古代ブログ 39 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 23 伊場遺跡の三重環濠 < 再録 >
「遠州の遺跡・寺社36 中区の弥生時代・伊場遺跡の三重環濠
2010年10月18日 05時38分07秒 | 遠州古代史
やはり、浜松(浜津)の第2の出発点は、米作りの始まる弥生時代の、伊場遺跡でしょう。【第1は、縄文時代の蜆塚遺跡】
その伊場の「三重環濠」を見に行ってきました。
つまり、当時の弥生の村をとりまく三重の水を湛えた濠ですね。
三重にしなければいけないほど、現実に、村が攻撃される危険があったのか、それとも、そういう危険性を予測して、つくったのか。
実際に、この伊場の村が襲撃されたことはあったのでしょうか?
そういうことも、探っていきたいと思います。
とにかく、何もわかっていません。
わかったことを書いていきますので、よろしくお願いします。」
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「遠州古代史 「伊場遺跡」の三重環濠は防御遺跡というけど…
2011年11月22日 05時30分22秒 | 遠州古代史
「遠州の遺跡・寺社36 中区の弥生時代・伊場遺跡の三重環濠」(2010年10月18日 05時38分07秒 | 遠州古代史)ですこしだけ書いた伊場遺跡の三重環濠ですが、果たしてこれは、ほんとうに軍事的な防御遺跡なのでしょうか。
JR国鉄線の北側にこの三重環濠の一番北側が、見学できるように保存されていますので、車をその駐車場に止めて、歩いて見学できます。
この前、行って見た感想は「こんなに水堀が狭くて、防御に役立つの?」ということです。
もちろん、この環濠だけではなく、塀などの材木で防御をしていると考古学の本には書いてありますが。
中世の奈良県の環濠集落の水堀や、古墳時代の関東の環濠では、もっとかなり広いです。三重ではなくて、一重です。
そういう実質的な水堀の例を見ると、伊場遺跡のような狭い環濠は、単純に軍事防御ではなくて、すこし別の意味があるのではないかという提唱が可能ではないでしょうか。
「三重の輪」というイメージで連想するのは、ヤマトの聖なる山・三輪山です。名前に「三つの輪」とありますが、円を象徴するのは女性ですから(棒を象徴するのは男性です)、三輪山という名前は聖なる女性の山です。
三輪山という名前の山は、ヤマトだけではなく、飛鳥にもあり、九州の福岡県にもあります。
つまり聖なる山を,それぞれの土地で「三輪山」と呼んだのではないでしょうか。
そして伊場遺跡のような三重環濠とは、女性を象徴する「三つの輪」という共通点があります。もしくは「三三九度」という命名で呼ばれるように、女性ー男性ー子ども、という三点セットでしょうか。
別の観点で言うと、ヤマト国家の「三種の神器」である、鏡ー剣ー曲玉、という三点セットになります。丸い鏡は女性のシンボルで、長い剣は男性のシンボルで、曲玉は胎児のシンボルです。
しかも水は、浜松の古代史では女性の「龍」「蛇」がシャーマンとして管理しているので、それは坂上田村丸伝説でも明らかです。
伊場遺跡をめぐる三重の水の堀は、たんなる軍事的防御腕はなくて、古代人の心では、伊場の村を守る「霊的な防御」として考えられていたのではないでしょうか。
そういう「霊的な防御」のいい例として、島根県の田和山遺跡では、三重環濠内に住居はなくて、神殿だけが建っていたようです。
今日は、かなりはしょって書きました。これから、具体例で、いろいろ展開していきたいと思います。」