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雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

遠州古代史を考える 細江町「銅鐸の谷」の南側と北側の銅鐸群

2013年09月01日 21時20分31秒 | 雨宮日誌

遠州古代史を考える 細江町「銅鐸の谷」の南側と北側の銅鐸群

 これまで紹介して来た「銅鐸の谷」の銅鐸は、南側では5個出ています。

 それを一覧にすると以下のようになります。順序は西から東へ

 1回目の発見 悪ヶ谷銅鐸 発見1912年 三遠式 高さ62.9cm

 3回目の発見 滝峯七曲り2号 発見1966年 三遠式 高さ65.0cm

 2回目の発見 滝峯七曲り1号 発見1966年 近畿式 高さ69.6cm

 4回目の発見 不動平銅鐸 発見1967年 近畿式 高さ72.3cm

 5回目の発見 滝峯才四郎谷銅鐸 発見1989年 近畿式 高さ72.7cm

 西から東へ発見年が新しいのは、もち論偶然でしょうけど、西から東へ「三遠式」と「近畿式」の形式を越えて、高さが高くなっていくのは,果たして偶然でしょうか。

 偶然ではなく、「銅鐸は時代が下がるにつれて巨大化していく」という「法則的」な現象ではないでしょうか。

 問題は、北側で発見された2つの銅鐸の内、西の、江戸時代に発見されたコツサガヤ銅鐸は「再埋納」されたともいわれ、行方不明で、東側の「穴ノ谷銅鐸」だけが1987年発見で近畿式の、高さ59.0cmの銅鐸です。

 つまり、南側より小さいです。

 さらに、浜松市では「三方原出土」という江戸時代に出土して図面だけが残っている、高さ58.8cmの三遠式の銅鐸があります。

 大野勝美さんは著書『銅鐸の谷』で、この「三方原台地」で出土したという「三方原銅鐸」も、実は、この銅鐸の谷のどこかから出土した可能性が強いと推定していますが、かなり確度が高い推定だと思います。

 しかも、この「三方原銅鐸」は三遠式であっても、近畿式の「穴ノ谷銅鐸」と、2mm違いでほぼ同じ大きさの銅鐸です。

 供給地・生産地はちがっても、同時代の銅鐸である可能性は,十分あるのではないでしょうか。(この{同じ大きさ」だと「同時代」という推定は、東海や近畿や出雲などの他の銅鐸を検討していません。いずれ検討したいと思います。)

 いまのところ、まず小さい銅鐸の時代に、銅鐸の谷の北側の支谷を1つづつ、ある一定の期間を経て埋めていって、それから、こんどは南側の支谷を1つづつ、北側より大きい銅鐸を埋めていったという「仮説」を提唱しておきます。

 こういう論考は、1966年(最初「1866年」と書いてありました。今、訂正)以前にはできませんでしたね。発掘の事実に基づいて考察しました。

 

 


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