ショパンとアジアの世紀
今年は「ピアノの詩人」と称されるフレデリック・ショパンの生誕200年を祝して、世界で様々なイベントが企画、開催されているようです。5年ごとに開かれるショパン国際ピアノコンクールも、彼の命日である10月17日前後に、祖国ポーランドのワルシャワで今年第16回大会が予定されています。他の様々な国際コンクールの中でも最も権威のある大会の一つと言われているだけに、世界中のピアニストの登竜門でもあります。また、それだけに審査も厳しく、また審査結果に対する物議も過去に伝えられ、期待に達しないという事で、優勝者該当なしの年も2度ありました。
東洋人の活躍は、第5回大会からで、3位と10位にそれぞれ中国人、日本人が初入賞し、1980年の第10回大会では、ベトナムのダイ・タイ・ソンがアジア人として見事初優勝しています。そして前回の15回大会では、本選出場者12名中8名が韓国、日本、中国からで、入選者も優勝こそポーランド人でしたが、残りは全てアジアの3国から選ばれました。この時、韓国のイム・ドンミン、イム・ドンヒョク兄弟が、2位該当なしの3位入賞で、韓国人初入賞も成し遂げました。また、韓国からら本選に出場したもう一人であるソン・ヨルムさんの経歴が国内の芸術総合学校を出ただけで、留学経験もなく、師事したのも地元の指導者であることが注目されました。それ程 本選進出だけでも困難な大会であることと同時に、韓国内レベルの高さを意味するのかも知れません。
ショパンが20歳の時ウィーンにて、ロシア占領に対するポーランド人の蜂起という事件(ワルシャワ蜂起)が起きます。そして革命軍が鎮圧されワルシャワが陥落したことを知り、絶望と無力感、そしてロシアに対する怒りの中で生まれたのが「革命のエチュード」でした。この時以来、彼は二度と祖国ポーランドの地を踏むことはありませんが、遺言で、彼の心臓のみはワルシャワの聖十字架協会の柱に安置されました。そして今、ショパンの音楽そして祖国への思いが200年を経て、ポーランドから遠くアジアにまで、確実に広がってきたとも言えるでしょう。