雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 7月21日(水)朝 ジージーとアブラゼミが鳴いて 

2010年07月21日 05時51分55秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 7月21日(水)朝 ジージーとアブラゼミが鳴いて 

 いまは7月21日の朝、午前5時54分です。
 暑いので開け放った家の窓から、アブラゼミがジジジジジと鳴いているのが聞こえます

 いつも、つねに自分でありたいなと思って、人生の相棒で妻のN子さんとも安易に同調せず(でもN子さんとは同調できると凄くうれしい)、生きてきました。

 N子さんと、もちろん、他の人(対話の出来る人だけです)とも対話をしながら、生きていきたいなと思います。
 対話をするのは、生きている人だけじゃなくて、マルクスさんとか、ヘーゲルさんとか、プラトンさんとか、そういう人も全部です。
 (誇大妄想と思う人、いるでしょ?)

 いま、はまっていて分析を始めているのが、松岡正剛さんです。
 これから松岡正剛さんの著作から、いろいろ紹介したいと思いますが、まず、ちくま学芸文庫の『日本流』の「序章 日本が思う 歌を忘れたカナリヤ」がすてきです。

 ふつう、子どもたちのための「童謡」というと、すごく楽しい歌とか、うれしい歌とか、子どもたちの人生の未来を生き生きと歌う歌のはずですが、大正時代の「童謡」はちがうよ、という話です。

 「歌を忘れたカナリヤは」とか「雨が降ります。雨が降る」とか「赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられていっちゃった」とか、悲しい歌ばかりです。
 「赤とんぼ」もそうですね。
 人生はかなしい、命ははかないと、いうこと、人生は楽しくない、命は永遠ではない、ということを子どもたちに教えないと。

 そういう気がします。
 考察を続けます。

松岡正剛さんの本から、三木露風さんの1920年(大正9年)の詩「正午」を引用します。

「わたしが見たのは昼の夢

 薔薇の木が、焼けて
 薔薇の花が、焦げる

 王様の家。
 火事だ。

 薔薇の木が、焼けて
 薔薇の花が、焦げる

 わたしが、見たのは、昼の夢。

 蝉がぢりぢり
 ないてゐる」
 
 
 


 

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