馬糞風リターンズ

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長崎 高1殺人事件。・・・・・・人は時として魔性を宿す。

2014年07月31日 | 歴史
「何でもあり」のご時勢でも今度の長崎県佐世保市の高校1年女子の同級生殺人事件は衝撃でした。事件の様子が報道される度にその異常さ、残虐性、猟奇性に言葉を失うばかりです。今回の事件の犯人がそうであるのかどうかは分かりませんが、人間、数の中には稀に嗜虐性というか心に魔性を宿した人がいるようです。
 徳川家康の孫・越前六十七万石のお殿さん松平忠直とその愛妾一国御前の悪虐は常軌を逸しており、日本歴史上でも特筆される異常振りでした。
 福井に伝わる「片聾記(ヘンロウキ)」「続片聾記」と言う古文書があるそうですが、それに拠ると忠直は1万人も人を殺し(戦場ではなく)、その悪虐は次第にエスカレートしていったそうです。石の上に横たえた人の頭を鉄の槌で叩き割ったり、妊婦の腹を裂いて胎児を取り出したりするようになったそうです。忠直には「一国(イツコク)」と言う愛妾がいました。忠直が「一国にもかえがたい」と溺愛ししたことで「一国」と名付けたのだそうです。
この一国御前が嗜虐性の強い魔性の女で、一国の目の前で死罪人を惨殺させると、一国は目を輝かせて「こんなに心を奪われることは無い」と感じ入ったと言うことです。これが悪癖となって惨殺が繰り返されて、越前領内に死罪人が全くいなくなってしまったそうです。それでも一国は人が殺されているところを見たがり、死刑囚に限らず獄門に繋がれている囚人が次々と惨殺されました。そしてついに牢獄が空になってしまうと、周りにいる小姓たちに些細なことで言掛りをつけて一国の目の前で殺されたそうです。更に一国は単に殺すだけでは飽き足らず残虐な殺し方へとエスカレーターを加速させたそうです。ほんの些細なことで罪に問われた小姓の中には、櫓の上から突き落とされ石垣に頭をカチ割られて死ぬのを見て嗜虐を満足させたと言われています。
 松平忠直は徳川家康の孫です。父は家康の次男・結城秀康です。長男・松平信康が父家康の命により20歳の若さで切腹させられたので、本来ならば二代将軍には秀康が付くのが筋道ですが、弟の秀忠が二代将軍になります。もし父・秀康が二代将軍になっていれば忠直は三代将軍となりますが、三代将軍には従兄弟の家光がなります。そのような鬱積した不満が忠直の心の闇に異常な残虐性を育んだのかも知れません。忠直の最大の武勲は、大阪夏の陣で真田幸村を討ち取り、忠直軍は、三千以上もの首を上げたことです。しかし、論功行賞の評価は思いのほか低かったと言うことです。
忠直の異常な行状は、小説や映画演劇でも取り上げられています。
 ある日、忠直が夕涼みをしていると女性の絵が描いてる紙切れが落ちていました絵に書かれた女性が思いっきり自分のタイプだったので、側近達に「この絵にそっくりな女を捜して来い」と命令、側近達は探しまくりましたがなかなかいないで、とうとう関ヶ原まで行き、やっとこさ似てる女性を探し当てました。その女性は「おむに」という問屋の娘で、ものすごい美女でした。忠直は一目見るなり気に入り、「お前なら一国と引き換えにしてもいいくらいだ」ということで「一国」と名づけ寵愛しましたがこのおむにがとても残虐性のある女性だったのです。
 忠直の正室は三代将軍家光の妹、即ち二代将軍秀忠・お江の娘・勝姫です。忠直はこの正妻勝姫をも殺そうとしましたが、これは侍女が身代わりとなって殺されるという悲惨な結果になってしまったのです。とうとうこの残虐非道な暴挙が二代目将軍秀忠の耳に入ることになり、豊後萩原に配流後は5000石の捨扶持を与えられ、城主竹中采女正重次にあずけられました。忠直は同地で56歳まで生きて病死、配流の地では異常な振る舞いの記録が無いので、穏やかな日常を送ったと考えられています。
隠居後は出家して一伯と名乗ったそうです。豊後(大分)では「一伯」と言う銘菓があるそうで、地元では越前出のような悪評は全く無いようです。



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