馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

三島由紀夫「愛の渇き」

2011年09月18日 | 雑学
三島由紀夫の小説「愛の渇き」の冒頭に豊中市の情景が紹介されています。
我が4組のHP管理者太田さんが住まわれている岡町や熊野田、服部霊園などのことが時代背景と共に書かれています。
小説の舞台設定としての背景描写として必要であったのでしょう、三島はこのために1週間ほど取材に来ていたようです。
三島の小説は「有閑層」の人間模様を描くことにあります。豊中市岡町はそういう意味で関西の著名人や富裕層の多く住む高級住宅街ですから、彼の描く小説の舞台背景によくマッチしていたのかも知れません。
 小説の中で熊野田あたりを「米殿村(まいでんむら)」と書いています。
この米殿村と云う村名はどうやら三島の創作のようです。豊中市の町村変遷を調べても米殿村は出てきません。また隣接する吹田市を捜してもなさそうです。

 三島由紀夫や石原慎太郎の世界と僕の生活観とは全く肌合いが違いますから彼らの書いたものは殆ど読むことはありません。
三島由紀夫で衝撃だったのは昭和四十五年十一月二十五日、市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室において割腹自刃したことです。

 この日、僕は富山県礪波に出張していました。北陸の初冬にしては珍しい素晴らしい好天だったと記憶しています。
何も知らずに昼飯を食べる為に入った食堂のテレビに、バルコニーで拳を振り上げ演説している白鉢巻、ミニタリールックの三島の姿が繰り返し放映されています。司会をしていたのが中山千夏で、三島の挙動を伝えるのにえらく馬鹿丁寧な言葉使いであった様に思いました。恐らく彼女は三島を少なからず尊敬していたのか或は親派だったのかも知れません。

 このセンセーショナルな事件は連日マスコミが取り上げ報道しました。
新聞には三島の検死や解剖所見なども詳しく報道しました。
朝日新聞によると「三島の短刀による傷はへソの下四㌢ぐらいで、左から右へ十三㌢も真一文字に切っていた。深さは約五㌢。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。」とあります。
毎日新聞の解剖所見では「死因は頚部割創による離断」「頚部は三回は切りかけており・・・」とあります。

 乃木希典は明治天皇の大喪の当日静子夫人と共に殉死しています。
このときの乃木も割腹しています。言い伝えでは作法通り「十文字」に腹を切り、その後上着のボタンを掛けて衣服を糺し、軍刀の刃を上に柄を膝の間に立て、その切っ先めがけて乃木は頸部を貫き、頸動脈を裁断した、とあります。

 切腹にも作法があるそうで、乃木の場合は介錯が無い時の作法だそうです。
三島由紀夫は生前、映画などで自ら「切腹」のシーンを演じています。「人斬」や「憂国」などですが、僕は映画「人斬」で田中新兵衛役の三島が「切腹」するのを見ました。この時も場面としては介錯のない「切腹」です。

 総監室で三島が自決した時、「楯の会」の森田が介錯したとされています。
事前に介錯人がいる場合の切腹の作法は、腹にそれほど深く刃を立てないそうです。江戸も中ごろ以降になると短刀を腹に当てるだけで、その瞬間介錯の刀が首を落とすそうです。

 三島の切腹は作法通りの「十文字腹」で行おうとしようで、その為、腹を深く刺し、上体が前屈みになったので森田の介錯の太刀の手元が狂ったため肩口に三つの傷跡が残ったのではと推測されています。
因みに森田の剣の腕前は見事だそうです。

 人が死を以って行ったことに対して僕は「どうこう」と批評はしません。少なくとも「死を以って国民のために頑張ります」などと言っている政治家よりは見事であることは確かです。

 文学者三島由紀夫が辞世として読んだ「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へし 今日の初霜」
また、乃木希典の「うつし世を 神さりましし 大君の みあと慕ひて 我はゆくなり」
何れも「作った」「習作」の様なぎこちなさを感じるのは僕だけでしょうか。