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※記載事項について、一切責任を負いません。

八所宮、岡湊神社

2013-05-05 00:12:14 | 神社

25.5.4

神社研究の対象として、なかなか福岡県内(福岡市外)の神社参拝の機会を作れていない。

労務士業の休みを利用し、以前から気になりつつも未参拝の神社参拝に出かけた。

参拝神社は、次の通り。

1.八所宮(宗像市)
2.高倉神社(岡垣町)
3.岡湊神社(芦屋町)
4.神武天皇社(芦屋町)
5.浅木神社(遠賀町)
6.岡田宮(北九州市八幡西区)
7.春日神社(北九州市八幡西区)
8.御所神社/柳の御所(北九州市門司区)
9.戸上神社(北九州市門司区)

その他の訪問先は、次の通り。

1.平家塚/二位の尼墓(宗像市)
2.千光院大蘇鉄(芦屋町)
3.芦屋小学校創設地碑(芦屋町)
4.明治天皇記念之松碑(北九州市門司区)
5.小倉城(北九州市小倉北区)

ついでに食事先。

1.寿司本家げんもん(芦屋町)
2.東洋軒(北九州市小倉北区)
3.珉子ラーメン(北九州市小倉北区)

訪問先についてすべて記載することは困難のため、八所宮と岡湊神社について触れたい。

・・・

八所宮(宗像市吉留)
横に弓道場があるようで、駐車場には多くの車が停まっていた・・・
と思ったら、ちょうど何かあっていたようで、氏子さんが集まっていた。

八所宮といえば、梵鐘の話しが有名だ。
豊臣秀吉の九州平定の際、ここ八所宮の梵鐘を持ち帰り、安芸宮島の厳島神社に奉納された。
梵鐘には、【赤馬庄鎮主 八所大明神 社頭洪鐘也】と刻まれている。
後小松天皇の慶永五年(西暦1394年)に奉納された、620年も前の鐘だ。
豊臣秀吉が持ち去ってから約70年後、黒田藩主が新たに鐘を鋳造させて奉納したが、明治初期の廃仏毀釈のため存置できなくなり、明治三年に売却するに至った。
その新鐘は、先の大東亜戦争の際に、金属供出のため失われることとなった。
その後、氏子の働きかけや厳島神社の理解もあり、元々の鐘が昭和59年に約400年ぶりに八所宮に戻されたのだ。
今は「平和の鐘」と名付けられている。
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ところが、氏子さんにお聞きしたところ、なんと厳島神社から返還するように言われているとのこと。
何故そのような話になるのか理解に苦しむところだが、きちんと説明いただいた。
豊臣秀吉は、八所宮氏子11カ村の命と引きかえに梵鐘を受け取ってこれを厳島神社に奉納するという約束があったとか。
即ち、「奪った」のではなく、「契約」によって正当に入手したともいえるのだ。
また、厳島神社の立場でいえば、奉納を受けたのであって、返還義務があるとまではいえないことになりそうだ。
さらに悪いことに、この鐘は、広島県の文化財に指定されているとのこと・・・
以上から、氏子さんいは今年の秋頃には厳島神社に戻さなければならない旨、説明をしているところということだ。

もともと八所宮の梵鐘であったことは間違いない。
厳島神社が400年前に奉納を受けたことも間違いない。
どちらにも言い分があり、理がある。
客観的な私見として、世界遺産たる厳島神社が、この鐘を八所宮に正式に返還する懐の深さを持ってもらえれば、丸く収まると考える。
双方が相手方の立場を理解し、どちらかにしなければならないのであれば、この結論が妥当だろう。
厳島神社が正当に奉納を受けた鐘であることを否定する気はない。
仮にこのような場合には元々の持ち主に返還しなければならないのであれば、大英博物館は多くの所蔵物を失うだろうし、世界中、もちろん日本でも多くの類似問題が生じるところである。
ただ一点異なる点は、現に元々の持ち主である八所宮に鐘が戻され、既に約30年も経過している点だ。
今更戻せと言われても、という気持ちが生じることも無理のない話しといえよう。

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八所宮。
旧県社。
神代七代の夫婦四代が御祭神。
非常に珍しい。
今後大きく栄える秘めた力を持っているように感じる。

・・・

岡湊神社(芦屋町)

偶然だったが、ちょうど奇木「なんじゃもんじゃ」満開の時期だった。

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「なんじゃもんじゃ」という木の存在すら知らなかった。
和名「ヒトツバダゴ」、モクセイ科。
神社境内に、対馬、岐阜、アメリカ等各地のなんじゃもんじゃが約200本もある。
なんじゃもんじゃ鑑賞の参拝客で賑わっていた。

林田宮司に伺った話によると、昭和4年に火事で社殿が燃えたそうだが、当時の社殿は現在の倍くらいあったとか。
戦後、芦屋町から境内を削られて町有地とされ、その後再建されたのが今の社殿とのこと。
気さくな宮司さんで、子供を非常に可愛がってくれた。

岡湊神社の前の道を挟んで宮司ご自宅がある。
この場所がすごい。
神仏分離で廃寺となった「千光院」があった場所で、ここに大蘇鉄がある。
日本三大蘇鉄の一つとか。

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天草四郎の島原の乱の際に、原城内にあった蘇鉄を黒田範士が持ち帰ってここに移植したものと伝えられている。
ところでこの千光院が廃寺になる直前の頃、ちょうど明治五年の学制発令をうけて、この千光院を仮校舎として芦屋小学校が開設された。
この地は、芦屋の小学校の原点でもあるのだ。

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林田宮司のおすすめで、近くの「寿司本家げんもん」にて食事した。
芦屋だから海の幸。
非常に良い感じだった。

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