雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

遠州の遺跡・寺社 55 東区和田町の貴船神社(木船神社)

2011年10月14日 05時48分45秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社 55 東区和田町の貴船神社(木船神社)

 遠州の銅鐸では、都田の「銅鐸の谷」が有名ですが,それ以外でも、三ヶ日や湖西や磐田郡敷地、そして天竜川下流の平野で銅鐸が出土しています。

 和田町のJR東海道線沿いにある「ルミナリー・プレスクール」という保育園のすぐ横に、この小さな貴船神社があります。
 
 この貴船神社の35mから40m南西で、1908年(明治41年)、畑を削り田んぼにする作業中に深さ2mから2個の銅鐸が出土しました。
 三遠式銅鐸で、現在は東京の国立博物館にあります。1号鐸には鳥が描かれています。(浜松市博物館『浜松の銅鐸』2007年3月25日発行、による)

 貴船神社に向かう方向は20度です。つまり、神社は南(180度)から20度西に振れていますが、これはこの付近の道路区画の方向なので、神社自体が道路に合わせて方向を建て替えたかもしれません。

 おもしろいのは、この付近に、古代の「木船廃寺」があったことです。

 ネットで「浜松市 木船廃寺」で検索すると、引っかかります。浜松市は,2010年に発掘調査をして、大量の瓦が出土、この木船廃寺が、飛鳥時代の7世紀後半から、奈良時代の8世紀後半まで100年以上存続したことを確認しました。

 しかもこの近辺に「永田」という地名があり、この付近に古代の「長田」郡衙があったことが推定されました。

 つまり、弥生時代の銅鐸から始まって、奈良時代の郡衙に至るまで、一カ所の土地に一貫していたことがわかったわけです。

 はたして、弥生時代から奈良時代まで、人々の一貫性・同じ一族がずっとここにいた可能性はあるのでしょうか?

 もちろん、同じ水田農業ですが、通常は弥生の銅鐸と、古墳時代・奈良時代とは断絶しているという歴史感覚が一般的です。

 銅鐸圏の東の端の、ここ天竜川の沖積平野では、人々のゲノムは一貫して続いていたのでしょうか。

 それとも弥生の先住民を征服して合流したか、それとも一掃したのか?

 いまはまだ、真実はわかりません。

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