前回は、ユダヤ教のことを言ってました。ユダヤ人のことを言ってました。ヘブライ人ともいいます。この時代はヘブライ人といいますが、今ではユダヤ人といいます。
ここで起こっていることは、この当時は小さなことですが、しかし2000年後には大きなことになったりするんです。
歴史というのは、その小さな出来事を起こした民族が、ものすごく現代で影響力を持つ民族になったりすると、もともと小さかったものが、ものすごく大きな事件として取り上げられたりする。
そのユダヤ教がのちにキリスト教に変化し、今や世界ナンバーワンの信者数を持つ宗教になる。ただキリスト教は、ヨーロッパの宗教というイメージがありますが、今舞台になってるのはヨーロッパではありません。今の地域でいうと、中東とかアラビアとか、歴史上はオリエント地方といいます。
ここで生まれた宗教がのちにヨーロッパに伝わっていきます。それは仏教がインドで発生して、他の地域に伝わっていったのと似たようなものです。でもその伝わり方がかなり違います。
これは砂漠地帯で起こっていることです。ユダヤ教は砂漠の宗教です。砂漠で農耕はできません。ということは、この宗教は農耕民の宗教ではないということです。では砂漠には誰が住んでいたか。農耕民でないとしたら、遊牧民です。遊牧民の宗教にはもともと「天」に近づく傾向があります。中国北方の遊牧民もそうでした。「天」に近づく宗教は、最高神になろうとします。いろいろな神が平等に併存する多神教の世界とは違うのです。
「一神教は砂漠の宗教である」とはよく言われますが、砂漠の生きるのは遊牧民ですから、これは遊牧民の宗教だと言ったほうが分かりやすいのではないかと思います。しかもここは、平野をさえぎるものがなく、四方八方からいろいろな遊牧民が押し寄せてきます。そのような遊牧民が抗争を繰り返すなかで、勝利をえた民族の神が最高神にまで高められていく傾向があります。最高神はまだ他の神々の存在を前提としていますが、これが次にめざすのはエジプトのアメンホテプ4世がめざしたような唯一神です。つまり「この世の神は、オレたちの神ただ一つだ」という発想です。これが一神教です。
そのようなユダヤ教がなぜ取り上げられるかというと、ユダヤ人自身は紀元後2世紀に国を滅ぼされます。あとで言いますが、ローマに滅ぼされてユダヤ人はバラバラになるんです。そして世界中あちこち散らばる。そういう民族は消滅するのが普通ですが、2000年経っても消滅しないのがユダヤ人なんです。彼らは宗教を捨てず、その宗教によって民族としての自覚を維持し続けます。
ユダヤ人は、今では社会的に力を持っていて、世界の金融界ではものすごい力を持っている人たちです。
おまけに世界三大宗教の一つであるキリスト教の母体になっている。そういうことで非常に注目されます。世界のヘソ、それがユダヤ人です。国が滅ぼされても民族としての自覚を失わない人たちです。
例えば、日本が滅んだとしてその2000年後に「オレたちは日本人だ」と言って、世界中でネットワークを使って、世界中に散らばっている日本人同士がまとまっているようなものです。アメリカとアフリカで、日本人同士が2000年後に「オレたち日本人だよね」と言うでしょうか。2000年前に国が滅んでいるのに。
そういう世界です。ちょっと日本人にはわかりにくい。でもこれはよく出てきます。でもその前に、日本人は国が滅ぶということが、どういうことなのかが分からない。国があるのは当たり前だと思っている人が多いですね。世界史を見るとそうではないのですけど。
【アッシリア】 今まで、古バビロニアの滅亡後、ヒッタイト、ミタンニ、カッシート、エジプトの四国が分立していましたが、このオリエントを初めて統一するのがアッシリアです。これが紀元前7世紀です。紀元前7世紀、アッシュルバニパル王はニネヴェに大図書館を建設しました。
それ以前、より小さい地域の南部メソポタミア(バビロニア)を初めて統一したのは、紀元前24世紀のアッカド王国でした。アッシリアはバビロニアの北方、メソポタミアの北部一帯をさす地名です。
アッシリアが統一したオリエントとは、メソポタミアを含めたそれよりも大きな地域です。帝国の範囲がグンと大きくなりました。この国がオリエント地方、今の西アジア一帯を初めて統一した。
※ (アッシリアの都)アッシュル市はシュメル人の植民地から始まったという。(シュメル 小林登志子 中公新書 P29)
※◆ (アッシリアの)一貫性は神アッシュルを頂点とする国家宗教に見られる。神アッシュルは常にパンテオンの最高位にあり続け、バビロニアその他の神々が入ってきても神アッシュルの下に位置づけられた。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P257)
※ 厳密にいえば、神アッシュルは、都市アッシュルではなく、土地アッシュルの神格化であった。後に大帝国へと拡大するアッシリアは、神アッシュルの拡大でもあることになる。神アッシュルは元来系譜をもっていなかった。すなわち、メソポタミアの他の古い神々のように配偶女神や子供たちとされる神々がいなかった。これもアッシュルが聖化された場所そのものであったためであろう。・・・・・・シュメール人の時代から、都市はその主神(守護神)の所有物とされていた。ある都市の没落は、その守護神が守護を放棄して都市を離れることによって引き起こされると信じられていた。またバビロニアでも、首都バビロンの主神マルドゥクの像は、バビロンを陥落させた勝利者たちによって何度も略奪された。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P259)
※ アッシリア帝国の君主は、国家的信仰において最高の座を占めるアッシュル神の代理人として国土、人民のうえに君臨した。・・・・・・アッシュル神の代理人である王は少なくとも理論的には、全国土と全人民の所有者であり、また最高の神官、裁判官、軍司令官でもあった。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P337)
※ ウル第三王朝が滅亡したことによって、その支配からアッシリアが解放されて独立したと考えられるが、その最初期の王の1人がツィルル(アッシリア王名表ではスリリと記され、第27代王とされる)であった。・・・・・・その(ツィルルの)銘文で重要なことは、土地アッシュルが王であり、そこで政治を行う者は、土地アッシュルに任命された副王もしくは代官という考えである。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P261)
※ (アッシリアの王)センナケリブ(前704~681年)は宗教の分野でも華々しい改革を行った。それはバビロニアに対する政治的、軍事的優位を勝ち取ったアッシリアが、宗教的にもバビロニアより優位にあることを示すための改革であった。それにはアッシリアの守護神アッシュルがバビロニアの主神マルドゥクにまさることが具現されなければならなかった。センナケリブは前689年、古い宗教都市バビロンを破壊し、(バビロンの)マルドゥク像をアッシリアへ持ち帰った。(世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント 大貫良夫他 中央公論社 P344)
※ 野獣の追跡と殺害は、領土の征服と建国の神話的モデルとなる。アッシリア人、イラン人、トルコ・モンゴル人のあいだでは、狩猟と戦闘の技術はたいへんよく似ていて、ほとんど見わけがたいほどである。ユーラシア世界のいたるところで、アッシリア人出現から近代のはじめまで、狩猟は領主や軍人貴族のこの上ない教育であり、またお気に入りのスポーツであった。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P67)
ついでに何をしたか。ユダヤ人の片方の国である北のイスラエル王国は、この国に滅ぼされました。
しかし、このアッシリア自体はすぐに滅びます。それが紀元前612年です。滅んだ後、また四つに分裂します。
【4国分立】
1つめはエジプト。
2つめはリディア、これはアナトリア地方にできた国です。アナトリアというのは、今のトルコです。出ベソのようなところ。
3つめは新バビロニア、これはバグダード付近、バビロンがあったところです。カルディアとも言います。
4つめはメディアという。イラン高原です。イランは高原地帯です。面積としては一番大きい。
▼アッシリアと四王国
この4つに分裂する。ここはアッシリア統一以前の前13世紀頃のヒッタイト、ミタンニ、カッシート、エジプトの四国対立とよく間違うところです。
四国対立 → アッシリア → 四国分立、となります。
すでにやった中国史と比べてどうですか。ムチャクチャ複雑ですね。こんな世界で生きていくのはたいへんだと思います。国のできかたの複雑さが中国史の比ではない。そのできた国の民族が全部違う。
島国と大陸では国のできかたが違いますが、その大陸の中でも、大陸の端っことまん中ではまた違います。中国は東の端、オリエントはまん中です。民族が衝突する頻度が違います。しかもここはアフリカの国、エジプトも絡んできます。いろんな民族が衝突し、しかも平和に暮らすことがいかに大変なことか。黙っているだけで平和にはなりません。
そのことを分からない日本人はよく平和ボケと言われます。「どうして戦争するのだろう、何もしなければ平和になるのに」、こういう発想が平和ボケです。「何もしなければ平和になる」というのは日本人の発想です。逆に「何もしなければ戦争になる」というのがヨーロッパ人の発想です。
【新バビロニア】 この4つの中でよく出てくるのが新バビロニア(カルディア)(前625~前539)で、この国は今のイラクです。
※ この国(新バビロニア)は、シリアの砂漠から文明の下メソポタミアへ流れ出てきたセム族の移動の第3波をなすアラム人が、すでにこの地方に定住していた同じセム系のアムル人の中に加わり、両者の混合、混血した住民の建てた国である。とくにそのアラム人の一部族のカルド族から王朝を出したので。カルデア王国ともいうが、ハンムラビ王以来の歴史を負うバビロンの古都を復興してここに都を定めているので、新バビロニア王国ともよばれる。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P399)
この国が、前後しますが、紀元前586年、イスラエル王国の滅亡後も生き残っていたヘブライ人のユダ王国を滅ぼし、彼らを奴隷としてバビロンに連れて行くバビロン捕囚を行います。これを行った悪い王としてヘブライ人の歴史に刻まれたのが、新バビロニアの王ネブカドネザル2世です。
新バビロニア王国時代の首都バビロンには巨大なジッグラトがあり、バビロンに連れて行かれてそれを見たヘブライ人によって「バベルの塔」として旧約聖書に書かれています。旧約聖書にはバビロンの「空中庭園」の話もあります。
※(●筆者注) バビロンが英語流に発音されると「バベル」という。バビルも同じ。
※ この(バベルの塔の)説話は捕囚時代のユダヤ人が、バビロンの都へ移されて、その都にそびえる巨大なジックラトを日ごとに仰いでいるうちに生まれたものであろう。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P403)
※【新バビロニアの金融業】
※ ネブカドネザル王の死(前562)とともに、44年にわたったその統治がおわわりを告げると、最後のかがやきを見せたバビロニアの栄光は急激に衰えていく。・・・・・・鋳貨が流通するようになり、貨幣経済が発達した結果、当然のことながら商業資本の蓄積がうながされた。すなわち、エギビ一族またはムラシュ一族のような高利貸しまたは大銀行家あらわれて、王、高官、地主、手工業者などあらゆる方面に金を貸しつけて、バビロニア社会の実質上の支配者となったのである。そしてそのいっぽうでは、中産自由民の没落、奴隷の数の増加という不健全な事態が進行していく。エギビ一族の財産の一部分割のとき、この一族の一商人が100人の奴隷を得たという記録があるが、奴隷の数はすでに数人単位ではなく、数十人の単位で数えられるまでまでに増大していたのである。このような事態を背景に、没落した中産階級は、旧勢力である神殿の祭祀階級がわに荷担し、ここに銀行対神殿、または商人対祭司の争いがくりひろげられた。この争いに巻き込まれて、ネブカドネザルにつづく三代の王は、いずれも短い治世ののちに暗殺されている。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P404)
(●筆者注) 捕囚によりここに連れてこられたユダヤ人たちは、上のような高利貸しの活動をつぶさに見ていた。彼らがのちに高利貸しの活動に入っていくのには、このような社会的経験がある。
彼らヘブライ人がバビロンから解放されたのは、前538年、アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世によってです。だからヘブライ人は、新バビロニアのネブカドネザル2世は大嫌いですが、彼らを解放したアケメネス朝ペルシャのキュロス2世は大好きです。
【貨幣の発生】 もう一つ注目されるのが、この4つの中でリディアが初めてお金を作ったことです。これは絶大なる影響力を後世に及ぼします。今、お金は世界中にあって、お金がない国はない。これを初めてつくったのがリディアです。
混乱する世界で、どこの誰とも知れない人と人と間で、互いの信用がなくても物の交換を可能とするものとして貨幣は登場します。
それ以前は物々交換だといわれますが、物々交換こそ信用が必要だったのです。ふつう、物と物とを即座に交換することは不可能で、昨日もらった物を数日後に返すとか、あとで見合う物をお返しするとか、そういう方法でしか物々交換は成り立たないのです。われわれが想像するような物々交換の即時性は、現実にはありえないものです。一つの物と一つの物の交換が成立するためには、未来の時間が必要です。未来の取り引きを可能にするためには、人と人との信用が必要です。
しかし貨幣だと、お金と物の交換が即座にできるようになります。相手が誰であろうと、「現金はその場限り」です。そこで取り引きは完結します。信用はまったく関係ありません。この、信用が不要になり相手が誰であろうと誰とでも取り引きできるという匿名の交換スタイルが、従来の人と人との信用による交換スタイルをまったく別のものに変えていきます。
リディアは、歴史的にはあまり注目されない国ですが、本当はものすごく影響は大きい。これが最初の鋳造貨幣です。紀元前7世紀です。
※ 砂金の産出に恵まれていたリディアは、東西交易の要衝にあったことから、商業・手工業が栄え、世界ではじめて貨幣を製造した。エレクトロン貨(金銀の合金)が有名。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P27)
※ (リディアの王)ギュゲス(在位 前685~657)は、世界で初めて貨幣を鋳造したとされる。それは始めのうちはエレクトラム(金と銀の合金)製であったが、次には金貨が発行された。・・・・・・王家の富はギリシア世界で有名になり、王たちもまた、デルフォイのアポロ神殿のような名所や聖地に多額の奉納を行うことによって、ギリシア人との友好を保った。・・・・・・(リディアの首都サルディスには)ギリシア人が多数住みつき、生活習慣、墓制、美術などの分野にギリシア文化が根強く浸透した。(世界の歴史4 オリエント世界の発展 小川英雄・山本由美子 中央公論社 P68)
※ 古代世界で最初に金属貨幣を使用し、ととのった通貨制度を実施したのは、西アジアの文化圏、つまりローマ人がオリエンス(東の地方)と呼んだオリエント世界である。それは同時に、世界最古の文化を発展させ、少なくとも12世紀ごろまでは、東西両世界のうちでもっとも文化の進んだ先進地域であった。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P185)
※ (西アジア地域での金や銀)の金属が商取り引きにつかわれるばあいには、そのたびに重量をはかって価値を確かめた。しかし、それでは不便なので、一定の重さと大きさに切られた地金がつかわれるようになった。そして地金の重量と金位を保証するため、刻印がおされているものもある。これはすでに貨幣にきわめて近いものであるが、ただ政府が公式の法令によって一定の形式を定め、その価値を保証していないため、まだ厳密な意味での貨幣ではなかった。金、銀による史上最初の貨幣制度を定めたのは、アッシリア帝国が崩壊したのち、小アジアの西部に国をたてた富裕な商業王国リュディアであった。その王クレスス(在位、前560~前548)のとき定められた貨幣制度は、のちアカイメネス朝ペルシアが、その通貨の基礎をうちたてたとき、影響をあたえたものである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P186)
※ ヘロドトスの歴史はリディア人について「リディアの若い女性はみな売春し、それによって結婚の持参金を手に入れる。彼らはこの金を自分の身柄とともに、自分で適当と思うように後で処分するのだ。リディア人の風俗や習慣は、若い女性のこのような売春を除けば、ギリシャ人のそれと本質的に変わらない。彼らは、金、銀を貨幣に鋳造し、小売りに使用したと歴史に記録されている最初の人々である」と記している。・・・・・・そうしたなかでメルムナス朝の第2代王アルデュスは、王朝の紋章のライオンの頭などが刻印された均質のコインを発行した。エレクトラム鋳貨である。・・・・・・これが世界初のコインとされる。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P16)
(●筆者注) この話を聞くと、今の日本で女子高校生がお金を求めて「援助交際」をしている姿が目に浮かびます。それを思うと、あながちウソではないような気もします。
※ リュディア人というのは、いまはその言語の解明が進んだ結果、ヒッタイト王国滅亡ののちも、小アジア西部の沿岸地方に残存していたヒッタイト系の一民族であったことがあきらかになってきている。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P408)
このリディアのすぐ西にギリシャのアテネがあります。アテネが勃興するのはこの貨幣鋳造の直後です。ギリシャが貨幣経済になります。
東のリディアを真似てお金を取り入れた瞬間に、この小さなアテネの都市国家が急に繁栄してくる。お金の威力は絶大です。
※ リディアはやがてキュロス王が率いるペルシャ軍に滅ぼされたが、コインは逆にペルシャを征服した。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P18)
爆弾が落ちたとか、暴動が起こったとかは、目に見える事件として非常にわかりやすいんですが、お金の影響というのは、人も死なないし、物も壊れないから何が起こったのか非常にわかりにくい。でもこれが一番ボディブローとして効くんです。「オレ100万拾った」とはいわない。「100万なくした」とも言わないでしょう。周りの人間は知らないけど自分にとってものすごく大事なこと、痛いこと、目の前が明るくなったり、真っ暗になったりするくらい。
例えば、朝3千円のお小遣いをお母ちゃんからもらって、その日に3千円なくしてしまったら、目の前真っ暗になりませんか。母ちゃんからもらった3千円が昼に財布から無くなっていたら、目の前真っ暗になって勉強どころではなくなる。泣きたくなる。それくらいの影響がこれにはある。それがお金です。
これがギリシャに波及する。ギリシャはすぐ隣にある。そういう位置関係です。
続く。
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