【メソポタミア】 また数千年戻ります。どこに戻るか。メソポタミアです。
メソポタミア文明が栄える地域は、三日月地帯と言われます。ここが非常に豊かな地域です。麦が取れるからです。
でもまっさおとした緑の草原ではない。日本人から見ると「砂漠じゃないの」と思うくらいのところです。この周辺は砂漠です。日本のような緑の多いところから見ると、ここは砂漠のように見えるけど、本物の砂漠から見ると、少しではあれ草がポコポコ生えているぐらいのこの三角地帯は天国のように見える。
砂漠から見たらここは豊かな土地なんです。日本人から見ると寒々とした荒野のように映るけど、砂漠の民からするとここは「蜜がしたたる土地」です。
ここを流れる川が二つ、チグリス川とユーフラテス川です。「川があるところ水がある。水があるところ農耕が生まれ、文明が発生する」という循環です。この二つの川に挟まれた地域が豊かです。この地域をメソポタミアという。「川に挟まれた地域」という意味です。
※(●筆者注) メソポタミアは、南部のバビロニアと北部のアッシリアに別れる。さらにバビロニアは、南部のシュメールと北部のアッカドに別れる。最初に文明が発生したのは、最南部のシュメール地域である。
※ イェリコの文化のすべての側面は、宗教的解説に値するであろう。土器の製法は知られていなかったとはいえ、それはおそらく世界最古の都市(前6850年、6770年頃)であろう。しかし、城塞、巨大な塔、公共の大建造物ーーこれらのもののうちのすくなくともひとつは、祭儀用に構築されたと思われるーーは、後代のメソポタミア都市国家の前ぶれとなる社会的統合と、経済的組織化をあらわすものであった。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P78)
※ メソポタミア南部のバビロニア地方に最初に人々が定住したのは前5000年頃であった。ウバイド文化期(前5000年~3500年頃)のはじまりである。(シュメル 小林登志子 中公新書 P15)
【シュメール人】 一気にまた今から7000年前に戻ります。紀元前5000年ころです。
この地域で初の文明が起こります。それをつくった民族はシュメール人。発音しか分かりません。どんな民族なのかわかりません。シュメールというのは地域名でもあります。メソポタミアの海に近い南部を指します。そこに住んだのがシュメール人です。
※ シュメール人は民族系統不詳だが、シュメル語は日本語と同じ膠着語(こうちゃくご)に分類されている。(シュメル 小林登志子 中公新書 P18)
※ 欧米の学者が「シュメール王名表」とよびならわしているテキスト群がある。各都市につたわる伝承もとにして、ウル第三王朝時代(前21世紀)に成立したらしい。テキストには、各時期に南部メソポタミアでもっとも力をもった諸王朝、諸王の年数が羅列されている。
ひとつの時期にひとつの都市が南部メソポタミアを支配していたという前提があって、じっさいには並びたっていた複数の王朝も、あたかも継起したかのように叙述されているのである。・・・・・・これらを「シュメール王朝表」とよんだ。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P165)
※(●筆者注) 時代区分は次の通り。
ウバイド文化期 ・・・前5000~前3500
ウルク文化期 ・・・前3500~前3100
ジェムデト・ナスル期・・・前3100~前2900
初期王朝時代 ・・・前2900~前2335
第Ⅰ期 ・・・前2900~前2750
第Ⅱ期 ・・・前2750~前2600
第ⅢA期・・・前2600~前2500
第ⅢB期・・・前2500~前2335
アッカド王朝時代 ・・・前2334~前2154
ウル第三王朝時代 ・・・前2112~前2004
イシン第一王朝時代 ・・・前2017~前1794
バビロン第一王朝時代・・・前1894~前1595
カッシート王朝時代 ・・・前1500~前1155
新アッシリア帝国時代・・・前1000~前609
新バビロニア時代 ・・・前625 ~前539
(●筆者注) ウバイド、ウルクはともにメソポタミア南部(シュメール)の地名。
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【ジッグラト】 国の始まりは中国とほとんど同じです。小さな都市の形をとる。これを都市国家という。あとで言うギリシアもそうです。都市の周りを城壁で囲みます。そのはじまりは巨大な神殿の出現です。
この神殿がジッグラトという高い塔です。神様はなぜか高いところが好きです。日本の神様だって鯉のぼりののぼり竿は、もともとは神様が降りてくる竿です。この神様はそういう高いところから降りてくる神です。
ジッグラトとは聖塔と日本語では訳します。その塔のてっぺんに神の住まいを作る。神様が住むところが神殿です。だから塔の上には神殿があります。イラクには古代都市国家ウルのジックラトが復元されています。
※ ウバイド期(前5000~前3500)のもっとも重要な新しさは、まさに巨大な神殿の出現にある。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P82)
※ 都市には神殿が集中的に建設される区域がある。ここに段塔すなわちジグラトをもつ主神殿が建てられ、それは市壁の外からもよくみえたであろう。この建造物がバベルの塔として旧約聖書に伝えられた。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P231)
※【ウルク文化期】
※ ウルク文化期(前3500~3100年頃)に、都市文明成立の時期を迎える。ことにウルク文化期後期になると、支配階級や専門職人や商人が現れ、巨大な神殿が造られ、文字が発明され、新しい美術様式などの都市文明が開花した。(シュメル 小林登志子 中公新書 P17)
※ シュメールの都市国家は都市神(都市を守護する最高神)を祀る神殿を中心に形成された。神殿は都市の中心に位置して、ほとんど場所が変わることはなかった。
シュメルの都市国家のなかで最も古いエリドゥ市(現代名アブ・シャハライン)では、都市神エンキ神の神殿がウバイド文化期(前5000~前3500)からウル第三王朝期(前2112~前2004)まで、同一の場所で連続して建てかえられ、時代を追うごとに拡大されたことが発掘によってわかっている。
ウルク市(現代名ワルカ)でも神殿は都市の中心部にあり、ウルク文化期後期にはコーン・モザイク(頭部を彩色した粘土製あるいは石製で円錐形の釘を使ったモザイク)で美しく装飾された巨大な神殿が建てられていた。・・・・・・
都市の中心には神殿があり、その外側に人々の居住地区があった。ウル市から前2000年紀前半の居住地区が発掘されたが、雑然として、都市計画があったとはとうてい考えられない。住宅は中庭に面して部屋を配置する現在の西アジアで採用されている住居と同様である。(シュメル 小林登志子 中公新書 P18)
※ 前四千年紀末ウルクが大都市に成長した時代に、聖域地区には巨大な神殿群が建設されていた。いっぽうで、確実に王宮と呼べる建物はまだ発見されていない。したがって、現在さかんに行われている説は、シュメールでは神殿組織を中心として都市が成立し、そしてはるか後代になって、はじめて世俗的な王権が神殿を圧倒したというのである。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P237)
(●筆者注) 前四千年紀とは、前4000~前3001年のこと。以下同じ。
※【古代マヤ】
※ (古代マヤでは)神殿ピラミッドや広場では、さまざまな国家儀礼が執行され、多くの群衆によって参加・共有された。つまり、古典期マヤ国家には、劇場国家的な側面が存在したのである。先祖崇拝、即位、後継者の任命、神殿の落成や更新、暦の周期の終了記念日などの儀礼において、王や貴族の劇場的パフォーマンスを通して伝達、強化される宗教は、国家を統合するうえで需要であった。広場を埋めつくした群衆は、高い神殿ピラミッドを昇り降りする、盛装した王の晴れ姿を目撃したであろう。・・・・・・王は、宗教儀礼や儀礼的踊りにおいて雨の神をはじめとする神の仮面、衣装、装飾品を着用して、しばしば神の役割を演じた。コパンの「石碑H」には、若いトウモロコシも神の衣装を身につけた13代目王が表象されている。・・・・・・放血儀礼は、みずからの血を神々や祖先に捧げる自己犠牲であり、黒曜石製石刃、ジャガーの骨、サメの歯やアカエイの尾骨などで、男性はみずからの男根や耳を切りつけ、女性は舌などから出血した。神聖王の血は、神々の恩恵や支持を得るために特別な機会に神殿内で捧げられたのである。・・・・・・球技場は、国家儀礼や政治活動と密接に関連した重要な施設であり、少人数の二チームが球技を競った。・・・・・・球技者は貴族であり、王が球技に参加することもあった。・・・・・・重要な祭礼では、負けチームまたはそのキャプテン、あるいは戦争捕虜が人身供犠にされる場合もあった。(古代マヤ 石器の都市文明 青山和夫 京都大学学術出版会 P101)
※【原始民主政】
※ イコブセンという人は、メソポタミア文明の初期の時代に、「原始民主政」というものがあったという説をとなえました。それによるとシュメールの都市国家形成期には、民会と長老会とがあり、ふだんの政治は長老会の決定によっておこなわれましたが、国家全体の運命を左右するような決定の場合には、民会が招集されて議論がなされたといいます。民会は軍事上の義務を遂行する人々の集まりだということでありますから。ギリシアの市民、中国の国人の集会に相当します。のちに君主の権力が強くなると、オリエントでは民主政がなくなってしまいます。専制国家といっても、最初から君主の権力が大きかったと考えるのはおかしなことです。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P65)
※ 君子権力が強化されるのは、こういう民衆の集落を権力の下に組織したときです。そういう一つの画期として、春秋時代の中頃、民衆が農村から都市の内部に移ったときがあげられます。こういう現象はギリシアでは集住(シノイキスモス)といい、ギリシアでも中国でも兵制改革が原因で、民衆が軍隊の中核になり、歩兵として集団で戦うようになったのがきっかけです(それまでは支配層が戦車を馬にひかせて戦っていたのです)。これから民衆が政治上重要になり、ギリシアでは民主政が進むのですが、中国では都市を支配していた君主が民衆の軍隊を掌握し、君主権力が強化されて乱世を勝ち抜くようになります。これが東洋と西洋とのわかれめだともいえます。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P66)
※ 民衆の無権利の上に立つ専制政治などというものは存在しないのです。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P75)
【血のつながらない神】
政治は政りごと(まつりごと)です。昔は神を祭ることだったんです。
そしてその神様が神殿とその周りの地域を守ってくれる。そう信じた人たちが都市に住み、周りを城壁で囲む。こうやってやっとひと安心するのです。「神が守ってくれる上に、オレたちは城壁までつくった。これで敵が攻めてきても安全だ」と。
「神に守ってもらうこと」が国家の一番最初にあるわけです。守ってもらおうと、神に祈りを捧げるわけです。その代表者が王なのです。だからその祈りが通じないと、王は責任をとらされて殺されることもあったわけです。そのような王がいつから絶対的な力をもつようになったのかははっきりしません。
ここでは絶え間ない敵が想定されていたのです。そういう敵の中にいる人間だからこそ、集まって住まないと不安で不安で仕方がない。敵がいるから城壁をつくります。平和なところでは壁をつくりません。このとき人間の敵になっているのは獣ではなく人間です。人間が人間の敵になっています。壁ができるのは、人間と人間が争うところ、神と神が争うところです。つまり戦争があるところです。
今から1万年前に、人間は南アメリカ大陸の南端に到達し、他に行くところがなくなりました。「そんな敵がいるところにオレは住まない」と言っても、他に行きようがなく、周りのどこかに敵がいるわけですから、1人で暮らしてもますます自分が不利になるだけです。1人の人間はすぐに敵に襲われてしまいます。孤立したら人間は終わりです。だから多くの人間が集まって住むしかない。そして神様に守ってくれるように、すがるしかなくなる。
それまでは「神様は人間を守るためにある」、つまり「神様は人間のためにある」と考えられていました。そんなの当たり前だと思うかも知れませんが、しかしここから「人間は神様のためにある」と逆転していきます。先のことをいえば、それが一神教の発生につながるのです。なぜそんなことが起こるのでしょうか。
※ 原初の人間は、いわばエンキの生気やラグマ双神の血のような神の原資をわけもっていた。これは、神の存在様式と人間の状態のあいだに越えがたい距離がなかったということを意味する。人間が、食事と衣服の世話を何よりも必要とする神々に仕えるために創られたということはたしかである。祭祀は神への奉仕と考えられた。しかし、人間は神の召使いであるとしても、神の奴隷ではない。供犠とは、本来、供物を捧げ、表敬することなのである。・・・・・・
神々は宇宙の秩序に対して責任があるので、人間はその命令に従わねばならない。なぜなら、それらの命令は世界と人間社会の双方の機能を保証する規範、「天命」にもとづいているからである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P98)
(●筆者注) それまで「神々とは人間の意志に従うよう威嚇され強要される存在であった。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P61)」ものが、「人間が、食事と衣服の世話を何よりも必要とする神々に仕えるために創られた」と逆転していきます。「神は人間のためにある」から「人間は神のためにある」と。こうやって神の力が絶大になっていきます。そのことは絶大な神のもとでの王権の強化につながります。
※(●筆者注) われわれの日常が「命の保存」に向かっているとすれば、それを突き破るものとして、非日常の世界には、シャーマンには「死の衝動」があり、戦士には「破壊の衝動」があります。この二つのナマの衝動が「日常」に持ち込まれると、秩序だった日常のエネルギーは破壊され、異常で強力なエネルギーが発生します。そして日常のなかに、抑えきれない宗教的感情の横溢が起こります。さらにその宗教的な高揚は、戦士の心と共鳴します。このスイッチを手にしたものが「王」です。国家を守るためであった「神の力」が、戦闘的で破壊的な力をもつようになります。
このことは現代でも戦争時に起こることと同じです。それはまず悲惨な破壊をもたらします。
この神殿に祭られたのは祖先神ではありません。そこが中国と違うところです。中国のような祖先神はどこに行ってしまったのか、それはよく分かりません。シュメール人は、中国人の宗族のような血縁組織を残しません。この社会は氏族社会の血縁の枠を越えて、それらが連合した部族社会の域にまで達していたようです。その形成過程で、中国の宗族のような血縁組織は発展をやめてしまったのでしょう。
その代わりに、中国の「天」に相当するような、血のつながらない神が出現します。
※ まず、三大主神があって、ついで三天体神がある。・・・・・・いくつかの宗教伝承は、その最初の意味が失われる過程にあったことがわかる。アン、エンリル、エンキの三大神の場合にも、その過程が認められる。第1神は、その名(アン=空)が示すように天空神である。アンはこの上ない至上神であり、万神中もっとも重要な神のはずであったが、すでに暇な神の兆候を呈している。アンより活動的で現実的なのは、大気神エンリルと、「大地の主」、「礎」の神エンキである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P95)
※ シュメールの三天体神とはナンナースエン(月)、ウトゥ(太陽)、金星と愛の女神イナンナである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P104)
約1万年前に農耕がはじまり新石器時代に入りましたが、そこではひろく祖先崇拝が見られました。人間が血縁関係に基づいてある種の社会集団を形成することはよくみられることです。氏族社会というのはそうした社会でした。
しかしその祖先崇拝の信仰は、中国以外の地域では、国家を統合する以前に、他の信仰によって取って代わられたようです。もちろん祖先崇拝自体が消滅したわけではありませんが、国家的理念にまでは高まらなかったようです。
※ アイルランドからマルタ島、エーゲ海諸島まで、巨石記念物を作った人々にとって、先祖との儀礼的交わりがその宗教活動の要を成すのに対して、古代近東や中央ヨーロッパの原歴史的文化においては、死者と生者の分離がきびしく定められていた。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P175)
※ 無理をしなければ、血がつながった神を信じるようになるのが当たり前です。・・・・・・赤の他人、血のつながりのないよそ者を神に持ってくるとか、いま住んでいるところとは別の世界に本当の世界があると信じるとかは、現実がよほど堪え難く、現状によほど不満な連中じゃないと思いつかないんじゃないでしょうか。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P80)
続く。
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