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「授業でいえない世界史」 6話 古代中国 五代十国~元

2019-01-22 09:26:57 | 旧世界史1 古代中国

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 いま中国史、この中国史をいうときに問題なのは、たんに万里の長城の南が中国と思うんではなくて、万里の長城の北で馬に乗っている人たち、農耕民じゃない人たち、騎馬遊牧民族、または逆にして遊牧騎馬民族、こういった人たちがいることです。
 たぶん顔形は東洋人の顔なんだろうけれど、言葉は中国語じゃないんですね。言葉が違うということは民族も違う、文化が違う。こう言った人たちが中国の周辺にうごめいてくるんです。
 その相互作用というのが、中国史なんです。全部わかろうとすると大変なんだけど、ポイントは難しくありません。騎馬遊牧民といっても、その時代時代でメインは一つです。



【五代十国時代】
 唐が滅んだあと、300年間の唐が滅んで、また中国は約50年間の分裂時代になります。五つの国が次々に変わる。これを五代十国時代といいます。
 北の方では五つの国が変わり、南の方で十国がバラバラです。また戦国時代です。
 中国は、まとまってはバラバラに、まとまってはバラバラに、これを繰り返します。こういう戦国時代になるのは、北にいる騎馬民族がいつでも攻めてくるから、材料には事欠かないです。
  この国はすべて後をつけて、後梁・後唐・後晋・後漢・後周、と漢字でいうけれども、これらの国の中心は突厥、つまりトルコ人です。後をはずして梁・唐・晋・漢・周と覚えたら楽です。



【ウイグル】
 この時代、唐が滅んだのは907年ですけれども、その前から行くと、唐の時代のモンゴル高原は突厥だった。
 その後、これも同じトルコ族の一種なんですが、別のグループとしてウイグルが活動しだした。しかしこのウイグルも、唐の滅亡の前に、別の仲間で敵対していたキルギスという部族に840年に攻められてモンゴル高原を出ていかざるを得なかった。
 彼らは西へ西へと移動します。これをウイグルの西遷という。西遷とは西に引っ越すことです。


【中央アジア】 中国の西方、砂漠地帯から、パミール高原、アジア大陸の真ん中あたり、そこを中央アジアという。そこは超大国はないけれども、アジア大陸のへソみたいなところで、西から東からいろんな民族がうごめくんです。意外と注意です。
 ウイグルというトルコ族の一種がまず西に動いて中央アジアに行く。もともとそこは白人が住んでいた。白人といってもイラン系、ペルシア人です。
 ウイグルというのはトルコ族です。だからトルコ人の土地という意味で、そこは別名トルキスタンと呼ばれていくようになる。トルコ人が住んでいる地域という意味です。  それまではイラン人、ペルシア人が住んでいた。イラン人とペルシア人はだいたい同じです。ペルシア帝国があったところが今のイランという国になっている。
 そこに我々と同じ黄色い顔のウイグル人が来て、そこはもうすでに・・・まだ言ってないけど・・・イスラム教が広まっていた地域なんです。
 そこに入ってきたウイグル人はイスラム教を信仰していくんです。モンゴルにいたウイグル人が移動してイスラム教徒になっていく。
 これが10世紀ごろに起こったことです。この場所が中央アジアというところ、インドのちょっと北西あたりです。
 


【キタイ】
 ウイグルが移動によって、モンゴル高原は空いた。空いたら誰も住まなかったかというと、その代わりには事欠かない。
 いっぱい別のグループがいる。似たような人たちがいるんですよ。彼らがまたそのモンゴル高原に入ってくる。
 彼らを、キタイ族という。これを中国人は漢字に当てはめて、なるべく似た名前にした。契丹(きったん)という。キタイ、キッタン、なにか似ている。
 漢字はもともと音を表す言葉でなくて、意味を表す言葉だから、正確な発音を表せないんです。この契丹が乗り込んできて国を建てる。
 彼らは中国文化が上だと知っているから中国風な国をつくる。漢字一文字を当てるんですね。これを「」という。建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)。発音は正確には分からない。
 これが戦うと強いんです。文化的には中国が上なんだけど、喧嘩するとこちらが強い。勉強しないけど、喧嘩は強い、そういう人いるでしょう。全然、不思議なことではない。


【燕雲十六州】 そこで彼らは中国の一部であった地域、万里の長城の南、ここの部分を936年に占領する。全体から見るとそんなに大きな地域ではないけれども、中国内の土地が異民族に取られたということで、非常にインパクトが強い。中国人はこのことに強い危機感を覚えた。この地域を燕雲十六州といいます。
 中国にまた異民族が入ってきた。戦争で勝つのは決して文化的に栄えた所ではありません。文化水準が低いところは逆に野蛮だから、野蛮な人間が、高い文化を滅ぼすことはよくある。
 中国とヨーロッパの関係もそうです。ヨーロッパと中国を比べると、ヨーロッパが伝統的に進んでると考えたらダメですよ。
 まだヨーロッパにはお金も流通してない。中国にはすでに1000年前からお金が流通している。ヨーロッパにはまだ紙すらない。中国にはすでに1000年前から紙がある。文字は当然ある。多くの人が文字を書ける。ヨーロッパはほとんど文字を書けない。
 江戸時代だって、ヨーロッパの先端文化は進んでいたかも知れないけれど、識字率、つまり国民がどれくらい字を書けるかというと、日本人の識字率が高い。江戸時代の日本人は学校がなくても、誰から命令されなくても、寺子屋に行き出す。だから識字率は非常に高い。
 そういう平和な国にペリーが大砲向けて来ると、ひとたまりもないわけです。



【宋】
 中国の唐が滅んだあとはどうなったか。これがという国です。960年に建国です。
 5Cの南北朝時代にも南朝に「宋」という同じ名前の国がありましたが、それとは別の国です。


▼北宋と遼


 隋のあとの順番は、隋・唐・五代十国・宋・金・南宋・元とくる。
 モンゴル帝国まであとちょっとです。秦の始皇帝からもう1000年過ぎました。
 上の図が宋です。都は開封といって、横に川が流れてる。これが黄河です。黄河のほとり、そこに隋が運河を掘った。ちょうどその運河と黄河がつながっているところです。


【文治主義】 この宋という国を作った人は、字がえらく難しいて趙匡胤(ちょうきょういん)という。五代の最後の王朝である後周の軍人です。もっというと、もとは辺境を守って自分の軍隊を持っていた親分、つまり節度使です。
 軍人なんだけれども、彼は自分が軍人だから、自分の国を建てた瞬間に軍人の恐ろしさを知ってる。武力で国がコロコロ変わるような社会にはうんざりした。
  それで文治主義です。勉強しなさいという。中国にはすでに試験がある。ヨーロッパは紙がないから試験できない。中国は紙があるから試験ができる。それが科挙です。その科挙を強化する。
 勉強したやつは役人に取り立てる。政府に抱えるぞ。今までは節度使のような地方の親分に地方政治を任せっぱなしだった。しかしこれからは地方に中央から役人を派遣し、地方行政を行おうとした。そのために頭のいいやつを登用するぞ、そういう方針を打ち出していく。
 しかしこれはお金がかかりすぎて、お金が足らなくなるんです。いままでは地方のことは地方の親分に任せていた。しかしこれからは中央政府の役人が地方政治を行うことになる。政府の資金で地方政治を行うんです。だからお金が足りない。
 それで1万円札を刷るんです。これが世界初の紙幣です。1万円札を刷る意味は、国家の信用でお金をつくるということです。そうやって紙のお金を作り出す。金貨とはまったく発想が違います。
 では今の1万円札も国家が発行しているかというと、ちょっと違いますね。今の1万円札は、国家が発行しているのではありません。日本銀行が発行しています。日本銀行で働いている人は公務員ではありません。だから今の1万円札は、政府紙幣とは別の何かです。お札は日本銀行券といいます。そう1万円札に書いてあります。この銀行券という今のお金の謎は深いです。単純な足し算・引き算と、微分・積分ほどの違いがあります。 


【商業重視】 さっき首都が開封に移ったといいましたが、これは何を意味するか。中国はもともと農業中心国家だったんですけれども、水上交通の便のいいところに初めて首都をおいたということです。
 1番大事なものは、農業ではなくなりつつある。商業重視の国家になりつつある。
 商業が栄えるということは、商業の同類に貿易がありますから、外国との取引の港として出てくるのが、この図の広州です。1000年前から広州はあります。
 これが伝統的な港で、今から約200年前にイギリスがここに行きたいけれども、その入り口にある小さな島を手に入れたくて、中国に戦争ふっかけて自分たちのものにした。アヘン、つまり麻薬を売りつけて。これが今の香港です。
 香港は中国でもずっと南のほうです。北京は当然北方です。北の京は北京。南の京は南京という。南京のそのまたずっと南に香港がある。もともと広州という。


【西夏】 ただこの宋という国は、軍事に力を入れなかったから戦争が弱い。弱いと周辺の人間が暴れまわる。異民族がいろいろ動き出して国をつくっていくんです。
 今度はチベット系異民族、騎馬民族とちょっと違って・・・チベットは西のほうにある・・・西夏という国をつくり出す。王様は李元昊という。李元昊の昊はめったに使わない字です。彼が王様です。
 宋はこの西夏にも圧迫されます。それ以前からある契丹の遼にも圧迫されています。毎年、銀や絹などの貢ぎ物を送らなければなりません。戦っても勝てないのです。この貢ぎ物の額が莫大なのです。


【交子】 さらに文治主義にはお金がかかる。学校も実はお金がかかるんです。そのお金がないから、世界初の紙でお金を印刷する。すでに印刷技術があったんです。
 ヨーロッパは印刷技術がないし、紙もない。中国には紙がある。印刷技術がある。これでお金にすれば簡単だ。
 これが世界初の紙幣です。この紙幣を交子という。紙幣の発行をやる。世界で初めての1万円札のルーツは中国です。ヨーロッパではありません。
 ヨーロッパでの紙幣発行は、のちにまた別のところから発生します。そこには銀行がからむんです。もうちょっとあとで言います。お金は説明し出すとキリがないです、簡単に見えてトリックに騙されます。
 もともとこの紙幣というのは、預り証です。預り証というのは、ズボンを買ってスソを曲げのため、1週間後にズボンを取りにきてくださいと言われると、その引換券として紙を切ってもらう。1週間後にその紙を渡せばズボンがもらえる。そのときのズボンの引換券といっしょです。その預り証です。
 では紙幣は何の預り証か? 本当のお金は中国は銅銭です。銅は重いから、紙で預り証を切る。紙は軽くて便利だから、本物のお金のようにそれが流通していく。
 預り証を発行する業者によっていろんなお金がある。国中に何百種類ものお金があって不便だったから、それをまとめて政府が発行する。
 中国の通貨の基本は、政府がお金を発行します。今の中国銀行も、政府が実権を握っています。それに対して今の日本は、政府がお金を発行していません。日本銀行が発行している。

 どっちが発行するした方がいいか。これが大問題で決着ついてない。アメリカ型・ヨーロッパ型は銀行券です。日本は明治初期にヨーロッパ型をまねて、それから100年以上、銀行券を発行しています。
 しかし江戸時代は違う。江戸時代の金座・銀座は、幕府のものです。東京の銀座は、銀貨を発行する幕府の座があったところです。今の銀座はその銀座があったところです。
 その銀座を管轄しているのは・・・その頃は銀行なんてなくて・・・民間商人もそこまで力を持たない。発行したのは幕府です。

 ところが明治になると、政府はお金を発行しなくなった。その代わりに三井という民間銀行を母体にした日本銀行が発行しだした。それはヨーロッパのマネです。

 ここではとにかく宋が国家として紙幣を発行したということです。政府は官だからその紙幣を官交子という。政府が紙幣を発行していたんです。

※ 四川の交子鋪が事業に失敗し、銅銭の準備高不足で不払いに起こしました。宋王朝は1023年、交子鋪の救済を行うと同時に、交子両替のビジネスを民間の交子鋪から取り上げ、朝廷の専売ビジネスとします。朝廷が交子を発行しはじめたことによって、交子は公的な兌換紙幣となり、全国に普及しました。これが史上初の兌換紙幣です。(宇山卓栄 経済)

※ 中国では歴代のコインをはじめ、多種多様のコインが流通しており、極めて不便だった。そこで、四川の成都の金融業者は、「交子」という手形を発行することで、かさばる鉄銭の不便を避けようとした。
 やがて「交子」の利便性が知れ渡ると、宋は商人組合から手形の発行権を奪い、紙幣としての「交子」を発行するようになった。もともとは銅銭の価値を示し、銅銭と交換することができるとされた手形を、皇帝が価値を保証する紙幣にかえたのである。
 元来、中国の「お金」は素材としてはあまり価値のない銅を用いており、皇帝の権威により価値を付加されていたために、紙幣への移行が比較的円滑に行われたと考えられる。(宮崎正勝 お金の世界史)

 金(キン)と違って、お金がないとき紙幣はいくらでも印刷できます。それが癖になると歯止めがきかなくなって印刷しすぎる。すると、物の値段は・・・ここは現代の経済といっしょです・・・どうなるか。
 物の量が一定なのに、お金ばかり印刷したら、物の値段は上がるんです。これが1倍、2倍だったら普通のインフレだけども、すぐに100倍を超えるとハイパーインフレとなって、そうなると宋が潰れる。
 そこまで行くと、そんな紙切れをいくら持っていても何の役にも立ちません。


【王安石】 そういうふうに紙幣が流通して貨幣経済が発展すると、貧富の差が大きくなっていく。お金を儲けた人間が土地を買い占めていき、大土地所有制が広がっていく。農民の生活が苦しくなっていく。
 中国はこの貧富の差を無くそうと努力します。努力した改革者を王安石といいます。
 これは結果的にうまくいかないけれど、ヨーロッパはもともとこういう発想がないです。お金はお金のあるところに集まる傾向がある。えらく金持ちと、えらく貧しい人に分かれる。中国には、こういう社会はよくないという考え方が前提としてある。
 ヨーロッパは、自由競争は仕方ない、その結果、富める者と貧しい者が分かれるのは仕方がない、という考え方です。そこらへんも、西と東でだいぶ違います。



【金】
 今度は、万里の長城の北で暴れまわる民族が出てくる。これは本当はジュルチン族というんですけど、中国では漢字で書くからこれを女真(じょしん)族と書いた。女のグループじゃない。中国人が発音をまねてこう書いただけです。
 この女真族が1115年に国をつくる。これがという国です。金を建国した王様は、ここでも中国人はでたらめな漢字を当てますが、完顔阿骨打(わんやんあぐだ)という。そう読むんです。王様の名前です。
 実は中国人の宋はこの金に圧迫される。金は強くなって1125年にまずを滅ぼす。そして翌年の1126年宋を滅ぼす
 遼は逃げて西のほうで別の国、西遼を1132年に作っります。そのときの王様は耶律阿保機ではなくて、その一族の子孫、耶律大石といいますが、彼らは中国からは姿を消します。



【南宋】
 金に滅ぼされた宋は南に逃げて、翌年の1127年に別の国を作ります。南に逃げた宋だから、これを南宋という。都は臨安(杭州)です。


▼南宋と金


 この国が1279年までこのあと150年ぐらい続く。これを地図で見ると、12~13世紀の中国は上の図の状態です。南が南宋、北は金です。その国境が淮水(わいすい)です。南宋は北方民族にだいぶ押された形になります。
 南宋は金に対して、中国史上初めて臣下の礼をとり、つまり金の子分となって、毎年、銀や絹の多額の貢ぎ物をしなければならないことになります。


【宋学】 彼らは北方騎馬民族に頭が上がらない。毎年多くの貢ぎ物をします。その経済的負担は大変なものです。だから紙幣を発行したということは前に言いました。
 しかしそれだけではありません。漢民族としてのプライドを捨てて、異民族に頭を下げ続けることが人間として正しいことなのか、という疑問がわいてきます。人間として生きるためには何が正しいことなのか。どういう社会が正しい社会なのか。そういう疑問がわいてきます。
 それに応えたのが朱子学です。宋学ともいいます。これをとなえたのが南宋朱熹です。朱子ともいいます。仏教などの外来文化ではなく、中国の伝統文化に立ち返り、その正しさを周囲の国にもちゃんと主張すべきなんだ。そしてそれによって、中国を中心とした国際秩序を作るべきなんだと主張します。
 正しさを主張するのなら、その正しさを内にこもって守るのではなく、堂々と外に向かって主張し、その正しさで国外の秩序も維持するべきだ。ところが今はそうなっていない。こういうのを大義名分論といいます。
 これが儒教の正統とされ、このあと日本にも大きな影響を与えます。日本の江戸時代の武士の学問といえば、一言でいうと、この朱子学です。


【12世紀のアジア大陸】 この12世紀をアジア大陸全体で見ると、どういう事が起こってるか。
 宋は軍事は弱いけれども、経済優先なんです。ものを交換したい。
ではこの時の西のヨーロッパはどうかというと、これもあとでいいますが、十字軍という遠征軍を東のイスラム世界に差し向けて戦う。
 それで人が何万人と移動したついでに、貿易を活発化していく。これで西と東が通じる。

 その取引の中心で、ヨーロッパ人が一番欲しがったものが何か。ヨーロッパは絶体つくれなかったもの、それは蚕です。何と読みますか。昔テントウムシと読んだ人がいました。「カイコ」です。蚕が口から吐いた糸を織って布になる。この布が絹ですね。絹は今でも高級繊維です。絹の背広とか着ている老紳士とかにタマにいるけど、やっぱりきれいですね。私は買ったことがないけど、一度は着てみたいです。でもお金がないから生糸のパンツぐらいかな。
 絹は英語でシルクといいます。その交易路をなんといいますか。こうやってシルクロードが活発化していく。

 そして中国の南宋が潰れると、ユーラシア全体を配下に治めた者がシルクロードの支配者になる。これがモンゴルなんです。チンギス=ハーンです。大世界帝国、面積は過去最大です。
 今でもモンゴル帝国以上に大きい国はない。チンギスハーンのモンゴル帝国が成立していく。



【モンゴル帝国】
 国を作ったのは1206年です。モンゴル帝国という。もともと弱小グループだったけれども、こういうのは偉大なリーダーが出ると急速に戦争に強くなる。リーダー次第です。

 そのリーダーとして選ばれたのがチンギス=ハーン。誤ってジンギスカンとか、焼肉料理の名前になっていたりする。もともと人の名前です。
 この騎馬民族はどこか民主的で、リーダーを話し合いで決めるという風習がある。モンゴル語で会議または集会、これをクリルタイといいます。会議です。ここで重要事項を決定する。
 今の日本でも国会で一番重要で、まず行うことは内閣総理大臣を決めることです。この会議でモンゴル帝国のリーダーにチンギスが選ばれます。

 そしたら周辺の部族をあっという間に統一し、2000キロ先まで行く。大遠征です。
 まず西にいたさっき出てきた西夏、これを1211年に潰す。
 さらに1231年にホラズムを潰す。次々に潰していく。向かうところ敵なし。今度は北に行く。
 宋よりも強かったも1234年に潰していく。金のことを女真族という。要注意は、この女真族が、忘れた頃の400年後、また復活して中国に大帝国つくる。これがです。400年間、鳴りを潜めて生き残っている。
 この清は何かというと、日本が1894年、中国と戦ったんです。この戦争を日清戦争という。そのときの清です。これは強い国家です。300年ぐらい中国を支配する。ここではちょい役だった女真族、それがこうしてまたあとで出てきます、400年後に。
こういうグループが万里の長城の北にいっぱいいる。

 ここではモンゴルの話、チンギス=ハーンの子孫、バトゥ、彼は西へ西へと行ってヨーロッパまで攻める。ヨーロッパのドイツ・フランスまでは行かなかったけれど、その直前まで行く。そしてこのあとロシアを支配する。
 世界史というのは、戦争のことを2回言うことがある。勝った国を説明して、今度また地域ごとに別の国を説明するときに負けた国を説明して、2回同じことを説明する構造がある。
 地域ごとにやると日清戦争でも、日本のことをやるときに1回出てきて、中国のことをやるときに1回出てきて、同じ日清戦争でも2回説明するということがよく起こる、説明の仕方として。
 ロシア側からはまだ見てないけれども、ロシアが誕生するご先祖の国がある。これがキエフ公国という。キエフは地名です。これがロシアの元です。
 1240年、これは滅ぼされる。だから、ロシア人はこのあと200年間、国も持たず、国はあったけど被支配者層として、誰に支配されたかというと、モンゴル人に支配される。
 今と逆です。モンゴルが強かった。ロシア人はこのことを「タタールのくびき」といって怨んでいます。
 モンゴルは、さらにロシアからドイツまで攻めようとして、ドイツの手前のポーランドで戦う。これがワールシュタットの戦い1241年です。これも地名です。
 この戦いでモンゴルがまた勝利する。しかしモンゴルは勝ったところで引き返す。ここから西には行かなかった。だからドイツは助かった。

 今度は、南西地方、今のイスラム圏、今のイラクあたり。そこには、これもまだ言ってないけど、イスラム国家でアッバース朝というのがあった。1258年、これにも勝つ。
 地理的にはアジア大陸総ナメです。しかしあまり広すぎて、中国本土をボスとして、国が分裂していくんです。ただ親戚づき合いみたいな微妙な繋がりがある分裂の仕方ですけどね。
 中国の本家はという国号に変える。これが日本にも攻めてくる、鎌倉時代に。元寇といって。
 福岡県の西の方の玄界灘沿いに行くと、このときの防塁の跡、防ぐための石がゴロゴロしてるところが残っています。

 

▼モンゴル帝国の発展


【フビライ】 この元の初代皇帝がチンギス=ハーン、2代はオゴタイ=ハーン、3代、4代を飛ばして、有名なのは、5代フビライ=ハーン。これが元気者で暴れ回る。日本に攻めてきたのはこの5代フビライです。広すぎて国が4つに分裂します。
 ロシア地方でキプチャク=ハン国
 西アジア地方ではイル=ハン国
 中央アジアではチャガタイ=ハン国
 もう一つオゴタイ=ハン国というのがあったといわれていましたが、最近これは国ではなかったとされています。
 そのボスにがいる。それらが緩やかな連合をする。

 

▼モンゴル帝国の系図


 これを人の系図でみると、国が●印です。これは親戚の国なのだという事がわかればいいです。その本家が中国の元です。
 西アジアはイル=ハン国です。中央アジアはチャガタイ=ハン国です。これがぜんぶ連合しているとみれば、これだけ大きな国はここでしか出てこない。いくらロシアが大きいといってもこれにはかなわない。史上最大国家です。
 モンゴル人は気が荒い。朝青龍、白鵬を見ていても、相撲が荒い。モンゴル人の相撲は、喧嘩させたら強かっただろうという相撲をとる。朝青龍とか気性が荒くて、イメージが重なります。
 でもそれが好きかと言われると、そうでもないですけど。


【元寇】 中国本土ではです。本当はこのモンゴル高原にカラコルムというのがある。パオというテントがある首都だった。しかし中国に首都を移した。これを大都という。のちに名前を変えて、これが今の中国の首都、北京です。北京はモンゴル人がつくったんです。中国人ではなく、モンゴル人ですよ。
 そして南の南宋も滅ぼす。1276年です。ベトナムも攻める。
 日本も攻める。これを日本では元寇という。元寇の寇は難しい字ですけど。2回来る。とても勝てない。なのになぜ勝てたか。台風が来たから、2回とも。日本人はこの台風を神風と呼んだ。日本は神に守られてる国だ、という考え方が出てきたりする。日本の神様のカブが上がった。

 モンゴルは最初に言ったシルクロードを支配するんです。シルクロードは延々と続きます。こう書くと短い感じがするけど、山越え、谷越え、砂漠越え、ラクダを使いながら、何年もかかって行く。

※ モンゴルはシルクロードを完全支配し、それがもたらす富を背景に急成長します。(宇山卓栄 経済)



▼13世紀の世界



【交鈔】
 このモンゴル帝国、中国では元という。やはり宋の真似をして紙幣を発行する。この紙幣を宋では交子と呼んだ。今度は交鈔という。
 紙の紙幣、ヨーロッパ人、これを見て、中国では何の価値も紙が金貨の代わりになっているといって不思議で不思議で仕方がない。

※ マルコ・ポーロを驚かせたのは、フビライが発行する紙幣、つまり交鈔だった。イタリア商人のマルコ・ポーロには、紙切れが金、銀と同等に扱われることが信じられなかったのである。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ 清王朝は紙幣を発行しない。(宇山卓栄 経済)

 なんでこれが価値があるのか。これは国の信用なんです。紙幣がここで登場する。これは、国の信用力としては中国が高かったということです。ヨーロッパの中世はまだ混乱しています。
 中国にはすでに紙がある。これは当たり前じゃない。ヨーロッパではないんですよ。印刷技術があるということ。これも当たり前じゃない。ヨーロッパではないんですよ。
 交鈔、これが1万円札のルーツです。もともとお金は、金か、銀か、銅か、そういう貴金属だったけれど、紙幣を発行した。前の宋の時代からです。
 ヨーロッパ人がこれを見て、紙切れがなぜ1万円の価値があるのか、非常に不思議がったという記録があります。
 今ではあたりまえですが、紙幣というのは難しい。お金は、考えるとよく分からないという現代のブラックボックスです。


【紅巾の乱】 元は漢民族ではない。漢民族の学問、儒学、これは軽視する。
 お役人を試験する、これを科挙といいますが、これも元の時代には中止される。
 もうちょっと言うと、中国と北方騎馬民族の境界を分ける万里の長城、この万里の長城は、モンゴル自体が北方騎馬民族で、中国に押し寄せて来ているわけですから、いったん破壊される。自分たちを通らせないものは障害物だから破壊される。
 それをこの次の明が、再度構築して、今の大々的な万里の長城を作っていくわけです。
 1351年になると宗教反乱です。基本は農民反乱と思ってください。それでつぶれる。この反乱は宗教がらみです。白蓮教徒という民間宗教です。階層からいうと農民です。中国は農民によって王朝が滅ぶ国です。
 日本の百姓一揆は、逆につぶされるわけですけれども、私は今でもこういう農民反乱を動かしていくその原動力というか、その組織力というか、それが不思議でならない。こんな力を持つ農民がたびたび歴史に登場するというのは他の国にないことです。これが紅巾の乱という。赤い頭巾をかぶるから、紅巾の乱です。


【イスラム化】 これによって一気にモンゴル大帝国は瓦解していきます。このモンゴル大帝国の地図を見ると、こんな大きい国というのは、あとにも先にもないです。
 しかし、西アジアにイル=ハン国があるけれども、ここはイスラム教国になります。ここにはすでにイスラム教がある。モンゴル人によって、このイスラム教がつぶされていったのかというと、逆にここに来たモンゴル人たちはイスラム教に染まっていくんです。
 自分たちが、逆に征服された側の宗教に馴染んでいきますので、今もここがイスラム圏であることには変わりがない。
 そうやってイル=ハン国は逆にイスラム化していく。そしてその東の中央アジアにあったチャガタイ=ハン国もイスラム化していく。こうやって西に移動したモンゴル人たちはイスラム教徒になっていくんです。
 彼らがイスラム教徒になったあとに、チャガタイ=ハン国のあと、彼らの子孫でまた国を建てる人物、ティムールというのが出てくる。この国をティムール帝国といいます。この国はモンゴル人の国ですけど、すでにイスラム国家です。


【東西交流】 このユーラシア全体にまたがるモンゴル帝国によって何が盛んになるかというと、東西交流です。
 ヨーロッパと中国との間にはシルクロード、絹の道というのがあって、そこに何千キロにも渡って、ラクダの商隊を組む。リレー式でものを運んで行くんですけれども、そういう商人たちが交易をして非常に大きな利益を上げていく。そうやって交易が盛んになるということです。
 欲しいのは西の人間が、東の中国の商品を欲しがるんです。絹も中国ですよ。ヨーロッパに絹があるんじゃない。ヨーロッパが進んでいるじゃない。中国が進んでいる。ヨーロッパ人が欲しいんです。
 それで中国にヨーロッパ人が来るんです。これがマルコ=ポーロです。ベネチアの商人、イタリア人です。
 ベネチアは不思議な都で、海の中に浮かぶ都市です。それで有名です。人工の島が100ぐらいあって、小さな島の中にまたいくつもの小さな島、その島と島とを結ぶ橋が何百とある。そこの商人です。「世界の記述」というのをあとで書きます。
 それからムスリムも来ます。ムスリムとはイスラム教徒のことです。イブン=バトゥータというアラビア人も来ます。中国の元にはそういったイスラム教徒も来ます。いろんな国を旅して「三大陸周遊記」を書きます。
 一旦13世紀、中国はここまでにします。世界史はあっちに行ったり、こっちにいったりしないと世界史にならないからね。中国は一気に千年以上行きました。
これで終わります。ではまた。




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