
王は第1権力である。
神が究極の存在であるとすれば、王はその神からまっ先に権力をもらった人間である。ここでいう第1権力とはそういう意味である。
宰相(首相)というのは王から権力を譲り受けた第2権力に過ぎない。
大統領というのは国民から選ばれた副次的な権力者に過ぎない。これも第2権力である。この場合の第1権力は国民自身になっている。
インドのクシャトリア階級は一般には王と訳されるが、インドの第1権力はクシャトリアではなく、バラモンである。
バラモンは神に仕え、神への儀式を執り行うものとして神からまっ先に権威を授かっていた。インドの王(クシャトリア階級)はこのバラモンによって聖化されなければ王として認められなかった。
近代民主主義というのはこの第1権力によって政治をおこなうシステムではない。
近代民主主義の政治の頂点に立つのはあくまで第1権力によって選ばれた行政官である。
戦前の日本では天皇から選ばれた行政官としての首相がいたが、戦後の日本ではあくまで首相は国民から選ばれたものになっている。
ある人間が第1権力となって政治をおこなう場合には、その政治上の誤りを正す機能が失われる。
中国の皇帝はそういう意味では典型的な第1権力である。
これに対し中世ヨーロッパの皇帝は正確な意味での第1権力ではない。
『教皇は太陽、皇帝は月』という言葉に象徴されるように、中世ヨーロッパの第1権力は皇帝ではなく、ローマ教皇であった。
神から直接権威を与えられたものとして教皇が存在し、神聖ローマ皇帝はローマ教皇からその存在を聖化されることによってはじめてローマ皇帝たりえたのである。
そのための儀式がローマ教皇による戴冠(ローマ教皇がローマ皇帝に冠をかぶせること)という儀式であった。
ここではローマ教皇こそが神から直接権威をもらった第1権力であり、ローマ皇帝はその教皇から副次的に権威を与えられた第2権力に過ぎない。
政治の世界で安定をもたらすには、究極の存在である神と第1権力が結びついていなければならない。
中国の儒教とは一言でいえば、上の命令に従うことは下の者として正しいことだという教えであるが、そのような考え方が社会の主流となるためには第1権力としての中国の皇帝の存在がなければならない。
ところが近代民主主義とは、第1権力である国民が第2権力である大統領や首相に対し、たえず監視の目を光らせているところにある。
ところが日本には第1権力としてもう一つのものが存在する。それは表面的には否定されたとはいえ、現在でも国民の総意である天皇の存在である。
天皇の存在と国民主権は併存することがむずかしい。
国は神がつくったものだとすれば天皇は神と結びついている。しかし国民主権はそのでどころがキリスト教、特にそのプロテスタンティズムにあるため、そのような宗教のない日本では、国民そのものが神と結びつくことはむずかしい。
戦後の日本では天皇そのものは主権者であることを認められていないため天皇が政治的発言をすることはなく、またそれを厳しく自制しているのであるが、国民もまた主権者であるという自覚に乏しいため本当に真剣な政治的発言をすることはまれである。
となると第2権力に過ぎない政治家が政治を執り行っているなかでその失政に対して批判の目を光らせるものがなくなり、結果的に批判そのものがないなかで政治が堕落していくことになる。
こうやって第1権力のない政治世界が誕生するが、そうすると第2権力に過ぎないものがあたかも第1権力のような顔をして政治を行うようになっていく。
そのような政治は誰も当事者意識が無いなかで役人だけが大きな顔をする社会になっていく。
政治には根源的なものへとつながる力がなければならないが、そのようなつながりを持たない者が行う政治はいずれその力を失うことになる。
政治は根源的なものへとつながる力をもつ第1権力でなければならない。
日本でそれがどのような形で可能かは、日本で国民主権がいかにして可能かと同じ問いかけになる。