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福本日南

2013-01-27 17:36:03 | 郷土史

24.1.27

市民講座、石瀧豊美先生の『マルチ天才 福本日南 ~「元禄快挙録」で忠臣蔵ブームを起こした言論人~』に出席。

会場は、福岡市中央市民センター。

福本日南は、一言で表すのが難しい人物だが、明治大正期に活躍した国士だ。

以下、石瀧先生の資料から抜粋。

安政4年(1857)に生まれ、大正10年(1921)に亡くなった。

平野国臣とも親交のあった福本泰風の長男として生まれた。

本名は福本誠、幼名は巴。

藩校修猷館、谷口藍田、岡千仭、正木昌陽らに学ぶ。

明治9年、司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学したが、明治12年に退学処分となる。

退学処分の原因は、「賄い征伐事件」で、寮の料理賄いへの不満から薩摩出身の校長を排斥しようとしたこと。

一緒に退校処分となった16名には、後の平民宰相原敬の他、明治22年に福本日南とともに新聞『日本』を創刊した陸羯南、国分青崖らがいる。

日本新聞者の後輩には、正岡子規がいる。

明治31年から翌年にかけてパリ、ロンドンに滞在し、ロンドンで南方熊楠と出会う。

石瀧先生は、「天才と天才との出会い」ときょうちょうされるところだ。

このときの交遊をのち明治43年に大阪毎日新聞に連載、南方熊楠を日本に初めて紹介したといわれる。

明治38年、玄洋社系の「九州日報」(福陵新聞の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任。

明治40年、衆議院議員に当選。

同年、『元禄快挙録』の連載を開始し、現在の忠臣蔵のスタイル、評価を確立。

『元禄快挙録』以降、史論の執筆が多い。

『直江山城守』、『英雄論』、『黒田如水』、『大石内蔵助』、『元禄快挙真相録』、『豊太閤』、『栗山大膳』、『清教徒神風連』、『堀部安兵衛』、『大阪陣』等だ。

最後の著書となったのは、大正10年の『大阪城の七将星』。

福本日南は、同時代の人からは、国士、文豪と評された。

『国史大事典』は、日南をジャーナリスト、政党政治家、史論家とまとめている。