木村久夫遺書全文
【遺書は田辺元『哲学通論』昭和八年版の欄外に鉛筆で書き込まれていた。カタカナ部分は平仮名で表記する。明らかに誤記と思われるものもあるが、獄にある息遣いと感情の発露によるものゆえにそのまま記録した。遺書とはそうした精神の混乱もふくめて極限にある人間の本源的発露であると判断するからである。】
(扉)死の数日前偶然に此の書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである。
(1ページ)鉛筆の傍線は私が引いたものである。
父 木村久
住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地
此の書に向っていると何処からともなく湧き出づる楽しさがある。明日は絞首台の露と消ゆるやも知れない身であり乍ら、盡きざる興味にひきつけられて、本書の三回目の読書に取り掛る。昭和二十一年四月二十二日
(5ページ)私は此の書を充分理解することが出来る。学問より離れて既に四年、其の今日に於ても猶、難解を以て著名な本書をさしたる困難なしに読み得る今の私の頭脳を我れ乍ら有難く思うと共に、過去に於ける私の学的生活の精進を振り帰って楽しく味あるものと吾れ乍ら喜ぶのである。
(7ページ)曾て読みし博士の著書「科学と哲学との間」を思い出す。
(8ページ)住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地
父 木村久
(10ページ右欄外)
此の世への名残りを思ひて味ひぬ一匙の菜一匙のかゆ
(11ページ)私の死に当って感想を断片的に書き綴って行く。紙に書く事を許されない今の私に取っては之に記すより他に方法がないのである。私は死刑を宣告された。誰が之を予測したであろう。
(12ページ右欄外)
つくづくと幾起き臥しのいや果の我が身悲しも夜半に目瞠めつ
(13ページ)年令三十に到らず、且学半ばにして既に此の世を去る運命、誰が予知し得たであろう。波乱極めて多かった私の一生も亦波乱の中に沈み消えて行く。何か知ら一つの大きな小説の様だ。然し凡て大きな運命の命ずる所と知った時、最後の諦観が湧いて来た。
(14ページ右欄外)
紺碧の空を名残りに旅立たむ若き生命よいまやさらばと
(15ページ)大きな歴史の転換の影には私の様な蔭の犠牲が幾多あったものなるかと過去の歴史に照らして知る時、全く無意味ではあるが私の死も大きな世界歴史の命ずる所なりと感知するのである。
(16ページ右欄外)
朝がゆをすゝりつ思ふ古郷の父よ嘆くな母よ許せよ
(17ページ)日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本は無理をした。非難する可き事も随分として来た。全世界の怒りも無理はない。世界全人の気晴らしの一つとして今私は死んで行くのである。否殺されて行くのである。之で世界人の気持が少しでも静まればよいのである。それは将来の日本に幸福の種を残すことだ。
(18ページ右欄外)
かにかくに凡て名残りは盡きざれど学成らざるは更に悲しき
(19ページ)私は何等死に値する悪はした事はない。悪を為したのは他の人である。然し今の場合弁解は成立しない。江戸の仇を長崎で打たれたのであるが、全世界からして見れば彼も私も同じく日本人である。即ち同じなのである。
(20ページ右欄外)
思ふこと盡きて更には無けれども唯安らけく死にて行かまし
(21ページ)彼の責任を私が取って死ぬ、一見大きな不合理ではあるが、之の不合理は過去矢張り我々日本人が同じくやって来たのである事を思へば矢鱈非難出来ないのである。彼等の目に留った私が不運なりとしか之以上理由の持って行き所はないのである。
(22ページ)
みんなみの露と消え行く生命(いのち)もて朝かゆすゝる心かなしも
(23ページ)日本の軍隊のため犠牲になったと思へば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない、笑って死んで行ける。
(24ページ右欄外)
音もなく我より去りし物なれど書きて偲びぬ明日と言ふ字を
(25ページ)日本の軍人、殊に陸軍の軍人は、私達の予測していた通り矢張り、国を亡した奴であり、凡ての虚飾を取り去れば私欲、其の物の他に何物でもなかった。今度の私の事件に於ても最も態度の賎しかったのも陸軍の将校連中であった。之に比ぶれば海軍将校はまだ立派であったと言い得る。
(26ページ右欄外)
雨音に鳴く夏虫の声聞きて母かとぞ思ふ夜半に目覚(目ヘン)めつ
(27ページ)大東亜戦以前の陸軍々人の態度を見ても容易に想像される所であった。陸軍々人は余り俗世に乗り出しすぎた。彼等の常々の広告にも不拘、彼等は最も賎しい世俗の権化となっていたのである。それが終戦後明瞭に現れて来た。生、物に吸着したのは陸軍々人であった。
(28ページ右欄外)
かすかにも風な吹き来そ沈みたる心の塵の立つぞ悲しき
(29ページ)大風呂敷が往々にして内容の貧弱なものなるとは我国陸軍が其の好例であるとつくづく思われた。我国民は今や大きな反省をしつつあるだろうと思う。其の反省が今の逆境が明るい将来の日本に大きな役割を与えるであろう。これを見得ずして死するは残念であるが世界歴史の命ずる所、所詮、致し方がない。
(30ページ右欄外)
悲しみも涙も怒りも盡き果てし此のわびしさを持ちて死なまし
(31ページ)此の度びの私の裁判に於ても、亦判決後に於ても私の身の潔白を証明す可く私の最善の努力をして来た。然し私が余りにも日本国のために働きすぎたるがため、身は潔白であっても責は受けなければならないのである。ハワイで散った軍神も今となっては世界の法を侵した罪人以外の何者でもなかったと同様、ニコバル諸島駐屯軍のために敵の諜者を発見し当時は全島の感謝と上官よりの讃辞を浴び
(32ページ右欄外)
明日と言ふ日もなき生命抱きつも文よむ心盡くることなし
??田辺氏の書を再読してーー
(33ページ)方面軍よりの感状を授与されるやも知れずと迄言われてた私の行為も一ケ月後に起った日本降伏のため更って結果は逆になった。当時の事情は福中英三氏が良く知っている 聞いてくれ。日本国に取り効となった事も、価値判断の基準の変った今日に於ては仇となるも、之は私達の力を以てしては如何とも致し方ない。
(34ページ右欄外)
故里の母を思ひて涙しぬ唇かみてじっと眼を閉づ
(35ページ)凡ての原因は日本降伏にある。然し此の日本降伏が
(37ページ)全日本国民のために必須なる以上、私一個人の犠牲の如きは涙を飲んで忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦を判ってい乍ら此の戦を起した軍部に持って行くより為方はない。然し又更に考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許して来た全日本国民に其の遠い責任がある事を知らなければならない。日本人は凡ての面に於て、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。凡て吾が他より勝れリと考へ、又考へせしめた我々の指導者及びそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に凡ての責任がある。
(36ページ右欄外)
眼を閉じて母を偲(おも)へば幼な日の懐(いと)し面影消ゆる時なし
(注、ルビは木村)
(38ページ右欄外)
思ひでは消ゆることなし故郷の母と眺めし山の端の月
(39ページ)日本は凡ての面に於て混乱に陥るであろう。然しそれで良いのだ。嘗ての如き、今の我に都合の悪きもの意に添はぬものは凡て悪なりとして、腕力を以て、武力を以て排撃して来た我々の態度の行く可き結果は明白であった。今や凡ての武力、腕力を捨てて、凡ての物を公平に認識、吟味、価値判断する事が必要なのである。それで之が真の発展を我々に与へてくれるものなのである。
(40ページ右欄外)
遠国(トホクニ)に消ゆる生命の淋しさにまして嘆かる父母のこと
(41ページ)凡てのものを其の根底より再吟味する所に、我々の再発展がある。ドグマ的な凡ての思想が地に落ちた今度の日本は幸福である。それを見得ないのは全く残念至極であるが、私に更にもっともっと立派な頭の聡明な人が之を見、且指導を行ってくれるであろう。何と言っても日本は根底から変革し、構成し直されなければならない。若き学徒の活躍を祈る。
(42ページ右欄外)
父母よ許し給へよ敗れたる御国のために吾は死すなり
(43ページ)私の蔵書は凡て、恩師塩尻先生の指示に依り処分してくれ。私の考へとしては高等学校に寄贈するのが最も有効なのではないかと考える。塩尻、八波、徳田、阿部の四先生には必ず私の遺品の何かを差し上げてくれ。塩尻先生の著「天分と愛情の問題」を地の遠隔なりしため今日の死に至るまで一度も拝読し得なかった事はくれぐれも残念である。
(44ページ右欄外)
指を噛み涙流して遥かなる父母に祈りぬさらばゝと
(45ページ)孝子を早く結婚させてやってくれ。私の死に依り両親並に妹が落膽甚しく一家の衰亡に趣かん事を最も恐れる。母よ落膽すな、父よ落胆すな。そして父よ、母に対してやさしくあれ。私が父に願ふ事は之丈である。そして之こそ死んでも忘れられない只の一事である。願ふ。
(46ページ右欄外)
詩境もて死境に入るは至境なり斯境なからば悲境なりけり
??狂歌??
(47ページ)私の葬儀など簡粗にやってくれ。盛大は更って私の気持を表はさないものである。墓石は祖母の横に建ててくれ。私が小供の時、祖母の次に立つ石碑は誰のであろうかと考へた事があったが、此の私のそれが建つなどとは此の私にも想像がつかなかった。然し之はあくまで一つの大きな世界の歴史の象徴であろう。墓の前の柿の果、それを私が喰う時がやがて来るであろう。
(49ページ)我々罪人を看視しているのはもと我軍に俘虜たりしオランダ軍兵士である。曾て日本兵士より大変なひどい目に遭はされたとかで我々に対するしっぺ返しは大変なものである。撲る蹴るは最もやさしい部類である。然し吾々日本人も之以上の事をやっていたのを思えば文句は出ない。
(51ページ)更って文句をブツブツ言ふ者に陸軍の将校の多いのは曾ての自己を棚に上げた者で、我々日本人にさえも尤もだと言ふ気は起らない。一度も俘虜を使った事のない、又一度もひどい行為をした事のない私が斯様な所で一様に扱われるのは全く残念ではあるが、然し向こふ側よりすれば私も他も同じ日本人である。区別してくれと言ふ方が無理かも知れぬ。
(53ページ)然し天運なのか、私は一度も撲れた事も蹴られた事もない。大変皆々から好かれている。我々の食事は朝米紛の糊と夕方に「カユ」を食ふ二食で一日中腹ペコペコで、やっと歩ける位の勢力しかないのである。然し私は大変好かれているのか、監視の兵隊がとても親切で夜分こっそりとパン、ビスケット、煙草などを持ってきてくれ、昨夜などはサイダーを一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。モノに対してよりも親切に対してである。
(55ページ)其の中の一人の兵隊が或は進駐軍として日本へ行くかも知れぬと言ふので、今日私は私の手紙を添へて私の住所を知らせた。可能性は薄いが、此の兵隊が私の謂はば無実の罪に非常に同情し、親切にしてくれるのである。大極的には徹底的な反日の彼等も、斯の個々に接して居る内には斯様に親切な者も出てくるのである。矢張り人間だ。
(57ページ)此の兵士は戦前はジャワの中学校の先生で、我軍に俘虜となっていたのであるが、其の間、日本の兵士より撲る、焼くの虐待を受けた様子を詳しく語り、其の人には何故日本兵士には撲る蹴るなどの事があれ程平気で出来るのか全く理解出来ないと言っていた。私は日本人全般の社会教育、人道教育が低く、且 社会的試練を充分に受けていないから斯くある旨を
(59ページ)よく説明して置いた。又彼には日本婦人の社会的地位の低いことが大変な理解出来ぬ事であるらしい つまらぬ之等の兵士からでも、全く不合理と思へる事が日本では平然と何の反省もなく行われている事を幾多指摘されるのは全く日本に取って不名誉な事である。彼等が我々より進んでいるとは決して言わないが、真赤な不合理が平然と横行するまま許してきたのは何と言っても
(61ページ)我々の赤面せざる可からざる所である。単なる撲ると言ふ事から丈でも、我々日本人の文化的水準が低いとせざる可からざる諸々の面が思ひ出され、又指摘されるのである。殊に軍人社会、及び其の行動が其の表向きの大言壮語に不拘らず、本髄は古い中世的なもの其物に他ならなかった事は反省し全国民に平身低頭謝罪せねばならぬ所である。
(63ページ)吸ふ一息の息、吐く一息の息、喰ふ一匙の飯、之等の一つ一つの凡てが今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く。軈て数日の中には私へのお呼びも掛って来るであろう。それ迄に味ふ最後の現世
(65ページ)への触感である。今迄は何の自覚なくして行って来た之等の事が、味へば之程切なる味を持ったものなる事を痛感する次第である。口に含んだ一匙の飯が何とも言い得ない刺激を舌に与え、且の溶けるが如く、喉から胃へと降りて行く触感に目を閉じてじっと味ふ時、此の現世の凡ての
(67ページ)ものを只一つとなって私に与へてくれるのである。泣き度くなる事がある。然し涙さえもう今の私には出る余裕はない。極限迄押し詰められた人間には何の立腹も、悲観も涙もない、只与えられた舜間舜間を只有難く、それあるがままに享受して行くのである。死の舜間を考へる時には矢張り恐ろしい、不快な気分に押し包まれるが、その事は其の舜間が来る迄考へない事にする。そして其の舜間が
(69ページ)来た時は即ち死んでいる時だと考へれば、死などは案外易しいものなのではないかと自ら慰めるのである。
(71ページ)私が此の書を死の数日前 計らずも入手するを得た。偶然に之を入手した私は、死迄にもう一度之を読んで死にたいと考へた。数年前、私が未だ若き学徒の一人として社会科学の基本原理への欲求盛なりしとき、其の一助として、此の田辺氏の名著を手にした事があった。何分有名な程 難しい本であったので、非常な苦労を排して一読せし事を憶えている。その時は洛北白川の一書斎であったが、今は遥か故郷を離れた昭南
(73ページ)の、しかも、監獄の冷いコンクリートの寝台の上である。難解乍ら生の幕を閉じる寸前、此の書を再び読み得たと言ふ事は、私に最後の楽しみと憩ひと情熱とを再び与へてくれるものであった。数ケ年の非学究的生活の後に始めて之を手にし一読するのであるが、何だか此の書の一字一字の中に昔の野心に燃えた私の姿が見出される様で、誠に懐しく感激に打ち閉ざされた。
(75ページ)世界的名著は何時何処に於ても、亦、如何なる状態の人間にも燃ゆるが如き情熱と憩いとを与えてくれるものである。私は凡ての目的、欲求とから離れて、一息のもとに此の書を一読した。そして更にもう一読した。何とも言ひ得ない、凡ての欲求から離れての、すがすがしい気持ちであった。私に取っては死の前の読経にも比さる可き感覚を与へてくれた。曾ての如き学求への情熱に
(77ページ)燃えた快味ではなくして、凡てあらゆる形容詞を否定した、乗り込えた言葉では表し得ない、すがすがしい感覚を与へてくれたのである。書かれたものが遺言書ならば、私は此の書の書かれざる、何となく私と言ふものを象徴してくれる最適のものとして此の書を紀念として残すのである。私が此の書に書かれている哲理を凡て理解了解したと言ふのではない。むしろ、此の書の内容からは
(79ページ)もっと距離があるかも知れないが、私の言い度い事は、私が此の書を送る意味は、本著者田辺氏が本書を書かんと筆を取られた其の時の氏の気分が、即ち私が一生を通じて求めてきた気分であり、そして私が此の書を遺品として最も私を象徴してくれる遺品として、遺す以所である。
(81ページ)私の死を聞いて先生や学友が多く愛惜してくれるであろう。「きっと立派な学徒になったであろうに」と愛惜してくれるであろう。若し私が生き長らへて平々凡々たる市井の人として一生を送るとするならば、今此のまま此処で死する方が私として幸福かも知れない。又世俗凡欲には未だ穢され切っていない今の若い学究への純粋を保ったままで一生を終る方が或は美しい潔いものであるかも知れない。
(83ページ)私としては生き長らへて学究への旅路を続けて生度いのは当然の事ではあるが、神の目から見て、結果論にして、今運命の命ずるままに死する方が私には幸福なのであるかも知れない。私の学問が結極は、積読(つんどく)以上の幾歩も進んだもので無いものとして終るならば、今の潔い此の純粋な情熱が一生の中 最も価値高きものであるかも知れない。
(85ページ)私は生きる可く、私の身の潔白を証す可くあらゆる手段を盡くした。私は上級者たる将校連より法廷に於ける真実の陳述をなす事を厳禁され、それが為め、命令者たる上級将校が懲役、私が死刑の判決を下された。之は明かに不合理である。私は私の生きん事が将校連の死よりも日本の為めには数倍有益なる事明白であり、又事件其の物が実情として
(87ページ)も、之は当然命令者なる将校に責が行く可きであり、又彼等が自分自身で之を知れるが故に私に事実の陳述を厳禁したのであり、又此処で生きるのが私には当然であり、至当であり、日本国家の為めにも為さねばならぬ事であり、又最後の親孝行でもあると思って判決のあった後ではあるが、私は英文の書面を以て事件の真相を
(89ページ)暴露して訴えた。上告のない裁判であり、又判決後であり、又元来から正当な良心的な裁判ではないのであるから、私の真相暴露が果して取り上げられるか否かは知らないが、親に対して、国家に対しての私の最後の申し訳けとして最後の努力をしたのである。始め私は虚偽の陳述が日本人全体のためになるならば止むなしとして命に従ったのであるが
(91ページ)結果は逆に我々被命令者に仇となったので、真相を暴露した次第である。若しそれが取り上げられたならば、数人の大佐、中佐や数人の尉官達が死刑を宣告されるであろうが、それが真実である以上、当然であり、又彼等の死を以て此の私が救われるとするならば、国家的見地から見て、私の生の方が数倍有益である事を確
(93ページ)信したからである。美辞麗句ではあるが、内容の全くない、精神的とか称する言語を吐き乍ら、内面に於ては軍人景気に追従し、物欲、名誉欲、虚栄以外には何物でもない我々軍人が、過去に於て為して来たと同様、仮りに将来に於て生きるも何等国家に有益な事は為し得ない事 明白なる事 確信するのである。
(94ページ)
住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地
父 木村久
(97ページ)日本の軍人には偉い人もいたであろう。然し、私の見た軍人には誰も偉い人は居なかった。早い話が高等学校の教授程の人物すら将軍と呼ばれる人の中に居らない。監獄に居て何々中将少将と言ふ人に幾人も会ひ共に生活しているのであるが、軍服を抜いだ赤裸の彼等は其の言動に於ては実に見聞するに耐え得ないものである。此の程度の将軍を戴いていたの
(99ページ)では、日本に幾ら科学?物資があったとしても戦勝は到底望み得ないものであったと思はれる程である。特に満州事変以後、更には南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追ふ商人よりも根性は下劣なものであったと言ひ得る。木曽義仲が京へ出て失敗したのと何処か似た所のあるのは否定し得ない。
(101ページ)彼が常々大言壮語して止まなかった忠義 犠牲的精神、其の他の美学麗句も、身に装ふ着物以外の何者でもなく、終戦に依り着物を取り除かれた彼等の肌は実に耐え得ないものであった。此の軍人を代表するものとして東條前首相がある。更に彼の終戦に於て自殺は何たる事か。無責任なる事甚だしい。之が日本軍人の凡てであるのだ。
(103ページ)然し国民は之等軍人を非難する前に、斯かる軍人の存在を許容し又養って来た事を知り、結局の責任は日本国民全般の知能程度の低かったことにあるのである。知能程度の低い事は結局歴史の浅い事だ。歴史二千六百有余年の何かは知らないが内容の貧弱にして長い事ばかりが自慢なのではない。近世社会としての
(105ページ)訓練と経験が少なかったのだと言っても今ではもう非国民として軍部からお叱りを受けないであろう。私の高校時代の一見叛逆として見えた生活は全く此の軍閥的傾向への追従への反撥に外ならなかったのである。
(107ページ)私の軍隊生活に於て、中等学校、専門学校や何処かの私大あたりを出た将校が、只将校たるの故を以て大言壮語をしていた。私が円曲乍ら彼等の思想を是正しようとするものなら、彼等は私を「お前は自由主義者だ」と一言のもとに撥ねつけてきた。彼等の言ふ自由主義とは即ち「彼等に都合のよい思惑には不都合なる思想」と言ふ意味以外には何もないのである。又それ以外の事は何も解らないのである。
(109ページ)軍人社会の持っていた外延的な罪悪、内包的な罪悪、枚挙すれば限りがない。それ等は凡て忘却しよう。彼等も矢張り日本人なのであるから。然し一つ言って置きたい事は、軍人は全国民の前で腹を切る気持ちで謝罪し、余生を社会奉仕のために捧げなければならない事である。軍人が今日迄なして来た栄誉栄華は誰のお陰だったのであるか、凡て国民の犠牲のもとに為されたにすぎないものである。
(111ページ)労働者、出征家族の家には何も食物はなくても、何々隊長と言はれる様なお家には肉でも魚でも果子でも幾らでもあったのである。ーーーー以下は語るまい、涙が出て来る計りである。
(113ページ)天皇崇拝の熱の最も厚かったのは軍人さんだそうである。然し、一枚の紙を裏返へせば、天皇の名を最も乱用、悪用した者は即ち軍人様なのであって、古今之に勝る例は見ない。所謂「天皇の命」と彼等の言ふのは即ち「軍閥」の命と言ふのと実質的には何等変らなかったのである。只此の命に従はざる者の罪する時にのみ天皇の権力と言ふものが用ひられたのである。若し之を聞いて怒る軍人あるとする
(115ページ)ならば、終戦の前と後に於ける彼等の態度を正直に反省せよ。私が戦も終った今日に至って絞首台の露と消ゆる事を、私の父母は、私の運の不幸を嘆くであろう。然し、私としては神が斯くも良く私を此処迄で御加護して下さった事を、感謝しているのである。之で最後だと自ら断念した事が幾多の戦闘の中に幾度びもあった。それでも私
(117ページ)は擦傷一つ負はずして今日迄生き長らへ得たのである。全く今日迄の私は幸福であったと言わねばならない。私に今の自分の不運を嘆くよりも、過去に於ける神の厚き御加護を感謝して死んで行き度いと考えている。父母よ嘆くな、私が今日迄生き得たと言う事が幸福だったと考えてくれ。私もそう信じて死んで行き度い。
(119ページ)今計らずもつまらないニュースを聞いた。戦争犯罪者に対する適用条項が削減されて我々に相当な減刑があるだろうと言ふのである。数日前、番兵から此の度び新に規則が変って、命令でやった兵隊の行動には何等罪はないことになったとのニュースを聞いたのと考え合わせて、何か淡い希望の様なものが湧き上った。然し之等のことは結果から見れば死に到る迄での果無い波にすぎないと思はれるのである。
(121ページ)私が特に之を書いたのは、人間が愈々死に到るまでには、色々の精神的変化を自ら惹起して行くものなることを表はさんがためである。人間と云う物は死を覚悟し乍らも、絶えず生への吸着から離れ切れないものである。
(123ページ)アンダマン海軍部隊の主計長をしている主計少佐内田実氏は実に立派な人である。氏は年令三十そこそこであり、東京商大を出た秀才である。何某将軍、司令官と言はれる人でさえ人間的には氏に遥か及ばない。其の他軍人と称される者が此の一、商大出の主計官に遥か及ばないのは何たる皮肉か。稀を無理に好む理由(わけ)ではないが、日本の全体が案外之を大きくしたものにすぎなかった
(125ページ)のではないかと疑わざるを得ないのである。矢張り書き読み、自ら苦しみ、自ら思索して来た者には、然からざる者とは何処か言ふに言われぬ相異点のあるものだと痛感せしめられた。高位高官の人々も其の官位の取り去られた今日に於ては、少しでもの快楽を少しでも多量に享受せんと見栄も外聞も考慮出来ない現実をまざまざ見せ付けられた。
(127ページ)今時に於ては全く取り返しのつかない皮肉さえ痛感するのである。精神的であり、亦、たる可きと高唱して来た人々の如何に其の人格の賎しき事を我々日本のために暗涙禁ず能はず。明日は死すやもしれない今の我が身であるが、此の本は興味盡きないものがある。三回目の読書に取り掛る。死の直前とは言ひ乍ら、此の本は言葉
(129ページ)では表し得ない楽しさと、静かではあるが真理への情熱を与へてくれる。何だか私の本性を再び、凡ての感情を超越して、振り帰らしてくれるものがあった。家庭問題をめぐって随分な御厄介を掛けた一津屋の御祖母様の苦労、幼な心にも私には強く刻み付けられていた。私が一人前となれば、先ず第一に其の御恩返しは是
(131ページ)非せねばならないと私は常々一つの希望として深く心に抱いていた。然し、今や其の御祖母様よりも早く立って行く。此の大きな念願の一つを果し得ないのは、私の心残りの大きなものの一つだ。此の私の意思は妹の孝子に依り是非実現されんことを希ふ。今まで口には出さなかったが、此の期に及んで特に一筆する次第である。
(133ページ)私の仏前、及び墓前には、従来仏花よりも、ダリヤ、チューリップなどの華かな洋花も供えてくれ。之は私の心を象徴するものであり、死後は殊に華かに、明るくやって行きたい。美味しい洋菓子をどっさり供えてくれ。私の頭腦(とうのう)にある仏壇は余りにも静かすぎた。私の仏前はもっと明るい華かなものであり度い。仏道に反するかも知れないが仏たる私の願う事だ。
(135ページ)そして私の個人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ、私の誕生日である四月九日を仏前で祝ってくれ。私はあくまで死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは唯私の生れた日丈であって欲しい。私の一生に於て楽しく記念さる可き日は、入営以後は一日も無い筈だ。私の一生の中最も記念さる可きは昭和十四年八月だ。それは私が四国の面河の渓で始めて
(137ページ)社会科学の書をひもどいた時であり又同時に真に学問と云ふものの厳粛さを感得し、一つの自覚した人間として、出発した時であって、私の感激ある人生は唯其の時から始まったのである。
(139ページ)此の本を父母に渡す様お願いした人は上田大佐である。氏はカーニコバルの民政部長であって私が二年に渉って厄介になった人である。他の凡ての将校が兵隊など全く奴隷の如く扱って顧みないのであるが、上田氏は全く私に親切であり、私の人格も充分尊重された。私は氏より一言のお叱も受けた事はない。私は氏より兵隊としてではなく、一人の学生として扱われた。若し私が氏に巡り会ふ事がなければ、私のニコバルに於ての生活はもっとみじめなものであり、私は他の兵隊が毎日やらせられた様な
(141ページ)重労働により恐らく、病気で死んでいたであろうと思はれる。私は氏のお陰に依りニコバルに於ては将校すらも及ばない優遇を受けたのである。之全く氏のお陰で、氏以外の誰ものもの為めではない。之は父母も感謝されて良い。そして法廷に於ける氏の態度も立派であった。
(196ページ)Marxの下部構造と上部構造
(207ページ)絶対否定的自己同一、弁証法的世界
(奥付けの右ページ)此の一書を私の遺品の一つとして送る。昭和二十一年四月十三日 シンガポール チャンギー監獄に於て読了。死刑執行の日を間近に控え乍ら、之が恐らく此の世に於ける最後の本であろう。最後に再び田辺氏の名著に接し得たと言う事は無味乾燥たりし私の一生に最後一抹の憩ひと意義とを添えてくれる物であった。母よ泣く勿れ、私も泣かぬ。
(巻末余白ページ)
紺碧の空に消えゆく生命かな
【遺書は田辺元『哲学通論』昭和八年版の欄外に鉛筆で書き込まれていた。カタカナ部分は平仮名で表記する。明らかに誤記と思われるものもあるが、獄にある息遣いと感情の発露によるものゆえにそのまま記録した。遺書とはそうした精神の混乱もふくめて極限にある人間の本源的発露であると判断するからである。】
(扉)死の数日前偶然に此の書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである。
(1ページ)鉛筆の傍線は私が引いたものである。
父 木村久
住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地
此の書に向っていると何処からともなく湧き出づる楽しさがある。明日は絞首台の露と消ゆるやも知れない身であり乍ら、盡きざる興味にひきつけられて、本書の三回目の読書に取り掛る。昭和二十一年四月二十二日
(5ページ)私は此の書を充分理解することが出来る。学問より離れて既に四年、其の今日に於ても猶、難解を以て著名な本書をさしたる困難なしに読み得る今の私の頭脳を我れ乍ら有難く思うと共に、過去に於ける私の学的生活の精進を振り帰って楽しく味あるものと吾れ乍ら喜ぶのである。
(7ページ)曾て読みし博士の著書「科学と哲学との間」を思い出す。
(8ページ)住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地
父 木村久
(10ページ右欄外)
此の世への名残りを思ひて味ひぬ一匙の菜一匙のかゆ
(11ページ)私の死に当って感想を断片的に書き綴って行く。紙に書く事を許されない今の私に取っては之に記すより他に方法がないのである。私は死刑を宣告された。誰が之を予測したであろう。
(12ページ右欄外)
つくづくと幾起き臥しのいや果の我が身悲しも夜半に目瞠めつ
(13ページ)年令三十に到らず、且学半ばにして既に此の世を去る運命、誰が予知し得たであろう。波乱極めて多かった私の一生も亦波乱の中に沈み消えて行く。何か知ら一つの大きな小説の様だ。然し凡て大きな運命の命ずる所と知った時、最後の諦観が湧いて来た。
(14ページ右欄外)
紺碧の空を名残りに旅立たむ若き生命よいまやさらばと
(15ページ)大きな歴史の転換の影には私の様な蔭の犠牲が幾多あったものなるかと過去の歴史に照らして知る時、全く無意味ではあるが私の死も大きな世界歴史の命ずる所なりと感知するのである。
(16ページ右欄外)
朝がゆをすゝりつ思ふ古郷の父よ嘆くな母よ許せよ
(17ページ)日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本は無理をした。非難する可き事も随分として来た。全世界の怒りも無理はない。世界全人の気晴らしの一つとして今私は死んで行くのである。否殺されて行くのである。之で世界人の気持が少しでも静まればよいのである。それは将来の日本に幸福の種を残すことだ。
(18ページ右欄外)
かにかくに凡て名残りは盡きざれど学成らざるは更に悲しき
(19ページ)私は何等死に値する悪はした事はない。悪を為したのは他の人である。然し今の場合弁解は成立しない。江戸の仇を長崎で打たれたのであるが、全世界からして見れば彼も私も同じく日本人である。即ち同じなのである。
(20ページ右欄外)
思ふこと盡きて更には無けれども唯安らけく死にて行かまし
(21ページ)彼の責任を私が取って死ぬ、一見大きな不合理ではあるが、之の不合理は過去矢張り我々日本人が同じくやって来たのである事を思へば矢鱈非難出来ないのである。彼等の目に留った私が不運なりとしか之以上理由の持って行き所はないのである。
(22ページ)
みんなみの露と消え行く生命(いのち)もて朝かゆすゝる心かなしも
(23ページ)日本の軍隊のため犠牲になったと思へば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない、笑って死んで行ける。
(24ページ右欄外)
音もなく我より去りし物なれど書きて偲びぬ明日と言ふ字を
(25ページ)日本の軍人、殊に陸軍の軍人は、私達の予測していた通り矢張り、国を亡した奴であり、凡ての虚飾を取り去れば私欲、其の物の他に何物でもなかった。今度の私の事件に於ても最も態度の賎しかったのも陸軍の将校連中であった。之に比ぶれば海軍将校はまだ立派であったと言い得る。
(26ページ右欄外)
雨音に鳴く夏虫の声聞きて母かとぞ思ふ夜半に目覚(目ヘン)めつ
(27ページ)大東亜戦以前の陸軍々人の態度を見ても容易に想像される所であった。陸軍々人は余り俗世に乗り出しすぎた。彼等の常々の広告にも不拘、彼等は最も賎しい世俗の権化となっていたのである。それが終戦後明瞭に現れて来た。生、物に吸着したのは陸軍々人であった。
(28ページ右欄外)
かすかにも風な吹き来そ沈みたる心の塵の立つぞ悲しき
(29ページ)大風呂敷が往々にして内容の貧弱なものなるとは我国陸軍が其の好例であるとつくづく思われた。我国民は今や大きな反省をしつつあるだろうと思う。其の反省が今の逆境が明るい将来の日本に大きな役割を与えるであろう。これを見得ずして死するは残念であるが世界歴史の命ずる所、所詮、致し方がない。
(30ページ右欄外)
悲しみも涙も怒りも盡き果てし此のわびしさを持ちて死なまし
(31ページ)此の度びの私の裁判に於ても、亦判決後に於ても私の身の潔白を証明す可く私の最善の努力をして来た。然し私が余りにも日本国のために働きすぎたるがため、身は潔白であっても責は受けなければならないのである。ハワイで散った軍神も今となっては世界の法を侵した罪人以外の何者でもなかったと同様、ニコバル諸島駐屯軍のために敵の諜者を発見し当時は全島の感謝と上官よりの讃辞を浴び
(32ページ右欄外)
明日と言ふ日もなき生命抱きつも文よむ心盡くることなし
??田辺氏の書を再読してーー
(33ページ)方面軍よりの感状を授与されるやも知れずと迄言われてた私の行為も一ケ月後に起った日本降伏のため更って結果は逆になった。当時の事情は福中英三氏が良く知っている 聞いてくれ。日本国に取り効となった事も、価値判断の基準の変った今日に於ては仇となるも、之は私達の力を以てしては如何とも致し方ない。
(34ページ右欄外)
故里の母を思ひて涙しぬ唇かみてじっと眼を閉づ
(35ページ)凡ての原因は日本降伏にある。然し此の日本降伏が
(37ページ)全日本国民のために必須なる以上、私一個人の犠牲の如きは涙を飲んで忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦を判ってい乍ら此の戦を起した軍部に持って行くより為方はない。然し又更に考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許して来た全日本国民に其の遠い責任がある事を知らなければならない。日本人は凡ての面に於て、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。凡て吾が他より勝れリと考へ、又考へせしめた我々の指導者及びそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に凡ての責任がある。
(36ページ右欄外)
眼を閉じて母を偲(おも)へば幼な日の懐(いと)し面影消ゆる時なし
(注、ルビは木村)
(38ページ右欄外)
思ひでは消ゆることなし故郷の母と眺めし山の端の月
(39ページ)日本は凡ての面に於て混乱に陥るであろう。然しそれで良いのだ。嘗ての如き、今の我に都合の悪きもの意に添はぬものは凡て悪なりとして、腕力を以て、武力を以て排撃して来た我々の態度の行く可き結果は明白であった。今や凡ての武力、腕力を捨てて、凡ての物を公平に認識、吟味、価値判断する事が必要なのである。それで之が真の発展を我々に与へてくれるものなのである。
(40ページ右欄外)
遠国(トホクニ)に消ゆる生命の淋しさにまして嘆かる父母のこと
(41ページ)凡てのものを其の根底より再吟味する所に、我々の再発展がある。ドグマ的な凡ての思想が地に落ちた今度の日本は幸福である。それを見得ないのは全く残念至極であるが、私に更にもっともっと立派な頭の聡明な人が之を見、且指導を行ってくれるであろう。何と言っても日本は根底から変革し、構成し直されなければならない。若き学徒の活躍を祈る。
(42ページ右欄外)
父母よ許し給へよ敗れたる御国のために吾は死すなり
(43ページ)私の蔵書は凡て、恩師塩尻先生の指示に依り処分してくれ。私の考へとしては高等学校に寄贈するのが最も有効なのではないかと考える。塩尻、八波、徳田、阿部の四先生には必ず私の遺品の何かを差し上げてくれ。塩尻先生の著「天分と愛情の問題」を地の遠隔なりしため今日の死に至るまで一度も拝読し得なかった事はくれぐれも残念である。
(44ページ右欄外)
指を噛み涙流して遥かなる父母に祈りぬさらばゝと
(45ページ)孝子を早く結婚させてやってくれ。私の死に依り両親並に妹が落膽甚しく一家の衰亡に趣かん事を最も恐れる。母よ落膽すな、父よ落胆すな。そして父よ、母に対してやさしくあれ。私が父に願ふ事は之丈である。そして之こそ死んでも忘れられない只の一事である。願ふ。
(46ページ右欄外)
詩境もて死境に入るは至境なり斯境なからば悲境なりけり
??狂歌??
(47ページ)私の葬儀など簡粗にやってくれ。盛大は更って私の気持を表はさないものである。墓石は祖母の横に建ててくれ。私が小供の時、祖母の次に立つ石碑は誰のであろうかと考へた事があったが、此の私のそれが建つなどとは此の私にも想像がつかなかった。然し之はあくまで一つの大きな世界の歴史の象徴であろう。墓の前の柿の果、それを私が喰う時がやがて来るであろう。
(49ページ)我々罪人を看視しているのはもと我軍に俘虜たりしオランダ軍兵士である。曾て日本兵士より大変なひどい目に遭はされたとかで我々に対するしっぺ返しは大変なものである。撲る蹴るは最もやさしい部類である。然し吾々日本人も之以上の事をやっていたのを思えば文句は出ない。
(51ページ)更って文句をブツブツ言ふ者に陸軍の将校の多いのは曾ての自己を棚に上げた者で、我々日本人にさえも尤もだと言ふ気は起らない。一度も俘虜を使った事のない、又一度もひどい行為をした事のない私が斯様な所で一様に扱われるのは全く残念ではあるが、然し向こふ側よりすれば私も他も同じ日本人である。区別してくれと言ふ方が無理かも知れぬ。
(53ページ)然し天運なのか、私は一度も撲れた事も蹴られた事もない。大変皆々から好かれている。我々の食事は朝米紛の糊と夕方に「カユ」を食ふ二食で一日中腹ペコペコで、やっと歩ける位の勢力しかないのである。然し私は大変好かれているのか、監視の兵隊がとても親切で夜分こっそりとパン、ビスケット、煙草などを持ってきてくれ、昨夜などはサイダーを一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。モノに対してよりも親切に対してである。
(55ページ)其の中の一人の兵隊が或は進駐軍として日本へ行くかも知れぬと言ふので、今日私は私の手紙を添へて私の住所を知らせた。可能性は薄いが、此の兵隊が私の謂はば無実の罪に非常に同情し、親切にしてくれるのである。大極的には徹底的な反日の彼等も、斯の個々に接して居る内には斯様に親切な者も出てくるのである。矢張り人間だ。
(57ページ)此の兵士は戦前はジャワの中学校の先生で、我軍に俘虜となっていたのであるが、其の間、日本の兵士より撲る、焼くの虐待を受けた様子を詳しく語り、其の人には何故日本兵士には撲る蹴るなどの事があれ程平気で出来るのか全く理解出来ないと言っていた。私は日本人全般の社会教育、人道教育が低く、且 社会的試練を充分に受けていないから斯くある旨を
(59ページ)よく説明して置いた。又彼には日本婦人の社会的地位の低いことが大変な理解出来ぬ事であるらしい つまらぬ之等の兵士からでも、全く不合理と思へる事が日本では平然と何の反省もなく行われている事を幾多指摘されるのは全く日本に取って不名誉な事である。彼等が我々より進んでいるとは決して言わないが、真赤な不合理が平然と横行するまま許してきたのは何と言っても
(61ページ)我々の赤面せざる可からざる所である。単なる撲ると言ふ事から丈でも、我々日本人の文化的水準が低いとせざる可からざる諸々の面が思ひ出され、又指摘されるのである。殊に軍人社会、及び其の行動が其の表向きの大言壮語に不拘らず、本髄は古い中世的なもの其物に他ならなかった事は反省し全国民に平身低頭謝罪せねばならぬ所である。
(63ページ)吸ふ一息の息、吐く一息の息、喰ふ一匙の飯、之等の一つ一つの凡てが今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く。軈て数日の中には私へのお呼びも掛って来るであろう。それ迄に味ふ最後の現世
(65ページ)への触感である。今迄は何の自覚なくして行って来た之等の事が、味へば之程切なる味を持ったものなる事を痛感する次第である。口に含んだ一匙の飯が何とも言い得ない刺激を舌に与え、且の溶けるが如く、喉から胃へと降りて行く触感に目を閉じてじっと味ふ時、此の現世の凡ての
(67ページ)ものを只一つとなって私に与へてくれるのである。泣き度くなる事がある。然し涙さえもう今の私には出る余裕はない。極限迄押し詰められた人間には何の立腹も、悲観も涙もない、只与えられた舜間舜間を只有難く、それあるがままに享受して行くのである。死の舜間を考へる時には矢張り恐ろしい、不快な気分に押し包まれるが、その事は其の舜間が来る迄考へない事にする。そして其の舜間が
(69ページ)来た時は即ち死んでいる時だと考へれば、死などは案外易しいものなのではないかと自ら慰めるのである。
(71ページ)私が此の書を死の数日前 計らずも入手するを得た。偶然に之を入手した私は、死迄にもう一度之を読んで死にたいと考へた。数年前、私が未だ若き学徒の一人として社会科学の基本原理への欲求盛なりしとき、其の一助として、此の田辺氏の名著を手にした事があった。何分有名な程 難しい本であったので、非常な苦労を排して一読せし事を憶えている。その時は洛北白川の一書斎であったが、今は遥か故郷を離れた昭南
(73ページ)の、しかも、監獄の冷いコンクリートの寝台の上である。難解乍ら生の幕を閉じる寸前、此の書を再び読み得たと言ふ事は、私に最後の楽しみと憩ひと情熱とを再び与へてくれるものであった。数ケ年の非学究的生活の後に始めて之を手にし一読するのであるが、何だか此の書の一字一字の中に昔の野心に燃えた私の姿が見出される様で、誠に懐しく感激に打ち閉ざされた。
(75ページ)世界的名著は何時何処に於ても、亦、如何なる状態の人間にも燃ゆるが如き情熱と憩いとを与えてくれるものである。私は凡ての目的、欲求とから離れて、一息のもとに此の書を一読した。そして更にもう一読した。何とも言ひ得ない、凡ての欲求から離れての、すがすがしい気持ちであった。私に取っては死の前の読経にも比さる可き感覚を与へてくれた。曾ての如き学求への情熱に
(77ページ)燃えた快味ではなくして、凡てあらゆる形容詞を否定した、乗り込えた言葉では表し得ない、すがすがしい感覚を与へてくれたのである。書かれたものが遺言書ならば、私は此の書の書かれざる、何となく私と言ふものを象徴してくれる最適のものとして此の書を紀念として残すのである。私が此の書に書かれている哲理を凡て理解了解したと言ふのではない。むしろ、此の書の内容からは
(79ページ)もっと距離があるかも知れないが、私の言い度い事は、私が此の書を送る意味は、本著者田辺氏が本書を書かんと筆を取られた其の時の氏の気分が、即ち私が一生を通じて求めてきた気分であり、そして私が此の書を遺品として最も私を象徴してくれる遺品として、遺す以所である。
(81ページ)私の死を聞いて先生や学友が多く愛惜してくれるであろう。「きっと立派な学徒になったであろうに」と愛惜してくれるであろう。若し私が生き長らへて平々凡々たる市井の人として一生を送るとするならば、今此のまま此処で死する方が私として幸福かも知れない。又世俗凡欲には未だ穢され切っていない今の若い学究への純粋を保ったままで一生を終る方が或は美しい潔いものであるかも知れない。
(83ページ)私としては生き長らへて学究への旅路を続けて生度いのは当然の事ではあるが、神の目から見て、結果論にして、今運命の命ずるままに死する方が私には幸福なのであるかも知れない。私の学問が結極は、積読(つんどく)以上の幾歩も進んだもので無いものとして終るならば、今の潔い此の純粋な情熱が一生の中 最も価値高きものであるかも知れない。
(85ページ)私は生きる可く、私の身の潔白を証す可くあらゆる手段を盡くした。私は上級者たる将校連より法廷に於ける真実の陳述をなす事を厳禁され、それが為め、命令者たる上級将校が懲役、私が死刑の判決を下された。之は明かに不合理である。私は私の生きん事が将校連の死よりも日本の為めには数倍有益なる事明白であり、又事件其の物が実情として
(87ページ)も、之は当然命令者なる将校に責が行く可きであり、又彼等が自分自身で之を知れるが故に私に事実の陳述を厳禁したのであり、又此処で生きるのが私には当然であり、至当であり、日本国家の為めにも為さねばならぬ事であり、又最後の親孝行でもあると思って判決のあった後ではあるが、私は英文の書面を以て事件の真相を
(89ページ)暴露して訴えた。上告のない裁判であり、又判決後であり、又元来から正当な良心的な裁判ではないのであるから、私の真相暴露が果して取り上げられるか否かは知らないが、親に対して、国家に対しての私の最後の申し訳けとして最後の努力をしたのである。始め私は虚偽の陳述が日本人全体のためになるならば止むなしとして命に従ったのであるが
(91ページ)結果は逆に我々被命令者に仇となったので、真相を暴露した次第である。若しそれが取り上げられたならば、数人の大佐、中佐や数人の尉官達が死刑を宣告されるであろうが、それが真実である以上、当然であり、又彼等の死を以て此の私が救われるとするならば、国家的見地から見て、私の生の方が数倍有益である事を確
(93ページ)信したからである。美辞麗句ではあるが、内容の全くない、精神的とか称する言語を吐き乍ら、内面に於ては軍人景気に追従し、物欲、名誉欲、虚栄以外には何物でもない我々軍人が、過去に於て為して来たと同様、仮りに将来に於て生きるも何等国家に有益な事は為し得ない事 明白なる事 確信するのである。
(94ページ)
住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地
父 木村久
(97ページ)日本の軍人には偉い人もいたであろう。然し、私の見た軍人には誰も偉い人は居なかった。早い話が高等学校の教授程の人物すら将軍と呼ばれる人の中に居らない。監獄に居て何々中将少将と言ふ人に幾人も会ひ共に生活しているのであるが、軍服を抜いだ赤裸の彼等は其の言動に於ては実に見聞するに耐え得ないものである。此の程度の将軍を戴いていたの
(99ページ)では、日本に幾ら科学?物資があったとしても戦勝は到底望み得ないものであったと思はれる程である。特に満州事変以後、更には南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追ふ商人よりも根性は下劣なものであったと言ひ得る。木曽義仲が京へ出て失敗したのと何処か似た所のあるのは否定し得ない。
(101ページ)彼が常々大言壮語して止まなかった忠義 犠牲的精神、其の他の美学麗句も、身に装ふ着物以外の何者でもなく、終戦に依り着物を取り除かれた彼等の肌は実に耐え得ないものであった。此の軍人を代表するものとして東條前首相がある。更に彼の終戦に於て自殺は何たる事か。無責任なる事甚だしい。之が日本軍人の凡てであるのだ。
(103ページ)然し国民は之等軍人を非難する前に、斯かる軍人の存在を許容し又養って来た事を知り、結局の責任は日本国民全般の知能程度の低かったことにあるのである。知能程度の低い事は結局歴史の浅い事だ。歴史二千六百有余年の何かは知らないが内容の貧弱にして長い事ばかりが自慢なのではない。近世社会としての
(105ページ)訓練と経験が少なかったのだと言っても今ではもう非国民として軍部からお叱りを受けないであろう。私の高校時代の一見叛逆として見えた生活は全く此の軍閥的傾向への追従への反撥に外ならなかったのである。
(107ページ)私の軍隊生活に於て、中等学校、専門学校や何処かの私大あたりを出た将校が、只将校たるの故を以て大言壮語をしていた。私が円曲乍ら彼等の思想を是正しようとするものなら、彼等は私を「お前は自由主義者だ」と一言のもとに撥ねつけてきた。彼等の言ふ自由主義とは即ち「彼等に都合のよい思惑には不都合なる思想」と言ふ意味以外には何もないのである。又それ以外の事は何も解らないのである。
(109ページ)軍人社会の持っていた外延的な罪悪、内包的な罪悪、枚挙すれば限りがない。それ等は凡て忘却しよう。彼等も矢張り日本人なのであるから。然し一つ言って置きたい事は、軍人は全国民の前で腹を切る気持ちで謝罪し、余生を社会奉仕のために捧げなければならない事である。軍人が今日迄なして来た栄誉栄華は誰のお陰だったのであるか、凡て国民の犠牲のもとに為されたにすぎないものである。
(111ページ)労働者、出征家族の家には何も食物はなくても、何々隊長と言はれる様なお家には肉でも魚でも果子でも幾らでもあったのである。ーーーー以下は語るまい、涙が出て来る計りである。
(113ページ)天皇崇拝の熱の最も厚かったのは軍人さんだそうである。然し、一枚の紙を裏返へせば、天皇の名を最も乱用、悪用した者は即ち軍人様なのであって、古今之に勝る例は見ない。所謂「天皇の命」と彼等の言ふのは即ち「軍閥」の命と言ふのと実質的には何等変らなかったのである。只此の命に従はざる者の罪する時にのみ天皇の権力と言ふものが用ひられたのである。若し之を聞いて怒る軍人あるとする
(115ページ)ならば、終戦の前と後に於ける彼等の態度を正直に反省せよ。私が戦も終った今日に至って絞首台の露と消ゆる事を、私の父母は、私の運の不幸を嘆くであろう。然し、私としては神が斯くも良く私を此処迄で御加護して下さった事を、感謝しているのである。之で最後だと自ら断念した事が幾多の戦闘の中に幾度びもあった。それでも私
(117ページ)は擦傷一つ負はずして今日迄生き長らへ得たのである。全く今日迄の私は幸福であったと言わねばならない。私に今の自分の不運を嘆くよりも、過去に於ける神の厚き御加護を感謝して死んで行き度いと考えている。父母よ嘆くな、私が今日迄生き得たと言う事が幸福だったと考えてくれ。私もそう信じて死んで行き度い。
(119ページ)今計らずもつまらないニュースを聞いた。戦争犯罪者に対する適用条項が削減されて我々に相当な減刑があるだろうと言ふのである。数日前、番兵から此の度び新に規則が変って、命令でやった兵隊の行動には何等罪はないことになったとのニュースを聞いたのと考え合わせて、何か淡い希望の様なものが湧き上った。然し之等のことは結果から見れば死に到る迄での果無い波にすぎないと思はれるのである。
(121ページ)私が特に之を書いたのは、人間が愈々死に到るまでには、色々の精神的変化を自ら惹起して行くものなることを表はさんがためである。人間と云う物は死を覚悟し乍らも、絶えず生への吸着から離れ切れないものである。
(123ページ)アンダマン海軍部隊の主計長をしている主計少佐内田実氏は実に立派な人である。氏は年令三十そこそこであり、東京商大を出た秀才である。何某将軍、司令官と言はれる人でさえ人間的には氏に遥か及ばない。其の他軍人と称される者が此の一、商大出の主計官に遥か及ばないのは何たる皮肉か。稀を無理に好む理由(わけ)ではないが、日本の全体が案外之を大きくしたものにすぎなかった
(125ページ)のではないかと疑わざるを得ないのである。矢張り書き読み、自ら苦しみ、自ら思索して来た者には、然からざる者とは何処か言ふに言われぬ相異点のあるものだと痛感せしめられた。高位高官の人々も其の官位の取り去られた今日に於ては、少しでもの快楽を少しでも多量に享受せんと見栄も外聞も考慮出来ない現実をまざまざ見せ付けられた。
(127ページ)今時に於ては全く取り返しのつかない皮肉さえ痛感するのである。精神的であり、亦、たる可きと高唱して来た人々の如何に其の人格の賎しき事を我々日本のために暗涙禁ず能はず。明日は死すやもしれない今の我が身であるが、此の本は興味盡きないものがある。三回目の読書に取り掛る。死の直前とは言ひ乍ら、此の本は言葉
(129ページ)では表し得ない楽しさと、静かではあるが真理への情熱を与へてくれる。何だか私の本性を再び、凡ての感情を超越して、振り帰らしてくれるものがあった。家庭問題をめぐって随分な御厄介を掛けた一津屋の御祖母様の苦労、幼な心にも私には強く刻み付けられていた。私が一人前となれば、先ず第一に其の御恩返しは是
(131ページ)非せねばならないと私は常々一つの希望として深く心に抱いていた。然し、今や其の御祖母様よりも早く立って行く。此の大きな念願の一つを果し得ないのは、私の心残りの大きなものの一つだ。此の私の意思は妹の孝子に依り是非実現されんことを希ふ。今まで口には出さなかったが、此の期に及んで特に一筆する次第である。
(133ページ)私の仏前、及び墓前には、従来仏花よりも、ダリヤ、チューリップなどの華かな洋花も供えてくれ。之は私の心を象徴するものであり、死後は殊に華かに、明るくやって行きたい。美味しい洋菓子をどっさり供えてくれ。私の頭腦(とうのう)にある仏壇は余りにも静かすぎた。私の仏前はもっと明るい華かなものであり度い。仏道に反するかも知れないが仏たる私の願う事だ。
(135ページ)そして私の個人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ、私の誕生日である四月九日を仏前で祝ってくれ。私はあくまで死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは唯私の生れた日丈であって欲しい。私の一生に於て楽しく記念さる可き日は、入営以後は一日も無い筈だ。私の一生の中最も記念さる可きは昭和十四年八月だ。それは私が四国の面河の渓で始めて
(137ページ)社会科学の書をひもどいた時であり又同時に真に学問と云ふものの厳粛さを感得し、一つの自覚した人間として、出発した時であって、私の感激ある人生は唯其の時から始まったのである。
(139ページ)此の本を父母に渡す様お願いした人は上田大佐である。氏はカーニコバルの民政部長であって私が二年に渉って厄介になった人である。他の凡ての将校が兵隊など全く奴隷の如く扱って顧みないのであるが、上田氏は全く私に親切であり、私の人格も充分尊重された。私は氏より一言のお叱も受けた事はない。私は氏より兵隊としてではなく、一人の学生として扱われた。若し私が氏に巡り会ふ事がなければ、私のニコバルに於ての生活はもっとみじめなものであり、私は他の兵隊が毎日やらせられた様な
(141ページ)重労働により恐らく、病気で死んでいたであろうと思はれる。私は氏のお陰に依りニコバルに於ては将校すらも及ばない優遇を受けたのである。之全く氏のお陰で、氏以外の誰ものもの為めではない。之は父母も感謝されて良い。そして法廷に於ける氏の態度も立派であった。
(196ページ)Marxの下部構造と上部構造
(207ページ)絶対否定的自己同一、弁証法的世界
(奥付けの右ページ)此の一書を私の遺品の一つとして送る。昭和二十一年四月十三日 シンガポール チャンギー監獄に於て読了。死刑執行の日を間近に控え乍ら、之が恐らく此の世に於ける最後の本であろう。最後に再び田辺氏の名著に接し得たと言う事は無味乾燥たりし私の一生に最後一抹の憩ひと意義とを添えてくれる物であった。母よ泣く勿れ、私も泣かぬ。
(巻末余白ページ)
紺碧の空に消えゆく生命かな