goo blog サービス終了のお知らせ 

馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

「後家倒し」・・・・日本永代蔵・川端の九介

2012年02月10日 | 大衆演芸
江戸時代の農具を調べていたら「後家倒し」と呼ばれた「千歯扱き」がありました。
辞書で調べてみると「1 《後家の賃仕事である稲こきを取り上げる意から》千把扱(せんばこ)きの異称。2 《後家をたらしこむ意》色男。ごけなかせ。」とあります。
 2の《後家をたらしこむ意》色男は文字通りで分かるのですが、何故1の千歯扱きが出てくるのかが分かりません。

井原西鶴の「日本永代蔵」巻五に「大豆一粒の光り堂」という話があります。
粗筋は「大和の朝日の里に川端の九助という小百姓がいた。牛ももたず、馬小屋のような家に住み、年に 一石二斗の年貢をやっとおさめ、五〇余歳になるまですごしていた。毎年、節分の夜には疫鬼をはらうために戸口や窓に鰯の頭や柊をさし、心祝いの豆をまくのであった。ある年、九助は夜が明けてから豆を拾い集め、その一粒を野に埋めた。すると、夏には青々と葉がしげり、秋には実って一合ばかりの収穫があった。これを溝川のところにまき、毎年繰り返すうちにしだいに収穫がふえ、一〇年もたつと八八石にも達した。この代金で九助は大きい灯龍をつくらせ、初瀬の街道に立てて常夜灯とし、今も豆灯寵とよばれている。
 こういった心がけなので、九助はしだいに家も栄え、田畑を買い集めて大百姓となった。
四季そ れぞれの農作物に肥料をほどこし、田の草をとり、水をあたえて手入れするので、稲の実りもよく、 綿の栽培も順調であった。九助はいつも油断なく働き、そのうえ、万事に工夫をして便利な農具も発明した。鉄の爪をならべた荒おこし用の鍬、調製用の唐箕や千石どおし、さらに後家倒しの異名のついた千歯扱もつくった。また、女の綿仕事の能率化をはかつて唐弓という綿打ち道具をつくって成果をあげ、四、五年のうちに大和にかくれもない綿商人となり、財宝をどんどんたくわえた。 こうして三〇年あまりで一000貫目の身代となり、八八歳で世を去った。
 遺言状をみた親族たちはおどろいた。有金一七00貫目はすべて一子九之助にゆずり、親類たちには木綿の袷とか、襟巻・肩衣・帷子・蒲団・足袋などを一品ずつ分けあたえただけで、親類たち 金銭は少しもあたえなかった。あきれはてた親類たちはこの家をみかぎって去った。
 あまりのことに九之助はあきれはて、遺言にそむいて親類や召使いたちに銭を分けあたえた。人びとはよろこんでまた出入りをはじめたが、九之助はいつしか遊興にふけるようになった。酒と色とのこつで身体をこわした九之助は三四歳の若さで頓死する。
集まった人びとはとりあえず書置を開いてみてびっくりした。親ゆずりの一七00貫目の銀は使いはたし、残したのは九之助が借りた借金だけであった。勤倹・努力の九助と放蕩三昧の九之助、まさに両極端の人生哲学を体現した親子であった。」と言うものです。

 太字で表記したように「後家倒し」はこの川端の九助が考案した「千歯扱き」と分かりました。
随分と便利な画期的な脱穀器具であったようです。
「千歯扱き」そのものが脱穀機としては画期的な発明であったようですが、当初の千歯扱きは、横木に竹を打ったものでイネの籾には不向きで主に麦用として使用されていました。それを九助が鉄製の歯を取り付けた千歯扱きを考案してからは稲にも使用が可能となり、また作業効率は従来の3倍近く上がったとされています。そのため、脱穀作業の臨時雇いの必要がなくなり、女性の賃仕事であった脱穀作業が無くなったため「後家倒し」と呼ばれたそうです。
 





新春初笑い「落語・木津の勘助」

2012年01月05日 | 大衆演芸
年末年始のテレビ番組ほど面白くないものはありません。普段楽しみに見ている通常番組は全てお笑い芸人たちのバラェティー番組になってしまい、何の芸も無い若手芸人のバカ騒ぎばかりです。

 上方の落語家が出演しているバラェティー番組を何気なく見ていると久し振りに笑福亭鶴光が珍しく本業の古典落語を披露していました。演題は、これも珍しい「木津の勘助」と云うネタでした。長い話してテレビで、しかもバラェティーの1部では全編演じるのは難しく、噺の半ばで高座を降りていました。

 「木津の勘助」と云う噺はリンクした鶴光の高座をお楽しみください。

この木津の勘助は実在の人物であったようで地元では郷土の偉人として講談、浪曲などで語り継がれてきました。
その郷土とは、我が今宮高校がある大国町を中心とした一帯のことです。
そもそも現在「大国町」と言っている所は「勘助町」の事です。この近辺には「勘助新田」とか「勘助村」とか「勘助橋」などと呼ばれた所が沢山残っていましたが、現在は殆どその名残は消滅してしまいました。

  

ただ、我が母校の周辺には勘助の墓所や勘助を顕彰した銅像などがあります。

勘助の事跡をネットから引用すると概略は下記のようになります。
木津勘助:大阪の水利の発展に貢献し、徳川家光が来阪した際に地子銀の免除を直訴した。この直訴は聞き入れられ、大阪の町人たちは現在の中央区釣鐘町に大きな釣鐘を鋳造したと、講談『大阪堀河物語』に語られる。本名は中村勘助、1586(天正14)年、相模の国で生まれ。豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽くした。1639(寛永16)年、近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき大阪城の備蓄米の放出を願い出たが聞き入れられず、私財を投げうって村人に分け与えたが、それも限度がありついに「お蔵破り」を決行。その罪で葦島(現在の大正区)に流され1660(万治3)年没、享年75歳。
墓は唯専寺(浪速区敷津西2丁目13番)にある。また、敷津松之宮・大国主神社内(浪速区敷津西1丁目2番)に銅像が建つ。
木津勘助町=現・大阪市浪速区大国近辺。

 落語での勘助と淀屋との関わりは時代的に合わないようで、また淀屋十兵衛なる人物は歴代当主にその名前は無いようです。
また「お蔵破り」で島流しとなったと云い伝えられていますが、一説には流された島は、彼が開削した木津川の対岸の勘助島であったともいわれています。

 新年に落語で我が母校・今宮高校の所在地の郷土の偉人、剛毅で侠気の人・木津の勘助の噺を聞いて「新春初笑い」・・。

月は朧に東山・・・・

2010年10月19日 | 大衆演芸
 京都と云えばご当地ソングの最高峰「祇園小唄」です。
作詞は長田幹彦・作曲佐々紅華で藤本二三吉が歌ったそうです。

作詞の長田幹彦は、森鴎外の流れをくむ「スバル」系の作家だそうです。
昭和5年に彼の小説「絵日傘」をサイレントで「祇園小唄絵日傘」3部作として映画化した際の主題歌とし彼自身が作詞したそうです。
 小説の内容は大正末期の花街を舞台にした「情話」ものだそうで、主人公のモデルは同じくスバル系の歌人・吉井勇とされています。

吉井勇は
「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる」
と詠んだ「柳暗花明」の花街に耽溺した人物です。

 長田幹彦が文壇にデェビュー下当時は谷崎潤一郎と並称される気鋭だったそうですが、そのご通俗小説に転向してしまいます。多作の作家で長編300、短編600を越える小説を残しています。長田幹彦全集 全15巻別冊 非凡閣など彼の全集も数度刊行されているようですが、文学史に残る様なものは無さそうです。

 彼は、ビクター専属の作詞家となり、「祇園小唄」「島の娘」「天竜下れば」などを作詞しています。また、意外にもイプセンの「人形の家」を翻訳したり、アンデルセン童話も翻訳しています。

 戦後の彼の行状は常軌を逸した所があり、阿部定と組み「昭和一代女」という阿部定事件を演じる劇団を旗揚げしたこともあったようです。
その後「超心理現象研究会」を主宰していたようで完全に社会から遊離してしまいました。

 僕が「長田幹彦」を知ったのは今高に入学した1960年・安保の年です。この年戦後最大の不敬事件である“嶋中事件”を引き起こすことになる深沢七郎の『風流夢譚』が「中央公論」で発表され、大日本愛国党の同世代の少年が嶋中鵬二社長宅を襲撃し、夫人や家政婦を死傷させました。また、同じ大日本愛国党の同世代の少年山口二矢が浅沼稲次郎を刺殺した騒然とした時です。
 そんな社会情勢もあり「長田幹彦」の「小説天皇 」(光文社)を読んだ記憶あります。
大正天皇を描いた、それこそ「不敬罪」に当たる内容だったように思います。

 毎年、京都・丸山公園の「祇園小唄」歌碑の前で「祇園小唄祭」が行われているそうです。

20日(水)1960年今高に入学した同級生と京都・東山に行きます。
時間があれば「丸山公園」の「祇園小唄」の歌碑でも見て、今高1年生の当時を思い出してみようかなァ。

「タイラバヤシかヒラリンか・・・・」落語のネタ本「醒睡笑」

2010年06月24日 | 大衆演芸
 ビデオテープや音楽・落語のカセットテープの保管に困っています。古い写真はボチボチPCに取り込んでいますがビデオテープやカセットテープも何とかしなければ抽斗を7段も占拠しており嵩高くて片付きません。IT技術の進歩が速いので旧世代の素材の処理がこれからも大変だと思います。今、PCに取り込んでDVDに転写しても、次世代のブルーレィーや3Dが普及しだすとまた同じ事で悩まされる事になるのでしょう。

 「落語」のテープを整理してリストと合わせて見ると何本かのテープが無くなっていました。ケースは有るのですがテープ本体が無くなっています。その内の何本かはケースの入れ間違いや他のジャンル(浪曲・講談)に紛れ込んでいたりしていました。
しかし、何処を探しても出て来ないテープも何本かあります。
その内で「先代桂文我」の「平林」が無くなっています。「平林」はあまり高座に掛けられる事のない「噺」なのでチョット惜しい事をしました。

 落語「平林」
字の読めない丁稚が主人から「平林(ひらばやし)」さんに手紙を届けるように言われたます。
途中でどこへ届けるのかわからなくなり、道行く人に宛名を読んでもらうというお噺。
 始めの人は「たいらばやし」と教え、二番目の人は「ひらりん」と教え、三番目は字を分解して「一・八・十のもくもく」、四番目は「ひとつとやっつでとっきっき」と教えられます。最後に丁稚は「たいらばやしかひらりんか、いちはちじゅうのもうくもく、ひとつとやっつでとっきっき」と大声で言って捜し歩くと云うものです。
 東京の林家三平などは、「ぺえりん」って読むんだよ。この手紙は中国へ届けるんですか。とアレンジして演出していました。

 現在の「オチ」は、「たいらばやしかひらりんか・・・」と叫びながら歩く丁稚の様子を見た人が「気が違ったか?」「いえ、字間違いでございます」デンデン。
所が、古いテープでの「オチ」は「気違いか?」「字違いです」となっています。「キチガイ」が「差別語」で現在は使えないのだそうです。「気違い」「字違い」だからこそ「オチ」になると思うのですが・・。
 初代や2代目桂春団次などの「らくだ」では「モロ」に「差別」を表現しています。



 落語「平林」は「醒睡笑」という「江戸時代初期」の本に収められた「落し噺」です。
「醒睡笑」にはこのほかにも「子ほめ」「牛ほめ」「唐茄子屋政談」「たらちね」「無筆の犬」「寄合酒」「ん回し」・・など現在も演じ続けられている「落語」の多くの「ネタ」が収められています。
作者は、京の僧侶「安楽庵策伝」八巻1,039話の話を収録されています。落語以外にも「小辺路・大辺路」の名前の歴史や瀬田の唐橋に関する格言「急がば回れ」の由来の貴重な資料としても珍重されている「本」だそうです。

 最後に、安楽庵 策伝の本名は「平林 平太夫」と云うそうです。

十三の姉ちゃん:モスリン橋のはなし。

2010年06月06日 | 大衆演芸
藤田まことの歌で「十三の姉ちゃん」と云うのがあります。正式には「十三の夜」と云い、作詞作曲ともに藤田まことです。(※ 十三=じゅうそう)

梅田はなれて 中津を過ぎりゃ 思い出捨てた 十三よ
女ひとりで生きていく ネエちゃん ネエちゃん
十三のネエちゃん 涙をおふきよ 化粧くずれが気にかかる

庄内はなれて 三国を過ぎりゃ ネオン渦巻く 十三よ
やけにさみしい夜もある ネエちゃん ネエちゃん
十三のネエちゃんくじけちゃいけない 星に願いをかけるのさ

園田はなれて 神崎過ぎりゃ 恋の花咲く 十三よ
やがていつかは結ばれる ネエちゃん ネエちゃん
十三のネエちゃん モスリン橋を きょうは二人で渡ろうよ

3番の歌詞にある「モスリン橋」は「尼崎市戸ノ内」から神崎川を跨いで「大阪市西淀川区加島」に架かっている橋です。正式には「毛斯倫大橋」だそうです。
毛斯倫、ネル(フランネル)、莫大小(メリヤス)、スフ(ステープル‐ファイバー)などは僕の頭では「辞書か図鑑」の世界の言葉で、「モスリン」などは訳も分からず懐かしい響きのある言葉です。
この「モスリン橋」の名前の由来が気になり調べて見ました。

 大正12年(1923)毛斯倫紡織(株)が「川辺郡園田村戸の内」に新工場を建設しました。この時従業員の通勤や生活道路として対岸の加島に通じる「橋」を建設して、それを「村」に寄付したそうです。毛斯倫紡織(株)が独自で架けた「私設橋」でそれに因んでこの橋を「毛斯倫大橋」と名付けたそうです。




 当時の毛斯倫紡織(株)は「日本毛織」に次ぐ売り上げ第2位の会社だったようですが、昭和の大不況などから合併、倒産、再建の後「鐘紡」に買収され、戦時産業として「航空機部品」などを製造していましたが空襲で焼失してしまったそうです。
戦後、工場跡地は住宅、ゴルフ場、神崎新地となり現在に至っています。


 冒頭の写真は現在の毛斯倫大橋で「3代目」だそうです。初代は「木橋」で303.4mあったそうです。2代目は、昭和7年に大阪市に移管され、戦後の昭和37年に掛け替えられたそうですが「耐荷力」が小さく、数年で現在の3代目に掛け替えられたそうです。

 尼崎市史などの地域史を研究している女性の学芸員が長年にわたりこの「毛斯倫大橋」を調べています。古老などからの聞き取り調査などをしています。その中で「初代の毛斯倫橋」は「鉄製」だった、という証言を得たそうです。そこでこの学芸員さんは「悩んで」いろいろ調べたが、記録からは初代は「木造」で「図面」が残っているそうです。
 結論から言いますと昭和12年に大掛かりな改修工事をした際、欄干を鉄製のパイプ、橋脚も鉄の杭で補強しているようで、古老の記憶が混同したらしいのです。
一番いいのは当時の写真があれば明確に分かるのですが、モスリン橋の一番古い写真は昭和25年のものしかないそうです。

ローカルな、更にエリアの限られた「1ご町内」のおはなしです。

「一条さゆり」の死顔・・。

2010年04月27日 | 大衆演芸
 「一条さゆり」に何故こだわるか、それは極めて簡単な事で僕が「助平」だからです。
昭和42年、三重県近鉄四日市駅裏のストリップ劇場「別世界」で「一条さゆり情念のローソクショー」を観てからすっかり「さゆリスト」になり、ストリップ劇場「追いかけ」をしていました。
昭和45年の夏だったと記憶しています。岐阜柳ケ瀬の裏通り「真砂座」(現在もあるようです)で警察が踏み込み、一瞬場内の照明が落ちて真っ暗になり、ドサドサと慌しい人間の移動があり「動くな!」「照明を点けろ!」と「怒声」が飛び交いました。
薄暗い舞台照明ではなく、館内の灯が全部点きました。その時の恥ずかしさには「参った、参った」の一言に尽きます。舞台には数人の私服の警官が「踊り子・一条さゆり」に「浴衣」を羽織らせ連行していきました。舞台裏から数人の「踊り子」や劇場関係者など何人かの男たちも連行していきました。
 さっきまでライトを浴びて「一条さゆり」が踊っていた舞台の円形のエプロンに立った刑事が、客に向かって「動くな!」「事情を聞かせてもらう」と「青菜に塩」状態の客に申し渡しました。10人近い刑事が客席に散らばって客一人に尋問を始めました。
 
 初めての経験で知ったことですが、警官が最初に聞く事は「今何時だ!」「何時!」と腕時計を示しながら「時間」を確認することです。
4~50人前後の客の殆どは、善良で小心な真面目でチョット助平なサラリーマン風の「おっさん」で、僕同様雨に濡れた「子猫」の様に小さくなり下を向いて、小声でしかも最上級の敬語で尋問に答えました。

 幸い、姓名、年齢、住所、連絡先程度を聞かれて、「調書」などは取られる事無く無罪放免されました。が、劇場の出口は「野次馬」で人垣ができており、その中を「花道」よろしく出て行った時の「恥ずかしさ」は親には見せたくない場面です。

 一条さゆりは、大阪野田の「吉野ミュージック」での引退興行途中「公然猥褻」で逮捕されたのを含めて「10回」身柄を拘束されているとのことです。
その第1回目が岐阜「セントラル劇場」だったそうです。一条の年譜を調べても「真砂座」の「連行」の事は出てきません。僕の記憶違いか、決定的な証拠が掴めず「事情聴取」程度で釈放されたのかもしれません。



 一条さゆりが引退後、新左翼の大学教授たちが「権力に反抗するシンボル」として彼女を担いだりして世間の注目を集めました。が、恐らく彼女自身はそのような小難しい事には一切関心は無かったと思います。また、東京から小沢昭一が、迎えに来て中央でのメジャーデビューを奨めましたが、結果、女の情念と云うか「女を食物」にする「情夫」への未練から「釜が」に居着くことになります。

 「一条さゆり」に関する著作・ドキュメントは数多く刊行されています。しかし、その内容は「華やかな踊り子」にスポットを当てるのではなく、引退以後の「凄惨」なまでの「釜ヶ崎人生」に関心が集まっています。

 マザー・テレサが来日した時、東京での歓迎会を「体調が悪い」と欠席し、内緒で大阪の釜が崎を訪れた事があります。釜が崎を視て「日本は本当に豊かなのか?」と言ったそうです。テレサと一条が接触したかどうかは分かりませんが「人のために生きなさい」と云うテレサの言葉を「私は好きよ」と言っていたそうです。
 一条は、情夫に油をかけられ「大やけど」を負います。その為、長時間の仕事ができなくて、2~3時間の「皿洗い」で「数百円」の報酬を得ていたようです。それも顔見知りの「労務者」たちの飲食費として「おごって」やったそうです。

 一条さゆりは平成9年8月3日肝硬変で60歳で亡くなるります。奇しくも翌日4日、マザーテレサが天国に召されました。

写真は「晩年」の一条さゆり。流石に「死顔」の写真は遠慮します。

花街の母「けりつけて・・」

2010年01月13日 | 大衆演芸
うっとうしい事ですが「けり」を付けなければならない事があります。
何れは処理しなければならない事ですから仕方がありません。
「けり」をつける、と思うと自然と金田たつえの「花街の母」が浮かんできました。。
この歌がヒットするまでの苦労話は結構有名ですがリンクしますので興味のある方は覗いて見て下さい。

他人に聞かれりゃ お前のことを 年の離れた妹と つくり笑顔で応える私
こんな苦労にけりつけて たとえ一間の部屋でよい 母と娘の暮らしが欲しい~

僕の知り合いの女性がこの「けりつけて」をどうも「蹴りつけて」と思っているのです。
この人は、誰もが知っているであろう大会社のオーナーの娘で、ヨーロッパを行き来し、イギリスかベルギーかは知りませんが、陶芸の絵付けのデザイナーとしてロイヤル何某賞を受賞する才媛です。
この人と「大屋政子」のイメージがダブって、正直言ってあまりお付き合いはしたくないタイプの女性です。
 たまたま「花街の母」が話題になった時、当然ながら彼女は低俗極まりない演歌などと云うものはご存じないのですが、黙っていればいいものを中心で無いとおさまらない性格なのか、知らないのに「解釈」を披露されたのです。
その解釈では「苦労を蹴飛ばして」強く生きてゆく女の唄なのだそうです。

 この「花街の母」を作詞した「もず昌平」から聞いた話です。(何かの会合のゲストで来ていたと記憶しています)

 大阪ミナミの小さなスタンドバーに入ったところ、2人の女性が接客したそうです。
2人は「姉妹」とのことでしたが、打ち解けるうちに「親子」であると打ち明けられた、とのことです。
この話を「ヒント」に「花街の母」を作詞したそうです。
そのスタンドバーは、宗右衛門町より1本北に行った雑居ビルの2Fにありました。
僕も2~3度行った事があります。
所がしばらくして、「花街の母」のモデルの店が4~5軒出てきました。
写真は、本家「花街の母」のモデルがあった近辺の最近の写真です。
なお「花街の母」を歌っている金田たつえは「十勝平野」と云う歌を歌った縁で「帯広観光大使」に任じられています。

「けり」は和歌・俳句で助動詞「けり」で終わる事が多いので「結末・決着」の意味として使われるそうです。

 和歌の真ん中に「けり」がある名句があります。
昭和天皇御製
身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民を思ひて