【ユダヤ教】
その後ユダヤ人はどうなったか。彼らを連れ去った新バビロニアを滅ぼす国が出てくるんです。これがあとで出てくるアケメネス朝ペルシアです。ユダヤ人はこの国が大好きです。なぜか。新バビロニアを滅ぼした上、そこで奴隷にさせられていた彼らユダヤ人を奴隷身分から解放してくれたからです。
そして前538年に「故郷へ帰って良いぞ」と帰国まで許してくれた。それで彼らユダヤ人はイスラエルに帰った。「バンザイ」です。ペルシアさまさまです。
そういう苦しい奴隷生活をしていた50年間で、じわじわと形を整えてくるのが、彼らユダヤ人の強い一神教信仰です。これをユダヤ教といいます。ユダヤ人というのはこのユダヤ教を信じている人です。
※ バビロン捕囚で連れ去られた人々とその子孫のうち、ほんの一部分しかエルサレムにもどらなかった。残りの人々、すなわち彼らの大半は、東方で花開き、まさには沸き立ちつつあったユダヤ文化の中心地に定着し、そこで繁栄する道を選んだ。(ユダヤ人の起源 シュロモー・サンド ちくま学芸文庫 P292)
バビロン捕囚から帰国した後、彼らはエルサレムに神殿を再興し、今までの教えをまとめて本格的なユダヤ教が成立します。その聖典が「旧約聖書」です。その中には彼らが新バビロニアのバビロンで見た「バベルの塔」や「空中庭園」の話が形を変えてこの中に織り込まれています。
※ ジグラトとは天に通じる階段で、頂上の神殿は神々に近づける場所であるとする考え方が最も広く受け入れられている。・・・・・・
バビロン市のジグラトが「旧約聖書」「創世記」第11章が伝える「バベルの塔」である。具体的なモデルは新バビロニア時代(前625~539年)にバビロン市に建立されていた「エテメンアンキ」であったと考えられている。・・・・・・考古学的にその存在が裏付けられているジグラトとは20ぐらいだが、実際にはもっと建てられていた。(シュメル 小林登志子 中公新書 P261)
(●筆者注) バベルはバビロンを英語読みしたもの。バビルも同じ。
【一神教】 この世界に一つしかないはずのユダヤ教の神様の名前がヤハウェです。変な読み方です。YHWH、こういう書き方です。ヘブライ文字には母音がないから、これ本当は何と読むかわからない。ヤハウェだろうといわれます。ヤハウェでも、ヤーヴェでも、またはエホバでもいいけれども、これは強い一神教です。
「神様、仏様、観音様、幸せにしてください」などと拝んだらダメです。3つも神様を拝んだらかえって罰が当たる。「神様は1つの神様だけにしろ、観音様なら観音様だけにしろ」というのが一神教です。
このヤハウェというのは戦争神です。イクサの神様です。だからちょっと怖い。戦争神なんてものがあるのか不思議な気がしますが、日本でも戦争神はあるんです。武門の神様というのは八幡神です。八幡様という神社は全国あちこちにあるでしょう。あれは武門の神様です。戦いの神様つまり戦争神です。
「戦争に勝ちますように。俺たちを守ってください」、それが戦争神です。「戦え、オレが守ってやるから」「でも死んだらどうするの」「心配するな、ちゃんと天国に行かせてやるから」「そんなら戦おうかな」という感じですね。これが戦争神です。
※ 不安なり恐怖なりが強いほど、自我が強くなるのではなくて、強い自我を必要とするようになるのです。そして、自我を強くするには強い神が必要となるのです。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P62)
※ 誤魔化せないところまで不安や危機感が高まってくると、より強力な防衛戦略が投入され、妄想性や強迫性の傾向を強く持った社会が生み出される。(自己愛型社会 岡田尊司 平凡社新書 P216)
※ 自我は何らかの支えを必要とするわけで、神は自我の支えとして実に頼もしいというか、好都合なものだと言えると思います。・・・・・・死の恐怖というのは堪え難い恐怖ですから、人間はその恐怖を鎮めるために、実は自我というのは切り離されてはいないんだ、孤立してはいないんだ、神につながっているんだ、という信仰を必要としているのです。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P60)
※ 自我には支えがあって初めて成り立つんで、支えが必要です。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P70)
※ われわれの子供たち、成人の中の神経症者たち、そしてまた未開民族において、われわれは、「思考の全能」への信仰ともいうべき心理現象を見いだすのだが、これば、われわれの心的行為、ここでは知的行為と言うべきものが、外的世界を変えることができるとする、思考の持つ影響力の過大評価にほかならない。 これだけでなく、われわれの技術の先駆とも言うべきすべての魔術も根本においてはこの前提の上に成り立っている。さらに言葉の持つあらゆる魔力に関する信仰も、ある名前を知りそれを口にすることに結びついている信仰も、この前提の上に成り立っている。 (モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P190)
※ 母子は生後は明らかに物理的にも心理的にも別の存在である。しかしそれにもかかわらず、(日本人の)甘えの心理は母子一体感を育成することに働く。この意味で甘えの心理は人間存在に本来つきものの、分離の事実を規定し、分離の痛みを止揚しようとすることである、と定義することができるのである。したがって甘えの心理が優勢である場合は逆に、その蔭に分離についての葛藤と不安が隠されていると推理することも可能となるであろう。 さらに成人した後も、新たに人間関係が結ばれる際には、少なくともその端緒において必ず甘えが発動しているといえる。その意味で、甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割を果たしていることになる。(甘えの構造 土井健郎 弘文堂 P82)
(●筆者注) 「甘え」を廃除した究極のところに一神教がある。一神教は「甘え」文化のなかにある日本人の対極にある。
この旧約聖書を読んでいくと、といってもこれはなかなか読めない分厚さです。一冊400ページで20巻ぐらいある。ちょっと読み始めたことがあるけど、最初の3ページで眠たくなってしまいました。とにかく長い。これが旧約聖書です。のちに出てくる新約聖書は一冊ですが。
旧約聖書を読んでいくと、度重なる戦争の記述です。いろんな街を破壊していく。その誇らしげな記録です。「戦って戦ってパレスチナを自分たちのものにしていった」、その記録です。
彼らユダヤ人が生きた時代は、民族同士の危機的な戦争があります。戦争に負ければ、奴隷身分に落とされる。社会の前提に奴隷制があります。一神教が生まれる背景には、人間を奴隷にすることを当然とするような恐い社会があります。
※ 苦難の歴史を体験するたびに、イスラエルの人々の間には、「唯一の神ヤハウェ」への絶対的な信仰と、いまや「異教の神」としてレッテルを貼られることになった多神教宇宙の神々に対する拒絶を主張する預言者たちが、つぎつぎに登場しては、モーセがはじめたこの「一神教革命」を、どんどん極端なところにまで引っ張っていこうとしました。・・・・・・「高神」という存在の中から、ヤハウェなる神(ゴッド)が出現したわけですが、このヤハウェを「唯一神」とすることによって、その全体性を突き崩すそうとする人々が、ここに出現しようとしていたのです。それはいずれ、世界の姿を変えてしまう力を持つにいたるでしょう。(カイエソバージュ4 神の発明 中沢新一 講談社選書メチエ P168)
【救世主】 彼らも生きるのに必死です。そういう苦しい生活の中で、彼らは何を求めるか。彼らを救ってくれるスーパースターの登場です。これが救世主です。ヘブライ語でいうとメシアです。ではギリシア人はこれを何と言ったか。キリストと言ったんです。のちのイエスさんがそれです。
「救世主などいるものか」と思っても、これは今でも形を変えて現れます。20世紀のアメリカ映画が生んだ最高の救世主がいる。スーパーマンです。スーパーマンは地球を滅ぼす悪と戦って救ってくれるでしょう。これは救世主の発想です。今でも人気がありますね。これは一神教の発想です。「スーパーマンが出てきて悪と戦い、苦しんでいる自分を救ってくれる」と思うと力が出るでしょ。あの感覚です。
日本にはこういう発想はない。でも戦後になってアメリカの影響で、日本でもウルトラマンとかが出てきた。ウルトラマンが、日本を征服するような悪と戦って、悪を追い払ってくれる。あれはスーパーマンの発想です。
戦後アメリカに占領されて、日本もちょっと似てきました。しかしもともとあるのはアメリカのスーパーマンです。キリスト教世界は今でも救世主が大好きです。アメリカもキリスト教国です。
【選民思想】 ただ、ユダヤ教の救世主は全世界を救うんじゃない。ここが今のスーパーマンと違います。ユダヤ教のスーパーマン思想の裏側には選民思想があります。
救世主が現れた結果、全世界が救われるんだったらまだしも、ユダヤ人だけが救われて、あとの民族は死んでしまうんです。「エエッ、それでいいのか」という話ですけどね。これは、それまで彼らが受けた苦難と、神から受けている搾取への「怨み」の裏返しです。いじめられた人間は、いじめ返すようになります。自分と同じ苦痛を人に与えることを、何とも思わなくなります。そのことに慣れてくるわけです。
ユダヤ人は、昔から人にお金を貸して利息を取ります。ヨーロッパでは、金貸しは非常に卑しい仕事とされてきました。利息は不労所得だからです。他人を働かせて、その利益を自分の懐に入れることだからです。だからユダヤ教も利息を禁止しています。しかしそれが他の宗教と違うのは、禁止してるのはこのユダヤ人の仲間から取る利息だけです。逆に「ユダヤ人以外にはどんどんお金を貸して利息を取りなさい」と勧めている。こういうふうにユダヤ人同士は金の貸し借りをしても、利息を取ったりはしない。でも他のヨーロッパ人からは利息を取ることが許されています。
「ほかの民族はどうなろうとユダヤ民族だけは救われる。救世主が現れてユダヤ人だけを救ってくれる」、これが選民思想です。この根底には、自分が受けた不幸を他人に味わわせて愉快になるという「怨み」の心理が隠されています。日本人が宗教に求めるものとはまったく違ったものが隠されているわけです。だから日本人が一神教を理解することは難しいのです。想像を絶することだからです。この一神教は、日本人の考え方を根底から破壊するものを含んでいます。
「怨み」のことを「ルサンチマン」といいます。しかしヨーロッパ人がこのことを知るようになるのは、19世紀後半にドイツの哲学者ニーチェがこのことに気づいてからです。
※ 一神教の特徴というのは、被差別集団のメンタリティーでしょう。被害者意識が非常に強い。被差別集団の特徴は非常に団結心が強いことです。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P197)
※ ユダヤ人とはなんであったのか。一つのパーリア民族(賤民)であった。(古代ユダヤ教 上 マックス・ヴェーバー 岩波文庫 P19)
※【インディアンのゴーストダンス】
※ (アメリカ・インディアンの)ゴーストダンスは、1870年ごろに始まって、燎原の石のように広がり、カリフォルニアの北半分をおおい、ポモ族も1872年にこの影響を受けた。ゴーストダンスの教義は、白人優位の世がやがて終わることを予言し、死後はインディアンだけが救われるというものであった。19世紀後半に西武のインディアンが受けた非人道的な扱いを考えると、このような教義の新興宗教が起こったのも、またこの宗教が急速にひろがったのも、よく分かるような気がする。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P141)
旧約聖書にはそういう物語があります。洪水が来てノアという人だけ救われた話です。「ノアの方舟」です。聞いたことあるでしょう。大雨に襲われ大洪水が起きたとき、船をつくった善良なノアだけが救われて、ノアを信じた鶏さんとか馬さんが救われて、あとの人間はみんな死んでしまった。「めでたし、めでたし」というお話です。
何がめでたいのですか。脚色されて、なんとなくいい話になっているけど、根底に流れている思想は恐ろしい。ノアだけが救われ、あとの人はみんな死んでしまいます。「自分だけ救われていったい何になるんだ」と古代インド人は考えた。でも聖書によれば、我々はこのノアの子孫です。でもそれはもともとユダヤ人だけの考え方です。
このノアの洪水伝説は、シュメール時代からの伝承をもとに前二千年紀前半の古バビロニア時代に成立した「ギルガメッシュ叙事詩」を、ユダヤ人たちが作り変えたものです。
CGM聖書アニメ『洪水の裁き -ノアの箱舟』〜神様の愛とキリストの箱舟〜(キリスト教福音宣教会)
なぜ、こんな選民思想が生まれるのか。それはユダヤ人だけが神と契約(?)しているからです。契約していない民には、神は彼らを救う義務が発生しない。だからそんな民族は滅んで当然なのです。
※ (ユダヤ教の学者である)ラビたちは「選民」という考え方を、より大きな責任を負うことだと解釈した。選民という考え方から驕りや名誉の目的を切り捨てることによって、神がすべての人類を支配するという矛盾するものではないと、ラビたちは見ていた。選民思想がともすると排他主義に陥りがちだということは否定できない。だが、ラビたちの全体的な見方では、それはイスラエルに人類の歴史に果たす重要な役割があるという信念の表れと映っている。(タルムードの世界 モリス・アドラー ミルトス P170 著者モリス・アドラーは20世紀アメリカのユダヤ教ラビ)
(●筆者注) このことは下のことを裏付けている。
※ この宗教は(ユダヤ教)は、ユダヤの民が自分たちは他のすべての民族よりも優れていると信じ込むまでに彼らの自負の念を高揚させた。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P205)
※ 一神教というのは、自分は絶対に正しいという考え方です。・・・・・・抽象的な絶対神を求めるのは、ひとつの逃げ込み先というか、自我にひとつの欺瞞的な安心感を与える幻想なのです。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P93)
※ 一神教の悪いところは自分のものとは違った信仰、考え方、見方をすべて認めないというところです。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P144)
しかしユダヤ民族が神によって救われたことはありません。
※ ユダヤ人は神に選ばれた民として苦難のなかに生きつづけたが、そのことは彼らがまだ神の許しにあずかっていないという証であった。(多神教と一神教 本村凌二 岩波新書 P189)
※ 一神教としてのユダヤ教はユダヤ人社会に統一と安定をもたらさなかった。エルサレムは一神教どうしの対立抗争の場となった。諸派がそれぞれに異なった種類の一神教を唱え、社会は分裂状態になった。(世界の歴史4 オリエント世界の発展 小川英雄・山本由美子 中央公論社 P252)
それでも、ユダヤ人は、「それは自分たちの信仰が足らなかったからだ」として、この神を正当化し続けます。このことによって、この神は、民を救う義務を免除されます。義務を免除され、権利だけ要求する神、こんな絶対的な神が誕生します。出すぎた杭は打たれない。とことん無責任な人間は手を付けられないものですが、それと同じように、この神には手の付けようがありません。それほど大きな力を持つようになります。
※ (神経症の)症状が出るということはどういうことなのかと言うと、トラウマが堪え難い苦痛なので、それを正当化するため、いろいろ事実を歪め、その結果、一応は筋が通っている自分の物語の中に、トラウマの記録が異物のように入り込んできて、ちぐはぐな物語ができてしまうということです。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P136)
※ 一神教が人類の癌だという意味は、一神教の唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄をもたらしているということです。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P98)
※ 西洋思想に対して東洋思想を主張しようとする場合、思想とは何かという認識論的問題から吟味してかかることが必要である。(人生論ノート 三木清 新潮文庫 P10)
(●筆者注) 何のための思想か。神のためか、人間のためか。原因の追求か、心の安定か、という問題だろう。東洋医学は、鍼にしろお灸にしろ原因追及を行わないが、結果として病気が治る。それで十分であるとする。しかし西洋医学では、それは医学的に証明されていないとして扱わない。知恵のある医者は、自分の責任で西洋医学と西洋医学を併用して病気を治している。
こういう思想が、何十巻と延々と書いてあるのが旧約聖書です。これがユダヤ教の教典です。ほとんど戦いと苦難の歴史の連続です。
【裁く神】 前に言ったように、旧約聖書の中の十戒の第一条に「オレ以外の神を拝むな」と書いてある。ほかの神を拝んだらいけない。これがあとにキリスト教につながっていくんですが、その発生地点はヨーロッパではありません。ローマでもない。緑豊かな地域からではなく、オリエントという砂漠地帯から発生したんです。
一神教は裁く神です。戦いの神です。しかも特権的な一部の人間しか救ってくれない神です。恵み豊かな神ではなく、恐ろしい砂漠の神です。
【偶像崇拝の禁止】 それだけ神というのは恐ろしいものです。そんな神が怒ると、人間の比じゃない。だから神様を人間の形で彫るなんてとんでもないことです。もし「似てない」と神が怒ったらどうしますか。ここがギリシア人とちがいます。ギリシア人は神様の姿を、なんでも人間の姿に彫った。
キリスト教は、マリア様の像とか、キリストさんの像を今は拝んでいるけれども、あれはキリスト教の原型ではないです。「神の像を彫るなんてとんでもない。神の像を彫ってはならない」、これがもともとの一神教の教えです。神の像を拝むことは偶像崇拝といって、このあとも非常に嫌われる行為です。「神の像を刻むな」とモーセの十戒にも書いてあります。これが偶像崇拝の禁止です。
日本人はふつうに仏さんの像を拝むから「なんでだろう」と不思議に思うかも知れません。それほど日本人の感覚と一神教の間には深い溝があります。
確かに仏教も最初は仏様の像はありませんでした。でも仏教は像を「彫れ」とも、「彫るな」とも書いてありません。つまりどっちでもよいわけです。わざわざ禁止する必要がないのです。むしろ仏像は無いよりもあったほうが、より信仰の対象がはっきりして好まれてきました。従来の宗教は、それでよかったのです。
でも不思議なことに、キリスト教は「偶像はダメだ」と書いてあるのに平気で神の像を拝んでいます。そこにキリスト教の矛盾や難しさがあります。聖書に書いてあることと違うことをして、それを正しいとするのは、正しいことではありません。これはのちのち問題になります。
これで終わります。ではまた。
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