雨宮家の歴史 8 父の著『落葉松』 第1部の5 日清戦争
Ⅰ 5 日清戦争
(四) ランプのもと征でゆく父の 軍服姿幻のごと幼き記憶
( 昭和四十六年 )
この歌の創られた時、父は八十三歳であった。日清戦争の起きた明治二十七年は六歳であるから、実に七十七年前の記憶になる。私の自分史の原点の「まっ黒なかたまり」の記憶は七十年前であるから、それより更に古い記憶である。電灯はまだ一般家庭には高嶺の花で、ランプ生活が主であった。
吊るされた薄暗いランプの光に映し出された、父卓二の軍服姿が、異様に脳裏に灼き付けられたに違いない。
明治二十七年六月五日の夕刻、広島市民は城内にある第五師団司令部の方から、三発の号砲の轟くのを聞いた。やがて市内の各所の半鐘が、けたたましく非常呼集の合図を鳴らし、非番の巡査がサーベル(編注①)をがちゃつかせながら本署へと急行した。
大本営がこの日設置されて、午後四時、第五師団に対し動員令を下したのである。師団長野津道貫は、広島・尾道・松江の各大隊区司令部を中心とする、管下二二九〇名の予備役軍人に、充員召集を命令した。(広島県庁編『広島臨戦地日誌』一八九九年)
卓二は、この動員下令された第五師団衛生隊付の経理官として、七月二十三日に発令された。これは野戦監督長(軍需物資調達の最高責任者)野田中将の命令だったのである。
衛生隊付で第一線には出ないであろうとはいえ、戦地となれば一応最悪の覚悟はせねばならない。出征するに当たり、卓二には解決しておかねばならない問題があった。後妻まつの籍のことである。先妻しまは他家へ嫁いで、中谷家の籍から消えていたから、まつの入籍に支障はなかった筈であるが、養父との間に感情的なものがあったのかも知れない。
そのため、福男と孝男の二人は、まつの二俣の実家の天井家の戸籍に私生児として置かれていた。出征するに当たり、どうしても解決して置かねばならない問題であった。
出征中の「二十七年九月二十九日 母まつ携帯入籍ス 婦まつ私生児ヲ養嗣子卓二ニ長男ニ引直ス」と、やっと中谷家の戸籍に入った。次男孝男も同様であった。
携帯入籍とは子連れ入籍のことであろう。引直スとは改める、作り替えるこであるから、私生児を長男、次男に改めることになる。ややこしいことであったが、万一の場合に、父無し子にならないで済むことになった。
卓二は七月二十五日に東京を出発(二日間しか猶予がなかった)二十七日広島着、衛生隊編成のため八月十四日まで軍吏(将校)の命を受け、経理諸務に従事した。以下、戦後叙勲のために書いた経歴書より朝鮮における卓二の行動は次のようであった。
「一、八月十五日渡韓の命を受け、宇品港乗船出帆。釜山港を経て二十三日仁川港上陸。直ちに出発、二十四日龍山着。三十一日まで滞営、経理諸務に従事す。
一、九月一日出発北進、十三日大同江を渡り、平壌に向け昼夜兼行し、十五日平壌付近に包帯所を開設し、負傷者治療す。午後二時平壌入城の命を受け、出発平壌に宿営す。
一、南部兵法監部仁川病院付命ぜられ、十月二日平壌出発、六日仁川港着、経理一切の事務に従事する。
一、十二月二十五日、陸軍一等書記(経理曹長)に任ぜられる。
一、二十八年四月二十日、龍山兵法司令部勤務を命ぜられ、二十六日仁川出発、同日龍山着、同司令部経理事務に従事する。
上の通り相違之無候也
龍山兵法司令部付 陸軍一等書記
中 谷 卓 二
明治二十八年十月七日
静岡県遠江国麁玉村大平六十番地
東京府下北豊島郡岩渕村袋百十三番地」
広島大本営も二十八年五月二十九日に東京に帰った。卓二も経歴書の日付が十月七日であるので、それまでに帰ったものと思われる。
しかし、明治三十年四月一日付で「明治二十七、八年戦役ニ継キ再ヒ朝鮮地方ニ於テ軍務ニ服シ其功不少ニ付金四十円ヲ賜フ」と賞勲局から褒賞されているので、再渡鮮して残務整理の任に当たったようである。私も先の大戦で、朝鮮軍の残務整理に当たり、父子ならぬ祖父、孫二代(在鮮記で後述)の因縁を感ずる次第である。
明治二十八年三月二十四日から、下関で日清講和会議が始まり、四月十七日に講和条約が調印された。しかし、独・仏・露の三国干渉により、遼東半島を還付せざるをえなくなり、「臥薪嘗胆」なる言葉が流行した。
(編注①)「サーベル」 軍人や警官が所持した刃にそりのある細身の西洋剣。