雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 9月25日(金)の1 忙しい昼間でした

2015年09月25日 21時45分37秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月25日(金)の1 忙しい昼間でした

 早朝5時ごろ、眼が覚めました.最近、早朝に眼が覚めること多いんですよね。でも、妻の則子さん(隣りの部屋に寝ています)が早番で、早朝起きて、父の朝食と昼食を作っていってくれらので、それを妨げたりはしません。

 ぼくは食事作りではアマチュアだし、則子さんは無給プロですから。

  ☆

 午前中、◎◎公民館へ、浜松市平和委員会の会議会場を抑えにいきました。使用料660円です。

 話をすると「ああ、平和委員会さんですね」と公民館の女性職員が言ってくれます。

 戦前なら考えられないですね。これも日本国憲法で保障された結社・集会の自由です。

  ☆

 午前中の、残りの時間、平和新聞の配達。父の昼食に間に合うように、11児過ぎに自宅に帰りました。

 11時30分、父が台所に出て来るので、昼食を準備します。暖める物を暖めて、自分の昼食は適当に食べます。

  ☆

 午後は夕食の買い物を「かきこや」に行ってから、午後1時半から「浜松学習協例会」です。

 話題は「マイナンバー」や「共産主義社会への過渡期」論やら「シールズ」やら「日本百名城」やら、時空を超えて縦横無尽に飛びます。
 
 楽しい時間です。

  ☆

 夜は、楽しい「ビデオ編集の時間」。被爆者証言ビデオ第3巻は、今夜完成しました。長く、苦労しました。

 かなり綿密に、地図を入れ、わかりやすくしました。

 夜9時頃、家に帰って、則子さんに「第3巻、完成しました」と告げました。則子さんに、心からら「智彦くんたち、ごくろうさま」と言われるのが、平和ボランテイアの最大の報いです。
 



 

雨宮日記 9月24日(木)の1 午後は「被爆者証言DVD第3巻」編集の佳境

2015年09月24日 20時39分30秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月24日(木)の1 午後は「被爆者証言DVD第3巻」編集の佳境

 午後は、京夫妻宅で、「被爆者証言DVD 第3巻(第5回と第6回)」ビデオ編集の最佳境に。あとわずかです。

 今回は地名が多くでるので、地図を多用しています。2人とも女性で、どっちもほぼ十数分。

 明日の夜には完成しそうです。

  ☆

 最初、どう聞いても「広島市の金座台」と聞こえたのが、いわゆる刑事さんが「証言の裏を取る」ということで、検索してみたら「金座街」しか出来ません。やっぱり、「広島市金座街」ですね。訂正しました。

  ☆

 夜は「ラブ&ピース ミュージック パレード」の1/2/3の総集編をつくる準備。どこから何分何十秒からどこまでをトルかをメモ。

 ぼくたちは今、とんでもない物を創ろうとしてます。「出演者ひとりひとりの個別ビデオ」

  ☆

 夜8時頃、メールを開けて、なんと日曜日から木曜日までのメールを受信、御殿場から「104」「オスプレイ」報告が来ていたので、「静岡県平和委員会 平和のかがり火」に掲載する。


雨宮日記 9月21日(月) 浜岡原発と避難の原稿資料を探す

2015年09月21日 15時36分49秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月21日(月) 浜岡原発と避難の原稿資料を探す

 ネットと文献で浜岡原発と避難の文献を探す。

 やはり、まず国と静岡県・そして浜松市の基本文献を骨格にすることにする。

 それから避難に必要な交通や南海トラフ巨大地震による道路寸断の状況。

 さらに浴びた放射能検査。

雨宮家の歴史 42「「父の自伝『落葉松』 第6部 Ⅱ-41 バラック住宅

2015年09月21日 15時17分15秒 | 雨宮家の歴史
宮家の歴史 42「「父の自伝『落葉松』 第6部 Ⅱ-41 バラック住宅

 第六部 戦後の始動

Ⅱ 41 バラック住宅

 昭和二十年六月十八日の浜松空襲で、新町の借家を焼失した。それを見越して浜名郡北浜村高畑(たかばたけ)(現浜松市浜北区高畑)の親戚の離れの六帖間一室の建物を借りて、祖母を先に疎開させておいたが、家族一同が揃って、ここで生活を始めることになった。

 遠州鉄道の西鹿島線が通じていたから、利便は良かったが、きぶね駅(現在の浜北駅)から三十分は歩かねばならなかった。最も当時は、歩くことが当り前の時代であった。

 新町の大家は、隣のK商店で小巾織物の卸しをやっていた。Kさんは焼けると、市の東部の下石田町(現在の東名高速道路浜松インターの近く)へ疎開した。この町内にはK姓が多いから、ここの出身なのであろう。

 父は焼けたあと、すぐ七月八日には、Kさんを自転車で訪問して罹災後の尽きぬ話をし、南瓜二個を頂いて帰った。自転車は、焼けた時弟が押して持ち帰った貴重なものであった。ゴムの無い時だったので、タイヤはすり減って、いつもパンクしていた。戦争が終わる八月十五日までに、更に八月三日、十日と計三回訪問している。

 下石田へは高畑から笠井街道を一直線に南下すればいいが、約一里はある。自転車で三十分以上はかかったであろう。パンクもあるし、空襲警報が出れば動けなくなる。それを見越しての訪問は、店子と大家との関係を維持させるためであった。世間話の中に、そのことを意識的に入れていたことは充分に考えられる。開店したのは昭和十三年であるから、七年間続いていた。両者の関係は大家と店子以上のものがあった。二人とも誠実な人であった。

 K氏の次男が、東京の大学受験の折り、頼まれて父がそこの教授に話をつけておいてやった事もある。K氏としても頼まれれば、断り切れないものがあったと思う。K氏も借家を建てることは不可能なので、借地を頼んでいた。その土地は、戦前とは反対側の、名古屋の松坂屋の所有している土地で、K氏が管理していた。

 敗戦直前の八月十三日、十四日は、舞阪町弁天島の自給製塩事業の作業に、北浜村の者一同で出かけ、その帰りの汽車の中で偶然、K氏に出会った。K氏は下石田より弁天に移っていた。 戦後は、世相の混乱でしばらく行けなかったが、十月十九日、弁天島にK氏を訪ねたが不在だった。帰途浜松駅で弁手島に帰るK氏に偶然出会い、重ねて借地の件を申し出たところ、あっさり承諾してくれた。もう仕方ないと思ったのかも知れない。月末の十月二十九日に再度弁天島へ出かけ、最終的に借地の件について相談して決定した。

 父が必死になって奔走したのは、疎開生活を早く切り上げて、本屋の仕事を再開させるためであった。僅かばかりの預金の食いつぶしは訳はなかったからである。六月には月三百円代だった家計費が、年末には二千円代になった。食費がその半分を占め、配給分は僅か三ー四%で、残りは買出し品であった。周囲は農家が多かったから、野菜類は割合手に入り易かった。

 参考に九月九日のわが家の食事のメニューを記載しておく。
 「(ご飯)、大豆、さつま芋、じゃが芋に配給米の混合色食。お菜は(朝)蜆汁。(昼)鯉の油煮(缶詰ー配給品)と茄子の煮付。(夜)すいとん(うどん粉、豆粕粉の団子南瓜、じゃが芋入り)」

 十一月に入り、早速地所の整理にでかけて地均しをし、奥の方には畑を作る用意もした。新町の町内会長にも挨拶に赴いた。十二月初め、建築許可申請書に捺印を貰うため、再びK氏を訪れた。住宅は、戦災用に復興住宅としてバラック建築の二千八百円分を年明け早々に富士産業に申し込んだ。商売用の本や家具などは、天竜の奥の犬居に疎開してあった。犬居が家とどんな関係だったのか、不覚にも知らない。

 二月末のある日、新町の町内会長から「バラック材料が配給されるから、至急来浜せられたい」と伝言があった。電話のない時代だったから、わざわざ使い走りが来た。早速出かけたが、結局材料が着いたのは三月二日であった。建築は他の大工に頼まねばならなかったが、バラックだけあって出来るのは早かった。

 四月二十二日には屋根葺をした。屋根はルーフィングといって渋紙にコールタールを塗った様なものであった。

 毎日、父や弟は金槌や釘を持って補修作業に出かけた。横の羽目板に「古本・貸本・文具」とペンキで書いたポスターを貼った。私が五月一日早朝に引揚げて来て、焼跡に建っているバラック住宅を見たのは、このような時であった。

 焼けた二十年六月から二十一年三月までの十ヶ月の疎開生活費は、総計一万四千円弱であった。これにバラックの住宅代、引越し代などで、預金の一万七千円はきれいに無くなってしまった者と思う。


雨宮日記 9月19日(土)の2 栗羊羹のおいしい季節になりました

2015年09月19日 20時52分57秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月19日(土)の2 栗羊羹のおいしい季節になりました

 最初「くりようかん」で変換したら「クリ羊羹」になりました。エロ過ぎるので「栗羊羹」に直しました。

 則子さんが「栗羊羹のおいしい季節ね」と、言ってました。

 そろそろ、冷たい麦茶じゃなくて、暖かい入れ立ての緑茶や、熱いインスタント・コーヒーのおいしい季節かも。

 

雨宮日記 9月19日(土) 戦争法成立のなか、被爆者ビデオ編集続く

2015年09月19日 20時39分43秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月19日(土) 戦争法成立のなか、被爆者ビデオ編集続く

 今朝未明、「安保法案」「戦争法案」が参議院本会議通過、平和の運動は新しい段階に入り、まだまだ続きます。

 午後は被爆者ビデオ第3巻の編集、もう少しで完成かな。

 家へ帰って夕食。いつものようにお風呂を洗う。その後、「原爆と人間展 感想集」の校正。手直しをして14ページの原稿をプリンターで印刷しました。あとはカットや写真を入れて印刷です。

 発行日は「9月23日」にしようと思います。

 夜は則子さんが夜勤でいなくて寂しいので、(日本語の文脈が意味不明ですが)県平和委員会から頼まれた、静岡県との国民大運動の交渉の浜松基地部分の原稿を考えました。県の元原稿は2項目ですが、5項目に増やしました。

 もう少し考えて、練って、21日にメールで送稿予定。

  ☆
 
 写真はビデオ編集光景。パソコン画面を、別に見ています。

 

雨宮家の歴史 41 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-40 長姉の空襲死」

2015年09月18日 19時30分37秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 41 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-40 長姉の空襲死」

 長姉綾子は、谷島屋別荘のお庭内で撮った姉弟一同揃った写真を見る限り、昭和八、九年頃までは家にいたようである。二十才の時、東京で結婚するため家を離れた。長兄と同じく東京・湯島天神町の生まれである。

 私は戦後朝鮮で、父の手紙から「綾子のみ消息不明」と知った。その時は、まだ東京大空襲で亡くなったことはわからなかった。引き揚げてから、初めてそのことを知った。

 父は、戦争が終わると早速、東京の次弟の孝男叔父のところへ綾子の消息確認を頼んだ。 その返事が届いていたので、市役所で綾子の戸籍抄本の写しを取った。籍はまだ浜松に残っていた.

 十月三日、末弟照男と共に上京、芝白金三光町(現・港区白金台)の孝男宅へ泊まって、十月六日午後、本所警察署へ赴き、綾子の死亡通知者を受け取った。これを持って、浜松市へ戦災死亡届を出し,正式に戸籍から抹消された。

 「父中谷福男、母里子(長女)綾子。東京市本郷区湯島天神町壱丁目八拾八番地ニテ大正参年貳月貳拾貳日生レ、昭和弐拾年参月拾日午前貳時(推定)東京都本所区緑町四丁目拾八番地々先ニ於テ死亡。本所警察署長曾我友次報告、
拾月拾貳日受付 浜松市長 藤岡兵一。」

 これより先、西来院の住職に依頼しておいた戒名が十月二十五日に届いた。「帰元 綾雲妙彩信女 霊位」。和紙短冊に達筆に書かれてあった。十
一月十一日。疎開先の近くにある、西来院と同系の曹洞宗の宝住院で法要を営んだ。奇しくも宝住院には、次弟菊男の墓が建てられ、眠っていて、今年七回忌の法要を済ませたばかりである。

 三月十日未明に来襲した米軍B29は、約三百機。投下焼夷弾一万二千発、死者八万四千人、負傷者四万一千人(合計死傷者十二万五千人)、被災者百万人、被災家屋二十七万戸(「朝日新聞 平成十五年二月二十六日」「声」欄「東京大空襲」)。主に当時の深川・本所・墨田・荒川・向島・下谷・浅草と隅田川周辺の下町一帯が被爆した。

 長姉最後の場所と推定される本所区緑四丁目は、奇しくも『ガラスのうさぎ』の著者高木敏子さんと同じ所であった。高木さんの家はガラス工芸品を作る工場で、陸軍衛生材料本廠の指定工場となり、注射器や血沈管など衛生関係のガラス製品を作っていた。本所や深川などには、このような町工場が集中していた。このことを米軍は集中攻撃の理由としたが、ドーナツ状に周囲に焼夷弾をバラ撒いて一般住民の逃げ道を塞いだことは非難されるべきであろう。

 私は平成八年(1996年)、一人で慰霊の旅に出た。両国駅で降りて京葉道路を東進すると、南側に本所警察署がある。綾子の死亡証明書を出した所である。その玄関の傍に由来碑が建っている。大正十二年の関東大震災と、今次東京大空襲で殉職した警察官と,犠牲になった一般住民の御霊永く安からんことを祈って建立されたものであると記されている。

 更に東進すると緑町四丁目となる。十八番地は、工具店らしく小型トラックや鉄枠の置いてある住宅であった。ここが綾子の最後の地であったとは、当時どんな情況だったのだろう。高木さんの家の焼け跡から出て来たガラスのうさぎの置物。「おまえの目の玉は、どうしてどうして濡れてるの、それはね、それはね、かなしいものを見たからさ」。

 高木さんの家族をはじめ、多数の人々が力尽きて無惨にも火の犠牲になった場所にしばらく佇(たたず)んだ。

 ここから、タクシーで江戸東京博物館へ行き、昼食をとりながら見学した。一休みの後、国技館北側の横綱町公園へ行った。ここは、大正八年赤羽倉庫と合併するまで、陸軍被服本廠のあった所で(「第一部 Ⅰ 6 東京開成中学校」参照)、大正十二年九月一日、関東大震災が起きた時以来、空き地となっていた。そこへ雛民が集まり、持っていた荷物などに火が移って、三万八千余人が焼死した。

 今ここに慰霊堂・復興記念館が建てられている。平成十三年三月には、公園内に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が建てられ「東京空襲犠牲者名簿」が、この中に納められた。綾子の名も名簿に記載された。末安らかに冥福を祈る次第である。

 長兄と長姉だけでなく、義兄二人も南の島で帰らぬ人となった。次姉の夫小泉作太郎は、一男一女をもつピアノ調律師だったが、海軍横須賀海兵団に召集され、サイパン島で玉砕した。 私の妻の長兄安藤一雄は、総領であったが陸軍に入隊、ミンダナオ島で終戦直前の二十年八月九日戦死の公報が入った。


 ( 雨宮智彦 補註「奇しくも、この掲載日と、「安保感レ法案」「戦争法案」の参議院本会議採決の日とが重なりました。過去の悲惨な歴史は、過去を反省しない醜悪な自公政治に警告を発しているように思います。」 )




雨宮日記 9月18日(金)の5 則子さんが買ってきた巨大シュークリーム

2015年09月18日 19時25分20秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の5 則子さんが買ってきた巨大シュークリーム

 甘い物は、できるだけ食べないのが「方針」ですが時には方針に違反します。

 糖分・炭水化物も減らしています。

 則子さんは、枚食事時、「ご飯はいらないの?」と夫を太らせて殺す方針のようです。

 「いりません」


雨宮日記 9月18日(金)の4 夕方、北にでていた積乱雲

2015年09月18日 19時22分56秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の4 夕方、北にでていた積乱雲

 夕方、上島四丁目のサークルKへ買い物で車をはしらせたら、北に見えた積乱雲。
 
 昨夜は、夜中、ひどい落雷でした。

 浜松市浜北区では落雷から火事になったとニュースで言ってました。

 

雨宮日記 9月18日(金)の3 今日の夕食シリーズ 今日は則子さんが創ってくれました

2015年09月18日 19時18分20秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の3 今日の夕食シリーズ 今日は則子さんが創ってくれました

 今日は食事を、仕事が休みの則子さんが作ってくれたので、ぼくは楽でした。ありがとうございます。

 食事は平和でなければ。

雨宮日記 9月18日(金)の2 ビデオ編集・原爆展感想集編集を進める

2015年09月18日 19時14分24秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の2 ビデオ編集・原爆展感想集編集を進める

 ラブ&ピースの撮影ビデオ編集、原爆展感想集編集をすすめました。

 行きたかった東富士海兵隊砲撃演習監視には行けませんでした。

  ☆
 
 写真は晴れた空の雲。ひまわりから撮影した地球の海と白い雲みたいで。

雨宮日記 9月18日(金)の1 まだ参議院本会議続いています

2015年09月18日 19時05分33秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の1 まだ参議院本会議続いています

 緊迫の本会議続いているのに、午後、「みなさまのNHK」は大相撲中啓。大相撲はEテレへ移せばいい。

 保守なりの緊迫感がなさすぎる。

 報道すべき国会でしょうが。

 おそらく夜中までかかるだろうと民放でも言ってます。

 「大洪水」とか「大地震」に匹敵する政治的大地震でしょう。


雨宮日記 9月17日(木)その2 夕食のカレーとワカメスープです

2015年09月17日 20時23分23秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月17日(木)その2 夕食のカレーとワカメスープです

 今日の夕食シリーズ。毎日ではないですが、則子さんの昼間勤務と夜勤のとき、お昼を則子さんのつくったおかずと味噌汁を父のために暖めてあげて、夕食は主に父のものを創ってあげます。
 
 今日はカレーです。ぼくのカレーは、豚肉をたっぷり、タマネギをすこし、油で炒めたあと、お湯で弱火でぐつぐつ煮て、そのあとルーを入れて、弱火で煮て、かなりカレーを濃くします。

 お風呂を洗うのもぼくの仕事。

 でも、そろそろ飽きてきた。

 そとへ行きたいな。

 東富士とかビデオカメラ持って。

雨宮日記 9月17日(木)の1 「強行無効採決」の瞬間を見ました。「未来は過去には負けない」

2015年09月17日 20時13分14秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月17日(木)の1 「強行無効採決」の瞬間を見ました。「未来は過去には負けない」

 ほとんど昼間、国会中継を視たことのないですが、さすがに午後1時からの参議院特別委員会が気になって、断続的に、テレビを付けました。珍しく、二女もテレビの部屋にいないし。

 醜悪な過去が醜悪な未来を継続しようとして「強行無効採決」した時間をテレビでみてしまいました。

 委員長席が満員電車状態で、委員長の発言も聞こえません。なぜか与党は起立しています。

 しかし、野党議員には委員長の発言は聞こえませんから、野党議員が賛否を表明できる状態ではありません。野党議員の議決権を奪った採決は無効です。

 醜悪な過去が、健全な未来を圧殺しようとした今日を、ぼくは許さないし、明日から全力でたたかいます。

 (「今日からたたかえ」と言ったあなた、今日は夕食をつくるので出かけられません。)

 戦争法案違憲訴訟もいいですね。

 ぼくたちと子ども達の未来は、醜悪な過去には負けません。健全な過去を踏まえて健全な未来を創ります。