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雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

新・古代史ノート 3 過去記録1 さくら・さつき・さなえ・・・の「さ」とは 20201112

2020年11月12日 07時56分34秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 3 過去記録1 さくら・さつき・さなえ・・・の「さ」とは 20201112


 雨宮ブログは10年以上の長期にわたるので、古代史関連の記事から主なものを「過去記録」として再掲載していきます。


 季節がずれるのはすみませんが、ご容赦してください。




「日本古代史3 さくら・さつき・さなえ・・・の「さ」とは
2010年03月27日 19時03分49秒 | 古代史を考える


 今日は3月27日(土)で、桜(さくら)がもう7分咲きで、浜松は昨夜から「お花見」モードです。


 今夜は土曜夜なので、浜松城公園とかは、みんな盛り上がっているんでしょうね。
 なぜ日本人は「花見」をするのか?
 なぜ桜が咲いたから、飲み会をするのか?
 ガイジン(外国人)には不可解だそうです。
 当の日本人も、その理由は知らないかもしれませんね。
 「なんでって?だって親の時代から毎年そうしているんだから」


 民俗学のほぼ定説では(「定説」は必ず、その「定説」に反対の学者もいますからね、)お花見は、ほんとうは、農業での今年の豊作を祈る「予祝(よしょく)」行事ということのようです。
 つまり、今年の田や畑の豊作を願って、みんなでお酒を飲み、団結を誓う、村の行事です。
 雨宮も、そう思います。


 日本人の神さま信仰では、稲の豊作の神様は、毎年秋に、山に帰っていって、春に里に戻ってきます。
 その神様を迎える行事が春のまつり「お花見」です。
 秋に神様を山に送る行事が「秋祭り」です。


 で、問題は、なぜ「さくら」の花なのかです。
 民俗学の説では、「さくら」という言葉は「さ」+「くら」で、「さ」は神様のこと、「くら」は、その神様が降りてくる「倉」を意味します。
 
 「さ」はいろんなバリエーションがあります。


  五月 さつき 神様が降りてきて稲が育つ月
  早苗 さなえ 神様が宿った稲の苗
  早乙女 さおとめ 稲を田植えするときの聖なる女性たち
   (ですから、早い年齢の、若い乙女とかという意味はほんらいないと思います。
    何歳だろうと、早乙女です。
  五月雨 さみだれ 5月の雨のことです


 どうでしょうか?
 これは雨宮説です。
 みなさん、無条件に、信じないでくださいね。
 自分で具体的に調べて、自分の目と頭で判断して、肯定するなり,否定するなりしてください。」



新・古代史ノート 2 古代史ニュース 1 『広報はままつ 11月号』

2020年11月07日 08時41分27秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 2 古代史ニュース 1 『広報はままつ 11月号』


『広報はままつ 2020年11月号=通巻1454号』p10~11に「出世大名家康くんのおでかけ日記 古墳めぐり」というのが載っています。


 古墳を3つ、北区都田町の見徳(けんとく)古墳、浜北区染地台5丁目の二本ヶ谷(にほんがや)積石塚古墳群、天竜区山東の光明塚古墳、そして展示施設として市民ミュージアム浜北と引佐郡井伊谷の地域遺産センターを紹介しています。


 「古墳は当時の有力な豪族を埋葬したお墓です」と書かれていますが、「有力でない豪族」は小さい古墳になるだけなのではないでしょうか。


 「古墳は当時の豪族を埋葬したお墓です」と書けばいいのではないですか。そして豪族の家族は「豪族」に入るのでしょうか。


 正確にいうと「古墳は当時の豪族とその家族を埋葬したお墓です」というほうがいいのでは。


 それと二本ヶ谷(にほんがや)積石塚古墳群について一般的に「渡来人」というのではなく正しく「高句麗からの渡来人」というほうがいいのでは。「新羅からの渡来人」「百済からの渡来人」とは違いますからね。


 20201107


新・古代史ノート 1 遺跡古墳 1 入野古墳<浜松市西区入野町> 20201005

2020年10月05日 19時07分06秒 | 遠州古代史
新・古代史ノート 1 遺跡古墳 1 入野古墳<浜松市西区入野町> 20201005 

 新たに「新・古代史ノート」を始めます。むかしの文章であっても写真を新しくした場合は「新・古代史ノート」とします。

  gooブログでは、これまで1つの項目にたいして写真を1枚しか使えなかったのが、何枚も使えるようになったので、活用したいと思います。

      ◇

  入野古墳は、直径44.0m、高さ5.9m(標高ではありません)で西遠地方では最大の円墳です。

  位置は入野町のイオン(もうじき無くなるようですが)の北、ど高いマンション「パーク・ホームズ」のすぐ北に鬱蒼とした森があります。その森そのものが入野古墳です。 

   西北にセブン・イレブンがある信号を南から来たら左折、北から来たら右折します。最初の南に入る道路を入るのですが、駐車違反になるので、ぼくはそのまままっすぐ走って佐鳴湖に出るすぐ手前の北側に入る駐車場に止めて歩きます。

  飛行機がいくつも置いてある喫茶店「飛行場」を過ぎて、「竜雲寺」を過ぎて信号の手前を南へ歩きます。巨大マンションの手前に北へ上がっていく舗装道路を昇っていき、目の前の石段から古墳のある山へ入ります。まだ古墳ではありません。

   石段を登ると、もう道はないので、昇りやすい斜面を適当に登ります。運動不足のぼくは、息が切れました。 

 頂上の手前に「説明板」が立っています。つまり、この説明板の立っている標高から上が古墳です。 頂上は標高26.1mです。北と西は木がうっそうと茂っていますが、南と東はほとんどなく、とくに南方ははるか彼方まで見渡せます。  

  この浜松南部地域の豪族の墓という説明はなっとくできますが、これ1基だけなのは何故でしょうか?もっとあったのに、あるいは別の場所にあったのに破壊されたのか?  

  関係があるとしたら、弥生時代の伊場遺跡や、佐鳴湖の西岸、つまり対岸になる、古墳時代の大平遺跡ぐらいでしょうか。 

 入野古墳は発掘調査で葺き石は出ましたが、埴輪はなく、古墳時代中期、5世紀のころと推定されています。

  円墳としては直径44mで、西遠地方最大か2番目なのですが、磐田では髙根山古墳(69m)・城之崎丸山古墳(60m)、秋葉山古墳(55m)、京見塚古墳(50m)、澄水山(ちょうすいざん)古墳(50m)とさらに大きな円墳があるのは、なぜでしょうか?

 写真は2014年1月19日撮影。












雨宮智彦古代史メモリー 46 20200626 遠州古代史の本 3 辰巳和弘さん著『聖なる水の祀りと古代王権』新泉社、2006年 20100523

2020年06月26日 21時03分23秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 46 20200626 遠州古代史の本 3 辰巳和弘さん著『聖なる水の祀りと古代王権』新泉社、2006年 20100523 


2010年05月23日 08時12分36秒 | 遠州古代史
遠州古代史の本3 辰巳和弘さん著『聖なる水の祀りと古代王権 ー 天白磐座遺跡 ー』<シリーズ遺跡を学ぶ033>、新泉社、2006年12月28日、93ページ、定価1500円+

 2010年4月11日付けで「遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡」を書きました。

 その時にも、この本を紹介しましたが「遠州古代史の本」としては、大事な本なので、あらためて、ここで紹介します。

 天白磐座遺跡が再発見されたのは「1988年も明けたばかりの1月23日、土曜日のことだった」(p4)。

 「私(辰巳さん)と学生の5人は、本殿背後を護るように盛りあがった小丘陵(薬師山)のいただきにある巨岩群へと足を運んだ。」(p4)
 「わたしの話をさえぎるように、ひとりの学生が声をあげた。
 「先生、土器が落ちています。」」(p9)
 
 以下、目次を紹介します。
 
 第1章 天白磐座遺跡の発見
  1 巨岩の群れ
  2 古代祭祀の跡
 第2章 よみがえる古代地域王権
  1 井伊谷古墳群の発見
  2 地域首長墓の系譜
  3 聖水を祀る王権
 第3章 天白磐座遺跡の発掘
  1 磐座を認識した人々
  2 際立つ天白磐座遺跡の場
  3 “聖地”発掘
  4 解明される「神の座」
  5 経塚造営
 第4章 磐座祭祀を読み解く
  1 発掘成果からみたカミ祀り
  2 「祭祀空間」を体感する
  3 造営者はだれか
  4 式内イ井神社と磐座遺跡
  5 岩立たすカミの祀り

 ところで、この天白磐座遺跡のある「盛りあがった小丘陵」の名前が「薬師山」というのが気になるところです。」


雨宮智彦古代史メモリー 45 20200624 本と映像の森 40 古田武彦『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房、2010年

2020年06月24日 15時02分33秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 45 20200624 本と映像の森 40 古田武彦『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房、2010年


「2010年05月17日 05時31分56秒 | 本と映像の森
本と映像の森 40 古田武彦さん『失われた九州王朝 ー天皇家以前の古代史ー』<古田武彦古代史コレクション2>、ミネルヴァ書房、2010年2月20日、559ページ、定価2800円+消費税

 古田武彦さんという名前をここに書くと、なんとも言えない、甘酸っぱいような、つまり甘さと酸っぱさが同居した気分になります。
 
 1970年代、自分の20代の青春時代に『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』の3部作を読んだ衝撃。

 それは「神話=天皇家の神話」「倭=日本天皇家」という固定観念からぼくを解き放ってくれ、客観的な、生き生きとした古代史と人間像をもたらしてくれて、この「雨宮ブログ」に流れ込むようになりました。

 その後、古田さんは、悪名高い和田家文書「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」を古田さんのそれまでの主張とは変化して、それを信じ切ってしまい、いわば「変質」していきますが、それだからといって、それまでの主張が変化するわけではありません。

 雨宮は、古田さんが「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」を「盲信」する以前の到達点と思想を「前期古田さん」と呼び、詐欺師の和田さんにからめとられた「後期古田さん」と明確に区別します。

 この本での「前期古田さん」の主張は、近畿天皇家は『日本書紀』が主張しているような朝鮮との関係はあまりなく、7世紀末まで朝鮮半島に軍を派遣していたのは、北九州に本拠のある九州王朝だったということです。

 九州王朝の本拠地が、いま「太宰府」と呼ばれている場所です。
 九州王朝は、7世紀末の唐・新羅連合と百済・倭国連合との「白村江」での決戦で大敗北をきっして、滅亡します。

 天智や天武の王朝は、この滅亡した「倭国」ではなくて、九州を占領した唐軍とも同盟したり、対立したりした、亡命朝鮮人を含む近畿の王朝で、やがて「倭国」を圧倒して「日本国」を名乗り、日本列島全体の、中国からも承認された正当な王朝となります。

 そういう「物語」で、いろんなことが説明できます。
 「倭の五王」「好太王碑」「七支刀」「磐井の「反乱」」、「九州年号」「日出ずる処の天子」などなど。

 この本でも、和田ウイルスの汚染は治っていませんが、汚染以前の清涼な状態を復元することは可能だと思いました。」




雨宮智彦古代史メモリー 44 20200622 本と映像の森 39 カン吉云さん著『倭の正体』三五館、2010年 20100517

2020年06月22日 21時07分01秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 44 20200622 本と映像の森 39 カン吉云さん著『倭の正体』三五館、2010年 20100517


「2010年05月17日 05時03分30秒 | 本と映像の森
本と映像の森 39 カン吉云さん著『倭の正体』三五館、2010年3月8日初版~3月25日3刷、222ページ、定価1500円+

 すみません。「カン」の漢字が見つかりません。
 著者のカンさんは、韓国人の言語学者です。

 古代史に出てくる「倭」とは何か、その正体を追った推理研究です。

 カンさんは「倭」=日本列島の「日本」という常識を疑い、研究していった結果、日本列島の近畿天皇家(カンさんの言う「大和倭」)が3世紀あるいは4世紀から朝鮮半島に軍を派遣していたという定式を破棄して、古代朝鮮の史書や古代日本の史書に現出する「倭」は、南朝鮮の「加羅」や「百済」などを本拠地にしていた勢力であり、加羅や百済の衰退や滅亡にともなって、日本列島へ移住・亡命した人たちであると推定しています。

 いちばんおもしろいのは、欽明・継体・舒明・皇極・幸徳・天智・天武天皇と後に『日本書紀』で命名された人たちは、どこの誰なのか、という謎解きでしょう。
 つまり、彼らは、朝鮮系の王族たちであったという解明です。

 この謎解きが正解なのか、誤解なのか、みなさん自身で判断してください。
 万世一系の、歴史学右翼のみなさんにはショッキングな、とんでもない結論で、「トンデモ本」ということになるでしょうが、ぼくはその正邪を検討すべきまじめな本だと思います。
 
 細かい判断はまだできませんが、百済・加羅などの「南朝鮮」から日本列島への移住の動きという流れは正視すべき流れだと思います。
 
 当時は、中国や朝鮮が日本列島にとっては、模範・モデルなのでした。
 いよの時代から、近畿天皇家が派遣軍を朝鮮に送って支配して、鉄や先進物を日本列島に持ってきた、というような妄想は、そろそろ成り立たなくなってきていると考えます。

 ただし「ドラヴィダ語」うんぬんの部分については「まじめ」なものかどうかという判断を保留しておきます。
 なにしろ「ドラヴィダ語」うんぬんは、あの大野晋さんが関係しているのかどうなのか。
 大野晋さんの日本語とドラヴィダ語の関連説については、安本美典さんの批判が正しいと思いますので、参照してください。」


雨宮智彦古代史メモリー 43 20200621 遠州古代史の本 2 浜松市『浜松の古墳めぐり』2008年 20100514

2020年06月21日 20時54分48秒 | 遠州古代史


雨宮智彦古代史メモリー 43 20200621 遠州古代史の本 2 浜松市『浜松の古墳めぐり』2008年 20100514

 この小冊子によれば「静岡県内では約9000基が認められ、浜松市域にも多くの古墳が見られる。現在、消滅したものも含めて約1700基の古墳が確認されている。」
 (p10)

10年前のパンフなので今もあるか、改訂版は出されているのかは調べてありません。

 
「遠州古代史の本 2 浜松市『浜松の古墳めぐり』2008年
2010年05月14日 23時03分19秒 | 遠州古代史
遠州古代史の本2 浜松市生活文化部生涯学習課(文化財担当)さん編集『浜松の古墳めぐり』<浜松市文化財ブックレット1>、浜松市発行、2008年3月20日、64ページ

 浜松市内の主なほとんどの古墳を「見学する際のガイドブックとして作成」されたカラーパンフです。
 
 主な古墳について解説と地図がついていて、これを手に「浜松の古墳めぐり」をするのがいいです。

 有料でたぶん、浜松市博物館や浜松市生活文化部生涯学習課で売っていると思います。

 浜松の古墳に興味のある方は必見です。」




雨宮智彦古代史メモリー 42 20200620 遠州の遺跡・寺社 13 早出町の「しら」は新羅かな? 20100514

2020年06月20日 20時11分14秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 42 20200620 遠州の遺跡・寺社 13 早出町の「しら」は新羅かな? 20100514


「遠州の遺跡・寺社 13 早出町の「しら」は新羅かな?
2010年05月14日 05時24分11秒 | 遠州古代史

 浜松市の古代史で、古代朝鮮「4国」の高句麗・百済・新羅・加羅任那あやを追っています。
 その追跡で気がついたこと。

 馬込川の川べりにある十軒町の我が家の、すぐ東は早出町です。
 その早出町に、こういう「人名」「会社名」があります。
 写真を見てください。

 早出町の「白井医院」と「志らは」(産業という会社です)は、明らかに目と鼻の先で、おなじ「しら」から来ているのは明白です。
 「しら」です、「しろ」では、ありません。
 地元なので、「しらい・いいん」であって「しろい・いいん」ではないと、いうのは、よくわかっています。

 全国に分布する「白山神社」は、「しろやまじんじゃ」なのか「しらやまじんじゃ」なのか、それが問題なのですが、音読みが「しろ」ではなく「しら」である場合は、これは「新羅」であることは、ほぼ確実といえるのでは、ないでしょうか。」



雨宮智彦古代史メモリー 41 20200619 本と映像の森 37 中村啓信訳注『古事記 新版』角川ソフィア文庫 20100508

2020年06月19日 22時20分31秒 | 遠州古代史


雨宮智彦古代史メモリー 41 20200619 本と映像の森 37 中村啓信訳注『古事記 新版』角川ソフィア文庫 20100508


「2010年05月08日 19時32分15秒 | 本と映像の森
本と映像の森 37 中村啓信(ひろとし)さん訳注『古事記 新版』角川ソフィア文庫、607ページ、定価1124円+

 日本古代史の基本文献の1つである『古事記』の手頃でいい文庫本を、この前、メイワンの谷島屋店で見つけたので紹介します。

 昨年9月25日に初版が発行されています。

 約600ページで、消費税含めて1180円ですから、なんと1ページ2円、安い!
(だからどうなの?と聞かれそうですね。いえ、別に。「効率」を主張する、浜松行革審の委員のみなさんは推薦してくれるかな?と、ちょっと、思っただけです。)

 内容は、読み下し文・現代語訳・原文(漢文)、解説、全歌謡各句索引、主要語句索引からなっていて、初心者にも親切だと思います。

 岩波文庫版は固すぎて、初心者には不向きですし、文春文庫の三浦佑之さん訳の『口語訳古事記』(2巻)は訳者の三浦さんの趣味が私には合わなくて(つまり、「語り部の古老を登場させて、本文に古老の注釈をつけくわえちゃうことまでしている。ここまでやるのは「原文改訂」でしょう?)。

 専門家の「解釈」にたよらず、本来の「古事記」をテキストで味わいたい日本人全員におすすめします。
 つまり、たとえば音楽を聴くのには、まずその曲を聴いて,自分で「これ、いいね」とか「これ、きらい」「今の私にはあわない」とか自分で判断すればいいのです。
 学校の「名曲鑑賞」の時間みたいに、まず先生が「これは、これこれこうい理由で名曲で」と「ご高説」を聞いてから聞くのはいやです。
 
 なお、三浦さんの『口語訳 古事記』は、文藝春秋社から出たハードカバー版を買って持っていますが、「古老の語り」を削除すれば、それほど奇怪な本ではありませんので、念のため。
 口語訳と、本文につけられた大量の用語注釈、42ページにわたる解説、地名解説、氏族名解説、系図、地図、動植物名索引、神人名索引、と読者に親切な本です。

 なお、この解説や索引が文庫版についているのかどうかは、まだ見ていませんので。」




雨宮智彦古代史メモリー 40 20200618 遠州の遺跡・寺社 12 江之島町の新羅大明神 20100507

2020年06月18日 21時39分31秒 | 遠州古代史
雨宮智彦古代史メモリー 40 20200618 遠州の遺跡・寺社 12 江之島町の新羅大明神 20100507


「遠州の遺跡・寺社12 江之島町の新羅大明神
2010年05月07日 13時44分59秒 | 遠州古代史


 浜松市南区役所のすぐ東南に浜松江ノ島高校がありますが、芳川を渡る江南大橋を南に渡って、江の島高校北」信号を過ぎると、道が東へ曲がっていきます。
 最初の信号を南へ曲がると、すぐ右(西)に見えてきます。

 東向きの神社です。
 静岡県神社庁のホームページでは「新羅(しんら)神社」となっています。

 江戸時代に、小笠原源太夫(げんだゆう)基長さんは、出身地の近江の園城寺にあった新羅神社を勧奨しました。
 この近江の新羅神社は、平安時代の源氏の頭領・源義家さんの弟・新羅三郎義光さんが元服した神社です。
 祭神は「新羅三郎義光」です。

 つまり近江から来た新羅系朝鮮人の子孫がこのあたりにたくさんいたということでしょうか。

 小笠原源太夫さんは、五島地区に農業用水と水運のための「源太夫堀」を整備した人です。
 遠州浜団地の西の端に「源太夫橋」があります。

 問題は、堂々と「新羅」を名乗った「新羅三郎義光」さんとは何物か、ということです。研究します。」


雨宮智彦古代史メモリー 39 20200617 遠州の遺跡・寺社11 東区上新屋町の荒神社

2020年06月17日 16時11分45秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 39 20200617 遠州の遺跡・寺社11 東区上新屋町の荒神社


「遠州の遺跡・寺社11 東区上新屋町の荒神社
2010年05月03日 19時20分18秒 | 遠州古代史

 上新屋町(かみあらやまち)251の7番地の荒神社に行ってきました。
 「あらじんじゃ」ではなくて、「こうじんじゃ」です。

 場所は、南北に走る広いバイパスで、信号の北東に「炭火焼肉 火の国中田店」があり、信号の南東に「浜松上新屋郵便局」があるところ、信号で西へ曲がって、すぐ南へ曲がると右側に見えてきます。 

 神社は南向きです。 

 祭られている神様は、スサノオノミコトでした。
 ネットで「荒神社」を調べると、瀬戸内海付近に多い神社で、いろいろな信仰が入り交じっているようです。

 なぜ「荒神社」と書いて「こうじんじゃ」なのかも不明です。

 この「荒神」信仰の系統で子どものお宮参りのときに「×印」などの「あやつこ」という印を書くとウィキペデイアに掲載されていました。

 雨宮的には、「あら」「あや」というと、やはり朝鮮半島東南部の「あや」国、「あら」国を連想するのですが、無理でしょうか?」



雨宮智彦古代史メモリー 38 20200616 遠州の遺跡・寺社10 冨幕山の謎の新羅堂(しんらどう) 20100428

2020年06月16日 20時24分08秒 | 遠州古代史


雨宮智彦古代史メモリー 38 20200616 遠州の遺跡・寺社10 冨幕山の謎の新羅堂(しんらどう) 20100428


「遠州の遺跡・寺社10 冨幕山の謎の新羅堂(しんらどう)
2010年04月28日 05時28分51秒 | 遠州古代史

 引佐町の冨幕山(とんまくやま)に「新羅堂」というところがあります。
 ネットで検索すると、たとえばこう出てきます。
 
 「新羅堂(しんらどう) 古代寺院遺跡か朝鮮式山城(創筑年代)弘仁11年(820年)か(創筑者)不明 静岡県引佐郡引佐町富幕 (現状)石段 礎石」

 そして別のネット「遠州修験の道を歩く」では「『遠州の霊山と山岳信仰』によれば「富幕山(鳳来山・扇山)西側山中には大福寺の前身である幡教寺が、東側山中には新羅堂がそれぞれ存在する。」という」と書かれています。

 さらに別のネットでも、新羅堂の位置がわからないので教えて、という問いが書かれていました。

 いまや、その位置さえ謎になってるようです。
 古代朝鮮の「新羅」と関係あるのは確かなようなので、調査したいと思います。

 一つ考えられるのは、北九州の山岳信仰では新羅系の渡来信仰が濃厚なことです。
 この浜名湖・湖北地域での山岳信仰が盛んなことからいっても、この山岳信仰が新羅系である可能性は大きいのではないでしょうか。

 まだ現地踏査していませんので、写真はなしです。」




雨宮智彦古代史メモリー 37 2020060 遠州の遺跡・寺社9 天白岩座遺跡幻想 20100423

2020年06月07日 21時42分40秒 | 遠州古代史
雨宮智彦古代史メモリー 37 2020060 遠州の遺跡・寺社9 天白岩座遺跡幻想 20100423


「遠州の遺跡・寺社9 天白岩座遺跡幻想
2010年04月23日 23時19分56秒 | 遠州古代史

 引佐町の「石の聖地」「天白磐座遺跡」に似たものは,実は日本列島内にもう1カ所あります。あると思います。

 それは、北九州の玄界灘にある、宗像大社の辺津宮にあたる「沖ノ島」の中腹にある古代祭祀遺跡です。
 別名「海の正倉院」と呼ばれています。 

 沖ノ島の中腹にある23の巨岩の岩上・岩陰・半岩陰・半露天・露天の遺跡から4世紀の古墳時代から10世紀の平安時代に至る、大量の祭祀異物が出土しています。

 さて問題は、この西日本の沖ノ島遺跡は航海の安全を祈った遺跡とされている点です。遺物の規模はともかく非常に似通った遺跡である東日本の天白磐座遺跡は、在地の「井伊氏」だけによる地元の祭祀であるといえるのでしょうか?

 いずれ報告書はきちんと読み込みたいと思いますが、類似性から行っても、沖ノ島遺跡が朝鮮海峡を渡る航海・敵地へ渡る旅の安全を祈願する遺跡であるなら、浜名湖から都田川・神宮司川とつながっている天白磐座遺跡が、たとえば尾張政権・たとえば大和政権、あるいは西日本との関連でもっと空想するなら筑紫政権のいずれかが「東海」の船旅、たとえば関東への旅を祈っておこなった祭祀の場であるとは言えないでしょうか。
 今のところは1つの可能性、雨宮の幻想ですが。

 沖ノ島遺跡については、正木晃さん著『宗像大社・古代祭祀の原風景』NHKブックス、日本放送出版協会、2008年8月30日第1刷、定価970円+消費税、205ページ、を参照しました。

 ネットで「沖ノ島遺跡」で検索すると「沖ノ島バーチャルミュージアム」や「沖ノ島・祭祀遺跡」などいろいろなサイトで、カラーでいろんな写真が見れます。

 記紀」にはヤマトタケルさんの旅が書かれていますが、あれは明らかに陸上ではなく、船による海上の旅(侵略の?それとも友好を求める旅?)です。
 ヤマトタケルさんは、名前は「ヤマト」と称しているのに、東日本から帰ってきて熱田の妻のところにいついてしまい、ヤマト天皇にまず報告にもいかないのはおかしいですね。
 ヤマトタケルさんの本拠地は熱田で、尾張政権の一員ではないでしょうか。

 偶然でしたが、今年は「井伊共保さん生誕1000年だそうです。もうすこし井伊氏や郷土の古代史を追いたいと思います。」


古代史ニュース マヤ文明の最古最大の遺跡 20200604 

2020年06月04日 22時35分00秒 | 遠州古代史

古代史ニュース マヤ文明の最古最大の遺跡 20200604

 6月4日付け『中日新聞(1)面』に「最古最大 マヤ遺跡か」「集団結束のため健造?」という記事が掲載されました。

 メキシコ東部の熱帯雨林で航空機からレーザー測量をおこない、長さ1400m、幅400m、高さ15mの土の遺跡・大基壇を見付けた。

 「アグアダ・フェニックス遺跡」と名づけられ、採取した炭素資料の放射年代からマヤ文明最古の紀元前1000年ころに健造と推定された。

 記事では太陽信仰のゆだが、同日の『赤旗』の記事では「南北に1413m、東西に399m、高さ15m」と明記してあるので、その点は不明。

 マヤ文明のピラミッドに太陽信仰があるのは明白なのですが、最初期にあったかどうかは、まだ不明ということでしょうか。

( 雨宮智彦 )



雨宮智彦古代史メモリー 36 20200529 遠州の遺跡・寺社 8 古代中国の土笛「ケン」と弥生の土笛 201004021

2020年05月29日 13時41分36秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 36 20200529 遠州の遺跡・寺社 8 古代中国の土笛「ケン」と弥生の土笛 201004021

 タイトルが「遠州の遺跡・寺社 8」となってましたが前回とダブリ、正しくは「9」ですが10年経ってはどうしようもないですね。

 ボクの古代史SF的妄想では滅亡した「殷王朝」の音楽関係者が日本列島へ亡命して浜松くんだりまで落ち延びて…という話になってるんですが。


「遠州の遺跡・寺社 8 古代中国の土笛「ケン」と弥生の土笛
2010年04月21日 05時32分10秒 | 遠州古代史

 浜松市の弥生時代を代表する全国的にも有名な遺跡が伊場遺跡です。
 その伊場遺跡で、弥生後期の地層から、土笛が1つ、出土しています。

 この「弥生の土笛」「弥生のオカリナ」は、実は、古代中国の殷王朝の時代の楽器で、出雲地方を中心に、弥生前期の日本海沿岸で遺跡から出土しています。

 正式名称は「陶ケン」と言い、「ケン」という漢字は、「土」へん+「員」です。

 口から息を吹き込む大きな穴が1つと、指で押さえるための表て4個、裏で2個の6つの小さい穴があります。

 出土しているのは、福岡県・山口県(下関市・綾羅木(あやらぎ)遺跡)・島根県(松江市・タテチョウ遺跡)・兵庫県(丹後町・竹野遺跡)などの10遺跡で40個余です。

 この土笛を、どういう祭りや祭儀で、どんなメロディーを吹いたのか、再現できないものかと思います。
 もとの「殷」のメロディーが再現できればいいのですけど。

 他の出土が弥生前期なのに、浜松市の伊場だけが弥生後期なのは、想像すれば、やはり、日本海文明「出雲文明」が、何らかの理由で崩壊したときに、そこから逃れて伊場まで「亡命」してきた「亡命者」が持ってきたのでしょうか。

 それとも、出雲から何らかの交易や交流で誰かが持ってきたものでしょうか。

 あるいは、出雲を征服した占領者が戦利品として持ち帰ったものでしょうか。

 古代中国の殷王朝と日本列島の交流という点では、もっと考察したいと思います。」