馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

鎮守の森にマンションが・・・垂水神社

2011年11月14日 | 歴史
関西ローカルな話題ですが、毎日放送の夕方の情報番組に「Voice]と云うのがあります。
先週の話題は「神社を見下ろすマンション」で吹田市に鎮座する垂水神社の鎮守の森にマンションが建設される事に近隣の住民が憤懣している話題です。


垂水と云う地名は全国にあります。滝(垂水)があったことに由来すると言われています。万葉集でも「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子)と詠まれていますが、個々垂水神社の事だと言われていますが、確たる証拠はありません。
吹田の垂水も古くから「水」関る神社として信仰の厚い神社です。
垂水神社は式内社で豊島郡内唯一の名神大社で、旧社格は郷社に列せられています。主祭神は崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命です。


 「この地方に勢力を持っていた阿利真公が大化の改新頃(646)におこった旱魃の折、垂水岡(千里丘)から湧き出す水を、当時の難波長柄豊崎宮に送り、その功を讃えられて、垂水公の姓(カバネ)を賜るとともに垂水神社を創祀したという」と当社の由緒にあります。

 随分以前の事ですが、趣味の歴史同好会で「果して垂水から難波長柄豊崎宮に送水できるか」と白熱の議論をした思い出があります。
垂水神社から難波長柄豊崎宮(大阪城の南)までは直線距離で10kmあり、高低差は5mと僅かです。またその間、3つの大きな川を渡さなければなりません。
 ローマの水道橋の様な構造物を建設すれば可能かもしれませんが、常識的には「樋」を地形に沿って敷設して送水したと考えられます。そうすると、渡河の場合は0mまで落とし、また自然堤防を揚水しなければなりません。その動力などはどの様にしたのか?など送水できる!いや、できない!とやり合ったものです。
 当時の土木技術をわきまえた上で皆さんはどのようにお考えになりますか?是非お考えを伺いたいものです。



垂水神社社頭には「雉子畷」の解説板があります。

長柄の人柱
 推古天皇の御代に、垂水の里と長柄の里の間に、橋を掛け直すことになったといふ。二度と流されることのないやうにと、垂水長者の岩氏(いはじ)は、袴に継ぎのある者を人柱にすべしと進言した。ところが言ひ出した長者自身が継ぎ袴を着けてゐたため、人柱となったのである。
 橋が無事に完成してのち、長者の娘は、北河内の甲斐田(かひた)長者に嫁いだが、いつまでたっても口をきくことができなかった。とうとう垂水の里に帰されることになって、里近くの雉子畷(きぎしなわて)まで来たとき、一羽の雉子が鳴き声をあげて飛び立った。甲斐田長者がこの雉子を射ると、それを見てゐた妻が突然歌を詠んだ。

 ものいはじ父は長柄の橋柱 鳴かずば雉子も射られざらまし

 夫は妻が口をきけるやうになったことを喜び、甲斐田の里へ連れ戻って、幸せに暮らしたといふ。

また一説によると、垂水長者が人柱になったとき、その妻は幼児を背負ったまま川に身を投げたという。そのとき歌を残した。

 ものいへば長柄の橋の橋柱。鳴かずば雉子のとられざらまし

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