本と映像の森63 ル=グウィン『ゲド戦記3さいはての島へ』
5月31日付け「本と映像の森44」で「ル=グウィンさん『ゲド戦記1 影との戦い』」を紹介しました。
「ゲド戦記」の中間総括が、この「さいはての島へ」でしょうね。
大賢人であるゲドがいるロークにやってきた北の島・エンラッドの王子・アレンが世界の異変を語り、ゲドはアレンとともに、ロークを舟で出発します。
なにが「ゲド戦記」の魅力かといったら、やはり、1巻の「影とのたたかい」では、ゲド自身がアースシー(大地海)世界を1人で旅していく(最後は顔なじみのカラスノエンドウといっしょに)ことや、2巻の「こわれた指輪」は同じ場所で、テナーがゲドの援助で、自らの心を旅していくこと、第4巻「帰還」では、これがテナーと(血縁のない)娘テハヌーの島内の旅になります。
第3巻のなかでも、魅力的なのは海の上でいかだで過ごす「外界の人々」でしょうか。クジラやイルカや魚と戯れるこの海の民は、どちらかというと、たぶん、日本の古代に実在した「あまぞく」に煮ているのかも知れません。
「あま」を漢字で「海女」とも「天」とも書きます。
もちろん、「雨宮」の「雨」の語源です。
第6巻「アースシーの風」では、アレンの王宮に集まってしまった人々、女たちや男と達がみんな、アレンの舟で、ロークに向かうことになります。
そういう意味では、1人で解決する第1巻や、2人で共同で解決する第3巻もいいけど、みんなでよってたかって、ロークの魔術もごっちゃにして解決しようとする、混沌(カオス)のような第6巻がいちばん好きです。
「さいはての島へ」は、命と死を自分の支配下におこうとして人々と世界をあやつる魔術師クモに、ゲドとアレンが対決して、生と死の境界にあいた穴を閉ざそうとする話です。
ゲドが語る言葉をずっと聞いていると、「命ってなに」「死ってなに」ということが、だんだんと見えていきます。
ぼくが紹介するより、みなさん1人ひとりが、実際に本文を読んで、物語の傍聴者・あるいは主人公になり、それを感覚してほしいとおもいます。
全文360ページをよむ意味はあると思います。
ぼくは、何回も読みます。
それは、自分の人生を、何回も何回もくりかえし、そして、これでいいの?と問い返すようなものです。
今日はもう言えませんので、いくつか引用します。
ゲドがアレンへ「存在の泉は深い。生よりも死よりも深い…」(3巻、p306)
ゲドがクモへ「そなたはそなた自身を救うために、緑の大地も、太陽も、星も、みんな売ってしまったんだ。だが、今そなたに自己と呼ぶべきものがあるか?ない。そなたが売ったのは、そうよ、そなた自身だったんだ…」
うわ、怖いですよね。みなさん。でも一度売ってしまったものは、もう2度と自分のところには戻って来ません。
そういう変質と腐敗については、最近、親しい仲間同士でいろいろ論議していますので、また何度も書きたいと思います。
聞きたくない人も多いかと思いますが。
ジプリアニメ「ゲド戦記」のような、心の奥深くまで入らない、表面的なお話と解決なら、この世はすべて何もなし、なのですが。
あれでは、龍の子・テハヌーの存在意味がありません。
わが妻・龍の女神のN子さんの存在意味がありません。
アメリカ人であるル=グウインさんは、たぶん知らないと思いますが、古い日本神話では、川や水のそばの女性が龍あるいはヘビであるのは普通なんですね。
そういう日本神話をしらない日本人が増えれば、日本は確実に滅びますね。
もしかしたら、滅びると言うより、「アースシーの風」で描かれたように、何かが変わって、アースシー世界も、日本も、劇的に変わっていくのかもしれません。
5月31日付け「本と映像の森44」で「ル=グウィンさん『ゲド戦記1 影との戦い』」を紹介しました。
「ゲド戦記」の中間総括が、この「さいはての島へ」でしょうね。
大賢人であるゲドがいるロークにやってきた北の島・エンラッドの王子・アレンが世界の異変を語り、ゲドはアレンとともに、ロークを舟で出発します。
なにが「ゲド戦記」の魅力かといったら、やはり、1巻の「影とのたたかい」では、ゲド自身がアースシー(大地海)世界を1人で旅していく(最後は顔なじみのカラスノエンドウといっしょに)ことや、2巻の「こわれた指輪」は同じ場所で、テナーがゲドの援助で、自らの心を旅していくこと、第4巻「帰還」では、これがテナーと(血縁のない)娘テハヌーの島内の旅になります。
第3巻のなかでも、魅力的なのは海の上でいかだで過ごす「外界の人々」でしょうか。クジラやイルカや魚と戯れるこの海の民は、どちらかというと、たぶん、日本の古代に実在した「あまぞく」に煮ているのかも知れません。
「あま」を漢字で「海女」とも「天」とも書きます。
もちろん、「雨宮」の「雨」の語源です。
第6巻「アースシーの風」では、アレンの王宮に集まってしまった人々、女たちや男と達がみんな、アレンの舟で、ロークに向かうことになります。
そういう意味では、1人で解決する第1巻や、2人で共同で解決する第3巻もいいけど、みんなでよってたかって、ロークの魔術もごっちゃにして解決しようとする、混沌(カオス)のような第6巻がいちばん好きです。
「さいはての島へ」は、命と死を自分の支配下におこうとして人々と世界をあやつる魔術師クモに、ゲドとアレンが対決して、生と死の境界にあいた穴を閉ざそうとする話です。
ゲドが語る言葉をずっと聞いていると、「命ってなに」「死ってなに」ということが、だんだんと見えていきます。
ぼくが紹介するより、みなさん1人ひとりが、実際に本文を読んで、物語の傍聴者・あるいは主人公になり、それを感覚してほしいとおもいます。
全文360ページをよむ意味はあると思います。
ぼくは、何回も読みます。
それは、自分の人生を、何回も何回もくりかえし、そして、これでいいの?と問い返すようなものです。
今日はもう言えませんので、いくつか引用します。
ゲドがアレンへ「存在の泉は深い。生よりも死よりも深い…」(3巻、p306)
ゲドがクモへ「そなたはそなた自身を救うために、緑の大地も、太陽も、星も、みんな売ってしまったんだ。だが、今そなたに自己と呼ぶべきものがあるか?ない。そなたが売ったのは、そうよ、そなた自身だったんだ…」
うわ、怖いですよね。みなさん。でも一度売ってしまったものは、もう2度と自分のところには戻って来ません。
そういう変質と腐敗については、最近、親しい仲間同士でいろいろ論議していますので、また何度も書きたいと思います。
聞きたくない人も多いかと思いますが。
ジプリアニメ「ゲド戦記」のような、心の奥深くまで入らない、表面的なお話と解決なら、この世はすべて何もなし、なのですが。
あれでは、龍の子・テハヌーの存在意味がありません。
わが妻・龍の女神のN子さんの存在意味がありません。
アメリカ人であるル=グウインさんは、たぶん知らないと思いますが、古い日本神話では、川や水のそばの女性が龍あるいはヘビであるのは普通なんですね。
そういう日本神話をしらない日本人が増えれば、日本は確実に滅びますね。
もしかしたら、滅びると言うより、「アースシーの風」で描かれたように、何かが変わって、アースシー世界も、日本も、劇的に変わっていくのかもしれません。