系に属していました。

幕府親藩の城下町として、津山という土地は、それなりに高い武家文化を保持していました。それは、歴史民族館を見学していてもわかることです。そして、商人の家系として、銀行の頭取の息子として森本慶三はそうした場所で生育し、明治と東京という時代と場所で内村鑑三のキリスト教と出会い、それを種として津山という土地に持ち帰り根付かせたのです。

とは言え、文化の継承と土着いう問題は、そこに人間の意思という問題が介在するゆえに、たとえ、森本慶三と全くおなじ境遇が存在したとしても、それで必然的に同じくキリスト教が受容されるということにはならないと思います。それが文化の継承という問題が、機械のようには一筋縄には行かない、むずかしいところなのでしょう。

 

 

 

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真珠湾攻撃から六十八年

2009年12月08日 | 歴史

 


真珠湾攻撃から六十八年

12月8日の今日は、かって68年前に太平洋戦争の火ぶたを切って落とすことになった真珠湾攻撃のあった日である。今日もNHKの「クローズアップ現代」でも、かっての太平洋戦争を回想させる番組を組んでいた。「さまよう 兵士たちの“日の丸”」として、作家の半藤一利氏を登場させて、相変わらず大日本帝国政府と帝国陸海軍を誹謗、中傷させていた。

「アメリカ軍は戦後墜落された兵士のその後を徹底的に追跡調査して、いかにも兵士の一人一人の生命を大切にしていたのに比べれば、日本政府は「一銭五厘」の赤紙で国民を徴兵し、いかにも日本人の生命を軽んじていた」ように言う。

それに対して、家族や同郷の隣人、知人、同僚は「日の丸」に、「武運長久」と書いて、出征兵士の無事の帰還を願っていたという発言をして、相変わらず、太平洋戦争開戦当時の政府、軍隊の非人間性、悪党ぶりを強調していた。いつものようにそれは、GHQのアメリカ軍は解放軍であり、旧日本軍は非民主的で悪逆な軍国主義の象徴であったという、現在のNHKの太平洋戦争史観、階級闘争史観を代弁させるものでもあった。

もし、先の太平洋戦争で日本軍が勝利を収めていれば(それはありえないことではあるけれども)、日本軍も日本政府もまた、戦死したり行方不明になった日本軍兵士を調査し確認する作業をもっと丁寧に行うこともできていただろう。もし戦争の勝者であれば、それだけの余裕、余力もあったはずである。半藤一利氏にはそれくらいの想像力すらもないのか。

半藤一利氏は「勝てば官軍、負ければ賊軍」という諺の真理を今一度かみしめるべきだろう。半藤氏は、太平洋戦争に敗北した日本政府と帝国陸海軍をどこまでも悪者にしたいために、「賊軍だから負けたのではなく、負けたから賊軍になっている」ということすらわからないのだ。物事を相対化して思考することさえできない人である。旧帝国陸海軍や軍人首相の肩を私は一方的に持つつもりもないけれど、物事はもっと客観的に相対化して見なければならない。それが科学であり、歴史研究である。

長崎、広島に原爆を投下して、数万人の非戦闘員の女子・子供を瞬時に殺戮、蒸発させたアメリカ大統領が戦争犯罪人としてその罪の問われない理由を問いたい。

国家間の戦争の当事者を捉えて、一方を善とし、他方を悪として断罪するのは愚かしいことである。善だから勝者ではなく、勝者だから善なのである。これが一切の言い訳の効かない歴史の厳しさである。

私たちはこれからも歴史研究の一環として太平洋戦争史の研究は継続して行く。それは、なぜ日本の国内にアメリカ軍が駐留しているのか、アメリカの従属国家、日本の現実を知るためであり、私たち日本人が「植民地文化」から脱して、真に自由と独立を回復して行くためである。

アメリカの鏡・日本(ヘレン・ミアーズ)                                              http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_mirror.html#gaiyou

宣戦の詔書

 


 

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hishikaiさんの記事に対するコメント――民族の独自性について―

2009年03月14日 | 歴史

 

hishikaiさんの記事に対するコメント――民族の独自性について―


hishikaiさんの論考にコメントしようとしましたが、長くなってしまいましたので新たに投稿記事にしました。


菱海孫さんが次のように言われる時、たしかに文化の自立性と独立性について自意識とこだわりを持っている者には、他国、他民族の文化の摂取にはつねに葛藤が伴います。

>>

文化と云うものには否応もなく引かれた国境があり、それ自体は国境に区切られた一個の血の通った有機体であること、そういうことが常識である人々にとって、文化の輸入は常に苦しみを伴う。

>>
引用終わり

その点で私の論考にコメントを寄せていただいた「らくだ」氏などは、hishikaiさんが論考のなかで指摘されておられるように、文化の受容についても、幸福なことにそんな葛藤とは無縁の人であるようです。

自由の意識と民主主義の程度について、欧米人の尺度からすれば12歳のBOYにすぎない日本人にマッカーサーによって下賜されたこの現行「日本国憲法」を今なおありがたく押し頂いています。日本国憲法下で生きることについての文化的な違和感も民族的個性の変質についても、また下僕的な屈辱感なども問題意識としてもいささかも頭の片隅にすら掠ることがないようです。

歴史的に伝統的に日本人や朝鮮人は圧倒的な漢文化の影響の下にみずからの民族文化を形成せざるを得ませんでした。そのためにみずからの自尊心が、あえて自国文化における中国文化の影響を無視させたとも言えます。

日本文化や朝鮮文化の中に入り込んだ漢字をはじめとする中国文化、モンゴル民族や漢民族の影響の圧倒的な現実を直視することができないがゆえに無視しようとしたのだと思います。そして、そのような伝統的な文化的習性が太平洋戦争の敗戦によってマッカーサーに与えられた「日本国憲法」に対する国民的な受容にも現れていると思います。

しかし、結局においては、最良のもの最高のものを選択して自分のものとしようとすれば、その前に膝を屈して、狭量な個人的な誇りや民族的な自尊心を捨て去るしかないのです。涙をのんで、世界の歴史から、みずから最良、最高と信じるものを摂取してそれを消化して、個人や民族の血と肉に化してゆくしかないと思います。

とくにユーラシア大陸の辺境に位置する日本民族には、純然たるみずからのオリジナルな文化はほとんどなく、カタカナ、ひらがなに見るように、みずからの民族文化の独自性というものがすべて、異民族文化の受容と変容によって形成されたものであること、それを宿命として自覚し引き受けるしかないと思います。日本の民族文化のオリジナル、独自性というもがあるとすれば、この自覚のうえにはじめて生まれてくるものだと思います。

 

 

 

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紅葉紀行(2)待賢門院璋子――歴史

2008年11月21日 | 歴史

 

紅葉紀行(2)待賢門院璋子――歴史

私が訪れたときには、駐車場にも、またそこから拝観受付所に通じるあたりにも人影はなかった。紅葉は目に付いたが、その色つきからまだ絶頂を迎えていないことはすぐにわかった。

拝観受付所で呼び鈴を押すと、ご住職とおぼしき袈裟姿の男性が奥の方から出てきた。拝観料と引き換えにパンフレットを受け取る。東の御堂の方に向かって歩きはじめて間もなく、後ろから二人連れの女性の歩いてくるのがわかった。私はその時お寺の中をゆっくりと見回りたかったし、またカメラにも記録しておきたかったので、彼女たちに先に行き過ぎてもらうことにした。それで御堂の間の道に入り、脇に咲いていたこれまで見たこともないような大きな鶏頭の花や、黄色い実をつけた千両などを眺めていた。

仏殿は修理中のために拝観できなかった。待賢門院璋子たちによっても多くの仏画、仏像などが寄進されたのだろうが、来年四月まで見ることができない。落ち着いた桜の季節の頃にふたたび訪れてもよいと思う。

藤原冬嗣を祖とする藤原北家の公実の女として待賢門院璋子は1101(康和三)年に典侍藤原光子を母に生まれている。七歳の頃に父と死に別れ、白河天皇の猶子となった。このことが藤原璋子の生涯を決定づけることになった。

藤原氏の摂関政治の全盛を誇った藤原道長の没した1028(万寿4)年からこの頃すでに八〇余年を経過している。藤原氏が外戚となり摂政関白の地位によって実権を握る政治は続いていたが、白河天皇には藤原氏とは姻戚関係はさほど深くはなかった。

白河天皇の治世については、平家物語のなかでも「みずからの意のごとくにならないものは、賀茂川の水と、双六の賽と山法師のみである」と語られている。歴史的にも白河天皇は院政をほしいままにしたことでも知られている。白河天皇の後を嗣いだ堀河天皇が若くして亡くなられて、孫の鳥羽天皇がわずか五歳で即位する。このとき白河天皇は法皇として幼い新天皇を後見し、藤原氏の外戚を排除してみずから親政を執り行うことになる。

鳥羽天皇もその誕生と同時に母である藤原苡子を失ったために、鳥羽天皇もまた祖父白河天皇に引き取られ養われていた。だから時を経てほとんど運命的に璋子は入内し、そして鳥羽天皇の中宮となった。もともと璋子も鳥羽天皇も白河法皇の猶子どうしである。二人は白河法皇の寵妃、祇園女御に養われていた。しかも鳥羽天皇の母である藤原苡子はまた璋子の父である藤原公能の姪でもあった。

歌人の西行法師は出家前にはこの鳥羽天皇に北面の武士として仕え、藤原璋子の兄である藤原実能の家人であった。だから藤原璋子は西行と関わりが深かったはずである。

仏殿が工事中であったので拝殿することもできず、藤原璋子の事跡を偲ぶことのできるものは境内に見あたりそうもなかった。ただ、いかにも嵯峨野にある寺らしく、御堂の傍らに色とりどりの嵯峨菊が鉢に植えられて並べられていた
西行が法金剛院を訪れたときに、いつどの場所で待賢門院を懐かしんだ和歌を詠んだのかはわからない。しかし、出家して間もなく西行は嵯峨野に庵をもって隠棲していたし、嵯峨野から内裏までの途上にあるこの双ヶ丘の地に仁和寺や法金剛院は位置しているから、西行も折に触れて立ち寄ることもあっただろう。

鳥羽天皇の譲位にともなって璋子は待賢門院の院号を賜る。この待賢門院に生まれた皇子顕仁親王(崇徳天皇)が鳥羽天皇の皇子ではなく祖父の白河天皇の落胤であるという噂は昔からよく知られていたらしい。それは歴史的な文書である古事談などにも記録され、また鳥羽天皇が崇徳天皇について「叔父子」であると語ったことなどが伝えられていることによるらしい。

また、それらを根拠にされたのだろうと思われるが、現代において待賢門院璋子の生涯を詳細に考証された角田文衛氏などは、女性の月事なども手がかりに古事談の記述を事実として立証されようとしている(『待賢門院璋子の生涯』朝日選書)。しかし、果たしてそれは真実であっただろうか。

ただ、若い日の待賢門院璋子がかなり放埒であったことは確かであったようである。しかし、この時代の人々を現代人の倫理意識によって批判しても真実を洞察することにはかならずしもならないと思う。ただ、この藤原璋子が養父である白河法皇の深い愛情を受けて育ったことはまちがいはなく、またその影響を受けたことによるのか、自身も仏教に深く帰依されたことは明らかだ。この法金剛院の建立に尽くされたことや、また、たびかさなる熊野参詣などによっても、待賢門院の信仰と立場が推測されうる。

もともと平安期のはじめに清原夏野が建てた山荘のあとに文徳天皇が天安寺を建立し、そのあとに待賢門院によって再建されたのがこの法金剛院であるといわれる。白河法皇や鳥羽上皇に寵愛されて待賢門院璋子は栄華を誇った。その歴史的な事跡として今も残されているのがこの法金剛院である。

そして彼女が熱心に行った寺院建築や熊野参詣が当時の荘園制度の発達と、そのうえに立った経済基盤の上にあったことは明らかで、院政によって強大な権力を保持しえた白河法皇の時代の背景には、すでに藤原道長の摂関政治の全盛期は過ぎ、その力が弱まっていたこともあった。

また荘園の発達は法皇やその庇護を受けた寺社に大きな富をもたらす一方、その権益を実力で保証する武家が、公家や貴族に代わって台頭して来ており、世相にはすでに末世的な時代の転換期を予感させるものがあった。

待賢門院璋子はこうした時代に生きた女性で、彼女自身は生前にその悲劇を目撃する不幸は免れたものの、その没後十数年にして皇子である崇徳天皇は反乱の廉で(保元の乱)讃岐に流されることになる。そうした時代の不安は晩年の璋子にも忍び寄っており、それがいっそう深く彼女を仏教に帰依させることになったにちがいない。

京の町ではすでに璋子の時代にも多くの邸宅が放火によって焼失することも少なくなかった。その後さらに時代をさかのぼる応仁の乱など、度重なる戦火によっても、内裏の邸宅など京都の多くの市中が灰燼に帰している。この法金剛院も待賢門院が建立した当時とは大きく姿を変えているともいわれる。さらに近代現代の都市の発達で、この法金剛院も敷地の多くは切り取られ失って、待賢門院往時の壮大な光景は失われている。

 

 

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