昨日、日華(台)友好親善慰霊訪問団より一通の葉書を受け取った。
台湾の台中市在住の林渓和氏のご逝去の通知だった。
林渓和氏(享年86歳)は、大正12年、台湾に生まれ、台湾に育った方だ。
小職は、5年ほど前に日華(台)友好親善慰霊訪問団に参加し、先の大東亜戦争で日本人として亡くなられた台湾の方々の慰霊訪問をしたが、このときに初めて林渓和氏にお会いした。
その後、2回台湾に遊びに行った。
事前に何も連絡しないまま台北空港から電話すると、2回とも「今すぐ台中に来なさい!」だった。
そして、林渓和氏のご自宅に到着すると、最初に私の荷物を隠し、「今日は泊まって行きなさい」である。
いつも大変お世話になるばかりだった。
林渓和氏は、戦前の台湾にて、日本人として生まれた。
そして22歳まで日本人として生活する中、先の大戦では軍医として従軍。
戦後は台湾から日本人が引き揚げ、代わりに大陸から中国人が入ってきて、台湾人の生活は大きく変わる。
少なくとも、日本は戦後の台湾人(元日本人)に手をさしのべることは無かった。
台湾では、「日本語世代」「日本語族」と呼ばれる世代だ。
日本語と、現地の台湾語しか話せない。
その子供の世代は台湾語と中国語で、孫の世代は中国語のみ。
孫と言葉が通じない、というのは有名な話だ。
※「中国語」とは、「普通語」といわれる北京地方の中国語を指す。
※「多桑」という言葉がある。中国語で「トオサン」、日本語世代を指す言葉で、数年前映画のタイトルとなったことがある。
日本は、林渓和氏にとって、第二の故郷という安易な言葉で表現できない「母国」だったと推測する。
台湾人としての誇りを持ち、同時に元日本人としての誇りを持つ林渓和氏には、教えられることばかりだった。
※林渓和氏には、『台湾の真相と心の声』(丸善出版社2003年1月)という著作がある。
日本に対する愛情いっぱいの著書。
少しだけ、引用したい。
「昔、想い出深い領台時代、日本人の活躍、莫大な資金を投じて基礎建設、苦労かけての辛さや楽しさ、滅私奉公の犠牲的精神、台湾の教え子を励まし厳しい教育は『想い遣りあって』『心温かく教え』、50年間は決して短くなかった。現在の若い日本人に、先人達の苦労は想い出深い領台時代のかずかずを偲んで貰いたい。
~日本人にもっともっと台湾で日本人の医大なる先駆者が過去住み慣れた第二故郷台湾をお忘れなく再びと偲ぶ人情味が欲しい。
日本は過去半世紀の間、苦労して立派に築き上げた宝島の台湾を大東亜戦争の為惜しげもなく簡単に放棄してしまった。
台湾人は終戦と共に悲哀を秘めて大きなショックを受けた日本人に捨てられた孤児のようだった。
~歴史を知らなければ、真に其の国と其の国民を理解するには難しい。(序文より)」
「当時日本の内地人も、台湾の本島人も、みんなが挙国一致で団結していた。みんなが明るい平和な時代を迎えたい。戦はあってはならない。ワールドで生きる各種の人種にしても、戦争するもんぢゃない。」
ここ2~3年、台湾には行けないままだった。
年賀状は、今年もいただいた。
どうしようもないが、後悔の念でいっぱいだ。
林渓和氏のご冥福を、心から祈念する。