馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

葛城古道「一言主神社」

2011年11月11日 | 歴史
今月、11月19日(土)3年4組のウォーキングがあります
今回は「葛城古道」を歩くそうです。
 僕はこの近辺が大変好きで、年に少なくとも3~4回は行きます。
古事記や日本書紀に出てくる地名が普通の生活の中にあり、歩いているだけでこの国の創成と云うか黎明の世界に自然と溶け込んで、しばし古代王権揺籃を体現して楽しんでいます。

特に「一言主神社」がお気に入りで、それほど広くない境内のベンチに座り大銀杏を眺めて時間を潰すことがよくあります。


今回のウォーキングでもコースに入っていると思いますので、何かの参考にして下さい。

 「一言主神社」は延喜式神名帳には「葛木坐一言主神社」と記載され、名神大社に列せられています。
古事記、日本書紀とも「雄略天皇」との出会いの物語を書いています。
記紀によると、と説明文などに出てくると古事記も日本書紀も「似たり寄ったり」の事が書かれていると思ってしまうのですが、実は「記紀」の間には大きな違いがあります。
この違いがあることで逆に多くのいろいろな事が分かります。

 古事記では
「 またある時、天皇は葛城の山の上にお登りになった。そのとき大きな猪が出て来た。すぐさま天皇が鳴鏑の矢でその猪を射られたとき、その猪は怒って唸り声をあげて寄って来た。それで天皇はその稔り声を恐ろしく思って榛の木の上に逃げ登られた。
その時天皇は歌およみになって、

(やすみしし)わが大君が射られた猪の、手負いの猪の稔り声が恐ろしくて 
  私が逃げ登った高い峰の榛の木の枝よ。(九八)

とお歌いになった。

 またあるとき、天皇が葛城山にお登りになった時、お供のたくさんの官人たちはみな、紅い紐をつけた青い摺染めの衣服を賜って着ていた。そのとき、その向いの山の尾根伝いに山に登る人があった。その様子はまったく天皇の行幸の列にそっくりで、また服装の様も随行の人々も、よく似て同等であった。そこで天皇は その様子を遠くごらんになって、お供の者に尋ねさせて仰せになったことには、「この大和の国に私をおいてはほかに大君はないのに、今だれが私と同じような様子で行くのか」と仰せになると、向うから答えていう様子も天皇のお言葉と同じようなものであった。そこで天皇はひどくお怒りになって矢を弓につがえられ、大ぜいの官人等もみな矢をつがえた。すると向うの人たちもまた、みな弓に矢をつがえた。

 それで天皇はまたお尋ねになって、「それではそちらの名を名のれ。そしてたがいに名を名のってから矢を放とう」
と仰せになった。向うの人はこれに答えて、「私が先に問われた。 だから私が先に名のりをしよう。私は、悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城の ヒトコトヌシノ大神である」と申した。天皇はこれを聞いて恐れかしこまって、「おそれおおいことです、わが大神よ。現実のお方であろうとは気がつきませんでした」と申し上げて、ご自分の太刀や弓矢をはじめとして、多くの官人等の着ている衣服をも脱がせて、拝礼して献上なさった。

するとそのヒトコトヌシノ大神はお札の拍手をしてその献上の品をお受け取りになった。 そして天皇が皇居にお帰りになるときに、そのヒトコトヌシノ大神の一行は山の頂きに大ぜい集まって、泊瀬の山の入口までお送り申し上げた。それでこのヒトコトヌシノ大神はそのとき初めて現れなさったのである。」(古事記 下 全訳注 次田真幸)

 日本書紀では
「葛城山
(雄略天皇)四年の春二月に、天皇は、葛城山で射猟をされた。とつぜん背の高い人にお会いになった。その人がやって来て、谷の交わるところであい対面した。顔や姿が、天皇によく似ていた。天皇は、これが神であるとお考えになられたが、ことさらにお尋ねになって、「どこの方であるか」と仰せられた。背の高い人は、答えて、 「姿を現わした神であるぞ。さきに王の御名を名のりなさい。そうしたあとで私が名のろう」と言った。天皇は、答えられて、「私は、幼武尊(わかたけのみこと)である」と仰せられた。背の高い人は、 つづけて名のって 「私は、一事主神である」 と言った。そうしてともに遊猟を楽しまれて、一匹の鹿を追って、矢をはなつことを、たがいにゆずられ、 轡をならべて馳りまわられた。言詞は恭虔なで、仙(ひじり)に逢ったようであった。こうして日が暮れて猟が終わった。神は、天皇をお送り申し上げて、来目河までこられた。
このとき、百姓は、ことごとくに、「有徳な天皇である」と申し上げた。」(日本書紀 上 井上光貞 中央公論社)

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