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兎についてきた人だけが迷い込む不思議な衛星

忍者に学び考えた

2017-09-18 | 日記
NHKの歴史秘話ヒストリアという番組で忍者の特集を放送していました。

忍者…私の気配消しすぎ問題は、このての血筋から来ているのではないかと真剣に悩んだこともあるのですが(自分透明なんじゃないかというくらい気づかれないことが多々ある)、番組内で甲賀流忍術を受け継いだ方が「生き抜く上で恥じることなど何もない」というようなことを話されていて、心にぐっときました。

忍者は、とにかく生き延びて情報を持ち帰ることが大切らしいです。改めて、そうだよな~と思いつつ簡単なことではなかっただろうなとも。

恥じることなど何もない…きっと様々な捉え方があるのでしょうけれど、私は救われる気がしたのですよね。。。

というのも─曲がった見方をしていくと─程度の差こそあれ、人には誰かを見下す機能がついていて、私は確実に見下される側で(もちろんそんな私でも誰かを見下しているときもあるでしょう)、そうされて恥ずかしくなる時もあるし、それが続くと今度は情けなくなってくるというか、情けなさを通りすぎて虚しくなってくるというか。次第に、立場や見た目で勝手に人を判断してくれるなよ!と腹が立ったりもしてくるわけです。

だって…誰かの人生を見かけだけで判断する権利は誰にもないのでは?と思うのですよ。

例えばテレビ等で、一見穏やかに見えるお年寄りが実は壮絶な人生を生き抜いていた、というのをよく見ます。そこまでドラマチックでなくとも、、、誰かが私のことを見て、物心ついている時から過酷な状況に置かれていて、その度合いが成長するごとに加速して、ある時遂に八方が塞がって、この世になんの未練もない状態になったなんて想像もつかないでしょう(恵まれている部分や楽しいこと、ありがたいことがあったとしても)。でも、なんとか正気を保ちながら(保ててないかもしれないけれど)その時その時を懸命に生きてきた姿が今なわけで。それをなんにも知らない人たちに見下されたくないというか。

でも、そうはいっても仕方ないのでしょうかね。職場で、自分には見えていたとんでもない状況が本気で見えていない人がいたので、やはりある程度苦労をしないと、その苦労の存在すら理解できないことがあるのかもしれません。

と、これこそ見下しなのだろうか…

ある意味羨ましいと思ったのでした。

とにもかくにも、なんだか色々考えてしまったのですけれども、忍者と立場は違うにせよ、人から見て自分がどんな状態に見えたとしても懸命に生き抜いての今なのだから、なんの恥じることもないと思ったのでした。
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