雨宮日記 7月21日(水)朝 ジージーとアブラゼミが鳴いて
いまは7月21日の朝、午前5時54分です。
暑いので開け放った家の窓から、アブラゼミがジジジジジと鳴いているのが聞こえます
いつも、つねに自分でありたいなと思って、人生の相棒で妻のN子さんとも安易に同調せず(でもN子さんとは同調できると凄くうれしい)、生きてきました。
N子さんと、もちろん、他の人(対話の出来る人だけです)とも対話をしながら、生きていきたいなと思います。
対話をするのは、生きている人だけじゃなくて、マルクスさんとか、ヘーゲルさんとか、プラトンさんとか、そういう人も全部です。
(誇大妄想と思う人、いるでしょ?)
いま、はまっていて分析を始めているのが、松岡正剛さんです。
これから松岡正剛さんの著作から、いろいろ紹介したいと思いますが、まず、ちくま学芸文庫の『日本流』の「序章 日本が思う 歌を忘れたカナリヤ」がすてきです。
ふつう、子どもたちのための「童謡」というと、すごく楽しい歌とか、うれしい歌とか、子どもたちの人生の未来を生き生きと歌う歌のはずですが、大正時代の「童謡」はちがうよ、という話です。
「歌を忘れたカナリヤは」とか「雨が降ります。雨が降る」とか「赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられていっちゃった」とか、悲しい歌ばかりです。
「赤とんぼ」もそうですね。
人生はかなしい、命ははかないと、いうこと、人生は楽しくない、命は永遠ではない、ということを子どもたちに教えないと。
そういう気がします。
考察を続けます。
松岡正剛さんの本から、三木露風さんの1920年(大正9年)の詩「正午」を引用します。
「わたしが見たのは昼の夢
薔薇の木が、焼けて
薔薇の花が、焦げる
王様の家。
火事だ。
薔薇の木が、焼けて
薔薇の花が、焦げる
わたしが、見たのは、昼の夢。
蝉がぢりぢり
ないてゐる」
いまは7月21日の朝、午前5時54分です。
暑いので開け放った家の窓から、アブラゼミがジジジジジと鳴いているのが聞こえます
いつも、つねに自分でありたいなと思って、人生の相棒で妻のN子さんとも安易に同調せず(でもN子さんとは同調できると凄くうれしい)、生きてきました。
N子さんと、もちろん、他の人(対話の出来る人だけです)とも対話をしながら、生きていきたいなと思います。
対話をするのは、生きている人だけじゃなくて、マルクスさんとか、ヘーゲルさんとか、プラトンさんとか、そういう人も全部です。
(誇大妄想と思う人、いるでしょ?)
いま、はまっていて分析を始めているのが、松岡正剛さんです。
これから松岡正剛さんの著作から、いろいろ紹介したいと思いますが、まず、ちくま学芸文庫の『日本流』の「序章 日本が思う 歌を忘れたカナリヤ」がすてきです。
ふつう、子どもたちのための「童謡」というと、すごく楽しい歌とか、うれしい歌とか、子どもたちの人生の未来を生き生きと歌う歌のはずですが、大正時代の「童謡」はちがうよ、という話です。
「歌を忘れたカナリヤは」とか「雨が降ります。雨が降る」とか「赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられていっちゃった」とか、悲しい歌ばかりです。
「赤とんぼ」もそうですね。
人生はかなしい、命ははかないと、いうこと、人生は楽しくない、命は永遠ではない、ということを子どもたちに教えないと。
そういう気がします。
考察を続けます。
松岡正剛さんの本から、三木露風さんの1920年(大正9年)の詩「正午」を引用します。
「わたしが見たのは昼の夢
薔薇の木が、焼けて
薔薇の花が、焦げる
王様の家。
火事だ。
薔薇の木が、焼けて
薔薇の花が、焦げる
わたしが、見たのは、昼の夢。
蝉がぢりぢり
ないてゐる」