今年に入って初めて定食系?のお店を利用するようになり、前ほどお弁当を利用しなくなったので(付属の漬け物にハマっていた)その際使う割り箸の需要も減っていました。
ところが最近、用事の後にお惣菜と好きな飲み物を買って一息つくのが習慣になりつつあり、割り箸需要復活(環境問題的にどんな状況にあるのかふと考えもする)。
で、数日前もそんな感じで一息セットを購入し、帰宅後荷物を置いて手など洗って、食べる準備をしてウキウキしながら箸を割ろうとしたら……
割れませんでした。
荷物の持ちすぎで握力が弱まったのかしら?としばし格闘。それでも割れず。
さすがにおかしいと改めて割り箸を見てみると…
割れない箸でした。
こう、、、本来パキッとなる部分がパキッとならない構造といいますか…つまりくっついていたわけです。
写真右
しばし眺めた後「(なに!?)(割れない箸ってなに!?)」と思わず突っ込み(箸に)。
だってこんなことあるんですかね?割り箸が割れないなんて(あったけど)。
割り箸が割れないということは、もはや機能すべき動作が機能していないわけで、それはつまり箸ではなくただの物体となりはしないかと云々(脳内エンドレス会議開催)。
ふんぬ~っと力んだせいで鼻息も荒くなりましたし、何より、せっかくの流れを中断されたことに少しムカッ。でもその後ちょっと笑ってしまいました。
さてさて、この箸どうしましょうか。
“割れないでついてる”縁起がいい感じもします。
虫の音と
うるさいというより、そのはっきりとしたミンミンという声に(正確にはどこかの器官を震わせているのだろうか?)感心してしまいました。他にジーッという蝉の声もして、あとしばらくすると蜩も鳴き始めます。
以前住んでいた場所では蜩と鉄風鈴の音が同時に聞けて、この組み合わせほど遠い夏の日の記憶を誘うものは私的に無いように思います。
数日前からは夜にささやかな虫の音も響くようになってきました…。
それにしても、季節の移ろいにあった音が聞こえてくるのも不思議といいますか…暑い日には暑い日の、涼しくなれば涼しいなりの、そんな虫の音を聞きながら色々と考えが浮かんできます。かつての戦争についても───
毎年毎年、戦争について書こうと思うのですが、なかなか書けません。
特効のことや、玉砕のこと、戦艦大和の哨戒長臼淵磐の言葉、敵とされる人々の中にも日本のことを思う存在がいると教えてくれたドナルドキーン氏の『私と20世紀のクロニクル』について、戦争について多くは語らなかった私の祖父の体験も。
そして原爆については、NHKで放送された『原爆死ヒロシマ72年目の真実』で、情報収集処理能力の向上により初めて見たデータに絶句しました。
私がこれまで抱き想像していた悲惨さとは比べようもないむごい世界がそこにありました。
偏った考えかもしれませんが、この番組を全世界の人が見れば、原子力とは人間が触れてはならないエネルギーであると感じるのではないかと思いました。
前に、原子力発電所について否定も肯定もできないというようなことを書いたのですけど、現在の状況や原爆のそうした事実を知った今、人類の発展に必要だったのだとしても、このエネルギーに触れてはいけないのではと思います。
こうした兵器を生み出して実際に使われた戦争──命が魂なきもののように扱われ、数えきれない悲しみを生み出し、なんの救いもないままに、それら思いがずっと存在し続ける、これから永遠に必要のない出来事なのだと思います。
今と同じように当時も聞こえていたであろう虫の音が、切なく響いてなりません。
数日前、なんだか目が痛痒くなり、睫毛が入ってしまったのかな…と鏡で確認してみました。
特に何も入っておらず。
で、ふと瞼をめくってみると…
とんでもない所から睫毛がはえていました。
通常生える場所より2ミリ程内側にです。
見た瞬間「(どうしろと!?)」と思いました。
完全に粘膜に生えているMy睫毛。
引っこ抜いて炎症を起こしても嫌ですし、ハサミを眼球ギリギリまで近ずけるのも怖い(先端恐怖症でないにしても)。
そのうちなんだか怒りがわいてきたので、漫画にしたためることにしました(←怒りで我を忘れているのよ)
それにしてもこんな所に生えるというのは一体どういったメカニズムなのでしょうね?美容液とかもつけていないのに。
毛母細胞?毛根?が1つ、さ迷った挙げ句面倒くさいからここに根をおろそう!となったとしか思えないのですけど(怒)
今のところ伸びてしなるようになったので軽い違和感ですんでますけど、今後どうなることやら。。。
もしかしたら、加齢による細胞達の怠慢なのだろうかゴホ
ほんと何なのよと思ったとある日の出来事でした。
夏祭りの季節がやって来ました
提灯に花火にお囃子…とくると、なんだかこう、この世ならざる世界との境界を感じるといいますか、、、まほろば的な何かを感じるのですが(ちなみに数年前の花火大会で私はちょっくら夢うつつな体験をした)、出店もまた魅力深いもの。
中でも特に気になるのが、りんご飴これはもう子供の時から変わりません。
そのつぎが、あんず飴。そのつぎが、いちご飴(無限…)あの暖色の光の中で仲良く並ぶ姿は可愛らしく、艶のある飴の輝きと、そして何よりお味と食感がいいのですよ。甘くパリパリとした飴と酸味のある林檎との組み合わせは、まさしく夢の食べ物だと思います(色々こだわり有り)。
…とはいえ、大人になるにつれ食べ方が下手になってゆき、いつしか私の中で、りんご飴を上手く食せなくなったあの頃が、大人への扉を開いた時だったのだと刻まれるようになりました(何を言っているのだろう自分…)
で、お祭りに行ってきたという話しではなく、スーパーで見つけました。
※いつにも増して見辛い画像
過去二回ほど楽しんだ知育菓子の屋台バージョン
見つけた時は「(わ~)」となったのですが、いざ作り始めると大変でした。。。
ソフトキャンディに粒々を纏わすトウモロコシや、バナナの形成、バナナの形成、バナナの…とにかくバナナが大変でした
作りながら「(これもう子供と気楽に楽しむレベルじゃないんじゃ?…あ、でもだからこそ知育なのか??)」と軽くカオスが発生しつつなんとか完成。
ポテトとトウモロコシはフルーツ味で、りんご飴とチョコバナナはそれらしいお味。
欲をいえばりんご飴はただのゼリーではなくて、何かに飴を纏わすほうが良かったかなと思いましたね。
ちなみに本物のりんご飴に関して述べると(熱く語る)食紅が濃すぎて透明感の無いものは駄目、シンプルな飴の味にりんごの香りがほんのり移ったものは素敵、あと飴のかかり具合が大事ですね。ペロペロ舐めて程よく飴が薄くなるくらいが丁度いいです。
薄くなったところをパリパリ食べる至福…
とまありんご飴に思いを馳せつつ大変でしたけど、こうして出来上がるとやっぱり面白いな~と思いました