美容外科医の眼 《世相にメス》 日本と韓国、中国などの美容整形について

東洋経済日報に掲載されている 『 アジアン美容クリニック 院長 鄭憲 』 のコラムです。

英雄の苦しみ

2014-09-09 13:26:57 | Weblog

韓国人が最も尊敬する歴史上の偉人といえば、ハングル文字をつくったことで有名な李朝代四代王 世宗(セジョン)と並び常にあげられるのが李舜臣(イ・スンシン)将軍です。今韓国で公開され、数々の動員記録を塗り替えている映画「鳴梁(ミョンリャン)」は壬辰倭乱・丁酉再乱(文禄・慶長の役)で朝鮮水軍を率いた李舜臣将軍が勝利を収めた鳴梁海戦を主題にした作品です。 2012年秋に封切られ大ヒットとなった時代劇「王になった男」は道化師が王の影武者を演じながら一国の王としてあるべき姿に目覚め、真の王に変化していく内容でした。当時韓国大統領選挙を前に国民が求めるリーダー像を示したことが国民の共感を呼んだのでしょう。そして今再び、旅客船事故をはじめ国内外の様々な問題に直面し、再び人々は幾度となく困難や危機に直面し苦しみながらも先頭に立ち向かっていく不屈の指導者の姿を映画の中にみたのかも知れません。

李舜臣は1545年3月8日ソウル乾川洞で父李貞と母草溪卞氏の間に三番目の息子として生まれました。特に母草溪卞氏は賢母として李舜臣の成長に大きな影響を与えたとされています。28歳で科挙武官試験を受けますが落第、4年後32歳の遅れた歳で式年武科に合格し任官します。その後も決して順風満帆とはいかず、時に上官から恨みをかい、謀略で罷免されて白衣従軍(重罪を犯した武官に一切の官職と官位なしで軍隊に従って参戦させる処罰)も経験しました。しかし、黙々と任務を果たし徐々に上官や朝廷の信頼を受けるようになり、壬辰倭乱の前年である1591年に全羅左道水軍節度使に大抜擢されました。16世紀末の東アジアは激動の時代と言ってもよく、明、朝鮮ともに政治は不安定で、特に李朝は官僚の派閥争いで揺らいでいました。日本も天下統一はしたものの家臣に与える知行地獲得の必要もあってか豊臣秀吉は1592年朝鮮出兵を命じ、わずか数か月で首都ソウルは占領されます。李舜臣は閑山島沖海戦をはじめ数々の戦いで日本水軍を苦しめ軍功を立てますが、派閥抗争に巻き込まれ失脚、ひどい拷問まで受けたうえ再び白衣従軍の身に落とされます。その後 国の窮地から再び水軍の指揮をとり十二雙の戦船(亀甲船)で10倍以上の敵船を打ち破った鳴梁海戦も率いますが、後の露梁海戦で相手の弾をうけ壮絶な最期を遂げました。「死んでも国を守り続ける」韓国各地にある李舜臣将軍像は全て日本に向かって建てられています。

韓国で大ベストセラーとなり日本でも出版された小説「孤将」(金 薫、新潮社)は、人間 李舜臣の内面の孤独、葛藤を描いた傑作です。その翻訳を手がけた蓮池 薫さんは日韓にある問題について「例外なく歴史をルーツにしたもの。相手の主張に従うのではなく、耳を傾けその背景を知ることが相互間に必要」と指摘します。北朝鮮の現状まで知り尽くした蓮池さんだからこその言葉でしょう。 

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熱中症と日射病と熱を受ける性

2014-09-09 13:22:57 | Weblog

韓国語で熱(ヨル)を受ける(バッタ)と言えば、「頭にくる、むかつく」という意味ですが近年の東アジア圏の猛暑は「頭にくる」どころか体にくる熱中症の危険を孕んでいます。今年の夏も既に韓国、日本でともに熱中症と思われる患者が多く発生しています。実は先日ついに我が家でも約一名(家内です・・)それらしき症状でダウンしました!元々冷房嫌いなうえ、電力不足から原発再稼働を推進しようとすることに対する抗議の意味?かどうかはわかりませんが、先週末の猛暑の中エアコンなしに頑張ったところ、めまいと吐き気を訴えて暫し休戦となりました。幸い、涼しい場所で安静をとり、塩分と水分を十分に摂取させたところ間もなく回復しましたが、本人もびっくりしたようです。

「熱中症」という言葉は最近夏になれば頻繁にニュースでとりあげられ知らない人は少ないと思いますが、私も含め中高年の方々には「日射病」の方がなじみ深いでしょう。医学的には、暑熱環境により体内の水分や塩分のバランスが崩れ、体温の調節機能が効かなくなることで起きる様々な症状を「熱中症」と定義しています。さらに以前は熱中症を障害の病態から「熱失神」「熱けいれん」「熱疲労」「熱射病」と細分化していましたが、最近は言葉のわかり難さや臨床現場での迅速な対応を考慮して、Ⅰ度「現場で対応可能」、Ⅱ度「受診が必要」、Ⅲ度「入院が必要」の3段階に重症度で分類しています。日射病は旧分類の熱射病のうち太陽の光が原因のものを指す言葉で、正式な医学用語というより一般的な表現として使われてきたようです。子供の遊び方や学校活動、人々の生活スタイル、高齢化など様々な要因が病気の表現にも影響しているかも知れません。

明治30年 森林太郎の著書 「衛生新編」(南江堂)の中で、ドイツ語のHitzschlag を熱中症と訳したのが日本でこの言葉を用いた最初です。森林太郎とは、いわずと知れた文豪 森鴎外で、軍医としては陸軍軍医総監、陸軍省医務局長まで上りつめました。脚気の原因に関してはビタミン欠乏説を否定し、陸軍内に多くの死者を出したと後世批判されますが、高温による影響が陽射しだけではないことを示した功績は再評価すべきでしょうか。

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