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超人日記・俳句

俳句を中心に、短歌や随筆も登場します。

#俳句・川柳ブログ 

<span itemprop="headline">ロシア・アヴァンギャルドと詩のロジック</span>

2009-09-26 08:20:57 | 無題

昨日は翻訳をしてラテン語英語対訳聖書(Loreto出版)を読んで、近所の古本屋さんで買った、亀山郁夫氏の「ロシア・アヴァンギャルド」を読んだ。
話はソ連崩壊後のレーニン廟から始まり、レーニンの遺体保存はニコライ・フョードロフの死者復活思想を背景にしているという話になり、ソ連時代のレーニン廟の設計者シシューセフがマレーヴィチの「レーニンの思い出を記念して立方体を飾ろう」というアイディアを剽窃している面白さが語られる。
この辺りまではマレーヴィチの論集「零の形態」や桑野隆氏の「夢みる権利、ロシア・アヴァンギャルド再考」を読んでいたので普通に読めた。
そのあとロシア・アヴァンギャルドの歴史が語られはじめ、象徴主義から原始主義へ、原始主義から未来派や光線主義へと進む。
この原始主義と未来派の詩人として出てくるフレーブニコフの説明で、興味が引きつけられた。フレーブニコフの詩を亀山氏が例に挙げて、ローマン・ヤコブソンは詩の原理を「潜在的な選択肢を浮かび上がらせ、並べて見せること」だと説明したと解説する。この定義には触発された。
またロシア・フォルマリズムの批評家トゥイニャーノフは「偶然的なものを中心に持って来るのが(前衛)詩の原理」だと指摘したとある。この後シクロフスキーの「芸術とは現実を見慣れないものに還元して生まれたままの眼で見る技術」であるという、異化の理論が後半述べられることになるのだが、この辺で詩の原理とは何かを改めて考えた。
私はディオニュソス教の世界の特徴を「体や言葉が日常への奉仕を止めること」だとかつてある論考で書いた。その線で行くと「詩とは言葉が日常への奉仕を止めること」である。これはシクロフスキーの異化に沿っている。惰性言語を止めて囚われのない言語で話すということである。
「潜在的な選択肢」も捨てがたいし、「偶然的なものを取り込む」も卓見だ。「言葉が日常への奉仕を止めること」も一理ある。これらをすべて考慮して、ヤコブソンに倣って言えば、詩とは日常言語の陰に隠れた潜在的な現実を並べて見せることだと言える。これが一番呪術的で面白い展開だ。



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