有田芳生の『酔醒漫録』

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草薙厚子を擁護する!

2007-09-15 11:01:49 | 事件

 9月14日(金)「参議院選挙でいちばんびっくりしたのは、都はるみがあなたの応援をしたことだよ」政界を長くウオッチしてきた岩見隆夫さんにそう言われたので「そうですか。とてもありがたいことでした」と答えた。すると岩見さんは「天下の都はるみだよ。普通ならありえないことだよ」と続けた。このやりとりを書き忘れていた。国立の一橋大学へ。加藤哲郎さんの研究室で3時間ほど相談事。ヨーロッパやアメリカでの政党行動。2050年の世界のなかでの日本の位置。やはりこれからの日本は北欧型の国家を目指すべきなのかもしれない。政策立案の方向性、小選挙区での候補者活動などで多くの示唆を受けた。かつての面影が消えた国立の駅前を歩きながら遠い昔を思い出す。渋谷から表参道へ。ジムで泳ぐ。新橋に出たところで毎日新聞、朝日新聞の記者から相次いで電話があった。草薙厚子さんが出した著作をめぐって奈良地検と奈良県警による家宅捜索や聴取が行われたことについてである。事件は昨年6月に起きた。17歳の長男が自宅に放火をして、妻子3人が焼死。草薙さんは『僕はパパを殺すことに決めた』(講談社)のなかで、非公開の少年審判や供述調書の内容を詳細に引用した。それが刑法の秘密漏示に当るというのだ。奈良地検が少年の父親などから告訴を受けていたものだ。ここには言論・表現の自由をめぐって深刻な問題がある。しかしどこのマスコミも指摘しないことに父親の問題がある。事件は父親の異常な暴力がきっかけに起きている。少年は本当は父親を殺害しようとしていたのだ。その父親が自己の責任を背負うことなく、草薙さんを告訴した背景には自己保身があると私は思っている。見栄や外聞が自己責任よりも大きいのだろう。

 前妻に対する自分の面子で少年を医師にすべく日常的暴力で受験勉強に駆り立てた異常な様子が調書ではリアルに明かされている。事件の根源がこの父親の人格にあることを無視して少年の動機は理解できない。それが明らかとなったことが耐えられなかったのだろう。社会が事件から何事かを教訓とするには、父親にとってはつらいことだがこうした「事実」を知らせることからはじまる。情報を得たジャーナリストの立場からすれば、知った以上は報じなければならない。ましてや匿名ではなく名前を出して書くことはそこに責任が伴っている。私が準備している単行本『X』について、ある危惧を抱き鶴見俊輔さんに相談したことがある。そのとき鶴見さんは言った。「たとえ訴えられても書きなさい。それが歴史への責任というものなんだ」草薙さんもそうだと思う。ただし情報源との関係で問題はなかったか。情報源には「引用する」ことまでの了解は得ていただろうか。そんな疑問もある。しかし、私はあくまでも草薙さんを擁護する。少年事件の再発を少なくするためには、本来法務当局などが事件の概要を明らかにすべきだからだ。そうした再発防止策を取らない怠慢こそ糾弾されなければならないのだ。ここに産経新聞に掲載された私の書評を紹介しておく。ゲラ段階で少し訂正した記憶もあるが、これは元原稿だ。


 衝撃的な著作が草薙厚子によって誕生した。昨年六月に奈良で起きた事件の全貌はここにはじめて明らかとなる。当時十六歳だった少年は自宅に放火、そのため継母と弟、妹の三人が焼死した。「そんな事件があったな」と多くの人はかすかな記憶を呼び起こすだろう。私たちの社会は再発防止のための深い検討を行うゆとりも意思もなく、ひたすら事件を消費していく。
 
 検察送致とならなければ、少年法の壁によって事件の詳細は闇の中に消え去るのみだ。ところが草薙は取材で得た少年と家族の供述調書を詳細に明らかにすることで、少年のなかで続いていた地獄の実相を次々に再現した。動機の核心となる言葉には驚くばかりだ。

「なんでパパからこんなに殴られたり蹴られたり暴力を受けなければならないんや/何か方法を考えてパパを殺そう/パパを殺して僕も家出しよう、家出をしてから自分の人生をやり直そう……」

 息子が四歳だったときから日常的に暴力を振るってまで勉強を強要した父親。ときにはシャープペンシルで頭頂部を刺し、芯が残るほどだった。その異様な心情の背景には離婚した少年の実母への復讐心があった。医者に育てて見返したいとの思いだ。父親はこの妻と結婚した当日にも殴る蹴るの暴力を行使している。このように暴力を身体化した人間がなぜ育つのだろうか。その解答が本書を読むことで見えてくる。その果てに事件は起きるべくして起きた。

 少年は「殺そう」と思った父が不在の日に放火を実行する。つじつまの合わない行動はいくつも見うけられた。なぜか。草薙は広汎性発達障害だったとする鑑定書を肯定的に受け入れる。もちろんこの障害を持ったほとんどの人は攻撃的でないとしながらも、事件は「この特質によって引き起こされたと考えるのが妥当のように思える」という。異論もあるだろう。しかし議論と検討がなければ、事件の背景は見えてこない。この警世の書を読まずしてもはや少年事件は語れまい。