馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

銀を使っていないのに何故「銀閣寺」なのか?

2018年10月24日 | 歴史
通称銀閣寺は慈照寺と云うそうです。山号は東山。現在は臨済宗相国寺末寺です。
将軍足利義政が隠棲し、風流遊興のために東山に造営した御殿で「東山殿」と呼ばれていました。
義政の頃には彼が起居していた常御所、西指庵、起然亭、東求堂、会所、泉殿など多くの殿舎・楼閣あったそうです。天文の兵火でその多くは消失し、現在は銀閣、東求堂、庭園などを残すのみです。

銀閣は正式には観音殿と云い、2層の楼閣です。上層は潮音閣で観音像が安置され下層を心空殿と言われ書院造りの原型と云われています。延徳元年(1489)に完成しますが翌年延徳二年(1490)足利義政が没します。義政死後、義政の遺言により東山殿は禅寺・慈照寺となります。開基は足利義政、開山は夢窓疎石。慈照寺は義政の義政の法号に因むとされます。
 東山殿造営は文明一〇年(1482)から始まり、銀閣完成まで七年弱の年月を要しました。

 観音堂、通称銀閣は建設当初から銀箔を使用した形跡は伺えません。また昭和40年の解体修理の折の調査でも銀箔の使用は認められませんでした。

慈照寺・観音殿を現在のように通称銀閣寺・銀閣と呼ぶようになったのは江戸時代になってからです。
◎「都名所図会」巻之三・左青竜に「二重の高閣あり(北山鹿苑寺の金閣に准じてこれを銀閣と号す)」とあります。簡単に言えば同じような経緯で立てられた金閣寺があるので、金銀と対にして金閣、銀閣と呼んだということです。
 所がこの銀閣という通称が独り歩きしだしとんでもない紹介記事となってきます。
◎「後太平記」は延宝五年(1677):大岡越前が活躍していた頃。に刊行された本には「軈テ東山慈照寺ノ内に東求堂ト號シ、銀ヲ鏤メ結構ヲ盡サレ、美営ノ粧堂ナレバ世ノ呼ンデ銀閣寺ト是レヲ云フ・・・」
◎「雍州府志」天和2年(1682年)から貞享3年(1686年)に記された山城国に関する初の総合的・体系的な地誌。「・・・・・之、銀箔ヲ以テ飾ル、故ニ世銀閣ト稱ス、・・・・」
◎「野史(大日本野史)」:水戸の『大日本史』のあとをうけ,後小松天皇から仁孝天皇にいたる 420年余の紀伝体の史書。嘉永4 (1851) 年完成。「・・・金銀ヲ以テ鏤刻ス、時人之ヲ北山金閣ト比シテ銀閣ト稱ス、・・・・・・」

 と云うことでトンデモハップンな歴史が定着してしまいました。現在では大河ドラマが産出すスーパーヒーローのようなものですか・・・・・。



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