有田芳生の『酔醒漫録』

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七尾藍佳の知性

2006-10-31 11:32:07 | 人物

 10月30日(月)「ザ・ワイド」が終わりエレベーターに乗ったとき、報道フロアーのある5階でとまった。ドアが開いたが満員で乗ることはできない。そこに立っている女性が言った。「アリタさん、ナナオです。またこんどゆっくり」「ニュースゼロ」でフィールドキャスターという位置づけで活躍している七尾藍佳さんだった。七尾さんは東京FMのパーソナリティとして長年にわたる「朝の声」だった。朝の雰囲気のなかで心地よいテンポと声質がとてもよかった。いつもその声を聞いていたものだ。しかも英語はネイティブ、社会問題への関心も並々ならぬものを感じていた。それがこの10月から「ニュースゼロ」で仕事をすることになった。この番組を見ることはほとんどない。しかし興味本位で見たとき、現場でリポートする七尾さんの姿があった。もったいない。偏見的判断では「ニュースゼロ」でもっとも知性ある存在が、それなりの扱いをされていないからだ。現場リポーターで取材対象にマイクを向けるならば、ある程度の訓練が為されれば、そう難しいことではない。問題はそこからだ。入手した素材を知性によっていかに処理するか。そこに番組の命が宿る。タレントもどきや官僚出身者でどこまで可能なのかといえば、ジャーナリズムの本性が知の蓄積とセンスによるものである以上、いくら努力を重ねてもそこには本質的に限界がある。筑紫哲也さんの言説に批判があろうとも、ジャーナリズムで研鑽してきた知性と教養にはプロレス中継あがりのキャスターなども太刀打ちできるはずもないのだ。だからこそ七尾さんのような知性をどう活用できるのかは「ニュースゼロ」のこれからの方向を示すものであると思っている。どの番組でもそうなのだが、追及すべきは質である。「美女」ぶりを競うことで視聴者を獲得するという発想からニュースの王道は生れてこない。

061030_19220002  銀座5丁目の居酒屋を探して夜の銀座を30分以上歩いた。目指すべきは「三平酒寮」。見つかれば「なんだここか」という場所であった。地理に不案内だと、こうした無駄が生じる。店に入れば新橋や新宿によくあるような、まさに居酒屋である。酒を酌み交わしながら「有田が行く」の企画会議を行った。テレビの企画を実現するまでには調査に時間がかかり、いざ現場に向うというところまでに時間がかかる。そこが活字とは違った難しさだ。「もう一軒行こう」と久しぶりに立ち寄ったのは「四馬路」であった。中村以久子さんはいつものように元気一杯。テレビ世界と活字世界の話などをしていたら夜中2時半を過ぎていた。そろそろお開きにしようというところで「ザ・ブルーハーツ」の歌が流れてきた。するとカウンターで酔いつぶれていた片山亮さんがムックと起き上がり、テーブル席の空間に立った。何をするのかと思えば、いきなり身体を揺すぶりながら声を上げて歌い出したのであった。小林浩司さんがそれを嬉しそうに映像に記録する。やはりテレビマンは違う。深夜の銀座界隈にはすでに人通りも途絶えていた。


私物化された「わだつみ会」

2006-10-30 07:32:30 | 単行本『X』

 10月29日(日)朝起きて儀式のようにバッハをかける。木村久夫さんの旧制高知高校時代のスナップ写真に挨拶をして、パソコンに向う。机上に置いたファイルから「もうひとつの遺書」の1枚を取り出し、1行づつ読み解きながらキーボードを打っていく。一回の作業にあまり時間をかけないよう注意している。60年前にチャンギー刑務所で遺書を書いている木村さんの真情をこの心の奥深くで受けとめる必要を感じているからだ。脳裏には刑務所の独房で鉛筆を手にしている木村さんの姿がありありと浮かんでくる。気分を変えるために「酒とつまみ」の連載原稿を少しだけ書く。「わだつみ会」の現執行部が日本人の財産である遺書を私物化しているため、かつて理事長を追放された中村克郎さんに連絡したのは、ついこの間のこと。そこで西原若菜さんを紹介していただいた。中村さんは25歳でフィリピン戦線で消息を絶った中村徳郎さんの弟、西原さんは23歳で山口県の回天特攻隊基地で訓練中に事故で亡くなった和田稔さんの妹だ。お二人とも現執行部につらなる「わだつみ会」と関係を絶って久しい。西原さんに連日電話をしていたのだが、いつも留守番電話。「また同じかな」と思いつつ、呼び出し音を聞いていると、受話器が取られた。西原さんだった。用件をお伝えすると、前理事長の岡田裕之さんに聞くようにと言われた。受話器の向こうから郵便番号が読み上げられた。驚いた。さらに住所を聞くと同じ町内だとわかった。

 しばらく作業を続け、夕方池袋に買い物に行くついでに訪問し、近くお話を伺う約束を取ることにした。歩いて数分。表札に「岡田」とある。ご夫婦が草むしりをしていたところに声をかけた。用件を告げるといとも簡単に「その資料ならありますよ」と告げられた。「わだつみ会」の現執行部が私物化している資料である。必要だったものは、木村久夫さんの遺書が昭和23年春に「日本戦没学生手記編集委員会」に届けられたとき、それを筆写した原稿とさらにガリ版刷りした印刷物である。すでに「きけ わだつみのこえ」に記録されたものだから、何も隠すような資料ではない。それを「わだつみ会」現執行部は「プライバシー」を理由に見せようとしない。しかも最初は「見せます」と約束をしていたのにである。約束の時間に飯田橋の事務所を訪れたとき、まるで警察官による取り調べもどきの対応をされるとは思いもしなかった。まさに異常な雰囲気で、相手の口調も表情もまさに病的だ。わたしはガマンできずに捨てゼリフを残して席を立ったものの、資料は何とか見たかった。そこで保阪正康さんに電話をした。現在の「わだつみ会」の呆れる内情を『「きけわだつみのこえ」の戦後史』(文春文庫)に書いているからだ。メモによると6月13日のこと。保阪さんはガリ版刷りを持っている人を探してくれると約束してくれたが、仕事が忙しいので時間がかかるとも言われた。仕方ないことだ。

 私物化している資料に何か新しい発見がありそうだというのではない。念のため確認しておきたいという調査における手続き上の作業だった。その探し物が何と数分のところにあったとは!岡田さんは自宅に上がるように勧めてくれ、資料を見せてくださった。コピーもしてくれるという。発見の喜びとともに、「どうしてこの資料を私物化するのだろうか」という怒りと疑問に再び火がついた。岩波文庫として出ている『新版 きけ わだつみのこえ』にも多くの訂正しなければならない部分がある。それを正確なものにするのは、死者と遺族、そして日本人への責任だろう。それがわからない「わだつみ会」現執行部は退陣すべきだ。岡田さんからは中村克郎さんが復刻した『きけわだつみのこえ』初版本と法政大学を退官するときに出した『我らの時代ーーメモワール:平和・体制・哲学』(時潮社)をいただいた。ぱらぱらとページを繰っていると、かつて東大時代に共産党で活動したことを知った。入党推薦人のひとりが上田健二郎(=不破哲三)氏だったとあり、ここでもびっくり。さらにページをめくると、旧制一高の哲学研究会では嶋田豊さんといっしょだったと書いてある。哲学を教えていた真下信一さんに師事した嶋田さんに親しくしていただいたことを思い出した。わたしはその真下さんや嶋田さんが運営していた哲学研究会に出席するため京都から名古屋まで通ったこともある。その真下信一さんが「日本戦没学生手記編集委員会」の一人でもあった。何とも不思議な人間関係である。


北野武のすごさを見た

2006-10-29 09:52:48 | 人物

 10月28日(土)テレサ・テンを聴きながら心を静めている。午後まで単行本『X』の作業を進め、外出。新宿から小田急線で成城学園前で降りる。タクシーで砧スタジオへ。午後5時半から10時半まで「平成教育委員会」の収録があった。いつものことだが、どうしても華やかな世界にはどっぷりと入り込めず、いつも「外部の眼」で観察しているようなところがある。司会は北野武さん、高島彩さん。北野さんにはどこか苦労人の雰囲気が漂っている。たとえ出演者のことをからかっても、そこに嫌味などは感じられないのだ。浅草出身の温かさなのだろう。比較的若い芸人が司会をするとき、人を傷つけるような棘ある言葉を投げかけることとは大違いだ。知人は麻木久仁子さん、木村晋介さん、高田延彦さん。ほかに面識あるタレントさんたちもいたが、面白かったのは渡嘉敷勝男さんだ。すっかり「外す」ことを心得ている。紺野美沙子さんの清楚さ、京本政樹さんの勘のよさ、頭のよさには心底驚く。東ちずるさんにはじゃんけんで負けて、素敵な商品をもらうことができなかった。「どこに行ったのか」と思っていた北芝健さんが、意外な実験をするためにVTRで出演していた。週刊誌の経歴詐称疑惑記事をきっかけにテレビから姿が消えたままだ。こんどの出演も相当以前に撮影していたのではないだろうか。スタジオに入ったとき、担当者が「急なお話だったのにありがとうございます」と言った。「誰かがダメになったんでしょう」と聞くと、「いろいろありまして」と返事があった。番組のなかで北芝さんの姿を見て、ひょっとしたらその代わりに声がかかったのではないかと思えてきた。タレントがすごいのは、すぐにその世界に入り込むことができること。それだけではない。そこで世間に映っている自己像を演じきる。そうできることではない。とくに一流の芸人は違和感を感じさせないのだ。でもな、とも思う。演技の世界に入ったまま出てこれない人がいるからだ。演出家の渡辺浩子さんは、遺作集『私のルネッサンス』(カモミール社)のなかで俳優の例をあげて書いていた。名優ゆえに「地声を失う」ことがあるというのだ。

 地声を失ってしまった女優さんと話をしていると、声だけ失ってしまったのではなく、自分自身の生活を失ってしまっているのだと気がつく。実生活でも女優意識がぬけない。ずっと演技を続けていて、素顔で生きることができなくなってしまっているのだ。

 渡辺さんはこれが俳優だけではないと続ける。会社エリートの妻、教育ママなどなど。素顔を失って生きている人が多いと警告するのだ。テレビで過剰に演じている者などは「顔」がないなとすぐにわかる。仮面にはそれに相応しい言葉というものがある。地声を失っていないか。この種の番組に出るたびに自省してしまう。番組収録が終ったら、成城学園のあたりで酒でも飲んで帰ろうと思っていた。ところがそんな気持ちはすっかり失せていた。


「冷血」は「偉大な失敗作」か

2006-10-28 09:34:41 | 立腹

 10月27日(金)戦没学徒の遺書についての情報を知りたくとも、現在の「わだつみ会」執行部が異常にも資料を私物化しているので、調べたいことにも支障が生じている。すでに世間周知の事実を確認したいだけであるのに、プライバシーを理由に抱え込んでいる。仕方なくつてをたどっていちばん最初に文書を収集した中心人物、中村克郎さんに連絡した。お身体の具合がすぐれず、奥様としばし会話を交わし、関係者の連絡先を教えてもらう。理事長だった中村さんたちもかつての執行部によって追放されたのだった。日本人の遺産を私物化して恥じない現執行部に再び怒りを感じてしまった。ほとんどの遺族が「わだつみ会」から去っていったのもよく理解できる。「平和利権屋」が語る平和など、誰も信用しないだろう。午後まで原稿を書き、迷った。このまま仕事を続行するか、それとも手帳に記した会合に参加するか。気分を変えて外出する。早稲田大学に着いたのは午後4時過ぎ。学園祭の前夜祭だからか、やたら学生の姿が眼についた。何をするでもなくベンチに座っている。そんな時間もまた必要なのだろう。目的とする10号館に行くと、カポーティを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンの写真が掲示されていた。集会は「T・カポーティとニュー・ジャーナリズム」。カポーティが書いた「冷血」についてのシンポジウムだ。主催は早稲田大学ジャーナリズム研究所。参加者はそう多くない。まずは玉木明さんが報告。結論は「偉大なる失敗作」。最初は「神の視点」(サルトル)の小説的手法で書きはじめたものの、途中からは事件を起した人物の口を通じて描いているからだ。「人間の視点」への転換は失敗だと玉木さんは語った。

061027_15450001  しかしカポーティの「冷血」が絶賛されたことで、現実の事件をまるごと再現した手法が「ニュー・ジャーナリズム」としてもてはやされるようになる。1960年代のアメリカでのことだ。トム・ウルフによれば、「勝手なことを、勝手な手法で書いた物語」が「ニュー・ジャーナリズム」だという。討論では佐木隆三さんが、「冷血」に影響されて「復讐するは我にあり」を書いたこと、大谷昭宏さんが、「裏が取れなくとも書かなければならないことがある」などと発言。テーマは現在の新聞の問題点などに広がっていった。集会が行われる前に玉木さん、佐木さんに単行本『X』のあるシーンを書くべきかどうかの意見を聞いた。木村久夫さんをめぐる重要な回想シーンである。ところがそれが「事実」であるかどうかは、その場にいた木村さんの妹の証言と、傍証となる情況証拠があるだけだ。第三者の証言もなければ、日記や録音テープがあるわけでもない。佐木さんは「自分の責任で書けばいいんです」と言い、玉木さんは「判断の理由をふくめてすべてを書けばいい」とアドバイスしてくれた。書かなければ消えてしまう「事実」は文字に残すことでしか存在しない。ならばやはり書くことなのだろう。シンポジウムが終ったところで、高知新聞の依光隆明さんと神保町へ。今回の企画があることを知らせてくれたのは依光さんだった。まずは「萱」、さらに「人魚の嘆き」、もう一軒は小宮山書店の「書斎」。焼酎からワインに変えて高知県警との闘いのその後などを聞く。


「既にファシズムかもしれない」

2006-10-27 09:15:49 | 思索

 10月26日(木)「ザ・ワイド」が終わり、日本テレビからすぐ近くの共同通信へ。新年企画で若い人向けに読書の勧めを語る。3冊の本を持ってくるようにと言われていたので、何日か考えていた。最初は藤田省三さんの『全体主義の時代経験』(みすず書房)、吉野源三郎さんの『同時代のこと』(岩波新書)、そしてもう1冊を何にするかを思案していた。今朝になり、鞄に本を入れる前になって変更した。若い世代が定価的に入手しやすいものにすべきだと思ったからだ。内容的に勧めるものは、認識、方法、そして言葉だ。この実時間に〈わたしたち〉は生きている。ところがそれぞれの「眼」で見つめる世界は、異なっている。〈わたし〉が見ている世界は、他者にはまったく違ったものに見えているのかも知れない。それほど現実は多様だ。この「いま」をどのように認識するのか、そこには方法がある。錆びついた方法なのか、それとも切れ味鋭い方法なのか。言葉を換えれば「砥石」として何を身に付けるのかという課題でもある。現実と〈わたし〉の交錯を媒介するものが経験で、それを客体化するものが言葉だ。その言葉にも硬軟さまざまな選択がある。ひとつの事実を伝えようとするときにも、どんな言葉を選ぶかで、伝わるものも伝わらなくなる。認識が鮮明であることと、それが言葉という乗り物に乗って他者に届くかどうかは別問題なのだ。経験は認識というトンネルを通過して効果的な言葉として出て行かなければならない。そのすべてを供えた器がこの身体なのである。たとえば辺見庸さんの眼に現在の日本はこう映っている(毎日新聞10月13日夕刊)。

 戦前から根の部分にある国民性が変わっていない分、ファシズムに走る時は早い。いや、既にファシズムかもしれない。しかし異議申し立ての行動は起きない。断定できないけど、今後も多分ないと思う。

 辺見さんの言説をペシミズムだと一蹴できないほどの現実がある。崩れゆく日本社会への歯止めが効いていないからだ。一例としてこの認識は正しいのかどうか。それを判断することは個々人の仕事である。そこで選んだのが、辺見庸さんの『眼の探索』(角川文庫)、外岡秀俊さんの『情報のさばき方』(朝日新書)、『長田弘詩集』(ハルキ文庫)であった。1時間ほどコミュニケーションと人間の問題を語る。タクシーで神保町。テレサ・テンの企画について打ち合わせ。来年5月に日生劇場でテレサ・テン物語が公開される。テーマは歌手としてのテレサということで、彼女が抱えた政治問題などには触れないようだ。テレサ役にはある歌手が選ばれる。興行主としては観客動員に少なくとも2000人のファンを持っていることを基準とすると聞いた。テレサのイメージとは遠い歌手だが、それも呑み込むしかない。テレビ朝日で予定されているドラマも、遅れてはいるが来春には放送されるだろう。脚本の第2稿に意見を出した。女優にとっては、いまだテレサ・テンの存在が大きく、なかなか決意できないという気持ちもわかる。死後11年にして、カラオケやCD売り上げなど、現実に与える影響が大きいため、いまだ現役で活躍している歌手のように思えるのだ。結果的には日中国交回復35年記念としてさまざまなイベントが行われることになる。劇団民藝の川岸紀惠さんに演劇界のことなどを聞く。


藤原新也の危険な新刊

2006-10-26 08:09:29 | 読書

 10月25日(水)郵便物のなかに文藝春秋からの書籍封筒があった。なんだろうか。米原万里さんの新刊はすでに届いている。まさか川上弘美さんの『真鶴』でもあるまい。封を開けてアッと思った。藤原新也さんの『黄泉の犬』だ。95年に「週刊プレイボーイ」に連載していたオウム真理教についての連載は、わずか6回で終ってしまった。当時明らかにされず、さまざまな憶測を生んだものであった。その突然の連載終了の理由を明らかにし、完結させたのが本書だ。そう思っていた。それだけでも興味は深いけれど、さらに『メメント・モリ』で公開された衝撃の写真の秘話がはじめて公開されているというのだ。「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」そう説明された写真は、まさに犬が人間に食らいついている作品であった。処女作である『印度放浪』から34年。藤原さんはこんどの著作についてこう語っている。

 僕は今までそれを語ろうとしなかった。なぜならそれはちょっとディープすぎて危険でもあったから。あのオウム真理教事件も含めて。


 大げさではなく生きていてよかったと思う瞬間がある。それは愛読する筆者の新しい作品を本屋の書棚で発見してうれしくなり、レジに行くときの感覚だ。ジムで泳ぎ、青山ブックセンターに行った。そこで見つけたのが長田弘さんの新刊『知恵の悲しみの時代』(みすず書房)だった。戦争に取り囲まれた暗い時代に読まれていた「無名の書籍」がある。長田さんは、グリボエードフが亡くなったときにプーシキンが寄せた言葉を紹介する。


 すぐれた人々は跡形もなくわれわれの許から消えてゆく。われわれは怠惰で無関心である。

 その「すぐれた人々」の生命が作り上げた作品を蘇らせたのがこんどの本なのだろう。藤原新也さんも長田弘さんも、内実ある言葉を駆使して現実の陰翳を浮かび上がらせる。今日は2冊の大事な作品との出会いがあった。困ったのは明日から読む本の順番が変わったことだ。緊急の割り込みでまずは藤原さんの新刊に取りかかる。電車のなかで唐木順三さんの『自殺について』(アテネ文庫)を読み終えた。日本人の作家や詩人などの自殺を分析し、そこに近代市民の未成熟を見る。たしかに「不可解」と遺して自殺した藤村操は「思想のための自殺」とされている。ところが父母に宛てた遺書を見れば、そこには日本特有の家族共同体主義が現れている。その部分だけを見れば自由で独立した個人の姿はない。しかし、日本の知識人の自殺を評論するのなら、海外のケースとの比較をしてもらいたかった。この文庫本は昭和25年に発売されたもので、定価は30円。奥付を見ると「地方売価」として32円と印刷してあった。想像するに都市部以外では輸送費などが定価に上乗せさせられたのだろう。「アテネ文庫刊行のことば」も印象的だ。「明日の日本もまた、たとい小さく且つ貧しくとも、高き芸術と深き学問とをもって世界に誇る国たらしめねばならぬ」「最低の生活の中にも最高の精神が宿されていなければならぬ」時代だなと思う。戦後のこの時間を生きた人たちは、現在の堕落した日本になるなどとは誰も思わなかったことだろう。


仮説が崩れるとき

2006-10-25 09:01:01 | 単行本『X』

 10月24日(火)眼の奥の奥、そこを芯と呼べば、その部分がジーンと痛みを感じはじめた。国会図書館で毎日新聞、読売新聞のマイクロフィルムを見ていた。これまで何度か朝日新聞の縮刷版で昭和23年春の紙面を見てきた。わずか数行の記事を見つけるための作業だ。今日もまた見つからず。なぜそこの期間に限定したかといえば、「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)の解説から判断したからだ。それを読めば昭和23年4月に探している記事があるはずなのだ。ところが、ない。ただ眼を見張り、数行を探せばいいのだが、視野から落ちているのか、それとも最初に根拠とした記述が誤ってるのか。どちらかなのだ。単行本『X』を書くうえでは本質的問題ではまったくない。それでも確定したいことだから困ったものだ。その記事を発見したところで、原稿にしてもわずか数行のこと。関連書籍を閲覧したが、私的回想で求めていたものとは違う。朝から木村久夫さんの遺した文章を書き写すものの、精神の根底にまで達する言葉だから、数行をたどったところであえて作業を終えている。この本を書くまでは体調を壊してはならないという切実感があるのは、歴史への責任を感じるからだ。鶴見俊輔さんの言葉が聞こえてくる。「あなたが現代に生きている責任として書かなければなりません」というアドバイスだ。そして「たとえ訴えられようと」とも語ったのだが、作田啓一さんは笑ってこう言った。「鶴見さんはそう言っても、そんなことのできる人ではないんですよ」そうだとは思う。仮説を立て、それが現実に裏切られていく。しかも見事にだ。仮説といえば聞こえはいいが、思い込みといってもよい。

 いくつかの事実がある。それを論理的に発展させていけば、ある推測ができる。ところが一次資料が発見できたとき、その仮説はいとも簡単に崩れ落ちる。こんどの仕事では仮説=思い込みが見事に裏切られ、そして安堵している。木村久夫さんが人間存在の極限で書いた遺書の全体像を歴史に遺さなければならない。それが28歳で生命を断たれた本人の意思なのだ。国会図書館を出て銀座。山野楽器店でマルティン・シュタットフェルトのバッハ・コンチェルト・アルバムを入手。1980年生れだから26歳。「並外れた天才」と評価されてる音楽家だ。ピアノ演奏に華やかさと力がある。世界は広い。「ささもと」で焼酎の梅割りを飲みつつ、串焼き。ほろ酔いで教文館。大岡昇平さんの『野火』(新潮新書)を買う。戦場体験なき観念バカはこうした作品を読むべきだ。わたしも戦場は知らないが、だからといって戦闘的言辞を吐くことなどできはしない。タレント弁護士Hが関西のテレビ番組で「BC級戦犯こそ本当の犯罪者だ」などと妄言を語っていたという。無知は犯罪だ。誰も反論しなかったというのは本当だろうか。「ル・ヴェール」でいつものようにバーボンのソーダ割り。「酒とつまみ」の原稿が遅れることを伝える。探し物は出てこなかったが、目的を持って歩いていればいつかは見つかることだろう。雨の銀座を歩く。


「善き人のためのソナタ」がいい

2006-10-24 08:43:47 | 映画

 10月23日(月)超満員電車で池袋。身動きもできない車内で会社員時代を思い出した。午前10時から横浜の万国橋会議センターで全日通労働組合青年部で講演。対象は18歳から30歳の指導部だ。熱心に聞いてくれた。社会問題に関心ある世代はここにもいることに希望を感じる。若さの光源があるのだ。雨のなかを馬車道駅へ。新橋で降りて日本テレビ。「ザ・ワイド」を終え、打ち合わせをしたうえで渋谷。東芝試写室で「善き人のためのソナタ」を見る。東ドイツの国家保安省(シュタージ)局員の魂の変遷を描いたすぐれた作品だ。最後のシーンで涙が出てしまった。権力によって疑われ、閑職に追いやられた男は、20年も地下室での封書開封作業に従事させられる。ところがベルリンの壁は崩壊。しかし新生の国家も経済困難が続く。男ができる仕事といえば、チラシ配りだ。あるとき書店の横を通ったとき、かつて24時間監視し、結果的に守ることになる芸術家の書いた書籍の大きな広告を眼にする。店に入り、本を手にし、ページを開いた。そこには「HGW XX/7へ捧げる」という献辞があった。店員がいう。「包装をしますか」男はひとこと語った。「いや、これはわたしの本だから」こうした終りかたを単行本『X』でも書きたいと思った。余韻でもない。これしかないという表現がある。「すべて」の物語がそこに集約される「ひとこと」があるのだ。独裁権力の末端として生きた男が遭遇した出来事は、人間性の回復であった。西側に唯一認められていた劇作家とその恋人の女優がいる。ある大臣は女優を自分のものにするため、劇作家の自宅に盗聴器をしかける。

 社会主義権力によって仕事を奪われた親友が自殺したことをきっかけに、劇作家は東ドイツの現状を密かに西側の雑誌に公表する。シュタージは劇作家を疑う。その決定的な証言をしたのは、追いつめられた女優であった。そこから物語は激しく展開していく。旧ソ連でも東ドイツでも全体主義はこうして人間性を崩壊させていった。それでも闘った人たちがいる。驚いたことに国家保安省の局員を演じたウルリッヒ・ミューエの実人生である。妻である女優が十数年間も自分のことを密告をしていたことがわかったのだ。映画にも出てくるが国家保安省が調査対象にした人物のファイルは、いまでも保存されている。ミューエの妻のファイルも254ページも残っていたのだ。ファイルは捏造されたものと妻は否定した。その事実を知ってから映画のなかの男を演じたウルリッヒ・ミューエを思い出した。優秀な審問官として働くときの静謐な眼差しがとても印象的だった。その奥深くに哀しみを感じさせたのは、自身の経験があったからなのだろう。JRに乗って渋谷から代々木へ。「馬鹿牛」で焼酎を飲む。最近「おもろですか」と何本も電話があったという。池袋の「おもろ」と「馬鹿牛」を間違える電話とは、いったい何だろうか。70年代の歌謡曲を聴きながらボンヤリ。店主の息子、笑之介がやってきたので少しかまう。そろそろ言葉が出はじめる気配だ。帰宅し吉田拓郎たちが31年ぶりに行った嬬恋コンサートのドキュメンタリーを見る。集まった同世代の顔がいい。時代はめぐる。


時代祭りの京都を歩く

2006-10-23 06:29:12 | 思索

 10月22日(日)昼前にホテルを出て河原町へ。「珉珉」のカウンターで餃子とビール。後のテーブル席にいる女性の声が聞こえてきた。「あの人、オウムのときによくテレビに出ていたんやで。いまは『ムーブ』によう出てはるわ」その番組は聞いたことはあるが見たこともないし出たこともない。そうか勝谷誠彦さんと間違えられているんだなと納得。花田凱紀さんの結婚披露宴でも高齢女性から声をかけられた。「勝谷さんですよね」カウンターで小さくなってビールを飲む。タクシーで岡崎の京都国立近代美術館へ向った。「若冲と江戸絵画展」を鑑賞。伊藤若冲の「紫陽花双鶏図」が印象的で何度も展示されている場所に戻ってしまった。江戸時代は自由の気風があったと思わせるのは、「遊興風俗図屏風」だ。野外と妓楼での遊宴が楽しそうだ。狩野派画家によるというが、作者不明。芸術の普遍性とは名前ではなく作品だとはいえ、いったい誰が描いたのかは気になるところだ。仕事の質と痕跡とは結びつかないことが多い。歴史の女神は微笑まないことがある。絵はがきの「百福図」を買う。「お多福」が100人描かれている。この江戸絵画を見ていると、封建時代だとはいえ、いまよりももっと精神は開かれていたのではないかと思えてきた。歴史は進歩しているのだろうか。先日出会った野党政治家の慨嘆が蘇ってきた。「絶望的ですよ」外に出ると時代祭の行列を待つ人たちが群れをなしていた。すでに歩道には多くの人が座り込んでいる。平安神宮に来るまでにはまだ1時間半。近くの喫茶店に入り、読書。午後2時半前から歩道に立つ。明治維新時代からさかのぼり、最後は延暦時代まで、時間にすれば1時間半ほどの行列だ。

061022_13300001  そもそも桓武天皇が延暦13年10月22日に平安京に遷都したのが「京都」のはじまりだった。時代祭はそれを記念して明治28年にはじめられた。外国人観光客のなかでもロシア人が目立っていたのは、経済状況の影響なのだという。タクシーで「一澤帆布」「信三郎帆布」に寄ったけれど、いずれも定休日。仕方なく京都駅へ向った。新幹線のなかでは清田和夫さんの『開かれた郷土愛 渥美と共に』(BC出版)を読む。とくに作田啓一さんとの対談が興味深かった。清田さんは杉浦明平さんの小説のモデルでもある。組織と個人、作田さんの表現では「社会我」の問題が明らかにされている。会社でも宗教でも政党でも、自己をどこまで生かすことができるのか。「社会我」は組織の広がりによって拡大していくが、その壁や境界を超えることはできない。自己の現状を超えていくことを「独立我」と作田さんは命名する。そしてもうひとつが「超個体我」だ。この「三次元の人間」としてわたしたちはある。そのバランスを取る努力を日常のなかで追求すること。自分のスタンスを客観視することができるかどうかが大切なことなのだ。東京駅に着いたところで空腹を感じ銀座「ささもと」。日曜日は午後9時まで営業していたのに、ここしばらくは休んでいるようだ。残念。


作田啓一さんの「欲動」

2006-10-22 09:04:41 | 人物

 10月21日(土)京都駅を降りると観光客で雑然としていた。そういえば明日は時代祭りだと思い出す。地下鉄で京都国際会館へ。午後2時半から作田啓一さんに話を伺う。同席したのはBC出版の新堂粧子さん。「BC」といっても「BC級戦犯」ではなく、「Becoming」。作田さんによれば、「定着した世界」と「生成する世界」という意味があるという。その「生成する世界」にある非合理的なものを探求したいという。作田さんを同人代表として年2回同名の雑誌を発行している。作田さんは木村久夫さんが問われた戦犯事件を1966年の『展望』に書いた。インド洋のカーニコバル島で起きたことを戦後詳しく紹介したのは、作田さんと高橋三郎さんの「波濤と花火」が最初であった。5時までの会話で新鮮な発見があった。新しい史料があったというのでもない。心から納得できたのは、木村さんの遺書が公表された時代的背景であった。戦争が終わった直後だけでなく、作田さんが戦争を分析した1960年代にしてもなお「戦犯」には強い偏見があったのだ。木村久夫さんの遺書はどのような意味を帯びていたのか。それは1945年から数年の日本社会の価値観で見なければわからないことなのだ。「戦犯」として処刑されたことへの偏見が強かったとき、両親がそれに抗うことは当然であった。木村さんの遺書を何度も読んできたが、そうした視点で見れば、まったく異なる世界がそこにあることを知った。単行本『X』で予想された難問を解決する道筋が見えた。話をしているとき、新堂さんが小さなメモを出してきた。そこにはある電話番号が書かれていた。「これは高橋さんの……」と言うので、「もう3年前に亡くなっていました」と答えた。すると笑って「生きていらっしゃいます」という。作田さんも「会いましたよ」と続けた。

061021_22320001  混乱してしまった。高橋さんが勤めていた広島の大学に連絡をすると「定年で京都にお帰りになりました」と伝えられた。そこで番号案内で京都市内の「高橋三郎」さんに該当する電話をすべて教えてもらい、一軒ずつかけていった。その数件目で「広島の大学で教えていた高橋さんの……」と訊ねたところ、相手の女性は「3年目に亡くなりました」と語ったのだ。この高橋三郎さんは別人だった。電話で広島の大学名などを確認すべきだったと反省する。こんなことがあるから調査は難しい。落とし穴は意外に単純だ。雑談のなかで「欲望」のなかにある「欲動」について質問した。言語や法が支配する象徴的世界でわれわれを動かしている欲望の底には欲動があるという。つまり象徴的世界が「すべて」ではない。不可解な少年事件を考えるときに有効な視点だ。地下鉄で丸太町に出て、タクシーで日航プリンセス京都へ。荷物を置き、河原町まで歩く。ジュンク堂で作田さんから教えられた武田泰淳さんの「審判」という小説を探したが見つからず。新京極の「三嶋亭」で長男を待つ。ところが満席で少なくとも40分は待たなければならないことがわかった。仕方なく祇園に行くことにした。三条大橋には外国人観光客の姿が目立つ。「金星」の「お任せ料理」でワインを飲む。大正時代のままのバー「元禄」へ。戦前から保存してあったウィスキーを飲みながらGHQ専用のバーに指定されたときの話などを聞く。