有田芳生の『酔醒漫録』

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寺山修司のメッセージ

2007-04-30 07:55:23 | 人物

 4月29日(日)都心に向う連休中の電車は昼間でも人が多い。池袋でパソコンを買う二女に付き合う。本屋にでも寄ろうかと思ったけれど、人ごみを避けてすぐに帰宅。反対方向への電車はガラガラ。早稲田と法政の野球を観ていたら居眠り。単行本『X』の取材計画をたてる。木村久夫さんの上官だった方とようやく連絡が取れた。奈良市と箕面市に健在だった。資料を確認。厚生労働省が12回にわたって検討した「子どもの心の診療医」についての報告書を読む。診療を希望しても1か月から5か月、医療機関によっては何年もの待機を求められる。いまや子供たちの「心の問題」の解決が社会的課題になっているにもかかわらず、専門的に従事している医師は何と70人弱だ。法律が変わらなくとも医師の要請は「やる気」になればできること。南アフリカのワインを飲みながら久々にテレビを見た。NHKの「日本国憲法誕生」と教育テレビの寺山修司特集。「待っていても何も変わらない」というのが47歳で亡くなった寺山のメッセージだ。長田弘さんの『本を愛しなさい』(みすず書房)を読む。最初に取り上げているのは詩人のW?H?オーデン。「子どもは大人の親なんだ」とは詩人ワーズワスの言葉。これを引いたオーデンはこう書く。

 わたしたちは成長して、べつの人間になったりしない。おなじ人間が幼児から大人になっていくだけだ。大人とこどものちがいは一つしかない。子どもはじぶんが誰かを知らない。大人はじぶんが誰だか知ってしまった人間だ。じぶんの悩みごとをひとに打ちあけても、それが軽くなるわけでないと悟ったとき、人ははじめて子どもであることをやめるのだ。

 ふと子供のころを思い出すことがある。遠くまで来てしまったものだなというよりも、性格は変わらないなという思いがある。たいして意味のない追想。脈絡なく「追憶」の映画と音楽が蘇る。石原慎太郎都知事に会ったときのことを書いたが、大事なことを忘れていた。特攻攻撃の是非について聞いたとき、わたしは戦術としても無謀で、効果もなかったことを統計で示した。アメリカ側の概略統計によれば、特攻機の命中率はフィリピン戦他27パーセント、沖縄戦13?4パーセントで、トータルすると16?5パーセントである。撃墜されたり不時着した機体が多いのだ。石原さんの認識は、あそこまで追いつめられたから「仕方なかったんじゃないですか」という。そうではなく軍部指導者は残忍な特攻攻撃などを採用すべきではなかった。映画では特攻を命じた大西瀧治郎中将が最後に責任を取って切腹したことをリアルに描いている。石原「美学」はそこにあるようだ。そこには強い違和感があるものの、なぜ特攻隊などというファナティックな戦術が生れ、若き貴重な生命が失われていったかを考えさせられるきっかけにはなる。石原映画についてはこのブログのコメント欄に寄せられてるさまざまな意見をぜひ見ていただきたい。

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石原慎太郎に聞いた

2007-04-29 10:04:13 | 映画

 4月28日(土)テレビでレッドソックスとヤンキースの試合を見ていたら、長女から電話があった。ライトスタンドで観戦中だという。いでたちは松井秀喜の背番号「55」がプリントされたシャツで、腕時計もヤンキースのロゴだ。ヤンキースファンではあっても、やはり日本人。松井と松坂大輔を応援しているようだ。球団広報の広岡勲さんから先日メールをいただいた。2年後に取り壊されるヤンキースタジアムには、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ミッキー・マントル、ヨギ・ベラたちが活躍した古き良き時代の雰囲気があることなどが書かれていた。この球場にぜひというのだが、ニューヨークに行く予定はいまのところ残念ながらない。午後になり新宿へ。連休ゆえに駅のホームは雑踏のようだ。出口に向うにも人ごみで時間がかかる。京王プラザホテルで石原慎太郎都知事にインタビュー。「ザ・ワイド」で放送される「有田が行く」の企画で、「俺は、君のためにこそ死ににいく」について聞いた。ヒロインである鳥濱トメさんとの交流、宮沢喜一総理に国民栄誉賞を鳥濱さんにと薦めたがいとも簡単に断られたこと、現代の若者の問題点などなどと話題は広がった。いちばん聞きたかったことは石原さんの特攻隊観と戦争観だった。「彼らは天皇とか国のために突撃していったんじゃないんです。愛する人たちを守るために出撃したんですよ」という。映画のタイトルは鳥濱トメさんから聞いた特攻隊の事実と真実を忠実に再現したものだという。「必要ないところもあるからいまからでも切ってもらいたいところがいくつかある」ともいう。

 「石原さんのイメージとタイトルから誤解されるところがある」と聞いたところ、怒るわけでもなく、「ほかのタイトルも考えたんだ。〈特攻賛歌〉とかね」というだけだった。わたしは政治家や指導者の責任を聞いた。昭和19年7月にサイパン玉砕、8月にグアム、テニアン玉砕。この時点で戦争をやめていれば、特攻攻撃もなければ、東京?大阪大空襲、沖縄戦、広島、長崎への原爆投下はなかった。「どうですか」と問うと、「そうですよ」と言って強い口調になった。「東条英機だけは絶対に許せないんだ」。「戦陣訓」を作って捕虜になるなという教えを徹底したのは国際法にも違反していたからだ。戦前の日本は天皇を神格化して、いまの北朝鮮よりもファナティックだったとも語った。インタビューが終わり、椅子から立ち上がったとき、頭を下げて「ありがとうございました」と言われたときには驚いた。石原さんの乱暴な発言やタカ派的国家観には違和感を感じるけれど、人間とは多面体だなと思うのだった。紀伊国屋書店に寄って保阪正康監修?解説の『50年前の憲法大論争』(講談社現代新書)を買う。帯には「晋三、この本をよく読んでもう一度しっかり勉強するように 祖父より」とある。渋谷で友人と待ち合わせ、「玉久」で食事をする。「こち」の刺し身が美味。久しぶりにバー「門」へ。いささか飲みすぎたようだ。

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『女ひとり玉砕の島を行く』

2007-04-28 08:59:12 | 酒場

4月27日(金)朝、原稿を書いていたら宅急便が届いた。ユニバーサルから近く発売されるテレサ・テンの「ドラマティック?ベストセレクション」のCDだった。6月2日にテレビ朝日系で放送される「テレサ・テン物語」で流れるテレサの19曲が収録されている。いきなり「時の流れに身をまかせ」なのがいい。6月には東京、神奈川、神戸などでテレサ・テンのトリビュートコンサートが行われる。そこでアグネス?チャンと対談をすることになった。5月から6月にはテレサの露出が多くなる。あれから12年。イヤになるほど時間の流れが速い。単行本『X』の主人公である木村久夫さんの上官に二度目の電話をするものの再び留守だった。もう86歳。早く連絡をつけなければといささか焦る。午後から池袋東武の「イワキ」で眼鏡の調整を頼み、鳩居堂で季節の葉書を買う。今回は「わすれな草」にした。麹町で降りて文藝春秋。資料室でいくつかの雑誌のバックナンバーを閲覧してコピー。タクシーで麻布十番へ。メモ帳を出して住所を確認。目指すべき「白水堂」の看板が見えた。ところがシャッターが下りている。そこには建築工事の張り紙があった。万世飛行場から特攻隊として出撃、生き残った松浦喜一さんにお話をうかがうつもりだった。まずその時間を取っていただくためのご挨拶をするために来たのだが、閉店してしまっていたことに「もしや」と思ったのだった。隣に漢方の永井薬局に入り消息を聞く。和菓子を販売していた松浦さんは83歳。ということは特攻出撃したときは21歳だったのだ。いまもお元気で店の事情で転居していることがわかった。

3070  息子さんに電話、機会を改めてお会いできることになった。和菓子の「白水堂」は一日に一回だけ焼き立てのカステラを販売することでも知られていた。永井薬局では独自に処方している「龍黄散」を買う。この漢方薬局は嘉永三年に営業をはじめている。ペリーが来航する前の世界だ。並びにある「豆源」という店が気になった。揚げたての塩せんべいなどを入手。歩いて六本木ヒルズ。午後6時半からヒルズクラブの「百味庵」で草野仁さんと待ち合せ。文藝春秋の松井清人さん、木俣正剛さん、石井謙一郎さん、そしてフリーランスの笹幸恵さんと会食。草野さんのご招待だ。テレビ界、週刊誌界の四方山話は楽しいもの。笹さんからは5月に発売される『女ひとり玉砕の島を行く』(文藝春秋)を献本していただく。1974年生れの女性が戦場に関心を持ち、実際そこに足を運び、ノンフィクションを書くことはすごい。はじめてのサインをしてもらう。松井さんの表現によれば、いまでは「遺骨収集団のアイドル」だそうだ。わたしの最初の単行本は『現代公明党論』(白石書店)だった。見本ができあがったときの喜びを思い出してしまった。みなさんと別れて石井さんと六本木のバーへ。文春の知人たちが四ツ谷で飲んでいることを知る。石井さんはそこへ向い、わたしは大人しく帰宅。明日の仕事のことが頭のなかを占めはじめている。

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特攻隊の事実と真実(終)

2007-04-27 09:53:22 | 思索
 

4月26日(木)「ザ・ワイド」が終わり、「有田が行く」企画の打ち合わせ。5月に特攻隊を取り上げる予定だ。生き残った特攻隊員にも話を聞こうと思っている。81歳で「日本国憲法を護る」、82歳で「戦争と死」という「遺書」を書いた松浦喜一さんは麻布十番で和菓子屋を営んでいる。松浦さんは1945年6月19日の午後3時、知覧に近い万世飛行場から4機で沖縄へと特攻出撃した。ところが1機はエンジン故障で引き返す。敵のレーダーを避けるため、高度は海上20メートル。悪天候のため、薄井義夫少尉(22歳)の機体は海中に落下、一時的に浮上するが、すぐに空中分解した。しばらくすると隊長は爆弾を海に落とし、機体の方向を変えた。松浦さんも指示に従い、長崎県の大村飛行場に着陸。やがて戦争は終る。このとき事故で亡くなった薄井義夫さんの遺書が、先日宿泊した吹上温泉「みどり荘」にある観音堂に展示されている。大女将の池田ツヤさんは宿を出発するとき、櫨場眞澄さんの『沈黙の四十年 本当に戦争は終わったのか』(文芸社)をプレゼントしてくれた。松浦喜一さんの経験と戦後40年の沈黙を描いたノンフィクションだ。昭和28年生まれの櫨場さんは「みどり荘」に宿泊したことをきっかけに特攻隊に関心を持った主婦だ。池田さんはこの本を手渡してくれるとき、「(櫨場さんは)もうお亡くなりになったんですけど……」と小さな声でつぶやいた。戦場経験者がどんどんいなくなる。誰かがそれを記録しなければならない。単行本『X』への熱情を早く形へと思う。松浦さんは「遺書」のなかでこう書いている。

 
今や戦後五十年と六十年の十年間で政治家の姿が全く違ったものになった感があります。太平洋戦争のことを知らないだけでなく、知ろうと努力する意味すら解らない政治家ばかりになり、それら政治家によって日本の政治が動いている非常に危険な状態に突入しているのです。

3069  神保町を歩く。昨夜御徒町で飲んでいたとき、テレビでかいま見た政治家の「顔」が気になった。昔見た漫画を思い出したからだ。コミックの高岡書店で探すと、あった。『藤子不二夫(A)ブラックユーモア短編集』(中公文庫コミック版)を買う。この主人公の「ヒゲ」を取ると似ているような似ていないような。東京堂書店で新刊を見る。岩波ブックセンターから古書店へ。映画、演劇専門の矢口書店で山田和夫『日本映画の101年』(新日本出版社)を入手。そこには山田氏の経歴が書かれていた。1943年に15歳の旧制中学生だった山田氏は、「決戦」と「学徒出陣」を報じた「日本ニュース」を見て感銘を受け、直後に海軍甲種飛行予科練練習生を志願、44年に鳥取県美保海軍航空隊に入る。終戦時には岡山の倉敷海軍航空隊で水上特攻隊「震洋」の要員だったという。石原映画を見つめる山田氏の心には、ご自身の少年時代の姿はどのように現れていたのだろうか。あとがきには「(ハリウッド映画などとの)『たたかい』の末端に加わったものの責務」「運動のなかに身を置きつつ」という言葉がある。そうか、山田氏に取っては石原映画に対する評論も「たたかい」だったのだ。その立場で映画を見れば、論理的必然として「かのような」文章ができあがるのだろう。映画の試写会会場付近でまれにお会いすることもある山田和夫氏と機会があれば意見を交換したいものだ。

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特攻隊の事実と真実(5)

2007-04-26 08:16:13 | 思索

 4月25日(水)ジムで泳ぎ地下鉄で上野に出る。JRで御徒町。「さかえ寿司」に行くとすでにHBCの中村美彦さんと「コリアリポート」の辺眞一さんがカウンターで飲んでいた。あれこれと情報交換。その合間にも辺さんは携帯電話で呼び出しが多い。拉致問題で朝鮮総連関連施設に警視庁公安部による捜査が入ったことと、北朝鮮での建軍パレードについてのコメントだ。渡辺秀子さんと2人の子供の拉致は34年前のこと。いまさら関連組織を捜査しても何も出て来るはずはない。そもそも事件の全容はわかっていたこと。それを「いま」明らかにして捜査に入ったことは、安倍晋三政権の強い意向がある。北朝鮮に対しては拉致問題で前進がないならば、朝鮮総連を潰しますよというメッセージであり、総理初訪米への主張でもある。世論調査で安倍政権の北朝鮮政策には8割の賛成がある。そうした背景のもとで、7月の参議院選挙を意識した一連のうごきなのだ。「週刊朝日」が書いた長崎市長暗殺事件記事に対して「(報道が)本当なら総理をやめる」などと異例のコメントを出したことにも、彼の素顔が現れている。一国の総理が一週刊誌記事にここまで過敏に反応するのはどうか。テレビ各局の収録があるというので辺さんは先に店を出た。しばらくして中村さんと別れ、池袋駅に着いたところで辺さんから電話。もしかしたら神保町の「人魚の嘆き」にいると思ったようだ。もより駅の書店で加治将一『幕末維新の暗号』(祥伝社)、弘兼憲史『専務 島耕作』『ヤング 島耕作 主任編』(講談社)を入手。

 日本共産党の理論政治誌「前衛」(5月号)に映画評論家の山田和夫氏があきれた映画評を書いている。タイトルは「特攻隊員たちは笑って死んでいったのか?」。サブタイトルは「石原特攻映画のおそろしさ」とある。この山田氏は「赤旗」(4月5日付)で、石原映画(「俺は、君のためにこそ死にに行く」)は「戦争を美化し肯定する」ものだと発言していた。そしてさらには「山田氏のことだ」と党本部内で言われている匿名筆者「反」が、やはり「赤旗」(4月17日付)で、わたしを名指しで批判した。この日記で石原映画を「とてもよくできた」「見事な反戦映画」で、「本人(石原都知事のこと)の意図からは独立して作品は独り歩きする」と書いたことに、ここでも根拠をいっさい示すことなく、映画は、戦争を美化しただけではなく肯定しているのだというのだ。わたしは映画を見て何度も涙を流したひとりとしてとても驚いた。映画が山田氏のいうように「戦争を美化し肯定する」ものならば、わたしの涙は「戦争を美化し肯定する」涙になるからだ。ヒロインの鳥濱トメさんを演じた岸惠子さんは、この役を「戦争に反対する」気持ちで演じたと「週刊朝日」で語った。山田氏の論理でいえば、岸さんの努力もまた「戦争を美化し肯定する」ことに協力したことになる。ある女子アナとこの映画の話をした。「泣かなかった?」と聞けば、「もちろん泣きました。出撃するとき、見送りに来ていた父親が機体に駆け寄り頭を下げるシーンです」と語った。山田氏はいちばん最初のマスコミ試写会でこの映画を見ている。スクリーンを見つめる眼と心は「反石原」の憎しみできっと乾いていたのだろう。

 石原映画は本当に「戦争を美化し肯定する」ものなのだろうか。わたしは作品の舞台となった知覧を歩き、関係者から話を聞くことで、このブログに書いたようにタイトルなどに違和感はあるけれども、いまでも肯定的に評価している。そこで山田氏の「前衛」掲載評論を読んで再び驚いた。山田氏は、作品のなかで特攻を宣言した大西滝治郎中将の「若い諸君に死んでもらわなければならない」という台詞の次に特攻隊員が飛び立つところが気にくわないようだ。しかし、これは歴史的事実に関わる部分だ。最初の特攻隊員の関行男大尉の苦悩は台詞にもあれば表情にも明らかである。細かいシーンでの意見はそれぞれあることだろう。問題の核心はイデオロギーで作品を評価してはいけないというところにある。もっとも怒りを感じたのは、鳥濱トメさんが反戦の気持ちを表明していないことを山田氏が厳しく批判したことだ。引用しよう。「今回の石原映画では、トメはひたすら若い特攻兵たちをいとおしみながら、彼らを悲劇に追いやったものには口をつぐんだまま。
せいぜい憲兵の乱暴に抗議するぐらい」。そこで対比されるのは「ホタル」でトメさんを演じた奈良岡朋子さんだ。奈良岡さんはシナリオにない台詞を入れることを監督に求めたそうだ。「私たちはあの若者たちを殺したんだ」という言葉だ。奈良岡さんはこの台詞を語って泣き崩れる。鳥濱トメさんは娘や孫に何度も語っていたことがある。それは「わたしは何もできなかった」という自責の言葉だった。「厭戦」であり「非戦」である。これが事実だ。山田氏は石原映画でトメさんが「私たちはあの若者たちを殺したんだ」というような激しい言葉を語らなかったことが不満なようだ。

 「
せいぜい憲兵の乱暴に抗議するぐらいだ」とは鳥濱トメさんに対する侮辱である。あの時代に憲兵に反抗し拷問を受けることがどれほど大変なことであったかは、熱心な軍国少年だった山田氏にはよくお分かりのことだろう。映画のなかの創作ではなく実際にトメさんは憲兵に立ち向かった。平成4年にトメさんが亡くなったとき、その頬に傷があったことに娘さんたちははじめて気付く。いつも化粧で隠していたからわからなかったのだ。それが憲兵による暴行の痕だった。それを「せいぜい憲兵の乱暴に抗議するぐらいだ」と言える精神がわたしにはまったく理解できない。山田氏は「おそろしい映画」に「恐怖に似た思いを禁じ得ない」と書く。5月12日に映画が公開されれば、多くの観客がきっと涙することだろう。その気持ちが「戦争は絶対にいけない」という涙であるとは思えないのだろうか。それとも観客の涙は山田氏のいうように「戦争を美化し肯定する」涙になるのだろうか。「赤旗」文化欄映画コラム子「反」=山田和夫氏(らしい)の最後のくだりの「有田」という部分を「山田」に変えて引用しておく。「観客自身が山田発言の当否をじかに確かめられる日は近い」。最後に余談。日本の政党のなかで共産党は文化政策で相対的にではあるが他党を圧倒していた。最近では「赤旗」記者だった浅尾大輔氏の小説が「新潮」新人賞を獲得するなど一般文壇でも評価されるようになった。映画評論分野では79歳の山田和夫氏がいまだ「第一線」という現実が続いている。「新しい人よ眼ざめよ」(大江健三郎)と期待する。

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特攻隊の事実と真実(4)

2007-04-25 08:42:42 | 思索

 4月25日(火)ドキュメンタリー映画「コマンダンテ」を見る。試写会の日程が合わないので、自宅にビデオを送ってもらっていた。抜群に面白く考えさせられる内容だった。キューバ革命の指導者、フィデル?カストロへの30時間ものインタビューをまとめたもので、随所に記録フィルムが折り込んである。監督はオリバー?ストーン。自らカストロへのインタビューを行っている。その場所は執務室、路上、レストランなどなどで、立ったまま話を聞いているシーンも多い。カストロは、仕事への取り組みには、観察、瞑想、そして何よりもやる気が大切だと語る。「人生は思想と価値観を学ぶ過程だ」「1分たりともムダにするな」などともつぶやく。テーマは多彩だ。神、宇宙、ヘミングウェイ、ソフィア?ローレン、生きがい、文章のリズム、キューバ危機、チェ?ゲバラからバイアグラなどなど、監督が聞きたいことを巧みにぶつけている。「人間は消えていくものであり、やがて太陽も消滅する、したがって人の評価などまったく気にならない」といった趣旨を語るところも「そうだな」と納得させるのだ。哲学者的風貌と語り口が魅力的だ。現代のカリスマは健在だった。 夜はパシフィックセンチュリープレイス丸の内へ。「ドンペリ二ヨン ヴィンテージ1999」の集いに出席。渡辺貞夫さんにお会いできて感激。11人の小さな宴なのだ。午後10時半ぐらいから南青山にある「ごはんや」へ行こうと経営者でもある安藤和津さんに誘われ、宮川俊二さん、田中康夫さん、楠田枝里子さんに同行。飲んでいたら奥田瑛二さんがやってきて楽しい雑談、深夜。

 4月17日の「赤旗」文化欄に
「あるブログの石原映画礼賛」というコラムが掲載された。筆者は匿名で「反」とある。冒頭はこんな文章ではじまる。「ジャーナリストの有田芳生が、『酔 醒漫録』なる『ブログ』を連載、五日付で『鳥濱トメさんと特攻隊員』という一文を出した」。「『酔醒漫録』なる『ブログ』を連載」「一文」といった悪文を ここでは問わない。全文は読んでいただければわかるように、「石原映画礼賛を崩さない」有田と「戦争を美化し肯定する石原映画」と批判する映画評論家の山 田和夫氏を対比している。まず驚いたことは、わたしには「氏」という敬称がないが、山田和夫にはちゃんと「氏」が付いていることだ。共産党は最近では党を 除名された人物にも敬称をつけるようになった。市民意識として当然のことだ。ところがわたしは除名者以下の存在らしい。この「反」という筆者の市民意識欠 如よりも、こうした原稿をそのまま掲載する担当者やデスクの古い排他的な意識に驚くのだ。選挙の街頭演説でこうした方法を取ってみればいい。たとえば「有 田芳生というヤツは!」と怒鳴るのと同じだからだ。有権者は顔をひそめて去っていくことだろう。この筆者の最大の目的はわたしをおとしめることだから、映 画のどこが「戦争を美化し肯定する」のかがいっさい明らかにされていない。問題は映画の基本的性格に関わることだ。見る人によっていろいろな見方があると いうレベルの話ではない。このコラムを読んだ「党歴60年」のある人から意見が届いた。「A=非Aという形而上的判断は思考停止」で、「これではいつまで たっても圧倒的多数の国民を結集できることなどできるはずがない」として「セクト主義丸出しの『文化人』を『制御』できないでいる『しんぶん 赤旗』の了 見を糺してみたい」と締めくくっている。共産党本部の複数の情報では「反」という匿名コラムの筆者は山田和夫氏本人らしい。そう指摘するネット記事もあ る。ふーん、自分には敬称を付けて、批判相手は呼び捨てかよ。あほらし屋の鐘が鳴る。「反」=山田和夫氏なら、そういうことになる。(この項さらに続く)

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特攻隊の事実と真実(3)

2007-04-24 07:58:16 | 思索

 4月23日(月)テレビ朝日で6月2日午後9時から放送される「テレサ・テン物語 私の家は山の向こう」について担当者から電話があった。局としてもこれから異例の宣伝を展開するという。ホームページを見れば、いつのまにか充実していた。まだまだ驚くことがある。そんな取り組みを聞けば「AERA」の「現代の肖像」でテレサを演じた木村佳乃さんの原稿完成に再び取り組まなければと思うのだった。「ザ・ワイド」が終わり11日ぶりにジムで泳ぐ。身体が重い。やはり運動は定期的にと痛感する。それでも体重は変わらず。「週刊朝日」(5月4日、11日号)の林真理子さんの対談を読む。ゲストは岸惠子さん。石原慎太郎都知事が製作指揮を担当した映画の主人公、鳥濱トメさんを演じた。岸さんはいきなりこう語る。「この映画に出るの、最初はすごく躊躇したんです。脚本が石原(慎太郎)さんだし」。なぜかといえば「第1稿は、特攻で散ってゆく若者が少し美々しく描かれているように思いました」という。そこで岸さんは石原都知事に会う。そこが岸さんらしくていい。都庁に来て欲しいとの依頼に「政治家の石原さんにはお会いしたくない」とホテルの会議室で会うことになる。2時間の対話。「思うことを全部言いました」という岸さんは、石原知事がメモを取りながら注文を聞いたことに「びっくりしました」と語っている。林さんは「ワンマンのイメージのある、あの方がですか?それは意外ですね」と応じた。岸さんの記憶では石原知事はこう語った。「この映画は戦争賛歌ではない。戦争反対でもない。ただ、史実としてこういうことがあったということを伝えたい」。それから2度、3度と脚本を書き直したそうだ。それに読んだ岸さんは鳥濱トメさんを演じることを引き受け「戦争反対の気持ちで出たんです」と語る。

070422_06520001001  映画やテレビドラマの常識は案外知られていない。史実を描くとき、原作がある。それに基づいて脚本家が台本を書く。たとえばわたしが書いた『私の家は山の向こう』を脚本家の龍居由佳里さんが台本にした。多くの関係者がそれを読み、忌憚ない意見を提出する。そこで脚本家が訂正し、第2稿ができる。そこで再び意見を出して決定稿がまとまる。最初の物語とはまったく違うものがそこにはある。それで終わりではない。プロデューサーは、台本をさらに熟読して加筆する。そして実際の撮影がはじまる。その段階でも台本の訂正はある。主演の木村佳乃さんの意向で台詞が加えられたこともあった。撮影現場でのことだ。監督による演出もあるから、文字で書かれた台本とは相当に違ったものがそこで完成していく。「俺は、君のためにこそ死ににいく」もそうした経過をたどって完成した。内容については鳥濱トメさんの孫である明久さんの意見や、知覧から特攻隊員として飛び立ち、トメさんとの交流もあった板津忠正さんの意見も反映されている。お二人の意思は「戦争は絶対にいけません」というものである。今村昌平監督のもとで修業をした沖縄出身の新城卓監督は、この映画が「戦争美化」だと言われたことに対して怒りを感じている。なぜなら戦争はいけないという思いでこの映画の完成に取り組んできたからだ。ところが映画評論家である山田和夫氏は、この映画を「戦争美化」と断言した。それは岸惠子さんをはじめとする多くの関係者の営為を冒涜するだけでない。わたしは試写を見て何度も涙をとどめることができなかった。そして戦争は絶対にいけないと強く思った。このわたしの涙を「戦争美化の涙」と山田氏はいうのだろう。それはスクリーンを見つめて涙する多くの観客に対する最大の侮辱でもある。(この項続く)

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特攻隊の事実と真実(2)

2007-04-23 09:19:23 | 思索

 4月22日(日)ウグイスのさえずる声で目が覚めた。露天風呂に浸かり、この湯で思いふけったであろう数日後に出撃する特攻隊員たちのことを思う。「みどり荘」大女将の池田ツヤさんは言っていた。「笑って出撃した人なんていませんよ。不時着して生き残った板津忠正さんは仲間を思い出してはいつもそう言っていました」。いま知覧にある特攻平和会館に展示されている遺品や写真などは、戦後になって板津さんが生活を投げ打って収集したものが多い。政府や鹿児島県が戦争を記録しようとしたものではなかったのだ。その板津さんは平和会館館長として「語り部」を務めたこともある。ところがいつしか観光化していくことに違和感を感じてリタイアした。戦争当時の「アサヒグラフ」の表紙には子犬を抱いて微笑む特高隊員の写真が掲載されている。その同じ号の雑誌には小西六写真の広告がある。そこには「活かせ!写真も戦力」とある。この少年もまた出撃にあたっては笑顔などまったくなかった。やはり出撃したものの生き残った松浦喜一さんの『日本国憲法を護る 生き残った特攻隊員、八十一歳の遺書』(私家版、05年)を読む。そこにはこうある。「国家のために特攻隊員が喜んで特攻突入をしたという間違った考え方は正したいと思います」「死の直前には自分の家族、愛する人々のことしか頭にはないのです。特攻戦死した特攻隊員は国家のためにではなく、純粋に国民の生命を守るために突入戦死したのでした」。鳥濱トメさんは平成4年(1992)に亡くなる。その思いはいまでも貴重だ。

 
なぜ生きのこったのか考えなさい
 何かあなたにしなければならないことがあって
 生かされたのだから


070422_07180001  これはさまざまな理由で生き残った特攻隊員への言葉だ。しかしここには「いま」を生きる〈わたしたち〉へのメッセージがある。トメさんのお孫さんである明久さんと5月12日に公開される「俺は、君のためにこそ死んでいく」について語り合った。映画の感想を聞くと「わたしがトメから聞いていたことを忠実に描いてくれていました」という。製作総指揮の石原慎太郎都知事は、昭和38年(1963)にはじめて富屋食堂を訪れた。それから10数回知覧に来てはトメさんから話を聞いたという。トメさんが亡くなった翌日にも弔問に訪れ、さらに2回知覧まで足を運んでいる。映画を撮りたいと依頼に来たとき、石原知事がこう語った明久さんは記憶している。「特攻隊員は天皇陛下のためでも国家のためでもなく、愛する人のために出撃したんです。トメさんから聞いたその事実を描きたい」。これまで映画「ホタル」で描かれたときには事実ではないことがあったので不満だったと明久さんはいう。「でも石原さんのあのタイトルでは誤解されませんか」とわたしが言うと「そんなんですよ」と口数少なくうなずくのだった。系統的なブログ読者ならご存知のことだが、わたしは石原都知事を何度も批判してきた。しかし「主人持ちの」映画評論家?山田和夫氏はこの作品を「戦争美化」だと断言した。終戦直後、特攻隊員の若者たちの面倒を見ていた鳥濱トメさんを「軍国主義者」「戦争協力者」と罵った「にわか民主主義者」がいた。山田氏の根拠なきレッテル貼りはまるで当時の亡霊を見るかのようだ。この映画が「戦争美化」だというのであれば、それはトメさんだけでなく、若き生命を奪われた特攻隊員とその遺族を冒涜するものである。
 

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特攻隊の事実と真実(1)

2007-04-22 09:39:18 | 思索

 4月21日(土)吹上温泉の「みどり荘」。部屋の椅子に座り右手を見ると大きな池がある。虫の声と琴の調べが気持ちを落ち着かせる。斎藤茂吉が逗留していた宿でもある。いまから62年前のいまごろ、この宿に泊った若者が数日後には特攻隊員として出撃していった。「散華」した者、引き返して生き残った者、その究極の選択はさまざまだった……。朝、ホテルを出て知覧に向かう。まず特攻隊員に母のように慕われた鳥濱トメさんが営んでいた「富屋食堂」跡へ。お孫さんの鳥濱明久さんに当時の説明をしてもらう。笑顔の特攻隊員の写真は、いわゆる報道写真だとわかった。「さあ笑ってください」と軍の報道カメラマンが意図して撮影し、公表したものなのだ。たとえばトメさんを中心に笑顔の隊員たちがいる。ところが同じときに写した別の写真は緊迫した顔つきで、そこにあるのは深い悲しみだ。歴史の偽造がここにもある。さまざまな写真が残されている。そのなかで出撃直前のものだけを見れば、彼らの気持ちが伝わってくるようだ。「みどり荘」の大女将、池田ツヤさんにに聞いたところ、出撃前に宿泊した隊員たちは、大はしゃぎしたあとでしょげていたという。これが事実だ。22歳で特攻隊として知覧から出撃した上原良司さんは、新聞記者に密かに「所感」を託して突撃した。そこに書かれているのは「自由主義者」として日本の敗戦を確信した思いである。ある隊員は遺書の末尾にこう書いた。「母はいい。母ほど有難いものはない。母!母!」と。継母につらく当っていた隊員は、遺書にこれまで「お母さん」と呼ばなかったことを実は悔やんでいたと書き、最後に「お母さん お母さん お母さん」と結んでいる。「靖国で会おう」というものも多いが、なかには「浄土で会おう」と書いた兵士もいた。みんな17歳から20歳代の若者たちだった。

070421_14490001  昨日の日記で南部吉雄少尉の両親との別れを書いた。ところが南部さんは生きている可能性があることを知った。戦後になり山口県で特攻死した戦友の実家を訪れた男性がいた。そして南部少尉を名乗ったのだった。片足を負傷して松葉づえ姿だったという。故郷には戻れないとも語っていた。特攻隊員として出撃したのは約1000機。突入を確認されたのは436機。不時着したり、墜落したりした、あるいは逃げた隊員たちもいたのが歴史の事実なのだ。いまや訪れる人もいない飛行場跡、突撃前に宿泊した三角兵舎跡に行く。まるで夏のようなこの陽気の時期に多くの若者がここから飛び立っていった。いまや観光名所となった知覧特攻平和会館へ。入館すると多くの来館者を前に白髪の男性が声を張り上げて説明をしていた。子犬を抱いた17歳の兵士の写真を掲げ、「彼らは笑顔で出撃したのです」と語っている。戦意高揚のための報道写真に戦争の真実はない。こういう説明を修学旅行生などが聞かされていることは、歴史の偽造の再生産だ。検閲された遺書のなかにも真情はあふれている。それでも解釈で事実は異なったものへと改ざんされる。戦史記録としての知覧特攻平和会館は年間に70万人が訪れる。富屋食堂跡の史料館には5年半で25万人が訪れた。出撃前夜に富屋食堂でアリランを歌った光山文博少尉の思いなど、特攻隊員として亡くなった若者たちの真実は後者にある。特攻隊員たちが飛び立ってすぐ視野にいれた「薩摩富士」の開聞岳を見る。時間があったので「さつま白波」で知られる薩摩酒造を見学した。

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息子の出撃を見送る両親の悲しみに涙

2007-04-21 10:11:38 | 酒場

 4月20日(金)テレサ・テンのたおやかな歌声を聴きながら原稿を書く。タイトルを「テレサ・テンの優しさと哀しみ」とした。午後5時発のJAL1875便で鹿児島。機内でまず長い本を読み終える。感想は自己満足の塊。こういうときに使えばいいのだろう。「あほらし屋の鐘が鳴る」。カーン。うん、なかなかいい言葉だなと思う。赤羽礼子、石井宏『ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子』(草思社)を読みはじめる。部屋のどこかにあるのだが、探し切れなかった。仕方なく有楽町の三省堂に寄った。女性店員にタイトルを伝えると「あーっ」と言ってすぐ見つけてくれた。「最近よく売れています」という。6年前に発売された本がいま動いているのは「俺は、君のためにこそ死んでいく」が5月に公開される影響のようだ。機内で涙。つらい青春があったものだ。ひどい時代があったものだ。そんな気持ちがあふれてくる。南部吉雄少尉は特攻隊として出撃するとき、見送りに来た両親が自分の搭乗機だとわかるように、赤い紙テープを吹き流しのように付けた。母は息子に分かるようにと白っぽい和服に白のパラソル姿で応えた。みんな17歳から20歳代前半の若者たちだった。戦後になり特攻兵の墓にお参りした両親の写真を見ていると悲しくてたまらなくなる。鹿児島空港から知人の運転で市内へ。まずは朝5時から営業している竹迫温泉へ。街中にある銭湯だ。常連客があれこれと四方山話。「競馬で800万円取ったって」「なんだそれ」「ほら、漫才師が」などという話だ。世間話が優しい。

P4200047  ホテルに荷物を置いて「華蓮」で黒豚しゃぶしゃぶ。JA鹿児島直営の店だ。三枚肉が美味しい。レジで東京では売っていないのかと聞くと「ない」という。どこかの百貨店で売らないものだろうか。こんなさっぱりとして甘味ある美味ははじめて。「いわし」料理専門店「おはし」。いわしの刺し身、きびなご、生らっきょうなど、すべて新鮮。いわし料理は525円。「首折れさば」は売り切れていた。隣に座った中年男女と雑談。男性は地元の新聞社に勤めていたという。「わたしも昔は……」というので、何かと思えば左翼の政治運動に関わっていたという。「まだ何とかなりますよ」と言えば「もうだめですよ」という。66歳だという男性は政治を諦めていると語った。「もう」ではなく「まだ」。閉塞感に穴を開ける道はきっとあるのだと思うのだ。ウイスキーハウス「ダフタウン」。城山観光ホテルの地ビール醸造責任者、倉掛智之さんに話を聞く。日本でギネスの生ビールのような味を出すことで知られている。その倉掛さんがもらってきた伊勢角屋麦酒を飲む。東京でもこんな濃厚かつ爽やかな味のビールを飲む場所があればなと思う。深夜の天文館は週末の賑わい。最後に「よしまる庵」で鯛漬け。いわさきホテルの部屋に戻り冷蔵庫を明けると空っぽ。ネット環境もダメ。そういうホテルはあるけれど、ちゃんとした宿泊所を掲載しているはずの「一休COM」で紹介するのは問題あり。

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