京都のアニメーション会社で起きた事件の、そのあまりの理不尽さに、なぜこのようなことが?と毎日疑問ばかり浮かんできました。
命を奪われた方々がその様な目にあってしまう理由が一体どこにあっただろう?と。
答えはもちろん否で、それどころか生み出された作品達は現実に打ちのめされた私の心(主に仕事による疲弊)を癒してくれるありがたい存在で、なので、生きる糧を与えてくれたスタッフの方々には感謝しかないのですよね。。
作品を生み出してくれてありがとう…そんな感謝を抱く対象が理不尽な目にあうことがどうしても理解できないのでした。
これは端からの考えで想像なのですけど、、多分スタッフの方々は世に送り出す作品のことで心をいっぱいにしながら日々を過ごしていたのではと思うのです。
進捗状況や個々の作業状況、明日はこれをやろう来週は来月は来年は…楽しみに待っている私達のために。そうして続くはずだった日々が、くだらない暴挙でたやすく閉ざされてしまう…そのことがどうしても私には理解できないのでした。。
その後も色々と考え続け…命が2つあればとか、別の世界線では生きててほしいとか現実離れのようなことも浮かんだりして、けれどもそうしている間にも世の中は回り続け、時の流れのそっけなさと、そこにある命の複雑さの矛盾に“この世ってなんだろう?”となったりもしました。
その間、私自身も変わらぬ毎日を過ごしていましたし、興味をもった場所にも行き、感動もし、笑っている時もありまました。けれ、ども、、、やっぱりふと泣けてくるのですよね。日々を過ごしながら時折涙がこみ上げる…それを繰り返す夏でした。これはきっと間隔こそ変われど今後も続いていくのだろうと思います。
あと、事件そのものの悲しさと、それに伴う社会の動きについても考えさせられましたね。それは主に報道のあり方について。
私としては全氏名公表はあってはならないことだと思っています。各所で働く方の仕事での立場とか諸々あるかもしれないけれど、伝える使命というよりも、報道という名の元に行われた心ない行為だったなと。
だって、なにも難しいことではないですよね?傷つき悲しんでいる親族の方々が「やめてください」というのをやらないというのは。仕事云々以前に人としてそれはあたりまえのことではないでしょうか。そうしたあたりまえのことを無視して行われる社会の仕組みの意味も分かりませんでした。
そして、悔しいけれどそのことに対して私にできることはほとんどありません。でも公表された氏名は今も見ていませんし、それを行った報道各所についても今後見ないと決めました(組織の中には心ある人もいるでしょうし、生業としてる関係者もいると思いますけれども)。微力な私なりにできることを今後もしていこうと思っています。
そのできることの中にはマイナスの感情を含むことばかりではなく、プラスの感情を含むものもあります。
これからも生み出された作品をみること、催しものに自分なりに参加する等々…それが私にできる恩返しであり、思いの表れです。
…いつも以上にまとまりのない文になってしまいましたが、これが今の私の考えです。
生きる力を与えてくれた方々への感謝の気持ちを抱きながら、これからも応援し続けます。。。