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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

5月12日(月)のTW:囚われのない歴史観は可能か?

2014年05月13日 | 歴史

「『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』に関する各社報道について」偏見、嫉妬、悪意、憎悪から見る歴史観。戦後70年、今なおどうしても大日本帝国を「犯罪国家」にしたい新聞記者たち。その根源にある囚われの階級闘争史観。goo.gl/Bnozdh


国民各自が戦争のショックを被る覚悟をしておかなければならない。その心の準備なしで不意打ちを受けると悲劇的な破局を迎えることになってしまう。「わが国ではけして戦争はない」と断定するのは軽率であり、結果的に大変な災難をもたらしかねない。(スイス政府『民間防衛』)

shuzo atiさんがリツイート | RT

他国占領後に『新体制』が取る最初の措置は、青少年を確保し、彼らに新しい教義を吹き込むことである。歴史教科書は、勝利を得たイデオロギーに適応するように作られる。多くの国家機関は、青少年が新体制に参加するようにあらゆる方法でそそのかすよう努める。(スイス政府『民間防衛』)

shuzo atiさんがリツイート | RT

ストークス氏の「歴史を丁寧に調べ直す」という基本的アプローチ方法には同意。戦勝国、敗戦国のどちらか一方が絶対的に悪で、片方が絶対的に善ということはあり得ない。どちらの言い分も正当に成り立つ。二律背反の世界。それでも戦争は起きる。goo.gl/SXQWuj


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5月4日(日)のTW:中川八洋氏による大東亜戦争の総括

2014年05月05日 | 歴史

阿蘇山、九重連山がはっきり見えました。宇宙ステーションの中に長くいるので、阿蘇の草千里のそよ風がとても恋しく感じられます。 pic.twitter.com/nE4z0AalXX

shuzo atiさんがリツイート | RT

淡路島です。鳴門大橋、明石海峡大橋も良く見えます。 pic.twitter.com/122UuSlYHq

shuzo atiさんがリツイート | RT

岡山、高松、小豆島付近が写っています。 pic.twitter.com/n0GCyt3Uip

shuzo atiさんがリツイート | RT

「日本は弱い、その自覚がなければ中国に負ける 集団的自衛権の行使はなぜ必要なのか」織田邦男:JBpress(日本ビジネスプレス) p.tl/jYO0


織田邦男「議論の中心が憲法解釈変更の是非になっているが、これは手段の議論に過ぎない。現在の安全保障環境をどうとらえ、なぜ集団的自衛権行使が必要なのかという本質的な議論が置き去りにされている。」 集団的自衛権の行使はなぜ必要なのか: p.tl/jYO0


「日本は核も攻撃力も持たない。情報分野もほとんど米国頼りである。貿易立国日本の生命線であるシーレーンも事実上米海軍第7艦隊に守られている。自衛隊の装備はほとんどが米国の軍事技術に依存している。現状は日米同盟に頼らざるを得ない。」 織田邦男 p.tl/BKFr


「5月3日(土)のTW:ヘーゲルに学ばない中川八洋氏の限界」中川八洋元筑波大名誉教授の論考を読んだ。西尾幹二氏への「精神病」呼ばわりは自身の論文の品格を失うだけ。西尾幹二氏の「限界」と「錯誤」に... goo.gl/vOAWZP


「5月3日(土)のTW:ヘーゲルに学ばない中川八洋氏の限界」中川八洋元筑波大名誉教授の論考を読んだ。西尾幹二氏への「精神病」呼ばわりは自身の論文の品格を失うだけ。西尾幹二氏の「限界」と「錯誤」についてはその事実を指摘すれば良い... fb.me/1nIrNNr9P


「小堀桂一郎氏「皇室の御安泰を真剣に考へる秋」について」 goo.gl/oH8BR


「西尾幹二とは無意識のマルクス・レーニン主義者である、と断定して間違いではない。」中川八洋氏のこの断定をどう考えるか?“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史Ⅸ──「西尾幹二」は、北朝鮮工作機関のペンネーム!?  - 中川八洋掲示板 p.tl/P575


「対英米戦争の帰趨は、軍事学的に、米国は日本全土を占領できるが、日本は米国本土を占領できない以上、(日本海軍の貯蔵石油量からして)米国が一年半以内に講和を申し込んでこない限り、日本の敗北は確実だった。」 中川八洋掲示板 p.tl/P575


「つまり、「一九四三年六月頃までに終戦にならなければ日本の方から対米講和を申し入れる」予定が欠如した、戦争終結を考えない対米戦争を開戦したことは、日本側に、一般通念以上の戦争以外の・・・・・・」  - 中川八洋掲示板 p.tl/P575


「・・・・(日本の共産化のためソ連の属国という)他意が秘められていたからである。」“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史Ⅸ──「西尾幹二」は、北朝鮮工作機関のペンネーム!?」 - 中川八洋掲示板 p.tl/P575


「さて、「ハル・ノートの対日要求」と「ポツダム宣言の対日要求」とを比較してみよう(表3)。前者の方が百倍も千倍も穏健で軽い。満洲の権益はそのままだし、占領軍の日本本土上陸などないから日本の政府も軍隊もそのまま。・・・- 中川八洋掲示板 p.tl/P575


「明治憲法もそのまま守りぬかれた。それ以上に、支那は蒋介石の国民党政府が復帰して毛沢東の共産党を殲滅できただろうし、ソ連は満洲・樺太への侵攻ができなかった。一九四三年夏までの対米講和こそ、日本の賢明な戦争終結外交であった。」 中川八洋 p.tl/P575

2 件 リツイートされました

 

※追記

中川八洋氏の行われた「大東亜戦争の総括」は、私の知るかぎり、これまでに行われた第二次世界大戦の検証のなかでももっとも優れたものの一つではないかと思います。

これまでの「大東亜戦争」の総括は、大日本帝国軍の愚劣を指弾するばかりの左翼に偏向したものか、アメリカを悪者にするばかりで日本の失策を正しく反省しない右翼に偏向したものでしかなかった。

中川八洋氏の「大東亜戦争の総括」のように、さらに高い地平から、深く徹底した総括が、内閣や国会などの公的機関において行われるべきです。自衛隊の戦略研究所などでも行われているのでしょうが、どのレベルで行われているのか現在よく分かりません。杞憂であれば私の無知によるものです。

 

 

 

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8月30日(金)のTW:内村鑑三日記。対支問題。

2013年08月31日 | 歴史

「日本に取り目下の重大問題は対支問題である。若し此問題が満足に解決し得なければ日本に由々しき一事件が起るであらう。米国に於ける共和党の大勝利と支那に於ける南京政府の出現とは日本の安全を脅す事非常である。日本国民は此事に気附いてゐないらしい。


そして此難局に当たりて日本を指導し得る政治家は今の所見当らない。日本に歴史哲学者がゐない。故に斯かる場合に世界の大勢に処するの道を示す者がない。縦しあっても国民に之に傾ける耳と心がない。困った者である。自分は日本の衰運に傾くを見るに忍びない。時に地団駄踏んで悲しむ。


然し益無しである。」1928(昭和3)年11月23日(金)内村鑑三


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8月29日(木)のTW:内村鑑三日記。排日法。

2013年08月30日 | 歴史

「然れども自分が我国の基督教会の教師達に就て解し得ざる事は、彼等が排日法に由て日本が米国に辱かしめられし事に就て別に憤慨せざる事である。是れ自分のみならず自分を知る誠実なる米国人が不思議に思ふところである。彼等の内の一人の如きは(彼は日本在留の宣教師である)自分に告げて曰うた、


「何故日本人は此事に就て怒らないのである乎。若し西郷大久保が生きて居たならば、日本は米国に対し直に国交を断絶し、戦争を辞さないであらう」と。――1925(大正14)年11月9日(月)内村鑑三


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8月26日(月)のTW:世界史と理性

2013年08月27日 | 歴史

太陽系の運動は不変の法則にしたがって行われている。すなわち、この法則は太陽系の理性である。しかし、太陽も、この法則に従って太陽の周りを回っている遊星も、この法則についての意識を持ってはいない。それで自然の中に理性があるとか、自然が一般的法則によっていつも支配されているとかいう a


思想には、我々は一向に驚かない。我々はこのような思想には慣れているので、それを別に大したこととも思わない。にもかかわらず、私がこの思想の歴史的ないきさつを述べるのは、このように今日の我々には陳腐に見える思想でも、必ずしも世に行われていた訳ではなく、したがってこのような思想の出現は


むしろ人間精神の歴史に一時期を画したものだという歴史の教訓に注意を促すためである。アリストテレスは、この思想の創始者アナクサゴラスについて言っている。彼は酔いどれたちのなかで一人素面の人のように見えた、と。アナクサゴラスのこの思想はソクラテスに受け継がれた。


そしてこの思想は一切の出来事を偶然に帰したエピクロスを除けば、およそ哲学における支配的な思想となった。プラトンはソクラテスに言わせている。「私はこの思想を知って歓んだ。そして理性に従って自然を解釈し、特殊なもののなかには特殊な目的を、全体の中には一般的な目的を指示してくれる


一人の教師を見出したと信じた。私はどんなことがあってもこの期待を捨てまいと思った。けれども、私がアナクサゴラス自身の書いたものに熱心に当たってみて、彼が理性の代わりにただ空気だとか、エーテルだとか、水などといった、外的原因だけを挙げているのを知って、どんなに失望したことか」と。


すなわち、ソクラテスがアナクサゴラスの原理に見出した不満が、原理そのものにあるのではなくて、むしろ具体的自然に対する原理の適用上の欠陥、つまり、自然がこの原理に基づいて理解され、把握されておらないこと、一般にその原理が抽象的に見られているに過ぎないということ、


自然がこの原理の発展として、理性に基づいてそこから産み出された一つの組織として捉えられていないという点にあることが分かる。【A:原理としての理性の哲学的考察】


次に問題になるのが、理性が世界を支配しているというこの思想の型態が、進んで適用されて我々に周知の思想に関連している点である。――すなわち、世界が単に外的な偶然の原因に委ねられているものではなくて、むしろ摂理が世界を支配しているという宗教的真理の型態をとる場合である。(s36 )


ところで、ある摂理が、それも神の摂理が世界の諸々の出来事を支配するという真理は、理性が世界を支配しているという先の原理に対応している。なぜなら、神の摂理とは、その目的、すなわち世界の絶対的な、理性的な究極目的を実現するところの無限の力という面から見た智慧であり、


理性はまったくに自由に自分自身を規定するところの思考だからである。けれども、ここでふたたびアナクサゴラスの原則に対するソクラテスの不満と同じ形で、この信仰と我々の原理との差異、とういうよりもむしろ対立が現れてくる。この信仰もまた同様に漠然としたものであり、摂理一般への信仰と


呼ばれるものであり、それは進んでさらに規定されたものとなり、全体への適用、すなわち世界史への全行程への適用となるところまで行かない。しかし、歴史を説明すると言うことは、人間の情熱、その天才、その活動の力を明らかにすることを意味する。そしてこのような摂理の規定性(歴史の実現過程)は


通常、摂理の計画と呼ばれる。けれども、この計画は我々の眼には隠されているとされ、これを認識しようとすることは僭越なこととされている。理性がどういう形で現実の中に啓示されているのかについてのアナクサゴラスの無知は無邪気なものだった。彼を始め一般にギリシャにおいては、


思想の意識はまだ幼稚だった。彼はこの一般的な原理を具体的なものに適用し、具体的なものをその原理から認識することは出来なかったのである。ソクラテスがはじめてこの点で一歩を進め、具体者と一般者との結合を遂行した。従ってアナクサゴラスは、


必ずしもこのような適用に反対の立場をとったのではない。ところが今いう摂理に対する信仰は、少なくとも一般的には適用に反対しており、摂理の計画の認識に対して反対している。というのも人々が摂理の存在を認めるのは、特殊な場合だけであって、それは敬虔な心の人が、個々人の突発的な事故の中に


偶然ではなく神意を視るような場合に過ぎないからである。しかし、このような目的はそれ自身限られた狭い範囲のものであり、単に一個人の特殊な目的に過ぎない。 ところが我々が世界史において問題にするのは、民族という個体であり、国家という全体である。だから単に抽象的な無規定的な信仰に


かかづらわっているわけにも行かない。むしろ本気に歴史の中における摂理の道程、その諸々の手段、現象を認識することを問題にし、それを上述の一般的な原理に関係づけることを問題にしなければならない。(ibid s 38 )


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8月4日(日)のTW:民族は歴史から何を学びうるか

2013年08月05日 | 歴史

実際、歴史はしばしば道徳的教訓のために編纂された。しかし善人が心情を高め、また児童の道徳的教育にあたり立派なことを児童の頭に染み込ませておくために、善人の例を用いるべきだとは言いうるとしても、民族や国家の運命、それらの利害、それらの状態や葛藤などは道徳とは領分がちがうのである。a


人々は君主、政治家、民衆に向って、歴史の教訓から汲むべきだと説く。けれども経験と歴史の教えるところこそまさに、人民や政府がかって歴史から何ものをも学ばなかったということであり、また歴史から引っ張り出されるような教訓にしたがって行動したこともなかったというそのことなのである。b


各時代はそれぞれ特有の境遇を有し、それぞれ極めて個性的な状態にあるものであるから、各状態の中で各状態そのものによって決定されなければならないものであり、またそうしてのみ決定され得るものである。世界のいろいろな出来事の雑踏の下では、一般原則もいろいろな類似の関係への回想も  c


何の役にも立たない。なぜなら色褪せた回想などといったものは、現在の生命と自由に対しては何の力も持たないからである。(歴史哲学上s28)


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歴史認識を疑う。森の防潮堤

2013年06月11日 | 歴史

日中戦争の真実――日本は中国を救おうとした p.tl/e2a8


日韓併合時代の真実――日本と朝鮮が手を取り合って生きた時代 p.tl/ZBi0


中国の「正しい歴史認識」の正体 p.tl/Mnr1


森の長城プロジェクト。東北の防潮堤はこの方式で。>><<FNNニュース: 宮城・岩沼市で津波一... p.tl/O8Vg


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YOUTUBE と歴史資料

2013年04月18日 | 歴史

 

YOUTUBE  と歴史資料

歴史に興味と関心のある者にとって、インターネット上に、とくにYOUTUBEなどに映像をともなった様々な歴史的資料ともいえるものが豊富に提供されつつあるのはうれしい。

歴史とは何か。この根本的な問いは常に問われ、確認される必要がある。しかし、さしあたってここでは歴史とは、現在を生きる個人が、自らが置かれ含まれる特定の国家、民族の現在と過去の流転と変化その発展を、環境として客観的対象として認識し把握する行為である。ただ、そこで認識される歴史的な真実とは何か。

これは哲学上の認識論にもかかわる問題であるが、基本的にここで確認しておくべきは、有限な存在である個人には有限な認識しかできない、ということであ る。「個人」として認識するのは現象であって、本質でも、ましてや概念ではあり得ない。それは全ての個人が持つ「限界」でもある。歴史研究とは、そうした 個人の有限性を克服して、普遍的な認識を得ることである。

人間は文化的存在であるから、彼は特殊的に規定された自らの文化において環境を認識する。特定の言語、特定の歴史認識という枠組みにおいて、すなわち、何らかの特定の価値観をもって対象を、環境を、歴史的事象を認識し把握する。

個人がどのような偶然と必然の経路をへてそうした特定の価値観をもつに至るかは、今ここでは問わない。同じ一つの歴史的事象についても、その認識と把握は、個人の価値評価はそれぞれに異なる、という基本的事実を確認しておけば足りる。ただ、その異なる価値評価は、それぞれに真理の「一面性」を現すものでありうる。

それは、全ての現象はそれなりの根拠と必然性を背景として存在している、ということである。しかし、単なる現象の集積を歴史とは言わない。「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」と言われているように、事象の中に「理性的なもの」を認識し把握することが歴史の事柄である。

世界の事象、事物は、言うまでもなく「私」という観点から全てを眺め、認識し、把握する。しかし、この「私」という存在は、天から降って来たのでもなければ、地から湧き出たものではない。歴史という媒介を経て、今、ここに「存在」している。「私」という存在は、時間と空間によって規定された存在である。つまり、全ての「私」は歴史的存在であり、全ての個人がそうであるように、時代と民族の子であり、この規定から逃れうる「私」個人は存在しない。

私たちが、歴史を探究し認識するのも、全ての個人が歴史的に規定された存在であり、それゆえに、個人が「私」として自己を知ろうとするとき、その個人の置かれている時代と民族の歴史を知ることなくしては、「自分自身を知る」ことができないからである。そして、個人としての人間はすべて、彼の「過去」と「現在」を知ることなくして、すなわち、彼の歴史を知ることなくして、理性的存在である人間は「未来」を生きることができないのである。

人間は歴史的存在であるように、また、政治的動物でもある。全ての個人は政治的に規定された存在でもある。どのように政治的に規定されているかを知ることは、その歴史を認識することでもある。

とくに、現在の私たち全ての個人の生きる場所は、国家、民族としてであり、時代としては、二〇世紀の後半以降である。そして、とくに私たちを決定的に規定している歴史的事件としては、第二次世界大戦が、とくに大東亜戦争(太平洋戦争)が存在する。この事実とその思想的な哲学的な背景を認識し理解することなくして「私」自身を客観的に知ることができない。

確かに、私たち個人は全て、何らかの意味では「歴史教育」を受け、また、どれだけ自覚的か、客観的であるかはとにかく、いずれにしても特定の何らかの「歴史観」をもって生きている。その基本的な要素は、学校教育から得たものであるとしても、それ自体何らかの政治的に規定されたものである。

ただ、そうした段階にとどまる歴史観は決して反省されたものではなく、また自由で主体的な歴史観ではないということである。いわば、それは子供の「歴史観」であり、主体的な自覚された、客観的な大人の歴史観ではない。それはまだ親離れしない子供が、両親の価値観をその真偽を疑いもせずに受け継いでいるようなもので、自己と両親とを疑い、反抗期をへて反省した、新たに主体的に形成しなおした価値観ではない。学校で教育されたままの歴史観とはそうしたものである。

とくに現在に支配的な歴史観は、大東亜戦争(太平洋戦争)の敗北という日本歴史においても未曾有の歴史的事件の直後に、とくにGHQの占領統治下に制定された日本国憲法下に規定された教育環境の中で形成され教育されたものであるということ、その歴史教育そのものの政治的環境を反省することなくして、主体的な自由な歴史観の形成はあり得ない。

インターネット環境の普及と充実によって得られる様々な歴史的資料は、その点において、とくに特定の政治的環境のなかで教育された戦後世代が―――もちろん、人間が政治的動物である以上、戦前世代と同様に、全ての世代が、何らかの特定の政治的な歴史的な環境の中で教育され生育してゆくのだけれども、――――とくに政治的にも限定された学校における歴史教育の限界を超えて、自らの世代の自画像を明確に全面的に客観的に知る上でも、さらに主体的な歴史観をみずから確立して行く上でも、YOUTUBEなどに提供されつつある充実した歴史的映像は、とくにその意義は大きいといえる。

 

ブログ管理人の基本的な歴史認識


歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン

日本族インディアン国酋長の感謝と詫び状―――歴史のカリカチュア

生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣

                      その他

 

南京大虐殺証拠写真を検証する. 2007年9月29日- YouTube http://goo.gl/2ZbwV

知ってはいけない日帝時代の真実:学校では教えられない日帝時代の実像               【알아서는 안 되는 일제시대의 진실 】http://yeoksa.blog.fc2.com/page-0.html

 

 

 

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4月17日(水)のTW:YOUTUBE に上げられた歴史的映像など

2013年04月18日 | 歴史

外国人カメラマンが見た戦前の日本 - YouTube p.tl/bcbC


満州国・奉天《前編》The largest city in Manchuria 1/2 - YouTube p.tl/gK-J


満州国・奉天《後編》The largest city in Manchuria 2/2 - YouTube p.tl/3XZK


The capital of Manchuria 2/2 満州国国都、新京《後編》 - YouTube p.tl/oNF2


The capital of Manchuria 1/2 満州国国都、新京《前編》 - YouTube p.tl/RT4z


中国・朝鮮の言い分だけではなく、またアメリカの立場を一方的に代弁する「キリスト教」や共産主義の自虐的な反日思想にも囚われずに、日本側の立場から歴史を検証するのは当然だ。【英語で世界に発信!UndertakerRachのコピペでGO!】 p.tl/58An


勝者アメリカは日本との戦争をどう見ているか。Japan's War in Colour (Complete Documentary) - YouTube p.tl/kuNB


客観的で全面的な考察の綜合から歴史に於ける真理は現れる。【Pearl Harbor: The Untold Story | History Channel Documentary】 - YouTube p.tl/8OOH


 
 
 
 
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吉田松陰『東北遊日記』 1852年嘉永5年2月閏廿四日

2013年03月22日 | 歴史

 

吉田松陰『東北遊日記』(原漢文)

 1852年嘉永5年2月閏廿四日 晴。

本庄を発す。川あり。舟もて之れを済る。海浜に出で平沙を行き、道川に至りて午食す。是れ亀 田候岩城伊予守領する所なり。本庄・道川の間に石脇・松崎の二駅あれども、海浜を行きしをもって経ず。道川を過ぐれば長浜あり、亦経ざりき。塩越よりここ に至るまで、本庄・亀田の二封地は皆四十八町を以て里と為すと云ふ。長村に至り海を離れて村に入る。是れより秋田の得する所に係る。新屋を経、舟もて御裳 川を済る。川は雪水方に漲り、濶さ八町ばかり、渡処より川口に至るまで一里にして、大船泝りてここに至るべし。久保田に宿す。是れ佐竹左京大夫二十万石の 都城なり。行程十一里。久保田の地、最も斗出せるものを牡鹿と為し、二峯峙立せるを本山と為し、新山と為す。昨より之れを遠望して、二島と以為ひ、稍近づ きて又一島と以為ひしに、長村に至りて初めて其の内地と連なれるを知りぬ。土人云はく、「是の地五十三村、歳入二万石、港三、止賀・船川・船越と曰ふ」 と。秋田の米価は三斗を以て苞と為すもの一貫七百銭なり。数日間、土人の往還する者を見るに、皆面を裏み頭を冒ひ、僅かに両目を露すのみ、比々皆然り、亦 土風の笑ふべきものなり。新潟よりここに至るまで、大抵海浜平沙、漫々浩々として行歩頗る困しむ。

『東北遊日記』、幕末ロシア南下の報に接し、東北国情偵察の旅に出る。吉田松陰二十三歳の学識、能力。今日の学校教育はその足許にすら及ばない。

大きな地図で見る

 

京都における吉田松陰の足跡

http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20100427

 

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