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新「授業でいえない世界史」 9話の8 ヘブライ王国、バビロン捕囚

2020-04-29 07:06:37 | 新世界史4 古代オリエント

【ヘブライ王国】 ユダヤ教は「ちゃんと神を信じれば救われる」という教えです。エジプトを脱出したあと、彼らは紀元前1020年にやっと念願の国を作ることができた。これをヘブライ王国といいます。ユダヤ人初の国家です。この首都がエルサレムです。前10世紀には、ダヴィデとその子ソロモンという王のもとで栄えたとされています。

※【部族】

※ 後にイスラエルを構成することになる諸集団(便宜上「原イスラエル」と呼ぶ)は、先住民であるカナン人や周辺民族としばしば戦いを交えなければならなかった。先住・周辺民族との戦いと簡単に言うが、いったい誰が、どのようにして戦ったのか。原イスラエルの諸集団は、この段階では明らかにまだ、戦いに専念する職業軍人も常備軍も持たず、成年男子たちがその都度主体的に編成する召集軍が主たる戦力であった。このような戦いが繰り返されるうちに、隣接し合う集団同士がより大きな集団単位としての「部族」を形成し、さらにそのような部族同士が集まってさらに大きな枠組みとしての部族連合を形成していったものと思われる。なお、いわゆる「部族」が歴史的には二次的に形成された単位であり、血縁原理というよりも地縁的原理に基づくものであったことは、後の所属名のいくつかが明らかに地名から取られていることに示されている。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P57)

※ 前12世紀後半には、すでに12部族からなる「イスラエル」という部族連合=民族の母体が成立していたことになろう。・・・・・・諸部族を一つの部族連合へと統合する能動的・積極的要素をなしたものは、共通の神の崇拝という集団間の宗教的紐帯であったと考えられる。・・・・・・神ヤハウェは、人々を抑圧から解放する救いの神、敵の戦車を打ち負かす戦いの神であり、この神への信仰は、困難な状況下にある諸集団を戦闘的な共同体に統合し、その戦力を高める上で強力なイデオロギーとしての役割を発揮したものと思われる。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P61)

※【エルという神】
※ ただし、「イスラエル」というこの部族連合の名称は、それが当初よりヤハウェという神の崇拝を中心に形成されたものではなかったことを示唆している。イスラエルとは「エル戦い給う」ないし「エル支配し給う」を意味するが、「エル」とはセム語共通の神をあらわす普通名詞であるとともに(アラビア語の「アッラー」も同じ語源に由来する)、他方ではウガリット(シリア北部)出土の文書に見られるように、フェニキア=カナン神話における最高神の固有名でもあった。
 イスラエルという名称におけるエルがいずれの意味であるにせよ、このことは、まずヤハウェ宗教が到来する以前に、すでにエルを中心として「イスラエル」という部族連合の形成が始まっており、その後、より強力な神ヤハウェがもたらされ、このエルとの同一視によって「イスラエルの神」とされたことを推測させる。
(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P62)

※ イスラエルは民族成立後も約200年から300年の間、王制を採用しなかった。このことは単なる偶然ではなく・・・・・・ヤハウェが「奴隷の家から解放する」神であり、ヤハウェ宗教が、人間が人間を支配することを認めない、本質的に反王権的性格を持つ宗教だったからであろう。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P67)

※【存亡の危機】
※ 前12世紀の末期になると・・・・・・山岳地帯を出て平野部に進出しようとする動きも顕著になってくる。このことは当然ながら、平野部に点在するカナン人都市国家との衝突をもたらした。・・・・・・この時代のイスラエルには、戦いに専念する戦士階級や常備軍はまだ存在しなかったが、このような事態に対処するためには、一定数の戦力を動員し、訓練を施し、指揮統率する指導者の存在が要求される。これらのことは・・・・・・社会構造の組織化、内部的多様化、階層化、および強い力をもって社会を統制する権威の出現、すなわち集権化を要請したであろう。それゆえ、より強大な権力を持ち、より制度化された支配構造を持つ「王権」の出現を要請する内的圧力は相当高まっていたと考えられる。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P70)

※ イスラエル人は、ペリシテ人の圧倒的な軍事力の前に繰り返し打ち破られ、丘陵地帯のエベン・エゼルで決定的な敗北を喫した。・・・・・・イスラエル民族は、これによって文字通り存亡の危機に瀕することになった。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P71)

※ このような組織的な軍事力を持つ侵略者と互角に戦うためには、イスラエル自身もまた、職業軍人による強力な軍隊を持たねばならない。しかしそのためには、イスラエルが、諸部族の平等で自発的な結合を基盤とするゆるやかな部族連合から、中央集権的な統治体制と強力な軍隊を持つ王制国家へと変身しなければならない。・・・・・・こうしてイスラエルの中から、王を求める声が上がってきた。・・・・・・イスラエルにおける王制が、主としてそのような軍事的必要性から要求されたことが反映している。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P72)

※【王制反対】
※ サムエル記上8章によれば、を求める民の要求は、当時の民族指導者であり、最後の士師でもあったサムエルの目には「悪と映った」のであり、イスラエルの本来の支配者たるヤハウェを退けることに他ならなかった。・・・・・・宗教的指導者であったサムエルが初代の王サウルと衝突し、神の名においてその廃位を宣言したという伝承が残されている。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P73)
(●筆者注) 一神教は、この時点で国家を想定していない。王はヤハウェのライバルであり、ヤハウェの存在を脅かすものであるととらえられた。この一神教は、聖権と俗権を同時に支配するものでなければならなかった。つまり聖俗一致である。これはのちのイスラーム教によって成功するが、このユダヤ教では失敗する。ユダヤ社会の王はヤハウェの教えに従わない行動を取るようになる。多神教社会と同じように、この段階では、王は戦争のための一時的な将軍に近いものであった。神と王権、聖俗一致、将軍と王権、これらの考え方の整理が課題である。一神教は本来、聖俗一致をめざし、俗権である王権を認めない。だからこの栄花に満ちたヘブライ王国は存在しなかったとする意見もある。しかし、この一神教と王権の矛盾はキリスト教社会に受け継がれる。キリスト教はもっとも聖俗分離の進んだ一神教になる。そこにキリスト教社会の精神的な亀裂が発生するのである。

※ 王制が何の摩擦もなくすんなりとイスラエルに定着したようには思えない。おそらく王制導入をめぐって、現実的・合理的な歴史認識からそれを推進しようとする人々と、ヤハウェ宗教的理念からそれに反対する人々との間にかなりの対立と葛藤があったと考えられる。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P74)

※【サウル王】
※ 結局のところ主導権を握ったのは、王制の導入に積極的な人々であった。イスラエルの初代の王に選ばれたのは、ベニヤミン族のサウルであった。サウルとその息子ヨナタンは、ギブアを拠点に有能な軍人は集めて常備軍を編成し、主としてゲリラ戦によりペリシテ人の守備隊を撃ち、彼らを一時的にせよ海岸平野に追い返すことに成功した。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P75)

※ 王制は、その本質からして聖俗を含めたあらゆる権力の専制的掌握を要求する。しかしヤハウェ宗教の立場からするならば、それは唯一の支配者たるべき神への反抗なのである。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P76)

※ ユダ部族出身ダビデがすサウルの戦士の中にいたという事実は・・・・・・ユダもまたイスラエルの王国に属していたことを表現していると考えることができよう。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P77)

※ ペリシテ人はやがて体勢を立て直して反撃に転じた。彼らはイスラエルの戦力を南北に分断する形でイズレエル平原に進出し、イスラエルはギルボア山地での戦いで完膚なきまでに撃ち破られ、サウルおよびヨナタンを始めとするその息子たちのほとんどは、壮絶な戦死をとげた。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P77)

※【ダビデ王】
※ 他方でユダ部族は、サウルの死後ヘブロンに戻っていたダビデをユダ固有の王に選んだ。このようにして、支配者としてのダビデの経歴の第一歩は、まずユダ部族単独の王として踏み出されたのである。・・・・・・このことはユダ部族以外の部族から見れば明らかに分派行動であり・・・・・・内戦が起こるのは必至である。しかしこの権力闘争では、ダビデの側が明らかに優勢であった。・・・・・・後ろ盾を失ったエシュバアル(先王サウルの息子)も間もなく暗殺者の刃にかかって死ぬ
 王と実質的な指導者を失った「イスラエル」の諸部族はヘブロンに使者を派遣し、ダビデをエシュバアルを継ぐ「イスラエルの王」とした。ダビデには、サウルの娘ミカルとの結婚を通じてサウル王朝の継承者としての公的資格がなくもなかったのである。
 これによってダビデユダ王国とイスラエル王国という二つの国家の王を兼務することになった。・・・・・・両者はあくまで共通の王を戴く固有の国家として並存を続けたのであり、同君連合国として外見上の統一を保ったにすぎないのである。このような二元性が顕在化するのが、ソロモンの死後のいわゆる王国分裂である。
(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P79)

※【国家守護神としてのヤハウェ】
※ その後彼(ダビデ)は、それまでカナン系のエブス人の手に残されていたエルサレムを征服し、これを新しい王都として定めた。・・・・・・(ダビデは)、シナイ契約の際の律法を刻んだ石板を収めたとされ、ヤハウェの現臨の象徴とも見なされていた「契約の箱」を、国民注視の中で大々的にエルサレムに搬入することにより、この新しい王都に形式上ヤハウェ宗教の伝統を注入し、そこをヤハウェ崇拝の中心地としたのである。・・・・・・
 さらに、宮廷預言者ナタンがダビデに対して語ったとされる、ダビデの子孫による永遠の支配を約束する「ナタン預言」に示されるような、宗教によるダビデ王朝の支配の正統化・絶対化も、すでにダビデかソロモン王の時代には始まったものと思われる。・・・・・・かつて「奴隷を解放する神」、人間による人間の支配を認めない神であったヤハウェは、少なくともエルサレムにおいては、皮肉にもダビデ王朝の「万世一系」の支配を正統化する王朝の守護神に変身していくのである。
(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P83)



聖都エルサレム ――祈りと平和の都



※ (1970年代に)エルサレムでおこわれた発掘調査は、過去の栄光にみちた表象をだいなしにするものだった。・・・・・・周囲のどの発掘調査現場からも、ダビデとソロモンの時代とされる紀元前10世紀に、強力な王国が存在した名残を見つけることはできなかった。記念碑的な建造物のいかなる証拠も、城壁も、壮麗な宮殿も見つからなかったし、土器も驚くほど少ししか出土せず、出土したものもひどく貧弱な様式だった。・・・・・・炭素14を用いる年代測定技術の発達により、次のような悲痛な結論が証明された。北部地域の巨大建造物はソロモンによって建てられたものでなく、イスラエル王国時代のものであった、と。実際のところ、聖書がバビロンやペルシアの強大な王にもほとんど比肩するとの言葉を使ってその豊かさを語っていた。この伝説的な王の存在を証明する、いかなる遺跡も発見されていないのだ。ここから次のような厄介な結論がどうしても出てきてしまう。紀元前10世紀のユダに政治的実体が存在したとしても、それは部族的なミクロ国家でしかありえなかった。また、エルサレムも小さな砦のような町以上のものではなかった。この地方の一角に、ダビデ家と呼ばれる王朝が存在したかもしれない(1993年にテル・ダンで発見された碑文がこの仮説を支持している)が、このユダ王国は、おそらくはそれ以前に出現した北部のイスラエル王国よりずっと小さいものだった。・・・・・・
 1980年代にヨルダン川西岸地域でおこなわれた重要な考古学的発見により・・・・・・肥沃な北部では農耕がさかんにおこなわれ、数十の集落の成立が可能となっていた。他方南部では、紀元前10~前9世紀になっても、20ほどの小村を数えるだけだった。ユダが徐々に結晶化し発展したのが紀元前8世紀末頃のことだったのに対し、イスラエルは前9世紀にはすでに安定して強力な王国であった。つまりカナンには、文化・言語の面では近いものの、分離し対立する二つの政治的実体がつねに存在していたということになる。・・・・・・オムリ王朝を頂点にいただくイスラエル王国は、ダビデの系統のユダ王国を凌駕していた。・・・・・・かつてはソロモンが建設したと考えられていた大建築物群は、実はもっと後の時代にイスラエル王国により建てられたものだった。(ユダヤ人の起源 シュロモー・サンド ちくま学芸文庫  P251)

※ さまざまな考古学の発掘調査の結果、イスラエル王国の住人は、ユダの農民と同じように、熱心な多神教徒だったことが分かっでいる。彼らの神のなかで最も人気のある神がヤハウェで、その後ヤハウェは、ギリシア人におけるゼウスやローマ人におけるユピテルと同じように、徐々に主神となっていた。しかし、人々ははバアルシャマシュの崇拝を捨ててしまったわけでなく、また美しく魅惑的なアスタルテのためにも、パンテオンのなかにつねにその場を確保していた。(ユダヤ人の起源 シュロモー・サンド ちくま学芸文庫  P253)

※ 結論としていえば、新しい考古学者や研究者のほとんどが抱く仮説によると、栄光に満ちた統一王国は決して存在したことがなく、ソロモン王は、700人の妻と300人の側妻を住まわせるほど広い宮殿を持ってはいなかったのだ。この広大な帝国の名が聖書に記されていない事実も、この考えを補強するばかりだ。唯一神の恩寵とその祝福を当然受けて建設された、強大な統一王国としてのアイデンティティを考え出し、誉めたたえたのは、後世の作者たちだった。(ユダヤ人の起源 シュロモー・サンド ちくま学芸文庫  P254)

※ イスラエルの「テルアビブ学派」の前衛的な研究者たちの立場は、聖書の歴史的核にあたる部分は、ユダ王国末期のヨシヤの治世に書かれたと断定しており、それ自体は魅力的だが、その説明と結論の大部分は脆弱なものだ。これらの歴史学者の分析は、聖書が紀元前8世紀よりも前に書かれたことはありえずほとんどの物語は事実のなかにいかなる基礎ももたないことを教えてくれ、かなり納得のいくものである。(ユダヤ人の起源 シュロモー・サンド ちくま学芸文庫  P256)


 しかし、ソロモンの死後、この国にも宗教上の対立があって、紀元前922年に北と南に分裂する。
 北は名前を変えてイスラエル王国と名のります。今といっしょの名前ですね。逆にいえば今の国名イスラエルはここからきます。この国はもう一つ別の神を拝もうとした。南はユダ王国という。ユダヤ人という名前はここからくるんです。彼らは逆にかたくなに1つの神のみを拝もうとした。

 北のイスラエル王国は短命で紀元前722年に滅ぼされます。メソポタミアから攻めてきた国、アッシリアに滅ぼされます。


※ この王(アッシリアのティグラトピレセル3世)は、以前からアッシリアがしばしば行ってきた反抗的な民族の集団移住政策を徹底させ、征服した諸民族を事実上相互に混合させて、征服民の民族的同一性を解体して反乱の可能性を断った。最近の研究によれば、ティグラトピレセルの20年に満たない治世に総計で約40回にわたる強制移住が行われ、各地で50万人以上の人々が動かされたといわれる。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P137)

※ このような占領・移住政策が非征服民の民族性を解体し、主体性も個性も持たない非力な混合体としての非支配者層を作り上げるうえでいかに有効であったかは、このようにして散らされた旧イスラエル国民が、やがて移住先の人々の中に吸収されてしまい、もはや「神の民」としての自己同一性を保ち得なかったことに示されている。それゆえ北王国を構成していた十の部族は、その後「失われた十部族」と呼ばれるようになる。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P145)


 それを見ていた南のユダ王国の人々は、彼らの神が弱いから滅ぼされたとは考えずに、逆に「奴らは別の神を拝もうとしたから滅ぼされたんだ」と思う。そこで自分たちの神への信仰をいっそう強めます。

※ (イスラエル王国では)ヤハウェは唯一無二の神であるはずだったが、主を意味するバアル(神)はヤハウェの形容詞とみなされたり、別名として崇められたりした。(多神教と一神教 本村凌二 岩波新書 P95)


※ 古代の戦争も、国と国、民族と民族、軍隊と軍隊の戦いである。しかし古代の戦争には、神と神の戦いとしての意味もあった。戦争に負けて、国や民族が滅びると、そこで崇拝されていた神も死ぬ。このことは戦争での勝利という「人の側の要求」について、神は当てにならない、頼りにならないということを意味する。つまりこの神は、いわば駄目な神である。そのことが戦争の敗北・民族の滅亡という動かしようもない厳然たる事実によって、証明されてしまったのである。前8世紀後半におけるアッシリアによる北王国の滅亡は、ヤーヴェが人々に見放されても当然の結果に結びつく事件だった。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P60)

※ 契約の概念をあてはめると、神に対する民の義務がきちんと果たされていたかという問題が出てくる。ところがアッシリアに滅ぼされる前の北王国の民の態度は、神の前で適切なものだったとはとても言えないようなものだった。ヤーヴェ以外の神を崇拝していたのである。神に対する民の義務が実現されていてこそ、神は民に恵みを与える。買い手が百円を出していないのならば、売り手がリンゴを渡さないのは当然である。このような論理を採用することで、ヤーヴェは駄目な神だとしなければならないといった事態を回避できることになる。この論理によって神は救われたのである。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P65)



【バビロン捕囚】 南のユダ王国はこのあと100年ばかり生き残る。しかしやはり滅ぼされます。滅ぼしたのは新バビロニアです。紀元前586年のことです。
 国が滅ぼされると女は犯される。子供も殺される。男はまっ先に殺される。殺すのが一番簡単ですから。そうでなかったら捕らえて捕虜にする。そして連れて帰って奴隷として働かせる。古代ではよくあることです。
 だからこういう目にあった民族は他にもいっぱいいるんです。しかしその多くは消滅して、歴史の中に消え去っているから歴史に残らない。ユダヤ人もそういう目にあいますが、彼らは消滅しないどころか、今では世界の中心都市でお金持ちになっている。

 だからこれが特別にクローズアップされるのです。彼らは新バビロニアに滅ぼされた後、新バビロニアの首都バビロンに連れて行かれて奴隷にさせられた。これをバビロン捕囚といいます。そこで約50年間、奴隷として使われた。この間彼らは何を考えたか。「オレたちを奴隷にしたオレたちの守り神はダメな神だ」とは考えない。この教えは「信ずる者は救われる」です。この言葉、よく聞きませんか。しかし自分たちは救われてない、と彼らは思った。

 では救われないのはなぜか。「信じる者は、救われる」のが絶対だとするなら、「救われないのは、信じていないから」なんです。こういう発想をするんです。こういう発想は、「雨が降らないのは、おまえの信じ方が悪いからだ」と言われるのといっしょで、ヤハウェ神官団にとっては、責任を回避するうえで、非常に都合のよいものです。旧約聖書はこのような中で書かれたものです。

※ 現在の研究によれば、(旧約聖書の)「モーセ五書」や「ヨシュア記」は、1人の著者により一気に書き下ろされたものではなく、長い複雑な編集過程を経て段階的に発展したものであり、最終的に現にある形になるのはバビロン捕囚(前6世紀)以後のことだったと考えられている。・・・・・・それゆえこの「救済史」の物語は、実際に起こったことの正確な記録ではなく、後のイスラエル人が自分たちの祖先の体験として信じた信仰の内容だと解すべきである。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P13)

※ アッシリアもバビロニアも征服した民族に強制移住政策を行ったが、アッシリアが旧北王国の住民をアッシリア領土内各地に分散させ、また旧北王国領に他の地域の住民を移住させる双方向型移住政策をとり、結果的に被征服民を混合させてしまったのに対し、バビロニアは旧ユダ王国の住民を比較的まとまった形でバビロン近郊に住まわせ、しかも一方向型移住政策で満足して、旧ユダ王国領土を放置し、そこに異民族を移民させなかった。それゆえユダの人々は、バビロンにおいても本土においてもその民族的同一性をかろうじて維持することができ、しかもバビロン捕囚終了後には故郷で民族の再建を図ることができた。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P171)

※ ある集団が他の集団に打倒されたならば、敗者の主神は勝者の主神に敗れたことになる。敗者たちは優越する神に同化するか鞍替えするか、そこには神々の融合や習合がおこる。疎んじられたり役に立たないと見なされれば、捨てられたり取り替えられることもなきにしもあらずなのである。しかしイスラエル人の場合はこれとは異なる。彼らは神と契約することによって選ばれた民などである。もし彼らが負けたとしたら、それは彼らの唯一神が自らの民に罰を下したのである。それは彼らを正しい道に戻らせるためである。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P96)

※ バビロニアに捕囚生活を送ったイスラエル民族は、ようやくそれぞれの出身部族のこだわりをすてて、その代表的な部族であるユダ族を中心に団結した。このころから、かれらはユダの人びと、つまりユダヤ人とよばれるようになった。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P391)



 彼らは「信じているのに救ってくれない神は、ダメな神だ」とはしません。すべては信じる側の責任にするのです。それまでの多神教は神の責任を保持しています。だから民を救えない神は捨てられるか、殺されていきます。
 しかしこの一神教は、神の責任をすべて免除し、逆にその責任を信者の信仰の不足のせいに転嫁するのです。


※ 古代世界の常識によれば、民族間、国家間の戦いは同時に神と神との戦いであった。したがって、ユダ王国の滅亡とダビデ王朝の断絶は、イスラエルの神ヤハウェがバビロニアの神マルドゥクに敗れたことを意味しかねなかった。・・・・・・
 彼ら(旧約聖書の記述者たち)は、(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記を編集することにより)イスラエルの歴史を民の側の罪と契約違反の歴史と描き出すことにより、王国の滅亡と捕囚という破局が神からの正当な罰であり、その責めはもっぱら民の側にあることを示し、この事態が決してヤハウェの敗北や無力を表すものではなく、むしろまさにヤハウェの義と歴史における力を示すものであることを論証しようとしたのである。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P173)



 「信じる者は救われるのに、なぜ自分は救われないのか」。
 「それは信じていないからだ。だからもっと信じろ、救われないのは信仰が足りないんだ」
という論理です。こういう論理ができあがります。この論理に出口はありません。だからこの苦悩は永遠に終わりません。この論理により、絶対的な一神教ができあがります。

 多神教の世界では人々は神々と共に住んでいましたが、一神教の世界では人々は神に支配される者として生きていくことになります。

※ (前722年の)北王国(イスラエル王国)滅亡の後の契約の概念・の概念の導入によって、ヤーヴェが沈黙していても、それでヤーヴェを駄目な神だとせずに済む考え方が成立した。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P78)
(●筆者注) 例えばバスに乗るとき、「100円払えば、バスに乗っていい」という契約があります。しかしバスに乗っても、そのバスはいっこうに目的地にたどりつきません。でもそれは「おまえたちの100円の払い方が不十分だったからだ」といわれます。すると、乗客はいつまでも100円を払い続けなければならなくなります。「バスが悪いのではなく、乗客である自分たちの行いが悪いのだ」とされます。これが罪の概念です。こうやって神だけが一方的に契約履行の責任を免除されます。そして乗客は「神はどうやったら目的地に連れて行ってくれるのか」を永遠に考えつづけなければならなくなります。しかも他のバスに乗り換えてはなりません。もし乗り換えようとすれば、神はますます災いをもたらします。一種の脅しです。これが一神教です。
 これを「契約」というから、日本人にはわかりにくくなります。なぜなら「契約」とはふつう互酬性、つまりフィフティ・フィフティの関係があるからです。ギブ・アンド・テイクといってもいい。この契約にはそれがないのです。一方的に人間が払うだけなのです。リターンが未来永劫に引き延ばされるということは、リターンがないのと同じです。こういう契約は無効です。ふつうならこれは「だまされた契約」であり、いつでも無効にできる不当な契約です。これを正式な契約として扱うことは日本人にとってはたえがたいものです。このような権利と責任のバランスがとれていない契約は、契約ではありません。これもユダヤ人の自己正当化の産物ですが、これを正式な契約だと認めると、人の富を奪うことも正当化されていきます。なぜなら、彼らは一方的に義務を負う不当な契約を正当化したため、それに対する怨みを他人に転嫁するようになるからです

※ 一神教というのは、好ましくない状況、屈辱的状況に追いつめられて、そこからの逃避として唯一絶対神にしがみつくということだと思います。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P52)


※ 神と人とが契約するという発想はなんとも独特であり異様ではないだろうか。現実には多神教世界のなかでデキモノのように突起した一神教信仰だった。神々をあがめる世界であれば、いずれかの神に帰依すればそれでいいことになる。しかし、一神教ではほかの神をあがめてはならない。唯一神信仰はほかの神々を否定するという形でしかありえないのだ。だから、神との契約が結ばれ、人々は永遠の義務を負わされることになる。しかし、その契約によって彼らが抑圧と差別からの解放を得ることができるのである。(多神教と一神教 本村凌二 岩波新書 P73)

※【エデンからの追放】
※ (ヤハウェ神は)さらにその人に言われた。「君が妻の言う声に聞き従い、わたしが食べてはいけないと命じておいた樹から取って食べたから、君のために土地は呪われる。」・・・・・・ヤハウェ神は彼をエデンの園から追い出した。(旧約聖書 創世記 岩波文庫 P15~16)


 「どこまでも信仰していかないと気が済まない。信仰しても信仰しても不安になる」、これが一神教です。これがのちのキリスト教の母体になっていきます。なぜそこからキリスト教が生まれるか。それはまたイエスの誕生のところで言います。
 こうやってバビロン捕囚の間も、彼らは神への信仰は失わないどころか、逆に信仰を強化していきます。「他の神を拝んではダメだ」という神様を信仰し続けた。この神様の名前はヤハウェといいます。この神様がのちのキリスト教の神です。
 続く。


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