有田芳生の『酔醒漫録』

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佐藤初女さんの「おむすび」

2006-08-09 10:15:48 | 健康・病気

8月8日(火)午前5時半すぎ。睡眠3時間半にして小川の流れる音で眼が醒めた。「ここはどこなんだろう」ーー自分がいまどこにいるのか一瞬だがわからなかった。都はるみさんが朝目覚めたとき、自分がいる場所をふと忘れることがあると言っていたことを思い出した。移動することが多いとそんな感覚を生むのだろう。カーテンを開け、窓を開ける。爽やかな空気が心地よい。 岩木山麓にある「ゆだんの湯」だ。「ザ?ワイド」のスタッフはもう出かけていた。少し遅くてよいと言われていたので、温泉に入る。カップが置いてあったので蛇口から流れてくる湯を飲む。ナトリウム、カルシウム、マグネシウムなどの成分のためなのだろう。とろっとした感触で金属臭がする。湯船に浸かりながら羽田空港ではじめて経験した酸素バーを思った。搭乗時間までゆとりがあったので、空港のなかを歩いていると薬局の2階にその店はあった。いまや水だけでなく酸素までが売られる時代となった。水が販売される歴史は明治にたどる。瓶詰めされたミネラルウォーターが販売された。帝国ホテルで「富士ミネラルウォーター」が販売されるようになったのは昭和4年のこと。それでも高級ホテルのバーで使われるなどの希少価値だった。一般にミネラルウォーターが売られるようになったのは、昭和58年の「六甲のおいしい水」からだという。世相では松田聖子の「天国のキッス」や大川栄策の「さざんかの宿」が流行った年のことである。やがてコンビニでも水が売られるようになる。いまでは「水までが売られるようになった」と驚く感覚も失せていった。そこに酸素だ。「すべて」を商品化する資本主義の果てにはまだまだ驚くべき世界が広がるのだろう。酸素30分吸入の値段は、初回の器具購入の300円を加えて2100円。店員に「どうですか」と言われたが的確な言葉が出てこない。自覚できるほどの効用を身体は感じていなかったのだろう。そんなことを思い出しながら温泉から出る。荷物を持って近くにある「森のイスキア」へ向った。

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 元教師でクリスチャンの佐藤初女さんが主宰している「憩いと安らぎの場」だ。生活に疲れた男女や母親の愛情を知らずに育った子供たちがここで蘇生することで知られている。初女さんは今年85歳。その初女さんが丁寧に握る「おむすび」は、食事をちゃんと摂ることの大切さを教えてくれる。なかには自殺をしようと決意していた男性が、この「おむすび」を食べることで思いとどまったこともある。朝6時から食事の準備をはじめた初女さんたちの撮影に立ち会う。岩木山麓にある「森のイスキア」の敷地には大きな岩が置いてあり、さまざまな段階の色鮮やかな梅が干してある。炊き立ての米を小振りな腕にほんわりと入れ、乾燥しないように水でぬぐったまな板の上にそっとあける。少しばかりの塩を手に、優しく包み込む。「お米は生きていますから、つぶれないようにそっと握るんです」と初女さんが語る。海苔2枚で包み「おむすび」ができあがる。さっそく口にすると、懐しい味が広がっていった。何だろう。最近では新潟の米を使い、その場で握った「おむすび」を売っている店もある。そんな味ではない素朴さがあるのだ。これぞ日本の「おむすび」とでもいえばいいのだろうか。「そうだな」と納得した初女さんの言葉がある。


 コンビニのおむすびしか食べたことのない小学生、握ったことがないお母さんがいます。おなかは満たされても、心は満たされないのです。食べ物にも命があります。食を大事にすることは自分を大事にすることなんだと思います。

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 今回の撮影の目的は「食育」。いまの子供たちの食事を通して現代の問題点を探る。「ザ?ワイド」で10日に放送する予定だ。佐藤初女さんの「おむすび」の作り方や「森のイスキア」については絵本が出ている。なお「イスキア」とはイタリア南西部にある島の名前だ。ナポリの大富豪の息子が、何不自由なく暮らしていたある日、虚しさを感じてこの島で暮らすようになり自分を取り戻したという。そこから付けられた名前である。明日からは母親が育児放棄した家庭環境のもとで育った女子高生たち4人が3日ほど宿泊するそうだ。仕事を終え、弘前から青森へ。午後5時5分のJAL1208 便で東京へ。日本テレビで短い撮影をして午後9時前に「はら田」。握り鮨を少々食べて早々に帰宅する。身体がいささか悲鳴を上げている。「有田が行く」のスタッフは徹夜で編集作業、大変な仕事だ。枕元にあるデッキで「節談説教」を聴いていたらいつの間にか眠ってしまった。

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節談説教を聴く

2006-08-07 07:19:39 | 健康・病気

 8月6日(日)ヒロシマ被爆61年。田中康夫さん落選。長野にも自民?公明体制が生れた。斉藤規さんの『正義とはなにか 多数決は正しいのか』(ポプラ社)を再読したくなった。終日、読書と原稿執筆。佐藤優さんの「私のマルクス」(『文學界』に連載)は、ユダヤ教とキリスト教の違いとマルクスの思想的起源についての指摘が面白い。『資本論』第一巻の叙述はユダヤ教のタルムード学の手法だというのだ。自分の言説を積極的に提示するよりも、既成のテキストに注を付け、その注にさらに注を付す。エンゲルスによる第二巻、第三巻の叙述方法との違いはそこにある。久しぶりに『文化評論』編集者として担当した古在由重さんの「現実主義とは何か」を読む。24年の時間経過は当時と違った印象を与えてくれた。「思想は冷凍保存をゆるさない」との言葉を核に、こぶし書房から出る『古在由重の哲学』のためのエッセイ第一稿を書く。その合間に福井市の水上甚栄さんが送ってくれた祖父江省念師による節談説教のCD「法然上人一代記」を聴いた。話術の粋に感動、しぶい。ところどころで広がる「おーっ」という聴衆のどよめきが何とも印象的で、会場の様子が眼に浮かぶようだ。空海を書いた服部真澄さんが「仏教は宗教というよりも哲学なんですよ」と語ったことを思い出した。来年7月3日に浄土真宗本願寺派本願寺築地別院で開かれる「節談大会」がいまから楽しみで仕方ない。祖父江省念師の節談を聴きながら、この声を発している身体のことを想像した。「顔」がその人であれば、「声」もその人だからだ。「顔」は年齢と経験によって深みを増してくる場合がある。

 ところが「声」はどうだろう。加齢とともに変化はあるが、基本音域にそう変わりはない。しかし、訓練された「声」というものがある。祖父江省念師のすぐれた節談説法が確立されるまでには、さまざまな研究と実践があったことだろう。一般的には喉から血が出るほどの訓練を行うのだという。この声を保持するための身体が気になる。話芸において身体はどのように位置づけられているのだろうか。先日ある医師と話をしていたときのこと。彼はサプリメントや健康食品に批判的だ。「ちゃんと食事を摂っていればそんなものは必要ないのです」という。わたしは異論を述べた。偏食することで欠けたビタミンなどを意識して補充することは必要だと。そこから話は進んだ。鍼灸や整体の効用だ。その医師は「いいですよ」と肯定的だった。しかし、よくわからないことがある。骨法整体では、骨の歪みを整えれば不調を治すことができるという。ところが鍼灸では身体の歪みは仕事や生活スタイルによって当然生じるから、わざわざ骨を整える必要はないという。思考がまったく正反対なのだ。わたしにとっては身体の健康を保つことも必要だが、その治療によって気力が向上する実感が大切なのだ。

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はり100本の経験

2006-07-27 09:11:54 | 健康・病気

 7月26日(水)九州の豪雨も落ち着いたようだ。東京は朝から30度を超える暑さ。来週には梅雨明け宣言もあることだろう。本格的な夏がまたやってくる。『酔醒漫録』をいつから再開するかを迷っていたが、今朝早く目が覚めた勢いでブログを公表することにした。ホームページを管理してくれている澤田篤さんと『酔醒漫録』を単行本にするときに編集を担当してくれる大谷裕子さんに、まずはお知らせする。玄関を出て大きく深呼吸。いつもテレビのコメント準備の「仕込み」に2時間以上の準備をしている。そのための日課は7紙の新聞をポストに取りに行くことからはじまる。新聞を抱えてエレベーターに乗り、いちばん上にある毎日新聞を見て「おやっ」と思った。「日本人平均寿命 男女とも短縮」という記事が目に入ったからだ。男性は78?53歳で昨年の3位から第4位に落ちた。女性は85?49歳と1位を保持。その理由は昨年インフルエンザが流行し、肺炎による死者が増え、さらには自殺者も増えたからだという。もっともこの「平均寿命」とは、零歳児の平均余命だから、現在50歳ならあと28年の生存が平均だという意味ではない。それでも「平均寿命」という言葉の響きは、そうは受け取られないだろう。どうしても一つの基準として捉えてしまうからだ。フリーランスの仕事はまずは健康。そう思い、朝から竹村文近さんの『はり100本』(新潮新書)を読む。タモリ、山下洋輔、常磐新平、加賀まり子などなどが通っていることで知られる鍼灸院だ。この新書では治療を通じて人間の生命力を蘇らせる方法が紹介されている。最後の方に書かれている文章が印象的だった。

 病気は、人間が生れ変わるチャンスなのだと思う。そのきっかけとなるのが治療だ。患者と施術者が、それぞれの人間性と出会い、交感し合いながら、病気の原因をつきとめ、それを解決するために力を合せていく。

 人間がある課題を挟んでコミュニケーションを行うことで何かが生れる。その効果的な媒介となるものが人間性なのだ。これは治療だけのテーマではない。人間性が歪んでいればコミュニケーションにもひずみが起きる。読了しそんなことを思ったものだ。「身体を壊して組み立て直す」ためには、整体もあれば、鍼灸もあるだろう。ここしばらくは骨法整体に通っていたが、ふと竹村さんの鍼灸を経験したくなった。とくにどこかが悪くて困っているという情況ではないのだが、健康を維持することが生活の基本だから、どうしてもさまざまな健康法に眼が行ってしまう。ジム通い以外にも身体のバランスを崩さない努力が必要なのだ。新潮社の知人に竹村さんの鍼灸院を紹介してもらい、予約を入れてさっそく出かけてみた。都内某所。予約時間に遅れると診察してくれないと書いてあったので15分前に到着。二階から声があり、階段を上がるといきなり笑顔でこう言われた。「オウムの竹村です」。何と明るい人柄なんだろうかという第一印象。ベッドに横たわってからの治療は鍼灸のイメージを一変させた。まるで鍵盤をたたくピアニストのような芸術的手さばきなのだ。ときにズシンという震動に身体が驚く。終ると身体がホクホクしていた。身体も不思議だが施術も奥が深いと実感。代々木に出て「馬鹿牛」で店主の息子?笑之介8か月を相手に焼酎を飲む。

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