雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 3月24日(木) 屋根の瓦を直してもらう

2016年03月25日 20時11分43秒 | お知らせ
雨宮日記 3月24日(木) 屋根の瓦を直してもらう

 ふつうは「屋根の瓦を直す」と書くのでしょうが、実際にはお金を出して瓦屋さんに直してもらうわけです。ですから、リアルな表現で「屋根の瓦を直してもらう」と書きました。
 
 火曜日から始まって今日で3日目です。

 古代史でも同じような「表現」問題があります。『記紀』で、たとえば「新羅軍を撃退した」という場合、古代世界の常識では、「王が先頭にたって最前線で指揮して敵を撃退した」という意味のはずですが『記紀』では、そうではありません。

 朝鮮半島の闘いに天皇(当時は大王)が最前線にいた叙述がありません。誰かを派遣したという記事ばかりです。

 だから事実として、「大和朝廷の天皇は朝鮮半島には、いかなかった」のなら、実はその「最前線の司令官」が、ほんとうは「倭国の国王=軍事司令官」だったのではないでしょうか。

 近畿天皇家は、朝鮮半島出兵とは無関係な平和な王国だったのではないでしょうか。

 大規模な古墳を作れる剰余生産物の多さは、もし朝鮮半島で戦っているなら、その軍事予算に使うはずです。

 ( 諸氏の「九州王朝説」「倭国九州説」によりました )


お知らせ フェイスブックについて

2016年03月20日 22時24分11秒 | お知らせ
お知らせ フェイスブックについて

 過去、フェイスブックに新規登録した時に、もちろんそれが原因ではなく、ノートパソコンがクラッシュしました。

 パスワードも失われたので、またやり直すのも面倒で、フェイスブックからは撤退しました。

 雨宮に連絡したい方は、このブログのメッセージ機能を利用してください。

雨宮日記 3月20日(日) 馬込川の春を探しに行きました

2016年03月20日 22時11分38秒 | お知らせ
雨宮日記 3月20日(日) 馬込川の春を探しに行きました

 午前中は、西来院にお参りに行ってから、クリエートへ「浜松市民文芸」を取りに行きました。


 午後は2人で馬込川の散歩。

 まだオオバン・ヒドリガモはいました。

 モンシロチョウとモンキチョウが飛び始めていました。

 てんとう虫もいました。

 

雨宮日記 3月16日(水) 平和行進の相談で則子さんと飛び回る

2016年03月16日 19時50分47秒 | お知らせ
雨宮日記 3月16日(水) 平和行進の相談で則子さんと飛び回る

 昨夜は「西遠平和行進実行委員会」で、懸案の5月29日(日)の日程で浜松を「平和行進する」ことを最終的に決めました。

 かなり苦労し、激論若し、いろいろ相談もしましたが、ぼくの提案「六所神社→浜松市役所→高塚熊野神社の幹線コース」を全一の28日に移す」という案は受け入れて貰えませんでした。

 でも、みんなで選択をしたから、いいんです。29日に平和行進も、志位さん演説会も成功させるという合意ができたように思います。

 今日は午前中は則子さんは浜北の長女の家へ行って、孫も子守。

 午後は、ぼくの車で「可美休憩施設探し」、そのあと新婦人・地区労連・共産党など平和行進の相談に行きました。

 則子さんは、夜も「可美村付近の休憩施設」の件で新婦人の「可美村班」の人に電話。がんばっています。

雨宮日記 3月15日(火) 雨で雨漏り

2016年03月16日 19時33分17秒 | お知らせ
雨宮日記 3月15日(火) 雨で雨漏り

 2階の瓦が2個所くらいずれていて、雨になるとぼくの寝る部屋の天井で歩つ、歩つと雨漏りマす。

 これはいかんと、則子さんに相談したら「なんでぼっと早く言わないの」と怒られました。

 「だって、終戦には費用がかかるから」と大蔵省的弁解をしました。

 数万円ですめばいいんですけど。

 則子さんに「数十万円なら、修理しない:と言いました。

  ☆

 雨で梅の花もだいぶ散りました。万葉集にそういう歌があったでしょうか。


雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 前立腺ガン 49 ガンの発覚

2016年03月06日 23時01分45秒 | お知らせ
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 前立腺ガン 49 ガンの発覚


 「ガンです」
 K医師(泌尿器科の主治医で病院の診療副部長)は、いつもの診察の時と同じように、カルテを見ながら、事もなげに言った。
 「えっ、ガンですか?」
 私は、どうすればよいか、そのあとの言葉が出てこなかった。その日は、二十一世紀になった一年目の、七月十日の火曜日であった。

 実は大分前から、オシッコがすんなり出ないので、病院へ行かねばなるまいと思ってはいた。本を見ると、尿道を取り巻いている前立腺という臓器が影響していて、それは血液検査で簡単に分かるという。

 E総合病院の泌尿器科で検査を受けたのは六月末であった。検尿、採血(前立腺ガンの指標と鳴るP・S・Aの数値の検査)、直腸内触診(肥大ではない)と、超音波検査があった。その結果、P・S・Aが八・四五で、四から十はガンを疑うため、前立腺の細胞を採ってガンの有無を調べる「前立腺生検」という一泊入院の手術を受けねばならなくなった。

 「(病名)前立腺腫瘍。

 (検査の必要性及び方法について)前立腺組織内にガン細胞が存在するかどうか、経直腸的超音波断層法を用いて前立腺生検を施行いたします。

 (検査の問題点などについて)検査時間は一〇分程度です。検査後の問題としては、排尿障害、感染(特に尿路)。血尿等が発生することがあります(通常、四~五日程度で消失することが多い)。これらの問題点がありますが。検査で得られる情報が多いことを考慮し、検査を受けることをお勧めします。」

 月が代わった七月二日の月曜日、十時半までに泌尿器外来へ行き、心電図・胸部レントゲンを撮り、十一時過ぎ、五階の五〇五号室へ入院した。

 先の受診の時、フリバス錠(尿道や前立腺の緊張をゆるめて、尿を出し易くする薬)、クラビット錠(感染症の防止)。アプレ
ース錠(胃の粘膜の保護)等のくすりを処方されて、入院日まで服んでいた。

 一日入院なので、持って行ったものは、スリッパ・筆記用具などぐらいであった。着替えしてベッドに横になると、すぐ先生がみえて、抗生物質などの点滴注射を始めた。この点滴は、翌日の退院する昼前まで続けられた。

 午後手術が始まり、組織を採るとき先生が、「パンと音がしますが、何ともないですから」
と言った。なる程、そのあと子供のオモチャのピストルを発射する時のような音が、パンパンと六度した。前立腺全体より、平均的に六ヶ所から採るのが常識のようである。二〇分ぐらいで終わり、室に戻ってから十六時頃まで二時間安静で動けなかった。

 その後は自由であった。次男の嫁さんは入院する時と、夜八時頃、見舞客の制限時間いっぱいぐらいの時来てくれた。睡眠薬を服んだが、夜半トイレに三時、六時と起きた。八時昼食、昼食前の十一時半に退院し,一人で電車で帰った。

 尿の出血も四日の日にはきれいになり、冒頭に書いた通りの七月十日の「ガンの告知」となったのである。
 「癌 悪性腫瘍。癌腫と肉腫があるが、狭義では癌腫をさす・表皮・粘膜・腺組織にでき、治療困難で死ぬことが多い」(西尾実、岩渕悦太郎、水谷静夫編『岩波国語辞典 第四版』)

 即ち「癌」と言えば障害物で、人間にとっては究極的には死を意味する。今まで如何に多くの人びとが、それと闘ってきたか知るところである。私が絶句したのも自然の成りゆきであろう。

 「来週月曜日の十六日にご家族に説明いたしますから、一緒においで下さい。その日に骨シンチグラフィー検査も行います」
 私は院内の公衆電話から。次男の嫁さんの勤め先の保育園に連絡して「ガンだった」と知らせ、十六日は午後なら時間があるとのことで、先生の予約をとった。

 私は、その日の夜、名古屋の長男へ電話して「ガンだった」と伝えたところ、長男は絶句してしばらく無言だったが「ガンだった人でも、元気で働いている人は沢山いるから、心配しなくてもいいよ」と元気づけてくれた。

 十六日の先生の説明のある日まで、私が最も心配したことは、手術をするのかどうかということである。お腹を切られるのは、何とかして避けたい。もし切ると言われたら、死んでもいいから断ろうと思っていた。

 その日がやってきた。午前十一時から骨シンチグラフィー検査のための、放射性同位元素の薬を右腕に静脈注射した。全身に回わるのに時間がかかるので、検査は午後である。先生との話も午後なので、百貨店へ行って中元品の発送を頼み、弁当を買って来て、病院の待合室で食べて時間をつぶした。

 十三時半から約十五分間、次男の嫁さん同席で先生の説明を受けた。前立腺ガンの標識となるP・S・Aは最初に言われた通り、八・三五であり、ガンの進行度はC(ガンが前立腺の外まで広がった状態)で、中分化(中位)のガンであるという。ガン自体はそんなに大きくないそうである。それはそれで、切るのか切らないのか、どうするのかと思っていたら、切らないで内分泌治療法(ホルモン療法)をするとのことであった。思わず、「万歳」と叫びたくなるところであった。

 骨の検査は機械の故障で少しおくれ、十四時半から約四十分行われた。午前中に注射した放射性同位元素から、ガンマ線が放出され、ガン細胞の部分を写し出すのである。その結果とホルモン注射は次回の七月三十日に予定された。骨への転移はなかった。P・S・Aが五十を超えると、転移が疑われるというから、私の場合はまずその心配はなかった。

 最初の検診から一ヶ月が過ぎて、私のガンの現在の症状と,治療方針が決まった。それにしても解(げ)せないのは、難しく言えば「告知の問題」であるが、何故、私一人の時に、早ばやと「ガンです」と知らせたのであろうか。その後、家族同席で説明を受けているのである。この時、告知する方法もある。或いは本人は知らせずに、家族のみに知らせることもある。

 ガンが致命的な病気であるというイメージがまだ強いから、ガンと言われれば、死の宣告と受け取る人もいる。そのため、医師もためらうが、本来は前向きの姿勢で生きていけるようにするためである。私の主治医となったK先生の経歴などは、一切知らない。その人に治療をまかせるのであるから、患者からすれば運を天にまかせるしかない。

 最近はインフォームド・コンセントといって、医師と患者の側で治療方針について説明と同意をとる方法が重視されているので、患者も医師にまかせず、主体性をとるべきである。

 前立腺ガンは、進行が遅いので、多くのものは寿命より長くかかって増殖する。私のように八十代の高齢者は。ガンで死ぬ前に、他の病気で寿命がくるので「天寿ガン」と呼ばれている。先生もそれらの事を勘案して、ガンを告知しても差支えないと判断したものと私は考えた。

  ( 「50 膀胱の手術」に続く )
  

雨宮日記 3月6日(日) 夜まで雨でした

2016年03月06日 22時51分00秒 | お知らせ
雨宮日記 3月6日(日) 夜まで雨でした

 午後から降り始めて夜まで雨でした。

 日本政府が普天間基地問題でついに和解協議に入る。参院選対策とはいえ、画期的なことです。

 沖縄側のつかのまの勝利でしょうか。

   ☆

 3月15日に沖縄海兵隊のオスプレイが今年始めて、東富士に飛来し訓練をおこなうと発表されました。オスプレイは寒いと飛べないようです。果たして暖かくなるか?



 

雨宮日記 3月5日(土) 総がかり行動浜松のビデオ完成まじか

2016年03月06日 22時44分55秒 | お知らせ
雨宮日記 3月5日(土) 総がかり行動浜松のビデオ完成まじか

 昨年8月30日の「戦争法阻止、全国100万人総がかり行動」のビデオをを完成寸前にしました。

 あとは最終回、「津和野ふき」さんにナレーションを入れてもらい、完成です。約50分。

 集会での発言は全文入れました。

 そのあとは「LPM」の編集と、3・1の編集をします。


雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「第2部 戦後編 47 入院」

2016年02月14日 15時59分20秒 | お知らせ
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「第2部 戦後編 47 入院」


 そのうちに家内は徘徊を始めるようになり、一時も目が離せなくなった。玄関に施錠し、窓は鍵を閉めて、家内につきっきりでいなくてはならなくなった。錠を外して出て行かぬとも限らないからである。

 しかし、閉じ込めておくだけでは解決できないので、一緒に散歩に出るが、歩きながら
 「ここは、主人と前に来たことがある」と、私を他人のように言う。

 帰って来ると、私の家ではないと入ろうとしない。馬鹿力があって、いくら引っ張ってもびくともしない。
 「じゃあ、お前の家に帰るから、着物を替えて行こう」と言うと、おとなしく家へ入る。

 夜、ふと目をさますと家内がいない。玄関の方でガタガタ音がしている。「しまった」。

 ちょうど息子の車が玄関の出口をふさぐように停めてあったので、家内は出られずうろうろしていた。外は雨が降っていた。出られれば雨に濡れてでも飛び出していってしまうのであろうか。ある時は、夜半真暗な食堂の戸棚の陰にじっと、突っ立っていたこともあった。私もだんだんいらだって来て眠れず、酒の量が増えてきた。

 次男の嫁さんが世話をして、介護のデイ・サービスや、ショート・ステイに行くようになったが、家内は、迎えのマイクロ・バスに乗る時、次男の嫁さんに向って「私を騙したわね」と言っていた。

 まだ正気な状態を見せる時もあり、自分の病気の悪いところは、「頭だ」とちゃんと指摘することを思うと、私もどうなっているんだろうと分からなくなってしまう。

 平成七年の二月、聖隷住吉病院でM・R・I(磁気画像診断)を受診した。

 両側大脳に若干量の梗塞巣が見られ、また、若干の萎縮が見られるから、血管性痴呆が発症している可能性は指摘できるが、梗塞巣はそれ程著しいものではないので、アルツハイマー病でも差し支えない。甚だ、はっきりしない診断であるが、血管性にせよ、アルツハイマーにせよ痴呆には変わりはない。

 次男の嫁さんの在宅介護も、保育園の園長の仕事の合間を見てのことで、三月に入ると卒園式など手が抜けなくなる。園児の母親で某病院の婦長をしている方の紹介で、家の近くの天王町の天王病院に入院することが出来た。

 平成七年の三月十五日であった。平成十六年の三月で十年目になる。日数では三千三百日余である。途中大腿骨骨折などがあって、手術して寝たきりになってしまった。食事も自分では食べられず、流動食である。平成十年は金婚式であったが、式をあげることが出来ず、痛恨の一言に尽きる。

 ( Ⅱー48 巣鴨拘置所」に続く )

雨宮日記 2月11日(木) 津和野ふきさんの自由律俳句を掲載

2016年02月13日 20時38分07秒 | お知らせ
雨宮日記 2月11日(木) 津和野ふきさんの自由律俳句を掲載

 ぼくの「相棒」の津和野ふきさんの俳句を掲載。

 今の季節だけでばなく、年間秀作選です。


 はこべとつくしが風とお話しバス停広場

 地の底に影をうつしてめだかすいすい

 紙ひこうき追いかけて何度でも飛ばす少年
 
 山の上でも声ふりしぼってつくつく法師

 絵になる山里に拡がる稲穂の絨毯

 赤とんぼ真っ直ぐ影を落として空へたつ

 ゆずの香りが引き寄せるふるさとの母の記憶

 イルミネーションで飾られた木立の悲鳴
   

雨宮日記 2月7日(月) 桜は何の象徴か

2016年02月08日 16時40分34秒 | お知らせ
雨宮日記 2月7日(月) 桜は何の象徴か

 数日前、ネットのユーチューブで「桜チャンネル」というのをやっていました。ヘリ空母「かが」(命名は大日本帝国海軍の空母「加賀」から)の進水式をやってました。

 「守るも攻めるも黒金の…」が響き、まことに異様でした。

 ところで、その日の夜、『万葉集』を読んでいて、思いついたこと。日本人の頭の中に「特攻」というと「桜散る」がイメージングされて、焼き付いているのですが。
 
 はたして『万葉集』の「桜ちる:は死を歌っているのでしょうか。もし、そうであれば「桜咲く」は生まれることを歌っていなければなりません。

 もちろん、桜が咲くことを情景的に歌う歌も大飯ですが。少なくとも、桜が散る=人が死ぬ、というのは近代の、あるいは戦争中の無理矢理解釈なのではないでしょうか。

 少し調べてみます。まず万葉集や古今和歌集の桜の歌を全部読んでみます。何かわかったら、ここに書きます。

 そろそろ桃の花がほころび始めました。春はまだ遠いのですが、春の匂いがし始めました。


雨宮日記 2月1日(月) 浜岡原発パンフ完成しました

2016年02月07日 16時41分21秒 | お知らせ
雨宮日記 2月1日(月) 浜岡原発パンフ完成しました

 やっと、と言うか、ついに、と言うか、浜岡原発パンフ完成しました。

 タイトルは「まもろう!命 なくそう!浜岡原発 ー浜岡原発永久停止裁判勝利のためにー」です。

 A4判・オールカラー・44ページ(実際は50ページ)・頒価400円・1000部印刷しました。

 西部の会の役員・事務局にお買い求めを。

 

 

雨宮日記 1月24日(日) 次子おばさんの四十九日でした

2016年01月27日 19時34分42秒 | お知らせ
雨宮日記 1月24日(日) 次子おばさんの四十九日でした

 父の弟の菊男さんの奥さん、次子おばさんの四十九日で、浜北区の高畑へ行ってきました。

 本来、則子さんと2人で行くはずが、則子さんの職場の同僚が50代で急死(たぶん、飲み過ぎの肝臓ガン・・・・どきっ)したので休みはなくなり、8日間働きずめになりました。

 次子さんの方の「山田」の女性から「菊男さんにそっくりですねえ」と話しかけられました。

 昔話やら、昔の写真を見て「これは誰」という話で盛り上がりました。

 すぐ近くのお寺に納骨しました。

雨宮日記 1月21日(木) PMビデオ4~6と浜岡原発バンフ完成!!!

2016年01月22日 18時21分12秒 | お知らせ
雨宮日記 1月21日(木) PMビデオ4~6と浜岡原発バンフ完成!!!

 ひさしぶりの日記です。

 本日午後、ラブ&ピース・ミュージックの4・5・6のビデオ完成!あとはDVDーRを作るだけです。

 本日夜、浜岡原発パンフ(A4・カラー・50ページ・400円)完成!あとは印刷所で印刷してもらうだけです。

 できばえは見てください。

 ほっとしています。