ようやく「小浜島に行ける」確信が持てたので、娘に旅の計画を打ち明け、
それと同時に、主治医にも「沖縄に行きたい。」旨を申し出た。
先生達からの言葉は意外なものだった。
「どうして、僕たちの意見を聞かずに先に計画を立てるのですか?」と叱られた。
看護婦さんたちの意見も同じだった。
行けるかどうかわからない漠然とした旅のことをどうして聞けるのか?
「こうなったときはどうする?ああなったときはどうやって切り抜ける?」そう聞かれたときに確かな答えがなければ先生たちだって許可が出せない。
私は、そう考えていた。しかし、結果は先生たちを裏切ったことになってしまった。
最終的に、主治医のW先生は「医者としては、とても行かせられない。しかし、親としては行かせてやりたい。」そう言って、
「最悪の事態になったときは、『延命処置はしない』というお気持ちでよろしいですね。」と島の診療所のドクターと連絡を取ってくれた。
そして離島の診療所でも、いつもと同じ治療を受けられるように、点滴の機材・抗生剤・消毒の機材を持たせてくれた。
一番若い熱血先生のI先生は結局最後まで反対だった。
婦長さんも「上空は気圧の変化が大きい。肺に腫瘍がある患者には危険だ。」と止められた。
結局、病院側とは「病院は許可できないということで、一旦、退院して親が勝手に連れて行った。」ということで落ち着いた。
今思えば、亡くなる2か月前だったのだから、病院がそう言うのも無理がないことだった。
私も、ホテルの部屋に着くまでは、この旅が決行されたとは思っていなかったのだから...
いろんな人達の協力で、物理的に旅は可能になったが、この頃、娘は一日おきに高熱を出していた。
眠っていると思ったら、突然、ベッドが揺れ始める。娘の体が大きく震えているのである。急激な体温上昇が、ガタガタとベッドを揺らす。
看護婦さんに電気毛布を借りて体を暖める。30分ほどで体の震えは止まる。
こんなことを繰り返していたので、出発の日の朝、熱が出たら旅は中止になる。タクシーの中で、飛行機の中で、空港で、船で、ホテルで、何が起こるかわからない。
何かが起きれば、旅はそこで終わる。娘はあの部屋にたどり着くことができない。
しかし、娘は病院に帰り着くまで、熱を出さなかった。
娘と私たちの夢は、かなった。
大変さは想像するしかありませんが・・・
本当にお疲れ様でした!行ってよかったですね。
沖縄の空気が、あの子には合っていたんでしょうね。