作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

京都における吉田松陰の足跡

2010年04月27日 | 歴史

                                                                                            上の写真は松陰の書簡「水火和合ノ論」                            http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/kaisetsu_j/no07.html                                                      

                                                                     

京都における吉田松陰の足跡

久しぶりに、岩波の日本思想体系の中の『吉田松陰』の巻を取り出して読む。少なくとも、私にとって、この吉田松陰の『東北遊日記』や『西遊日記』などは、何よりも美しい詩的な作品として鑑賞できる。『西遊日記』は松陰二十一歳の時の作品、『東北遊日記』は松陰が二十三歳の時にロシアの南下に備えて、東北地方の地勢を探るための旅に出たときの克明な観察記録である。若き兵法家としての吉田松陰の才能が如実に示されている。

こうした紀行や日記を読むときにいつも痛感することは、また、それは福沢諭吉の著した『福翁自伝』などを読んだときにも思い知らされることでもあるが、幕末、明治維新期に至るまでに蓄積された、当時の日本の学術、文化伝統のそれ相応の高さである。吉田松陰、橋本左内、福沢諭吉、緒方洪庵、大槻文彦たちの当時の武士たちの意気と志の高さの一端を垣間見ることができる。

様々な時代に残された歴史的な記録を考察することは、現代に生きる私たちの時代を相対化して客観的に見るのに有益である。自己とその生きる時代を映し出す鏡があって、初めてそこに映し出された猿のような自画像も認識できる。とくに「民主主義」を金科玉条に生きてきた昭和の戦後日本人の退廃と堕落を自覚させられる。鏡がなければ自己の姿を認識できない。

私たちの受けて育った戦後教育を、歴史の普遍性という鏡に照らし出したとき、それが本質的にはどれほど醜く取るに足りないものであったかを初めて痛感させられる。私たちの受けて育ってきた教育や文化的な環境というものも、歴史における普遍という鏡によって客体化し、相対化することによってはじめて客観視できる。

戦後のいわゆる「民主主義」教育がどれだけの歴史的な人物を生み出したか、そのことによってはじめて歴史の評価を受けることになる。戦後世代の日本人に、はたしてどれだけ真に歴史の普遍的な評価に耐えうる人材を生まれ得たか。その成果の事例が鳩山由紀夫氏であり安部晋三氏などである。推して知るべし。                                         

松陰は、典型的な行動的人物である。それに比すれば、私は本質的にカント的な書斎人である。気質としては私と吉田松陰とは正反対の人間の型であるとしても、しかし、私が松陰の行動的な人生を愛し、評価していることも事実だ。松陰の本質が陽性であり、外向性を示すものとすれば、明らかに私のそれは陰性であり、内向性を示している。だから、私には無名性であることこそ、最高の報償である。このように気質や性格が反対方向であるとはいえ、私にとって彼の日記・紀行こそが真の文学作品としての意味を持つ。

ただ、松陰とは異なり、私はその行動力のすべてを著作に懸けるべきであるし、ある意味では、私の著作は本質的には、松陰と同等のエネルギーを秘めるべきものである。だから、私の内側に向けられたエネルギーは、条件さえ整うのなら、それは、いつでも、どこでも反転して、外側に向けられるはずである。それは、国家と社会をラディカルに変革する力を持たなければならない。カントの著作がそうであったように、もちろん、その弟子であるヘーゲルについては言うまでもなく、彼らや私の著作活動がそうした自覚の上に行われていることも、いまさら言うまでもない。それは、ちょうど聖書という一冊の本が、時と場所と人を得たとき、原子核のエネルギーが解放されたときのように、無限の変革の力の源泉になるのと同じである。

このように、吉田松陰は確かに私にとっては興味深い歴史的な人物であるが、さしあたっての時間を、吉田松陰の研究に専門的に振り向けることはできない。折に触れて、吉田松陰の事跡を、この京都においても探ってゆくつもりであり、その研究と認識の成果を、ブログ記事やホームページに蓄積してゆくつもりでいる。

吉田松陰は、京都に学校を建設して、そこに全国から「有用の人物」を結集することを計画していたらしい。この吉田松陰の考えは、もちろん彼の生存中に達成されることはなかったけれども、彼の弟子、品川弥二郎によって、尊攘堂として残され、今はその名残が京都大学の中に残されているという。現在の京都大学は、果たして吉田松陰の初志に叶うものになっているか。この「尊攘堂」は今も京都大学のキャンパスに保存され、その一部はホームページでも見ることができる。

京都大学附属図書館所蔵
尊攘堂 貴重資料目録

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/sonjo/index.html

私自身は自己の本分を哲学にあると思っているが、歴史にももちろん、それなりに深い関心を持っている。幸いにも私の住んでいる京都には多くの歴史的な事跡が残されている。それもそのはずで、明治維新で東京に遷都されるまで、平安京以来、『京都は、桓武天皇が784年(延暦3年)の長岡京に続いて、794年(延暦13年)平安京に遷都したことに始まる千年の都である。』(ウィキペディア)

せっかくにこうした好立地に居住しながら、有効な歴史研究を実行できないでいるのは、私の無能力の故である。しかし、気持ちだけは、倦むことなく歴史研究を継続してゆくことはいうまでもない。もちろん、その際にも、私の唯一にして最大の師がヘーゲルであることはいうまでもない。彼の歴史哲学講義は、いうまでもなく、私自身の歴史研究が目指すべき頂上であることは言うまでもない。また、歴史研究のみならず、ヘーゲルの哲学大系自体が、哲学の徒である私の唯一にして最高の目標であることには変わりがないのである。

カメラとノートを下げて、最高の趣味として、京都の町の歴史探索に今でもいつでも繰り出さなければならない。その際に、自転車も大いに活用すべきであることはいうまでもない。私が京都に住んでいることの幸福を思う。

 

               

出典   http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/big/0246021.html

 

 


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