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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

hishikaiさんの「都下闃寂火の消えたるが如し」評(2)

2008年07月23日 | 歴史

hishikaiさん、コメントのコメントありがとうございました。

漱石の『私の個人主義』などは昔読んだ記憶はあるのですが、その細部は忘れてしまっています。

先の漱石の日記の見解の論理構造を整理されていると思いますが、hishikaiさんのおっしゃる「その原因の半分に明治以前からの庶民の土俗的信仰習慣の問題(この場合は庶民の側からの自発的な天皇信仰(の欠如)」が「戦後民主主義」はとにかく「日米開戦」にどのようにつながるのか、その論理が今ひとつピンときません。よろしければ、もう少し詳しく説明してください。

ちなみに私の場合は、伝統的に弱い「国民主権」が、結果として(おおざっぱな論理ですが)「日米開戦」や「官僚主権国家」を防ぎ得なかったと考えているからです。加藤友三郎や東郷平八郎元帥らが生きている間は、ワシントン会議に見られるように軍部の主戦論者に対する押さえは利いていたのです。彼らの死後はその重しもなくなってしまいました。しかしいずれにせよ、歴史にIFは禁物です。

そら(ANOWL)

 

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幻の都市計画

2008年06月05日 | 歴史

NHKに「そのとき歴史は動いた」という番組がある。6月4日 (水) に放映されたの番組のタイトルは「人を衛(まも)る都市をめざして ~後藤新平・帝都復興の時~」というのもので、日清戦争後の台湾統治や関東大震災後の東京復興に力を尽くした後藤新平が取り上げられていた。

もともと後藤新平は医師として生涯を歩み始めたが、とくに内務省衛生局に勤務したことから、日本の医療行政に深くかかわるようになったようである。とくに日清戦争後の帰還兵の検疫業務に卓越した行政手腕を見せ、それを台湾総督となった児玉源太郎に見込まれたところから、1898年(明治31年)3月台湾総督府民政長官として赴任することになった。ここから、都市経営や植民地行政に深くかかわり始めたようである。このときに後藤新平たちがかかわった台湾統治行政の恩恵は、今日に至るまで台湾人、日本人にも及んでいる。

そして、東京市長時代には、壮大な都市計画の策定にも取り組んだらしい。その後関東大震災が起きてからも、後藤新平は震災後の東京市の復興にも内務大臣兼帝都復興院総裁として陣頭指揮を執った。帝都復興計画についてはいくつかの計画案の変遷があったらしいが、もともとの復興原案となったといわれる「甲案」によると72メートル幅の幹線道路が計画され、また、隅田川には壮大な親水公園(隅田公園)が計画されていたという。

しかし、彼の原案は当時の多くの政治家や大衆からも理解されず、支持も得られなかった。そして、彼は多くの妥協を強いられ、財界からの反対もあって、当初の計画は縮小せざるを得なくなった。もし当時の財界人や政治家たち、行政担当者に優れた先見性と決断があったなら、そして、それを支持する大衆に相応の見識があったなら、今日の東京の交通渋滞や超過密と家屋や家賃などの不動産関連価格の高騰が、ここまでひどく都民を苦しめるものにならなかっただろう。

もし後藤新平の原案がそのまま実行されていれば、その後今日に至るまで東京都民の享受しうる幸福は計り知れないものになっていただろう。持ちたい者は先見性ある先祖である。それでもまだ、後藤新平たちがいたからこそ、そしてまた、曲がりなりにも彼の弟子たちによって受け継がれ実行された区画整理などによって、今日の東京もその最悪の事態を回避できているといえるのかも知れない。

それにしても、やはり感慨深いのは、明治という時代の産んだ人物の偉大とスケールの大きさだろうか。後藤新平という逸材を見出した陸軍参謀長の児玉源太郎もそうなら、後藤新平が1906年、南満洲鉄道初代総裁に就任して満洲経営に乗り出したときにも、後藤新平は中村是公や新渡戸稲造などの台湾時代の人材を多く起用して、優れた都市計画を実行している。そうした功績は、ただに東京のみならず、中国の大連や台湾などにも今日に至るまでかけがえのない恩恵として残されている。驚くべきは明治という時代が産んだこれら日本人の群像である。

ちなみに、後藤新平の後を次いで後に満鉄総裁になった中村是公は夏目漱石の親友であり、彼の招待を受けて満州を訪れた漱石は、「満韓ところどころ」という文章を残している。しかし、残念ながら、そうした逸材の働きにもかかわらず、当時の政治家や大衆の倫理感覚や見識、能力には、今日に至るまで大して進歩も見られないようである。返す返す悔やまれることではある。後藤新平の遺言のような言葉を、今も彼の記念館のサイトで聴くことが出来る。

地方自治にも深い見識を示していた後藤はその精神を、「自助、共助、公助」というモットーにも示している。

後藤新平の声
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/voice.html

 

 

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理論と実践

2008年05月20日 | 歴史

このブログの記事の中には、いくつかの独自の見解が含まれていると思う。とくにヘーゲルの概念論については、マルクスや「唯物論者」たちなどによって浅薄に誤解された概念観を訂正して、ヘーゲル自身のありのままの概念観を把握しようとつとめた。私の知る限りでは、これまで日本の大学教授や哲学者の中にも、まだ誰も私の示したような概念観を展開した者はいないように思う。

もちろん、それもまだ極めて未熟で内容も不十分であることはわかっているけれども、根本においてはこれまで誰も示さなかった独自の新しい解釈を示しているとは思う。この「概念」についての研究の充実と深化は引き続きこれからの課題でもある。

政治理論の面でも、自由主義者の集結する自由党と民主主義の思想に生きようとする者の集結する民主党によって、理念実行実現型政治に転換することを主張しているのも独自の見解だと思う。自由党と民主党による政権交代可能な政党政治については誰もが着想しそうなことだが、それを明確に定式化して主張した者はいなかったのではないだろうか。考え方や原理は単純であるけれども、それを理念として自覚し、実行してゆく意識と能力をもった政治家が出て来ないだけだ。また世界と日本の歴史的な方向としてはそれしかないと思う。

そして、自由と民主主義の理念を深化させながら、人類は少しずつ自己を解放してゆく歴史になるのだと思う。

19世紀、人々は共産主義革命に、未来の明るい生活の展望を見いだそうとした。しかし、人類の解放を目指したこの運動も一世紀も経たぬうちに完全に挫折する。その後をうけて、フランシス・フクヤマの『歴史の終焉』という本も出たが、人類の将来は、自由と民主主義を模索しながら、その方向に進んで行くと思われる。理念としての自由と民主主義の必然性の解明が課題である。とくに、民主主義の否定的な限界こそ明らかにする必要がある。民主主義をただに「信仰」することなく。「信仰」にはすべからく注意深くあらねばならない。

 

 

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業平卿紀行録6

2008年04月17日 | 歴史


業平卿紀行録6

その後に嵯峨天皇の跡を継いだ異母弟の淳和天皇とその子恒貞親王は、やがて嵯峨天皇の子である仁明天皇と皇位の継承をめぐって対立することになる。淳和天皇の跡を継いだ仁明天皇は、はじめは淳和天皇の子恒貞親王を皇太子としていたが、仁明天皇の女御はそのとき権勢を誇っていた藤原北家の冬嗣の娘順子であり、その兄が良房だった。良房は妹の子すなわち甥の道康親王を仁明天皇の後継に皇位を望むようになる。

このとき淳和上皇とその子恒貞親王に組みしていたのが大伴氏と橘氏であった。嵯峨上皇が亡くなられたあと藤原北家の良房は、恒貞親王を擁立しようとした大伴氏や橘氏たちと争うことになる。

このとき業平の父である阿保親王は、かって自身が連座した薬子の事件に懲りていたのか大伴氏や橘氏に組みせず、藤原良房や嵯峨天皇の后である橘嘉智子に通じたらしい。その結果842年(承和9年)擁立を阻まれた恒貞親王は太子を廃され、その後出家して嵯峨大覚寺を創建したという。これがいわゆる承和の変で、この変の後、藤原良房の妹の順子の子道康親王が文徳天皇として嵯峨天皇の跡を継ぎ、やがて藤原良房は摂政となった。こうして藤原良房は天皇の叔父として外戚となり、大伴氏、橘氏、紀氏などその他の名族を押さえて権勢をかためてゆく。

大化の改新以前は天皇家は蘇我氏との姻戚関係によって蘇我氏の血筋を引くことになったが、大化の改新以後は、先の桓武天皇のお后藤原乙牟漏に見られるように、藤原氏との姻戚関係によって天皇家は藤原氏と祖先を共通にするようになる。

ちなみに、このときの嵯峨天皇は空海と並ぶご三筆のひとりとして知られ、また承和の変に連座して伊豆に流された橘逸勢もこの三筆のひとりに数えられている。そして、この阿保親王の子が在原業平であり、業平は文徳天皇の第一皇子である惟喬親王に仕えた。そして、文徳天皇の子清和天皇の女御が藤原高子である。

古今和歌集の中に六歌仙として取り上げられている在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、小野小町はいずれも仁明天皇、文徳天皇、清和天皇の御代に宮仕えをし、とくに、僧正遍昭は仁明天皇の崩御に殉じて出家したものであり、この仁明天皇は深草の御陵に葬られて、小野小町らともゆかりの深い帝として知られている。

 




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業平卿紀行録5

2008年04月16日 | 歴史

業平卿紀行録5

朝廷では天皇家や藤原氏を取り巻く皇位をめぐる争いははげしく、天智天皇や天武天皇の御代以前も以後にも絶えなかった。また桓武天皇の即位すらすでに皇位をめぐる権力争いの様相を呈していた。今も昔も政治には権力をめぐる暗闘には事欠かないということである。と言うよりも、権力をめぐる闘争こそが政治に他ならない。それが古今東西にわたる普遍的な人間的な真実なのだろう。

桓武天皇が即位された頃にも、勢力を広げた藤原氏内部の間にも、とくに式家と北家との間には皇位の継承をめぐって争いが絶えなかった。式家の祖は三男の宇合、北家の始祖は次男の房前、いずれも藤原不比等を父とする。そして不比等には天智天皇の落胤という説もあるらしい。

百済王を祖先にもち、身分もかならずしも高くはない高野新笠を母としていた桓武天皇が、それにもかかわらず皇位を継承することができたのも、藤原北家に対して勝利をおさめた藤原式家の後援があったためと考えられる。

桓武天皇が即位してからも天皇家の外戚の地位や皇位をめぐる争いは絶えることはない。桓武天皇の第一皇子である平城天皇は、病弱であった上に、しかもご自分の妃の母である藤原薬子を寵愛したゆえに桓武天皇に疎んじられた。そのためもあったのか桓武天皇は弟の早良親王を太子に立てていた。

しかし、この早良親王は長岡京の造宮使として新京建設の責任者であった藤原種継を暗殺した嫌疑で捕らえられ、淡路島へ配流される途上に無実を訴えながら死んでいったという。平城天皇もこの事件に無関係ではなかったらしい。この早良親王の御霊を鎮めるために造営された神社が上京区にある上御霊神社であるという。

そして暗殺された藤原種継の子供が仲成、薬子の兄妹だった。この兄妹は平城天皇の異母弟である伊予親王とその母吉子を謀反の嫌疑で自害させる。また、平城天皇の寵愛を得て、天皇とともに平城京にふたたび遷都を図ろうとして兵を挙げるが、結局は弟帝の嵯峨天皇に阻まれてその望みを遂げることはできず、平城天皇は出家し、仲成は殺され、薬子は毒を飲んで死んでしまう。これが薬子の変と呼ばれる事件である。

この事件に関与した咎で、平城天皇の第一皇子である阿保親王は、810年(弘仁元年)に大宰権帥に左遷される。また、第三皇子の高岳親王は皇太子を廃され、出家して弘法大師の弟子になる。この親王は仏教の真理を求めて入唐し、さらに天竺にまで赴こうとして消息がわからなくなったという。

この嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にもって生まれたのが在原業平だった。その血脈から言えば業平は嵯峨天皇の第二皇子であった仁明天皇やその子文徳天皇に劣っていたわけではない。むしろ桓武天皇につながる天皇家の嫡流に属していたといえる。しかし父祖たちの事跡が業平の生涯に深く影を落としていることを思うと、個人が引き継がざるを得ない宿命というものを考えざるを得ない。

嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にいただいたがゆえにこそ、当時の権勢家藤原一族からは遠く、権力の中枢からは外れざるを得なかった。おそらくそうした鬱屈した思いが、業平の生涯に特別な色相を添えることになったにちがいない。

 

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業平卿紀行録4

2008年04月15日 | 歴史

業平卿紀行録4

その後中臣の鎌足は、娘たちを天皇家の後宮に送り、天皇家の外戚となることによって権力を確立していったのであるが、これは彼らが滅ぼした蘇我氏の一族が勢力を強めたのと同じやり方だった。ここではこの歴史的な事件の背景、その経済的なあるいは政治的な動機などについては、深く論じることはできない。ただこうした政治的な事件をきっかけにして、今日的な用語で言えば、天皇を中心とした天皇全体主義とでもいうべき政治経済体制が確立されてゆくことになったのは事実のようで、それまでにも中国や朝鮮から多くの文物を手に入れてはいたが、遣唐使などの派遣も制度化されて、中国の国家体制に倣って、日本における律令国家体制がさらに整備されてゆく。

桓武天皇のお后であった藤原乙牟漏の曾祖父がこの中臣鎌子、すなわち藤原鎌足である。この若くして亡くなられた美しい后の父は藤原良継、祖父は藤原不比等である。こうして桓武天皇のお后であるこの藤原乙牟漏に生まれた子供が後の平城天皇と嵯峨天皇および高志内親王である。

この平城天皇は幼児期をそこで過ごしたためだったのか、父の桓武天皇が長岡京、平安京と遷都した後も、奈良の都を恋しく思ったのだろうか、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した後にも、上皇となって旧都の平城京に戻りそこに住んだ。そして、新しい都平安京に住む弟帝の嵯峨天皇から復権を企て、ふたたび奈良の京、平城京に遷都しようとして平城上皇が弟帝と争った事件が薬子の乱であった。

こうしてみると、ふだん散歩の途中にも、その前をただ何思うこともなく通り過ぎていた后藤原乙牟漏の高畠陵を思い出すとき感慨深いものがある。歴史を知るということはこういうことなのかも知れない。「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と『続日本紀』に記され、わずか三十一歳の若さでなくなったこの后の残した二人の兄弟、安殿親王、神野親王がその後に遷都をめぐって地位を争うようになることなど、このお后のご生前には知るよしもなかっただろう。

 

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業平卿紀行録3

2008年04月14日 | 歴史

業平卿紀行録3

一昨年の秋に、この十輪寺からもさほど遠くない大原野神社を訪れたときには、昔に読んだことのある伊勢物語をあらためて取り出したり源氏物語のことを思い出したりして少し調べてみた。そして、この洛西地域一帯が、とくに大原野と呼ばれるあたりは伊勢物語や源氏物語などにもゆかりの深いところであることもわかった。また、比叡山に延暦寺を創建した最澄や高野山の弘法大師空海が入唐したのも、業平のまだ生きていた頃と同じ時代であることもわかった。

平城京から長岡京、さらに平安京へと遷都の繰り返されるこの激動する時代の背景は調べてみるとなかなか面白く、学生時代に学んだ日本史が本当に通り一遍のもので「歴史を学ぶ」ということからははなはだ遠かったことが悔やまれた。

しかし後悔は先に立たずで、これをきっかけに自分なりに少しでも日本史のおさらいをしておくことにした。そうすれば、これからも歴史的な遺跡を見ても視点も定まり、またそれらを観る眼も違ってくると思う。これから歴史を考える上で必要な前提になる。

日本の古代史で大きな歴史的な転換点となったのは、大化の改新である。大化の改新を拠点としてその後の日本史の基礎が据えられたともいえるからである。この歴史的な事件のきっかけになったのは西暦645年に起きた「乙巳の変」だった。

ときの中大兄皇子とその家臣である中臣鎌子の二人は、当時の政権を掌握していた蘇我入鹿を暗殺して蘇我一族を滅ぼし、それに取って代わってそれぞれ天智天皇、藤原鎌足として権力の中枢に上り、改新の詔を発して、あらためて帝道を唯一のものとして天皇制を確立した。また、帝を補佐する臣下の筆頭として藤原氏の地位を確立することによって、その後の政治体制の基礎を築いたからである。

 

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沖縄問題と新日本国軍

2007年10月15日 | 歴史

沖縄問題と新日本国軍

先の記事(「旧日本国軍の総括」https://is.gd/d1UrqO)で、pfaelzerweinさんより、以下のようなコメントをいただきました。昨日はブログを覗かなかったせいもあり、返事が遅れました。また、雑用で十分な時間がとれなかったこともあり、正確な必要十分な応答になっているかわかりません。ただそれでも、各論点ごとについて、とりあえずのご返事だけでもしておきたいと思います。
さらに論点の深まることを期待します。

①pfaelzerweinさんのコメント

沖縄問題を通した見解 (pfaelzerwein)
 
2007-10-14 17:07:43
 
A
ここに示されているのは、沖縄問題を通した、戦後処理への見解と、その国家観と思われます。

幾つかの疑問点を議論のために手短に挙げておきます。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」のが事実でないとするのがこの問題の端緒ですね。つまり、本土民と琉球民の視点の差です。つまり、同じような差を朝鮮人や台湾人に認めるかどうかの疑問ともなります。そのような視点の根拠は何処にあるのか。その国家とは、民族的なものなのか、歴史的なものなのか、それとも?
B
「完全に民主化された新日本国軍」は、民主的な日本国とその機構に準拠しなければいけませんが、その民主性は、「名誉の死」に殉じた人や当時の軍人や旧日本軍の名誉を一切認めない事ではないのか?つまり、歴史的な敗北を帰した責任こそ問われこそすれ、イスラムテロリストと変わらない国家主義に身を投じたもの達を賞賛するのは誤りではないか?そこでは犠牲となった幾多の個人を指すのではなく、その各々の集団を指す場合、虫けらのように殺害された敗者達を尊敬するべきだろうか?

C
もし、当時の国家主義を根拠にそれを認めるというならば、それを根拠にした朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題をどのように捉えるのか?

D
「日本社会党の非武装中立政策を現実的ではない」のと同じように「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」もただの夢想ではないのか?

E
そもそも、「高貴な犠牲的愛国心」こそ国家主義の賜物で、こうした国家主義を肯定する姿勢は民主主義に相反しないのか?歴史を顧みて尊重する姿勢を採るならば、戦後民主主義体制こそそれまでの歴史を総括したものであり、それを蔑ろにして歴史を顧みる価値はないのではないか?

F
最後にこの問題への私見を加えますと、沖縄は現在も米軍基地問題を主要な政治主題としているようですが、それならばその彼らの理想は、日本国軍の駐留なのか、台湾軍なのか、中共軍なのか?今でも、戦略的に見て米軍が最も信用出来る好意的なパートナーであるように思うのですが、どうでしょう。


②私の考え
A
この問題については、歴史をどう見るかですが、「現代人の視点、価値観をもって、過去の歴史を断罪するようなことがあってはならない」ということが眼目です。

大日本帝国憲法下の日本国統治についても、民主主義の観点、立憲君主制の観点からいっても、その立憲性の民主主義的性格にきわめて大きな欠陥があったのは事実であろうと思います。それゆえにこそ、軍部の独走を抑止することも、開戦を回避することもできませんでした。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」
というのは事実としてそうであったということであって、それについての価値判断は別です。

旧日本国軍隊は、天皇制全体主義の体制で「一心同体」であったので、その性格は、民主主義の観点からは、軍隊の統帥権が首相に属していないという限界がありました。

大日本帝国憲法下の行政を、戦後の日本国民が民主主義の概念から批判的に総括していないこと、その能力のないことが問題であると思います。それが、沖縄問題や台湾問題、朝鮮問題に今なお決着をつけられず、清算できないでいることの根本原因であると思います。

なお、理論的には現代国家は民族や歴史をアウフヘーベンしているものです。


B

もっとも端的な例は、互いに正々堂々と戦い抜いた敵に対する敬意と本質的には同じです。
信じる対象や価値観は異なってはいても、それに忠実に誠実に純粋に献身した者に対する敬意です。

C
当時の国家主義を根拠に認めるのではありません。「朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題」を含めて、戦前の国家体制を清算できないでいるのは、現代日本国民と国家の民主主義的な未成熟にこそ問題があると考えています。


D
「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」は夢想であるとは思いません。夢想に終わるか現実になるかは、教育と指導者と国民全体としての資質の問題であると思います。

E
戦後民主主義の欠陥の核心は、この戦後民主主義には「国家意識」が完全に欠落していることです。戦後民主主義のこの特異性のゆえに、それが自明に思われています。ここに戦後の日本国民の倫理的な退廃の根源があります。

F

現代日本国の最大の悲惨は、pfaelzerweinさんがおっしゃられているように、沖縄県民にとって日本国軍の駐留ではなく「米軍が最も信用出来る好意的なパートナーである」と見られているこの日本の現状です。


 

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旧日本国軍の総括

2007年10月09日 | 歴史

旧日本国軍の総括

去る九月二十九日に沖縄で十万人の県民が集まって、旧日本軍の強制による集団自決についての教科書の記述変更に反対する集会があったそうである。

当時の戦争に巻き込まれた沖縄の人々が、教科書においては「日本軍の命令によって強制的に集団自決させられた」とか「沖縄県民の集団自決に日本軍が関与した」とか「日本軍に集団自決を強いられた」とか記述されていたのに、「軍による強制」ではなく「集団自決に追い込まれた」というように変更されることになったことが問題の発端らしい。

そのことについて沖縄県民の中に反対している人が少なくないらしいけれども、正確にどれだけの数の沖縄県民が反対しているのかわからない。しかしこれは多数決の問題ではない。

今なおこうしたことが問題になるのは、この沖縄県民の「集団自決」の問題のみならず、かっての太平洋戦争そのものがいまだ国家的なレベルでもきちんと総括できていないからだと思う。相変わらずの国民性でないだろうか。いつまでも、旧日本国軍の悪弊を感情的に批判していても、あまり生産的ではないように思う。

総力戦が戦われていた当時の沖縄で、その過酷な軍事情勢の下において、非戦闘員である県民がアメリカと旧日本軍の戦闘行為に不本意ながらも巻き込まれ、そのために多くの人々が命を失うことになった。命を失うのだから不本意でないはずはないが、しかし、当時の沖縄県民も敵国アメリカに対する愛国心に燃え、旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていたことが想像されるのである。もちろん、戦争という過酷な状況だから決してきれい事だけには終わらなかっただろう。

それを戦後六十年たって、当時を知らない若者たちが、「軍隊が県民を強制して自殺に追いやった」とか言う。しかし、そのような観点で見るならば、それは単に沖縄県民のみならず、赤紙一つで徴兵され、過酷なジャングルでの戦場で命を失った多くの兵士たちばかりでなく、また、勤労動員で働いていたときに原爆を投下されて死に至った中学生たちも、要するに兵隊に駆り出された日本国の青年のほとんどが強制的に国家と軍隊によって「死に追いやられた」ということになる。

しかし、共産主義者などの一部を除く当時のほとんどの日本国民は、愛国心に燃えて「自発的に」敵国アメリカとの戦闘に参加したのだと思う。そして、たとえ国家による「命令」としても、多くの国民は国家のために従順に、むしろ多くの青年たちは誇りをもって敵との戦いに従ったのだ。むしろそれが真相ではないだろうか。それを自らの国家に対する誇りすら失ってしまった現代の人間が、自分たちの価値観を彼らに押しつけて、自決を強制されたなどといって「名誉の死」に殉じた人たちをおとしめているのではないのか。


そこには当時の日本人が一般にもっていた「生きて虜囚の辱めを受けず」といった死生観が死を軽いものとしたこともあると思う。近代の戦争についての無知や旧日本軍の教育の欠陥もあったと思う。ただ、そこに軍人による直接の命令があったのかどうかといっても、現代の戦争が根本的には国家間の総力戦である以上、国家による何らかの「強制」が働かないということはあり得ない。その状況は日本であれ、アメリカであれどのような国家も同じである。

そうした過去の厳粛な歴史を、後世の人間が「後知恵」で批判しても、正しく歴史を考察することにはならないと思う。また「集団自決の強制」が真実であるかどうかは当時の軍人や旧日本軍の名誉に関わる問題ともなる。

そのような歴史的な事実について、最近の沖縄集団自決冤罪訴訟による影響もあったのか、真実が明らかにされるなかで、高校教科書の記述の変更に影響をおよぼしたらしい。

「日本軍による集団自決の強制」の記述の変更についても、犠牲になった沖縄県民が軍隊命令によって強制的に集団自殺したことにすれば、軍属の死として戦後の遺族補償も得られやすくなるために、当時の守備隊長がそれに同意したということもあったらしい。


沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page018.html


しかしいずれにせよ、二十一世紀の現代においても、世界には多くの国家がそれぞれ独立して存在し、互いの国益を主張しあうような今日の人類の進化の状況にあっては、軍隊を完全に撤廃することはできないし、現実的ではない。

このことは、わずか六十年前の太平洋戦争の開戦時も、二十一世紀に入ったばかりの今日においても、その「厳粛な」歴史的事実には変わりがない。ただ狂信的な「平和主義者」だけが、不可能であるその現実を直視することができず、いつまでも盲信から自分を解放することができないでいるだけである。


現在のような人類の段階で、世界の諸国家がそれぞれ独立して排他的な対外主権を互いに主張しあうような世界史の段階において、国家が軍隊を否定したり放棄するということは現実的ではない。そうした選択をするとすれば、それはその国民が愚かで成熟した判断をもてないでいるからであると思う。


国家がその軍事的な実力を保持して、国家主権を完全に確立していない場合には、自国民が他国家によって拉致されるといったことが起きる。北朝鮮による日本国民拉致事件がそれを端的に証明している。旧社会党の非武装中立論者たちこそ「日本人拉致被害」の責任の一端の担うべきではないか。自衛の軍事行動すら否定する教条的な日本国憲法擁護論者や非武装中立論者たちは横田めぐみさんたちの涙の責任をとれるのか。

戦後の日本国民が、国家や軍隊に対して少なからずアレルギー症状を示すことにも無理からぬ面はもちろんある。日本は第二次世界大戦で、連合国軍に完膚無きまでに敗北し、しかも、その日本帝国軍隊が必ずしも民主的ではなく専制的で、封建的な階級意識をきわめて色濃く残した陰湿な面をとどめていたこと、また、軍隊組織が抑圧的で事大的で非人間的な軍人も多かったのも事実だろう。そのために一般国民が少なからず軍隊や軍人に反感的な感情を持つことになったとしてもやむを得ない。しかし、それもまた日本人自身の国民性の反映でもあったのだ。

しかし、あの戦争からすでに半世紀以上も経過しているのに、今日もなお、いつまでも国民が自らの国家と軍隊に対して不信と拒絶の感情をすら克服し得ていないとするならば、それは健全なことではない。それは指導的政治家たちの怠慢のせいでもあると思う。国家と国民の安全と幸福ために、一身を犠牲にして働く軍隊と軍人を尊敬できない国民は不幸である。

そのためにも過去の旧日本国軍の否定的な側面を全面的に客観的に批判的に総括するとともに、その一方で、たとえば、かっての神風特別攻撃隊に志願した青年たちの高貴な犠牲的愛国心は、今日においても限りなく貴重な価値あるものとして、その意義は正しく評価するべきだと思う。かっての旧日本国軍のもっていた崇高な精神的な遺産を、戦後の民主主義的な愛国心と結合することによって復活させてゆかなければならない。

国民が子供じみた軍隊アレルギーにいつまでもとらわれていれば成熟した完成した国家を形成することはできない。そうしたアレルギーから正しく治癒され解放されてゆく必要がある。

完全に民主化された新日本国軍が、専守防衛に徹することは、日本国民が完全な民主主義的な自覚をもった国民である限り、それは自明の前提なのである。

いつまでも、沖縄での旧日本国軍の「悪弊」を中途半端に批判にさらしておくのは生産的ではない。かっての旧日本国軍の参謀本部の作戦指導上の過ちや、陸軍と海軍の縦割りによる縄張り意識による作戦指揮系統の不統一による軍事戦略上の失敗や、また、それとも関係するけれども、満州国の関東軍における一部軍人の「暴走」などになぜ首相の指揮権が発揮できなかったか、(これは統帥権が天皇直属で、首相にはなかったことなどがある)などといった、かっての旧日本軍の犯した多くの失敗や否定的な側面があるはずである。

それを、戦争原因や戦争回避などもふくめて、国会は全国民的なレベルできちんと歴史的に総括し、その報告書を全国民に提示すべきだろう。旧日本国軍をただ全面的に否定しさることなく、たらいの水と一緒に貴重な赤子を流してしまうことなく、民主主義の観点から、その意義と限界をきっちりと総括して、それを民主主義国家の新日本国軍において再生してゆかなければならないのである。

 

 

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『私は貝になりたい』

2007年08月26日 | 歴史

『私は貝になりたい』

先日の23日の夜に、おそい晩食をとりながら何気なくチャンネルを回すと、俳優の中村獅童氏が旧日本軍の陸軍兵士の姿で演じていました。はじめは、それがどういうドラマであるのよくわかりませんでしたが、見ているうちに、このドラマが、はるか昔にフランキー堺と新珠三千代らの主演で映画化されて評判になっていた『私は貝になりたい』のテレビドラマ・バージョンであることが分かりました。映画は昭和34年(1959年)に製作され、当時にも多くの人の話題に上っていた記憶があります。ただ当時まだ子供でしたから、その映画の内容にまでは思い及びませんでした。


残念ながら最近のテレビ番組では面白いドラマに行き当たることは少なくなったと思います。多くのテレビ局は、知恵も手間もかからない安易なグルメ番組やエロ・グロドラマでお茶を濁しているからです。面白い本格的なドラマを制作するだけの労をとることを、テレビ局の制作者たちは厭っているからです。だからテレビを見るのも、ニュース番組かドキュメント番組が主にになりつつありますが、さきに女優の竹内結子との離婚話で話題になっていた中村獅童の主演するこのドラマはなかなか面白くて、珍しく最後まで見ました。

途中から見始めたので、しかも、はじめのうちは漠然と見ていて、それほど集中もしていなかったので、内容は良く分かりませんでした。それで、日本テレビの番組紹介や『ウィキペディア(Wikipedia)』などを見てみると、この原作の作者である加藤哲太郎氏の生涯の概略などもすぐに分かります。それによると加藤哲太郎氏の父である加藤一夫氏は春秋社の創設にもかかわったアナーキストだったということです。そうした知識や情報を部屋にいながらにして瞬時に手にできるのですから、インターネットが普及して本当に便利になったものです。

映画では、主人公の加藤哲太郎をフランキー堺が、妻となる倉沢澄子を新珠三千代らが演じていたようです。これらの俳優の名前は私たちの世代には懐かしいものですが、この映画『私は貝になりたい』は加藤哲太郎氏の書いた小説の「原作」に比較的に忠実であるそうです。今回のテレビドラマの場合は、小説の原作の内容よりも、加藤哲太郎氏本人の実際の人生の体験により忠実に脚色されているようです。

加藤哲太郎氏の書いた小説では、主人公は上官の絶対的な命令にしたがって捕虜を殺害し、その罪を理由に絞首刑にされることになっています。しかし、実際には加藤哲太郎氏は捕虜を殺すことはなかったし、絞首刑にされることなく、英語塾を開きながら戦後も生き延びたそうです。だから映画よりもテレビドラマのほうが、処刑をまぬかれた加藤哲太郎氏個人の実際の体験に忠実なドラマ構成になっています。


加藤哲太郎氏が自分の体験をもとに書いた「小説」に忠実か、あるいは、加藤哲太郎氏自身の実際の「個人史」に忠実かという違いはあっても、フランキー堺の映画にも、中村獅童のドラマにも伝えられている基本的なメッセージは同じものです。

それは、大きくいえば、戦争の残酷さと不条理さであり、また、人間そのものが持っている深い闇です。平和な時代においては、そうした人間の原罪とでもいうべき傾向は隠れていて表面に現れてくることはありません。しかし、戦争などという極限状況で、人間の悪やエゴイズムをとことん体験した人々は、ときに絶対的な人間不信の絶望に陥り、「生まれ変わるなら『貝』になって生まれ変わりたい」とまで主張するようになります。おそらく、この言葉も加藤氏が実際に獄中かで「戦犯」の誰かから実際に聞いた言葉なのかも知れません。


こうしたドラマを見てあらためて、現代の国家が巻き込まれる戦争の本質を問うこともできます。「イラク戦争」やビン・ラーディンとの対「テロ戦争」、北朝鮮やイランとの核兵器所有をめぐる現代史の特殊な問題など、今なお、人類は戦争の呪縛からは完全には解放されていません。

また、ドラマとは直接関係はありませんが、靖国神社に祭られている「A級戦犯」をめぐって、中国や韓国からの抗議によって、事実上現在の日本の首相に靖国神社参拝の自由は失われています。さきにアメリカの下院でも、いわゆる「従軍慰安婦問題」をめぐる決議もあったばかりです。

そもそも、「A級戦犯」という言葉、概念自体が、世界大戦の戦勝国であるアメリカや連合国の政治的な立場にたつた価値観であり、この概念はそうした歴史観とは切り離せません。「A級戦犯」として絞首刑にされた人々ばかりではなく、捕虜収容所やバターン行軍などにおいて捕虜を連行し、虐待した罪で多くの人々がBC級戦犯として処刑されました。このドラマの主人公のような「BC級戦犯」など処刑した、いわゆる東京裁判の正当性については、インドのパール判事もかって主張したように、さまざまな批判と論争があります。BC級戦犯の中には、当時の日本軍人が軍事関係の国際法に無知で捕虜の取り扱い方なども教育されてもいなかったことも被害を大きくしたとも思われます。

いずれにせよ、旧満州国からの開拓民たちの逃避行で、ロシア兵や中国人の略奪、暴行、強姦などの極限状況を体験した者や、とくに戦争などの極限状況を経験することによって、人間性について絶対的に絶望し、このドラマの主人公のように、人間にではなく「貝に生まれ変わりたい」というほどの人間不信が生まれるのもやむを得ないのかも知れません。またそれは、とくに日本人だけが残虐であるといったことではなく、特定の個人や国家、国民の問題ではなく、一定の状況下においてはほとんど必然的に発生する、人類に本質的で普遍的な犯罪性の問題であるともいえます。

そうした体験からさらに、人間の眼から見て「不条理」な現実をそのまま放置する神への絶望や、その事実に絶望して信仰すら失い、そこから無神論を自己の信念に転向するということも当然に起こりえます。

それに万が一にも先の世界大戦に日本が勝利していれば、マッカーサーやトルーマンはまぎれもなく日本軍によって処刑されたでしょう。彼らも「人道に反する罪」によって裁かれ、彼らも首をくくられることになったに違いない。そうしてお互いの裁判官席と被告席とを入れ代えることとなったでしょう。

アメリカ空軍による東京大空襲のような、じゅうたん爆撃によって老若男女の一般市民たち非戦闘員に対する焼殺や、広島、長崎の原爆投下にみるように、病院、学校などを含む非軍事施設と非戦闘員の一般市民に対する意図的な大量殺戮が当時の国際法規に照らしても「犯罪」であることは明らかでです。それなのに裁かれたのは、敗戦国日本の軍人たちだけです。
マッカーサーら勝利国の指導者たちは裁かれてもいない。少なくとも原則においては旧日本国軍の攻撃目標は、軍人と軍事施設に限られていた。そして当時にあっては、戦争をはじめること自体は犯罪でも何でもなかった。

旧日本軍の軍隊そのものが本質的にもっていた封建的で事大的で暴力的な組織機構とくらべて、アメリカ軍の組織体制のほうが、より「民主的」で開放的かつ人間的であったことは事実かも知れません。旧大日本帝国の軍隊組織には多くの欠陥や問題の存在していたのは事実でしょう。しかしそれも、質量ともに圧倒的に軍事力に劣っている日本軍がアメリカ軍との対抗上、精神主義を強調せざるを得なかったという側面もなかったとは言えません。

また、ドラマとは直接関係はありませんが、その延長線上の問題として、「戦争や核兵器は、絶対的無条件に「悪」として否定されるべきものであるか」とか、その一方で、「人間の生命と生存は、いかなる場合にも絶対的に無条件に肯定され確保されなければならないものなのか」といった根本的な問いは残ります。イランや北朝鮮などの核兵器所有など現代史の問題にもつながります。

ドラマでは加藤哲太郎の妻になる倉沢澄子役を飯島直子さんが演じていた。澄子の夫哲太郎に対する献身的な夫婦愛や、優香さんが演じていた妹の不二子の兄に対する兄妹愛は深く一途で、ともに人間性に対する救いと希望を残してくれたようにも思えます。

ただ、こうした現代のドラマを見ていても、戦前の昔から生き抜いた当時の俳優たちの面影を記憶に持つ私たちのような世代の眼には、現代の若い俳優たちが演じる戦前の「日本兵」や「日本の母」になんとなく違和感を感じます。日本人という全体的な「類型」としての「印象」が戦後60年を経てすっかり変質したからかもしれません。現代の日本人には、戦前の教育を受けて育った俳優たちが演じた「日本兵」や「日本の母」たちが持っていた「らしさ」は失われてすでにないからです。アメリカ文化に浸された「戦後」六十余年の長い時間の流れと堆積はどうしようもないようです。

 

 

 

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