有田芳生の『酔醒漫録』

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木村久夫ーー単行本『X』にむけて

2014-05-07 09:29:43 | 単行本『X』
 【高知にある歌人の吉井勇記念館で講演したのは、昨年8月24日でした。そのあとすぐに書いたのが下記の文章です。ここしばらくフェイスブックに記したことに関係があるので、ここに紹介します。】

 鉛筆で紙に書いた文字はどれぐらい消えないんだろうか。心して刻んだ実感ある言葉=思想はどうして時間の堆積とともに失われていくんだろうか。薄くなった書き込みを見てそんな思いがうかびました。だから印刷に残された記録は重要だ。思想と歴史の保存。しかし読まれ、理解され、たんなる知識ではなく、血肉化されなければ、力にはならない。そんなことを思ったのは「BC級戦犯」として28歳で刑死した木村久夫さんの取材をしていたときのことでした。7歳年下の孝子さんの眼前で8時間ほどかけて木村さんの遺書を大判のRHODIAのノートに書き写していたのは2006年4月です。シンガポールのチャンギー刑務所でたまたま入手した田辺元『哲学通論』の余白に木村さんは遺書を書きはじめます。1946年4月22日のことでした。

 木村さんはなぜ「たまたま」この哲学書を手に入れることができたのでしょうか。その後の取材で謎が解けました。これも単行本『X』で明らかにすることです。高知の吉井勇記念館で木村久夫さんの青春について講演したことが刺激となって、久しぶりに取材ノートを読み返してみました。遺書が書かれた『哲学通論』は木村孝子さんの手元にあります。吉井勇記念館には木村さんの蔵書の一部も展示されています。記念館は『哲学通論』の実物を展示したいと申し入れましたが、断られています。マスコミへの不信などさまざまな事情から、本の実物が人の眼にさらされることは、おそらく二度とないでしょう。88歳になった孝子さんだけのものになってしまいました。遺書が書かれた『哲学通論』は兄そのものだからです。『哲学通論』の扉にはこう記されています。

 死ノ数日前偶然に此ノ書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである。

 『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)では「四年前」が「四、五年前」、「消ゆる身」が「消える身」になっています。もともと1949年に東大生協から出版されてからずっと同じ記述になっています。これだけではありません。もっと本質的な違いがあることも驚きでした。遺書を刻印された『哲学通論』は、シンガポールからいかにして遺族の元の届いたのか。そもそも遺書は1通だけだったのか。戦犯裁判で木村さんはどのように陰謀に巻き込まれ、死刑判決を下されたのか。それらの謎を解き木村久夫さんの短い生涯とともに記録するのが私の歴史に対する責任だといまも思っています。

 ここに『哲学通論』の扉ページを公開します。鉛筆の筆記はこのように薄くなって行きます。それでも遺書に託された木村久夫さんの気高い思想は印刷物として、いまも、これからも日本社会にその「声」を届けていくのです。その核心が若い日本人への期待とともに、戦争だけは避けなければならないという生命をかけた痛切な願いなのです。昨日公開した木村さんの歌碑には、『哲学通論』に書かれた次のような歌が、本人の筆跡として刻まれています。私たちにはまだ残されている「明日」を、よりよき日本のためにいかしたいものです。

音もなく我より去りしものなれど書きて偲びぬ明日という字を


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木村久夫遺書全文を公開する

2014-04-30 07:01:22 | 単行本『X』
            木村久夫遺書全文

 【遺書は田辺元『哲学通論』昭和八年版の欄外に鉛筆で書き込まれていた。カタカナ部分は平仮名で表記する。明らかに誤記と思われるものもあるが、獄にある息遣いと感情の発露によるものゆえにそのまま記録した。遺書とはそうした精神の混乱もふくめて極限にある人間の本源的発露であると判断するからである。】

(扉)死の数日前偶然に此の書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである。

(1ページ)鉛筆の傍線は私が引いたものである。
父 木村久
住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地

 此の書に向っていると何処からともなく湧き出づる楽しさがある。明日は絞首台の露と消ゆるやも知れない身であり乍ら、盡きざる興味にひきつけられて、本書の三回目の読書に取り掛る。昭和二十一年四月二十二日

(5ページ)私は此の書を充分理解することが出来る。学問より離れて既に四年、其の今日に於ても猶、難解を以て著名な本書をさしたる困難なしに読み得る今の私の頭脳を我れ乍ら有難く思うと共に、過去に於ける私の学的生活の精進を振り帰って楽しく味あるものと吾れ乍ら喜ぶのである。

(7ページ)曾て読みし博士の著書「科学と哲学との間」を思い出す。
(8ページ)住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地
                         父 木村久
(10ページ右欄外)
 此の世への名残りを思ひて味ひぬ一匙の菜一匙のかゆ

(11ページ)私の死に当って感想を断片的に書き綴って行く。紙に書く事を許されない今の私に取っては之に記すより他に方法がないのである。私は死刑を宣告された。誰が之を予測したであろう。

(12ページ右欄外)
 つくづくと幾起き臥しのいや果の我が身悲しも夜半に目瞠めつ

(13ページ)年令三十に到らず、且学半ばにして既に此の世を去る運命、誰が予知し得たであろう。波乱極めて多かった私の一生も亦波乱の中に沈み消えて行く。何か知ら一つの大きな小説の様だ。然し凡て大きな運命の命ずる所と知った時、最後の諦観が湧いて来た。

(14ページ右欄外)
 紺碧の空を名残りに旅立たむ若き生命よいまやさらばと

(15ページ)大きな歴史の転換の影には私の様な蔭の犠牲が幾多あったものなるかと過去の歴史に照らして知る時、全く無意味ではあるが私の死も大きな世界歴史の命ずる所なりと感知するのである。

(16ページ右欄外)
 朝がゆをすゝりつ思ふ古郷の父よ嘆くな母よ許せよ

(17ページ)日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本は無理をした。非難する可き事も随分として来た。全世界の怒りも無理はない。世界全人の気晴らしの一つとして今私は死んで行くのである。否殺されて行くのである。之で世界人の気持が少しでも静まればよいのである。それは将来の日本に幸福の種を残すことだ。

(18ページ右欄外)
 かにかくに凡て名残りは盡きざれど学成らざるは更に悲しき

(19ページ)私は何等死に値する悪はした事はない。悪を為したのは他の人である。然し今の場合弁解は成立しない。江戸の仇を長崎で打たれたのであるが、全世界からして見れば彼も私も同じく日本人である。即ち同じなのである。

(20ページ右欄外)
 思ふこと盡きて更には無けれども唯安らけく死にて行かまし

(21ページ)彼の責任を私が取って死ぬ、一見大きな不合理ではあるが、之の不合理は過去矢張り我々日本人が同じくやって来たのである事を思へば矢鱈非難出来ないのである。彼等の目に留った私が不運なりとしか之以上理由の持って行き所はないのである。

(22ページ)
 みんなみの露と消え行く生命(いのち)もて朝かゆすゝる心かなしも

(23ページ)日本の軍隊のため犠牲になったと思へば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない、笑って死んで行ける。

(24ページ右欄外)
 音もなく我より去りし物なれど書きて偲びぬ明日と言ふ字を

(25ページ)日本の軍人、殊に陸軍の軍人は、私達の予測していた通り矢張り、国を亡した奴であり、凡ての虚飾を取り去れば私欲、其の物の他に何物でもなかった。今度の私の事件に於ても最も態度の賎しかったのも陸軍の将校連中であった。之に比ぶれば海軍将校はまだ立派であったと言い得る。

(26ページ右欄外)
 雨音に鳴く夏虫の声聞きて母かとぞ思ふ夜半に目覚(目ヘン)めつ

(27ページ)大東亜戦以前の陸軍々人の態度を見ても容易に想像される所であった。陸軍々人は余り俗世に乗り出しすぎた。彼等の常々の広告にも不拘、彼等は最も賎しい世俗の権化となっていたのである。それが終戦後明瞭に現れて来た。生、物に吸着したのは陸軍々人であった。

(28ページ右欄外)
 かすかにも風な吹き来そ沈みたる心の塵の立つぞ悲しき

(29ページ)大風呂敷が往々にして内容の貧弱なものなるとは我国陸軍が其の好例であるとつくづく思われた。我国民は今や大きな反省をしつつあるだろうと思う。其の反省が今の逆境が明るい将来の日本に大きな役割を与えるであろう。これを見得ずして死するは残念であるが世界歴史の命ずる所、所詮、致し方がない。

(30ページ右欄外)
 悲しみも涙も怒りも盡き果てし此のわびしさを持ちて死なまし

(31ページ)此の度びの私の裁判に於ても、亦判決後に於ても私の身の潔白を証明す可く私の最善の努力をして来た。然し私が余りにも日本国のために働きすぎたるがため、身は潔白であっても責は受けなければならないのである。ハワイで散った軍神も今となっては世界の法を侵した罪人以外の何者でもなかったと同様、ニコバル諸島駐屯軍のために敵の諜者を発見し当時は全島の感謝と上官よりの讃辞を浴び

(32ページ右欄外)
 明日と言ふ日もなき生命抱きつも文よむ心盡くることなし
          ??田辺氏の書を再読してーー

(33ページ)方面軍よりの感状を授与されるやも知れずと迄言われてた私の行為も一ケ月後に起った日本降伏のため更って結果は逆になった。当時の事情は福中英三氏が良く知っている 聞いてくれ。日本国に取り効となった事も、価値判断の基準の変った今日に於ては仇となるも、之は私達の力を以てしては如何とも致し方ない。

(34ページ右欄外)
 故里の母を思ひて涙しぬ唇かみてじっと眼を閉づ

(35ページ)凡ての原因は日本降伏にある。然し此の日本降伏が

(37ページ)全日本国民のために必須なる以上、私一個人の犠牲の如きは涙を飲んで忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦を判ってい乍ら此の戦を起した軍部に持って行くより為方はない。然し又更に考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許して来た全日本国民に其の遠い責任がある事を知らなければならない。日本人は凡ての面に於て、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。凡て吾が他より勝れリと考へ、又考へせしめた我々の指導者及びそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に凡ての責任がある。

(36ページ右欄外)
 眼を閉じて母を偲(おも)へば幼な日の懐(いと)し面影消ゆる時なし
                    (注、ルビは木村)

(38ページ右欄外)
 思ひでは消ゆることなし故郷の母と眺めし山の端の月

(39ページ)日本は凡ての面に於て混乱に陥るであろう。然しそれで良いのだ。嘗ての如き、今の我に都合の悪きもの意に添はぬものは凡て悪なりとして、腕力を以て、武力を以て排撃して来た我々の態度の行く可き結果は明白であった。今や凡ての武力、腕力を捨てて、凡ての物を公平に認識、吟味、価値判断する事が必要なのである。それで之が真の発展を我々に与へてくれるものなのである。

(40ページ右欄外)
 遠国(トホクニ)に消ゆる生命の淋しさにまして嘆かる父母のこと

(41ページ)凡てのものを其の根底より再吟味する所に、我々の再発展がある。ドグマ的な凡ての思想が地に落ちた今度の日本は幸福である。それを見得ないのは全く残念至極であるが、私に更にもっともっと立派な頭の聡明な人が之を見、且指導を行ってくれるであろう。何と言っても日本は根底から変革し、構成し直されなければならない。若き学徒の活躍を祈る。

(42ページ右欄外)
 父母よ許し給へよ敗れたる御国のために吾は死すなり

(43ページ)私の蔵書は凡て、恩師塩尻先生の指示に依り処分してくれ。私の考へとしては高等学校に寄贈するのが最も有効なのではないかと考える。塩尻、八波、徳田、阿部の四先生には必ず私の遺品の何かを差し上げてくれ。塩尻先生の著「天分と愛情の問題」を地の遠隔なりしため今日の死に至るまで一度も拝読し得なかった事はくれぐれも残念である。

(44ページ右欄外)
 指を噛み涙流して遥かなる父母に祈りぬさらばゝと

(45ページ)孝子を早く結婚させてやってくれ。私の死に依り両親並に妹が落膽甚しく一家の衰亡に趣かん事を最も恐れる。母よ落膽すな、父よ落胆すな。そして父よ、母に対してやさしくあれ。私が父に願ふ事は之丈である。そして之こそ死んでも忘れられない只の一事である。願ふ。

(46ページ右欄外)
 詩境もて死境に入るは至境なり斯境なからば悲境なりけり
                ??狂歌??

(47ページ)私の葬儀など簡粗にやってくれ。盛大は更って私の気持を表はさないものである。墓石は祖母の横に建ててくれ。私が小供の時、祖母の次に立つ石碑は誰のであろうかと考へた事があったが、此の私のそれが建つなどとは此の私にも想像がつかなかった。然し之はあくまで一つの大きな世界の歴史の象徴であろう。墓の前の柿の果、それを私が喰う時がやがて来るであろう。

(49ページ)我々罪人を看視しているのはもと我軍に俘虜たりしオランダ軍兵士である。曾て日本兵士より大変なひどい目に遭はされたとかで我々に対するしっぺ返しは大変なものである。撲る蹴るは最もやさしい部類である。然し吾々日本人も之以上の事をやっていたのを思えば文句は出ない。

(51ページ)更って文句をブツブツ言ふ者に陸軍の将校の多いのは曾ての自己を棚に上げた者で、我々日本人にさえも尤もだと言ふ気は起らない。一度も俘虜を使った事のない、又一度もひどい行為をした事のない私が斯様な所で一様に扱われるのは全く残念ではあるが、然し向こふ側よりすれば私も他も同じ日本人である。区別してくれと言ふ方が無理かも知れぬ。

(53ページ)然し天運なのか、私は一度も撲れた事も蹴られた事もない。大変皆々から好かれている。我々の食事は朝米紛の糊と夕方に「カユ」を食ふ二食で一日中腹ペコペコで、やっと歩ける位の勢力しかないのである。然し私は大変好かれているのか、監視の兵隊がとても親切で夜分こっそりとパン、ビスケット、煙草などを持ってきてくれ、昨夜などはサイダーを一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。モノに対してよりも親切に対してである。

(55ページ)其の中の一人の兵隊が或は進駐軍として日本へ行くかも知れぬと言ふので、今日私は私の手紙を添へて私の住所を知らせた。可能性は薄いが、此の兵隊が私の謂はば無実の罪に非常に同情し、親切にしてくれるのである。大極的には徹底的な反日の彼等も、斯の個々に接して居る内には斯様に親切な者も出てくるのである。矢張り人間だ。

(57ページ)此の兵士は戦前はジャワの中学校の先生で、我軍に俘虜となっていたのであるが、其の間、日本の兵士より撲る、焼くの虐待を受けた様子を詳しく語り、其の人には何故日本兵士には撲る蹴るなどの事があれ程平気で出来るのか全く理解出来ないと言っていた。私は日本人全般の社会教育、人道教育が低く、且 社会的試練を充分に受けていないから斯くある旨を

(59ページ)よく説明して置いた。又彼には日本婦人の社会的地位の低いことが大変な理解出来ぬ事であるらしい つまらぬ之等の兵士からでも、全く不合理と思へる事が日本では平然と何の反省もなく行われている事を幾多指摘されるのは全く日本に取って不名誉な事である。彼等が我々より進んでいるとは決して言わないが、真赤な不合理が平然と横行するまま許してきたのは何と言っても

(61ページ)我々の赤面せざる可からざる所である。単なる撲ると言ふ事から丈でも、我々日本人の文化的水準が低いとせざる可からざる諸々の面が思ひ出され、又指摘されるのである。殊に軍人社会、及び其の行動が其の表向きの大言壮語に不拘らず、本髄は古い中世的なもの其物に他ならなかった事は反省し全国民に平身低頭謝罪せねばならぬ所である。

(63ページ)吸ふ一息の息、吐く一息の息、喰ふ一匙の飯、之等の一つ一つの凡てが今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く。軈て数日の中には私へのお呼びも掛って来るであろう。それ迄に味ふ最後の現世

(65ページ)への触感である。今迄は何の自覚なくして行って来た之等の事が、味へば之程切なる味を持ったものなる事を痛感する次第である。口に含んだ一匙の飯が何とも言い得ない刺激を舌に与え、且の溶けるが如く、喉から胃へと降りて行く触感に目を閉じてじっと味ふ時、此の現世の凡ての

(67ページ)ものを只一つとなって私に与へてくれるのである。泣き度くなる事がある。然し涙さえもう今の私には出る余裕はない。極限迄押し詰められた人間には何の立腹も、悲観も涙もない、只与えられた舜間舜間を只有難く、それあるがままに享受して行くのである。死の舜間を考へる時には矢張り恐ろしい、不快な気分に押し包まれるが、その事は其の舜間が来る迄考へない事にする。そして其の舜間が

(69ページ)来た時は即ち死んでいる時だと考へれば、死などは案外易しいものなのではないかと自ら慰めるのである。

(71ページ)私が此の書を死の数日前 計らずも入手するを得た。偶然に之を入手した私は、死迄にもう一度之を読んで死にたいと考へた。数年前、私が未だ若き学徒の一人として社会科学の基本原理への欲求盛なりしとき、其の一助として、此の田辺氏の名著を手にした事があった。何分有名な程 難しい本であったので、非常な苦労を排して一読せし事を憶えている。その時は洛北白川の一書斎であったが、今は遥か故郷を離れた昭南

(73ページ)の、しかも、監獄の冷いコンクリートの寝台の上である。難解乍ら生の幕を閉じる寸前、此の書を再び読み得たと言ふ事は、私に最後の楽しみと憩ひと情熱とを再び与へてくれるものであった。数ケ年の非学究的生活の後に始めて之を手にし一読するのであるが、何だか此の書の一字一字の中に昔の野心に燃えた私の姿が見出される様で、誠に懐しく感激に打ち閉ざされた。

(75ページ)世界的名著は何時何処に於ても、亦、如何なる状態の人間にも燃ゆるが如き情熱と憩いとを与えてくれるものである。私は凡ての目的、欲求とから離れて、一息のもとに此の書を一読した。そして更にもう一読した。何とも言ひ得ない、凡ての欲求から離れての、すがすがしい気持ちであった。私に取っては死の前の読経にも比さる可き感覚を与へてくれた。曾ての如き学求への情熱に

(77ページ)燃えた快味ではなくして、凡てあらゆる形容詞を否定した、乗り込えた言葉では表し得ない、すがすがしい感覚を与へてくれたのである。書かれたものが遺言書ならば、私は此の書の書かれざる、何となく私と言ふものを象徴してくれる最適のものとして此の書を紀念として残すのである。私が此の書に書かれている哲理を凡て理解了解したと言ふのではない。むしろ、此の書の内容からは

(79ページ)もっと距離があるかも知れないが、私の言い度い事は、私が此の書を送る意味は、本著者田辺氏が本書を書かんと筆を取られた其の時の氏の気分が、即ち私が一生を通じて求めてきた気分であり、そして私が此の書を遺品として最も私を象徴してくれる遺品として、遺す以所である。

(81ページ)私の死を聞いて先生や学友が多く愛惜してくれるであろう。「きっと立派な学徒になったであろうに」と愛惜してくれるであろう。若し私が生き長らへて平々凡々たる市井の人として一生を送るとするならば、今此のまま此処で死する方が私として幸福かも知れない。又世俗凡欲には未だ穢され切っていない今の若い学究への純粋を保ったままで一生を終る方が或は美しい潔いものであるかも知れない。

(83ページ)私としては生き長らへて学究への旅路を続けて生度いのは当然の事ではあるが、神の目から見て、結果論にして、今運命の命ずるままに死する方が私には幸福なのであるかも知れない。私の学問が結極は、積読(つんどく)以上の幾歩も進んだもので無いものとして終るならば、今の潔い此の純粋な情熱が一生の中 最も価値高きものであるかも知れない。

(85ページ)私は生きる可く、私の身の潔白を証す可くあらゆる手段を盡くした。私は上級者たる将校連より法廷に於ける真実の陳述をなす事を厳禁され、それが為め、命令者たる上級将校が懲役、私が死刑の判決を下された。之は明かに不合理である。私は私の生きん事が将校連の死よりも日本の為めには数倍有益なる事明白であり、又事件其の物が実情として

(87ページ)も、之は当然命令者なる将校に責が行く可きであり、又彼等が自分自身で之を知れるが故に私に事実の陳述を厳禁したのであり、又此処で生きるのが私には当然であり、至当であり、日本国家の為めにも為さねばならぬ事であり、又最後の親孝行でもあると思って判決のあった後ではあるが、私は英文の書面を以て事件の真相を

(89ページ)暴露して訴えた。上告のない裁判であり、又判決後であり、又元来から正当な良心的な裁判ではないのであるから、私の真相暴露が果して取り上げられるか否かは知らないが、親に対して、国家に対しての私の最後の申し訳けとして最後の努力をしたのである。始め私は虚偽の陳述が日本人全体のためになるならば止むなしとして命に従ったのであるが

(91ページ)結果は逆に我々被命令者に仇となったので、真相を暴露した次第である。若しそれが取り上げられたならば、数人の大佐、中佐や数人の尉官達が死刑を宣告されるであろうが、それが真実である以上、当然であり、又彼等の死を以て此の私が救われるとするならば、国家的見地から見て、私の生の方が数倍有益である事を確

(93ページ)信したからである。美辞麗句ではあるが、内容の全くない、精神的とか称する言語を吐き乍ら、内面に於ては軍人景気に追従し、物欲、名誉欲、虚栄以外には何物でもない我々軍人が、過去に於て為して来たと同様、仮りに将来に於て生きるも何等国家に有益な事は為し得ない事 明白なる事 確信するのである。

(94ページ)
 住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地
                         父 木村久

(97ページ)日本の軍人には偉い人もいたであろう。然し、私の見た軍人には誰も偉い人は居なかった。早い話が高等学校の教授程の人物すら将軍と呼ばれる人の中に居らない。監獄に居て何々中将少将と言ふ人に幾人も会ひ共に生活しているのであるが、軍服を抜いだ赤裸の彼等は其の言動に於ては実に見聞するに耐え得ないものである。此の程度の将軍を戴いていたの

(99ページ)では、日本に幾ら科学?物資があったとしても戦勝は到底望み得ないものであったと思はれる程である。特に満州事変以後、更には南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追ふ商人よりも根性は下劣なものであったと言ひ得る。木曽義仲が京へ出て失敗したのと何処か似た所のあるのは否定し得ない。

(101ページ)彼が常々大言壮語して止まなかった忠義 犠牲的精神、其の他の美学麗句も、身に装ふ着物以外の何者でもなく、終戦に依り着物を取り除かれた彼等の肌は実に耐え得ないものであった。此の軍人を代表するものとして東條前首相がある。更に彼の終戦に於て自殺は何たる事か。無責任なる事甚だしい。之が日本軍人の凡てであるのだ。

(103ページ)然し国民は之等軍人を非難する前に、斯かる軍人の存在を許容し又養って来た事を知り、結局の責任は日本国民全般の知能程度の低かったことにあるのである。知能程度の低い事は結局歴史の浅い事だ。歴史二千六百有余年の何かは知らないが内容の貧弱にして長い事ばかりが自慢なのではない。近世社会としての

(105ページ)訓練と経験が少なかったのだと言っても今ではもう非国民として軍部からお叱りを受けないであろう。私の高校時代の一見叛逆として見えた生活は全く此の軍閥的傾向への追従への反撥に外ならなかったのである。

(107ページ)私の軍隊生活に於て、中等学校、専門学校や何処かの私大あたりを出た将校が、只将校たるの故を以て大言壮語をしていた。私が円曲乍ら彼等の思想を是正しようとするものなら、彼等は私を「お前は自由主義者だ」と一言のもとに撥ねつけてきた。彼等の言ふ自由主義とは即ち「彼等に都合のよい思惑には不都合なる思想」と言ふ意味以外には何もないのである。又それ以外の事は何も解らないのである。

(109ページ)軍人社会の持っていた外延的な罪悪、内包的な罪悪、枚挙すれば限りがない。それ等は凡て忘却しよう。彼等も矢張り日本人なのであるから。然し一つ言って置きたい事は、軍人は全国民の前で腹を切る気持ちで謝罪し、余生を社会奉仕のために捧げなければならない事である。軍人が今日迄なして来た栄誉栄華は誰のお陰だったのであるか、凡て国民の犠牲のもとに為されたにすぎないものである。

(111ページ)労働者、出征家族の家には何も食物はなくても、何々隊長と言はれる様なお家には肉でも魚でも果子でも幾らでもあったのである。ーーーー以下は語るまい、涙が出て来る計りである。

(113ページ)天皇崇拝の熱の最も厚かったのは軍人さんだそうである。然し、一枚の紙を裏返へせば、天皇の名を最も乱用、悪用した者は即ち軍人様なのであって、古今之に勝る例は見ない。所謂「天皇の命」と彼等の言ふのは即ち「軍閥」の命と言ふのと実質的には何等変らなかったのである。只此の命に従はざる者の罪する時にのみ天皇の権力と言ふものが用ひられたのである。若し之を聞いて怒る軍人あるとする

(115ページ)ならば、終戦の前と後に於ける彼等の態度を正直に反省せよ。私が戦も終った今日に至って絞首台の露と消ゆる事を、私の父母は、私の運の不幸を嘆くであろう。然し、私としては神が斯くも良く私を此処迄で御加護して下さった事を、感謝しているのである。之で最後だと自ら断念した事が幾多の戦闘の中に幾度びもあった。それでも私

(117ページ)は擦傷一つ負はずして今日迄生き長らへ得たのである。全く今日迄の私は幸福であったと言わねばならない。私に今の自分の不運を嘆くよりも、過去に於ける神の厚き御加護を感謝して死んで行き度いと考えている。父母よ嘆くな、私が今日迄生き得たと言う事が幸福だったと考えてくれ。私もそう信じて死んで行き度い。

(119ページ)今計らずもつまらないニュースを聞いた。戦争犯罪者に対する適用条項が削減されて我々に相当な減刑があるだろうと言ふのである。数日前、番兵から此の度び新に規則が変って、命令でやった兵隊の行動には何等罪はないことになったとのニュースを聞いたのと考え合わせて、何か淡い希望の様なものが湧き上った。然し之等のことは結果から見れば死に到る迄での果無い波にすぎないと思はれるのである。

(121ページ)私が特に之を書いたのは、人間が愈々死に到るまでには、色々の精神的変化を自ら惹起して行くものなることを表はさんがためである。人間と云う物は死を覚悟し乍らも、絶えず生への吸着から離れ切れないものである。

(123ページ)アンダマン海軍部隊の主計長をしている主計少佐内田実氏は実に立派な人である。氏は年令三十そこそこであり、東京商大を出た秀才である。何某将軍、司令官と言はれる人でさえ人間的には氏に遥か及ばない。其の他軍人と称される者が此の一、商大出の主計官に遥か及ばないのは何たる皮肉か。稀を無理に好む理由(わけ)ではないが、日本の全体が案外之を大きくしたものにすぎなかった

(125ページ)のではないかと疑わざるを得ないのである。矢張り書き読み、自ら苦しみ、自ら思索して来た者には、然からざる者とは何処か言ふに言われぬ相異点のあるものだと痛感せしめられた。高位高官の人々も其の官位の取り去られた今日に於ては、少しでもの快楽を少しでも多量に享受せんと見栄も外聞も考慮出来ない現実をまざまざ見せ付けられた。

(127ページ)今時に於ては全く取り返しのつかない皮肉さえ痛感するのである。精神的であり、亦、たる可きと高唱して来た人々の如何に其の人格の賎しき事を我々日本のために暗涙禁ず能はず。明日は死すやもしれない今の我が身であるが、此の本は興味盡きないものがある。三回目の読書に取り掛る。死の直前とは言ひ乍ら、此の本は言葉

(129ページ)では表し得ない楽しさと、静かではあるが真理への情熱を与へてくれる。何だか私の本性を再び、凡ての感情を超越して、振り帰らしてくれるものがあった。家庭問題をめぐって随分な御厄介を掛けた一津屋の御祖母様の苦労、幼な心にも私には強く刻み付けられていた。私が一人前となれば、先ず第一に其の御恩返しは是

(131ページ)非せねばならないと私は常々一つの希望として深く心に抱いていた。然し、今や其の御祖母様よりも早く立って行く。此の大きな念願の一つを果し得ないのは、私の心残りの大きなものの一つだ。此の私の意思は妹の孝子に依り是非実現されんことを希ふ。今まで口には出さなかったが、此の期に及んで特に一筆する次第である。

(133ページ)私の仏前、及び墓前には、従来仏花よりも、ダリヤ、チューリップなどの華かな洋花も供えてくれ。之は私の心を象徴するものであり、死後は殊に華かに、明るくやって行きたい。美味しい洋菓子をどっさり供えてくれ。私の頭腦(とうのう)にある仏壇は余りにも静かすぎた。私の仏前はもっと明るい華かなものであり度い。仏道に反するかも知れないが仏たる私の願う事だ。

(135ページ)そして私の個人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ、私の誕生日である四月九日を仏前で祝ってくれ。私はあくまで死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは唯私の生れた日丈であって欲しい。私の一生に於て楽しく記念さる可き日は、入営以後は一日も無い筈だ。私の一生の中最も記念さる可きは昭和十四年八月だ。それは私が四国の面河の渓で始めて

(137ページ)社会科学の書をひもどいた時であり又同時に真に学問と云ふものの厳粛さを感得し、一つの自覚した人間として、出発した時であって、私の感激ある人生は唯其の時から始まったのである。

(139ページ)此の本を父母に渡す様お願いした人は上田大佐である。氏はカーニコバルの民政部長であって私が二年に渉って厄介になった人である。他の凡ての将校が兵隊など全く奴隷の如く扱って顧みないのであるが、上田氏は全く私に親切であり、私の人格も充分尊重された。私は氏より一言のお叱も受けた事はない。私は氏より兵隊としてではなく、一人の学生として扱われた。若し私が氏に巡り会ふ事がなければ、私のニコバルに於ての生活はもっとみじめなものであり、私は他の兵隊が毎日やらせられた様な

(141ページ)重労働により恐らく、病気で死んでいたであろうと思はれる。私は氏のお陰に依りニコバルに於ては将校すらも及ばない優遇を受けたのである。之全く氏のお陰で、氏以外の誰ものもの為めではない。之は父母も感謝されて良い。そして法廷に於ける氏の態度も立派であった。

(196ページ)Marxの下部構造と上部構造

(207ページ)絶対否定的自己同一、弁証法的世界

(奥付けの右ページ)此の一書を私の遺品の一つとして送る。昭和二十一年四月十三日 シンガポール チャンギー監獄に於て読了。死刑執行の日を間近に控え乍ら、之が恐らく此の世に於ける最後の本であろう。最後に再び田辺氏の名著に接し得たと言う事は無味乾燥たりし私の一生に最後一抹の憩ひと意義とを添えてくれる物であった。母よ泣く勿れ、私も泣かぬ。

(巻末余白ページ)
 紺碧の空に消えゆく生命かな


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「木村久夫 没後65年に寄せて」(高知新聞)テキスト

2011-05-05 00:02:33 | 単行本『X』

  【高知新聞 5月4日付けに掲載された「木村久夫 没後65年に寄せて」を記事のまま掲載しました。ところが拡大されないので読めないとのご意見をいただきました。ここに全文をご紹介します。】


 一九四六(昭和二一)年五月二三日。前夜降っていた雨もあがり、青空が広がっていた。シンガポールにあるチャンギー刑務所。二九歳になった木村久夫は、ほとんど眠ることができなかった。午前七時、狭い独房に教戒師の松浦覚了が姿を見せたとき、独房に置かれたコンクリート製ベッドの上には朝食のビスケットと水の入った水筒が置いてあった。法華経を信仰する木村は合掌して「南無妙法蓮華経」と唱えると松浦にこう語った。
 「わたしは学者で身を立てていこうと思っていました。著書もなく死ぬのは残念でなりません」
 そう言って一冊の書籍を手渡した。田辺元『哲学通論』である。木村は欄外に鉛筆で遺書を記していた。扉ページにはこう書かれている。

「死の数日前偶然に此の書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである」(有田注、以下も原文のまま引用)。

 「純情」を「単純な句法で仕立ててゆく手法」(斎藤茂吉)を用いた吉井勇の影響を受けて旧制高知高校時代からはじめた短歌が遺書にいくつも残されている。処刑前夜に書いた辞世の句は次の二首だ。

 おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかむ
 風もなぎ雨もやみたりさわやかに朝日を浴びて明日は出でまし

 木村久夫が絞首刑となったのは朝九時すぎのことである。慫慂として死刑台に立った木村は何の罪に問われたのか。事件はインド洋のカーニコバル島で敗戦直前の七月二八日から八月一二日にかけて三回にわたって起きた。住民にスパイがいると判断した陸軍(独立混成第三六旅団)と海軍(第一四警備隊)が八一人を「処刑」したのである。
 木村は通訳として取り調べに関わった。そのとき「容疑者」を「殴った」ことが原因で死者が出たと検察側は追及した。しかし木村は「私は『殴る』などということはしていないのだから、そう主張する」と繰り返す。しかし被告一六人のうち無実を主張した上等兵の木村久夫など六人が死刑、取り調べを命じた参謀が無罪となる。虐殺の実行者たちはそもそも誰一人として起訴されなかった。

 木村の遺書が後世に感銘を与えたのは、自らが強いられた不条理を普遍的価値へと昇華したからである。木村は戦争を起した軍部への批判に留まらず、それを許した日本人の「遠い責任」をこう記している。

「苦情を言うなら、敗戦を判ってい乍ら此の戦を起した軍部に持って行くより為方はない。然し又更に考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許して来た全日本国民に其の遠い責任がある事を知らなければならない」。

 木村久夫の透徹した社会認識はいかにして形成されたのか。そこには旧制高知高校での恩師たちとの出会いが深く影響していた。大正七(一九一八)年四月九日に大阪府吹田市で生まれた木村は、高知高校に入学。生徒をいじめるような教師の授業には欠席、試験にも白紙答案を出す。入学当時のクラス主任だった八波直則は「権威主義が大きらいで、威張る先生、ヒューマニスティックでない教師をきらいぬいた」と回想している(『私の慕南歌』)。
 木村が香北町猪野々の猪野沢温泉に通うようになったのは昭和一四(一九三九)年夏。高校二年のときからである。吉井勇が俗世間から離れて暮らした渓鬼荘の横にある宿に、ときには一か月も宿泊した。木村は小泉信三の『経済学原論』を読んで社会科学に目覚める。読み終えたのは昭和一四年七月二七日、要した時間を「投下労働約三〇時間」と最後のページに記している。落第し三年生を二回過ごした木村は、京都帝国大学経済学部に入学。ここでも旺盛な読書は続く。昭和一七(一九四二)年十月一日に学徒出陣。陸軍に招集されるが病気のため一年間大阪の病院に入院、そして運命の地、カーニコバル島へと派遣される。

 木村久夫が処刑されたのち、高知高校の恩師だった塩尻公明は、吹田の自宅を訪れ、『哲学通論』に残された遺書を原稿用紙に書き写す。さらに木村の想い出を『新潮』(昭和二三年)に発表、のちに単行本として出版された。木村久夫を世に知らしめた『或る遺書について』である。このエッセイによって田辺元、鶴見祐輔、吉井勇なども木村の存在と運命を知ることになる。昭和三二(一九五七)年、吉井は猪野沢温泉を訪れ、木村を偲ぶ歌を詠んでいる。「益喜」とは宿の主人だった今戸益喜のことである。

 あはれなる戦犯学徒の話して最後のはがき益喜取う出く

 東日本大震災を経験した日本人にとって、「戦後」感覚はさらに遠くなることだろう。だからこそ戦争で失われたあまたの人間讃歌を結び合わせ、悼み、高らかに歌い上げよう。高知の風土で育まれた輝く青春が生命を断たれて六五年。暑い夏が再び巡ってくる。

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「木村久夫 没後65年に寄せて」(高知新聞)

2011-05-04 10:13:43 | 単行本『X』

 5月4日(水)今朝の高知新聞に掲載された「木村久夫 没後65年に寄せて」を紹介する。4年前に参議院選挙に出るまでの5年ほど取材を続けていたテーマだ。選挙に出ることを明らかにする直前にはロンドンの公文書館で裁判資料を入手。数日前にも木村久夫さんの妹である孝子さんから少しだけお話を伺った。「きけわだつみのこえ」に掲載された遺書の謎など、やはり書かねばならないとの思いが強まっている。「日曜作家」のように時間を作ってそろそろ書きはじめよう。

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トーマス・マンの箴言

2009-11-11 12:47:42 | 単行本『X』

 11月10日(火)091110_14180001 微熱あり。チェックアウト時間までホテルの部屋でゆっくり過ごす。雨のなかを升形まで歩いて「藤家」で釜玉うどん。高知大学へ向う。「高知にゆかりの先人たち ジョン万次郎、小島祐馬、木村久夫」特別資料展は9日から15日まで。漁に出ていて14歳で漂流、孤島で暮らし、捕鯨船に助けられ、アメリカに連れて行かれたジョン万次郎を、鶴見俊輔さんは高く評価している。船長の言葉によってではなく、人柄に影響を受けたことが大切だといい、いまの政治家にはそれが欠けているというのだ。木村久夫さんについての新しい資料も発見、わざわざ足を運んだ成果あり。市民図書館に移動して木村さんの恩師だった八波直則さんの未整理のままの蔵書を捜索。三省堂日記に木村さんは小説を書いた。その現物を探しているのだが、見つからず。喫茶「爽」で珈琲を飲んで空港。関西から来た知人と「てつ」。「どうしてまだ政治なんですか」と問われ、板橋で発見した課題について語る。「政治を軽蔑するものは、結局もっとも軽蔑に値する政治しかもつことはできない」。「もっとも非政治的だった作家トーマス・マン」(中野好夫)の箴言だ。

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単行本『X』の調査再開

2009-09-03 10:36:03 | 単行本『X』
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 9月2日(水)090902_18370001 エディット・ピアフを聴きながら。選挙でお世話になった方々への挨拶回り。「おめでとうございます」と今日も2人から言われる。どうやら参議院議員に繰り上げ当選したと思っていたようだ。民主党の菅直人さんなどにはファクスでお礼。もちろん!驚くべき利敵行為についても証拠付きでお知らせしておいた。竹橋にある国立公文書館。単行本『X』のための調査再開。この1年半の間に新しい史料が公開されていた。木村久夫さんが「BC級戦犯」として絞首刑になったカーニコバル島住民虐殺事件。当時のことを出張調査した史料だ。すでに亡くなっていたために話を聞くことが叶わなかった「上田大佐」の聞き取り記録も発見。神保町まで歩き、東京堂書店。仲正昌樹さんの『Nの肖像 統一教会で過ごした日々の記憶』(双風舎)を購入。仲正さんは政治思想の研究者として知っていたが、元信者だったとは知らなかった。さっそく読みはじめる。板橋区外からの支援をいただいていた「家康」へ。日本酒「雪むかえ」を飲む。さらにボランティアで応援してくれた小幡利夫さんと「萱」、そしてBon Vivant(「人生を楽しみましょう」という意味)。「萱」では北海道のカボチャを見せてもらった。「小夏」の顔と大きさの比較。地下鉄で池袋。「おもろ」で泡盛。「これからどうするの?」という問いがどこでも圧倒的。はて、さて。

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単行本『X』のために

2009-06-06 10:23:03 | 単行本『X』

 「週刊新潮」の「掲示板」に「お願いごと」が掲載されました。字数の関係で短くなりましたが、以下に紹介するのが原文です。

 東京・板橋を拠点に「陣地戦」の日々。出会いは現場主義の原点です。たとえば九三歳の女性はかくしゃくとして政治の閉塞を嘆いていました。この世代に接するたびに思い出すこと。それは一九四六年五月にシンガポールで「BC級戦犯」として生命を奪われた木村久夫さんのことです。存命なら九一歳。その人生を書こうと取材はほぼ終了。あとは執筆というとき参議院選挙に出たため、そのままに。木村さんは旧制高知高校時代、三省堂版の日記に「小説・物部川」を書きました。その一端は恩師・八波直則さんの『私の慕南歌』に紹介されています。ところが八波さんの蔵書を集めた高知市民図書館を調べても、見つかりません。日記を探しています。

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劇団民藝の「浅草物語」

2008-04-07 08:28:45 | 単行本『X』

 4月6日(日)080406_17560001 落桜の季節になってしまった。JHNで全国25局で放送されている「梶原しげるのNextOne」で新書について語る。「週刊新潮」に掲載する統一教会リポートの最終稿をさらに推敲して編集者に送る。午後から池袋の東京芸術劇場で最終日を迎えた劇団民藝の「浅草物語」を観た。ばったり会った共産党書記局長の市田忠義さんにご挨拶。戦中庶民の人情物語。時代背景はほのかに示されるだけ。「この時代のことか」と強いメッセージがあるのは最終盤。大滝秀治、奈良岡朋子、日色ともゑの円熟。単行本『X』をどう書くかについてのヒントを得た。いま「BC級戦犯」を書く意味を物語の最初に「説明」する必要があるのかどうか。「物語」としてノンフィクションを書く方法への摸索。現代と戦前を結ぶ効果的手法を考えている。夕方の池袋。誰とも語ることなくひとりで飲みたくて「ふくろ」に行けば休み。演芸場の近くにある「全品315円」の店に入る。人生は「はずみ」なのか。きっと誰もが語ることのない荷物を負っているのだろう。そんなことを思うばかり。お勘定のときに聞けば日曜日をのぞいて24時間営業だそうだ。マンション有志の食事会は「遊菜」。ほろりと落ちてくる桜花。激しく開き、静かに落ちていく。

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『きけ わだつみのこえ』は改竄されていた

2008-03-17 08:31:36 | 単行本『X』

 3月16日(日)080316_15210001 17日午後には東京のキオスクに出るので解禁。「週刊朝日」に「『きけ わだつみのこえ』は改竄されていた」を書いた。「発掘スクープ」と編集部は謳ったが、これは単行本『X』の副産物。情緒的にいえば単行本『X』の主人公である木村久夫さんが「どうしても書いてくれ」と心に命じたともいえる。74名の遺稿が掲載されている『新版 きけ わだつみのこえ』(1995年発売)は、「決定版」とされながら、実は原遺稿に照らし合わせたものは、わずか3人ほど。「わだつみ会」では17人の原遺稿を持っているにもかかわらず、執行部は校訂するとの総会方針を無視し続けてきた。「わだつみ会」は3月23日に東京で総会を開く。その方針案には『新版 きけ わだつみのこえ』の校訂問題はない。それを不満とする理事からは修正案も出された。「わだつみ会」副理事長の岡安茂祐氏は、取材した諸永祐司記者を「(記事を書くことは)介入だ!」とレストランで怒鳴りつけ、店員が「お静かにしてください」と慌てて注意しにくるほどの対応だったという。ちなみに岡安氏は相模女子大で「メディア(言論の自由)論」を教えている。関係者が実名を出して証言してくれたが、会議でもいきなり「出て行け!」などと声を張り上げ、罵詈雑言をあびせるというから驚く。日本の平和運動の象徴と見られてきた「わだつみ会」が民主的機能を回復することを願うばかりだ。顧福英さんから電話。「北京亭」が20日に新装開店するとのお知らせだった。江頴禅さんのもとで修業した呉明玉さんが責任を持つことになる。かつては午後10時半までだった営業時間は午後11時まで。ただし午後3時から5時までは休むそうだ。これまで木曜日を定休にしていたが、これからは年中無休。『川崎洋詩集』(ハルキ文庫)を持って石神井公園へ。公園を歩くと春爛漫。「珈路」で珈琲を飲みながら詩を読む。「生きる歌」のなかの「これから」という一篇に共感する。遅い午後の静かな喫茶店のなかで世界が広がる。

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生きている者としての義務

2007-12-10 08:58:33 | 単行本『X』

 12月9日(日)高知は朝市で賑わっていた。「ひろめ市場」に入って「元天」で塩たこ焼きを食べる。参議院選挙のときには隣の店で「かつおの塩たたき定食」を味わったことを懐しく思い出す。昨夜も今日も「選挙で投票したんですよ」と声をかけられることしばしば。ありがたい。昼前にして人波。テーブルでたこ焼きを食べながら眼の前の中年男女と雑談。朝9時に来て飲んでいるという。市場を出て木村久夫さんが旧制高校生時代によく歩いた帯屋町あたりへ。視えない木村さんに道案内をしてもらっているような感覚だ。そう背が高くはない木村さんは「ここで級友と写真を撮ったんだ」などと語りかけてくる。いつも机の前に置いてある写真に映る木村さんたちは、いまの大丸付近にいた。1930年代後半の高知が身体のなかに浸透している。この単行本を書き上げるまで倒れるわけにはいかないぞとふと思う。ホテルに戻ってラウンジで高知における部落解放運動の資料を読む。午後1時の南風16号で土佐山田へ。香美市ふれあい交流センター主催の人権講演会で講演。会場はやなせたかしさんの「アンパンマンミュージアム」の隣だった。この香美市の香北町には歌人・吉井勇の逗留した「渓鬼荘」がある。吉井に傾倒した木村久夫さんも夏休みにはよく宿泊した。講演が終わってすぐに空港へ。

071209_133201  機内で伊東乾さんの『ケダモノダモノ 調教と傷心のアメリカ』(集英社)を読み終える。イラクやアフガンに派遣される兵士がどんな訓練をしているかがよくわかった。基本的には戦後の海軍が心理学者を動員して行った「マインドコントロール」の手法は続いている。伊東さんのまとめかたによれば「反射訓練と、その無自覚化」ということ。かつて私は「BC級戦犯」に問われた木村久夫さんのことを伊東さんも参加した「日本脱カルト協会」の集会で語った。伊東さんにすれば地下鉄でサリンを散布した友人の豊田亨被告もまた「BC級戦犯」なのだ。「おわりに」のこんな文章が印象的だ。「
俺はまだ生きている。だから頭脳を働かせることが出来る。それをフルに生かさなくて、どうして死んだ者が浮かばれるだろう?俺にはどうしても、それが義務のように思われてならない」。まったく同感だ。飛行機を降りるとき生島ヒロシさんと久しぶりに出会う。歩きながら話をしてロビーでもしばらく雑談。朝のラジオがあるために出張はいつも日帰りだという。取材や講演旅行の楽しみは地元の街を歩き、酒を楽しむこと。残念ですねと伝えれば「そうなんです」と生島さん。

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