1本のわらしべ

骨肉腫と闘う子供とその家族とともに

信じる力のこと

2008-06-10 15:16:35 | Weblog
秋葉原で悲しい事件が起きてしまった。
事件の報道、犯人の人物像、生い立ちなどを聞いていると更に悲しくなってくる。
「こんな奴のために、7人もの善良な人たちが亡くなった。」そう思うと腹が立つ。
でも、「こんな奴」と自分に共通点を見つけた。
彼は小中学校は優等生、高校生になって落ちこぼれ、大学進学を断念している。
それからは就職も上手くいかず人生を嘆いて生きてきた。
自分を「不細工」と呼び、身長にもコンプレックスを持っていた。唯一頼りにしていた学力も落ちていき「すべてを失った。」そう思ったのだろうか。

彼に欠けていたのは「人を信じる力」ではなかったか。
家族を信じる力、友達を信じる力、同僚を信じる力。
小さい頃からスポーツ万能で勉強が出来た。そうでなければ家族が自分を認めてくれない、愛してくれない。そう思い込んでいたのだろう。
自分が不細工で小柄だったから、彼女も出来ない。そう信じていたのだろう。
家族、特に母親は息子がどんなに出来が悪かろうがかわいいはずだ。昔から「出来の悪い子ほど可愛い」と言う。
世の中に「美女と野獣」と思われるカップルはたくさんいる。
世の女性を見くびるな。

しかしこの力は私にも欠けていた。
小さい頃、私はコンプレックスの塊のようだった。
末っ子で生まれ育ったせいかどうかはわからないけど、人に対する思いやり、心配りに欠けていた。小学生の頃からそれを自覚していた。意識して「人に優しく」と努めていた。そうしていなければ自分には友達もできないと。
「こんな事を言ったら、この人は自分から離れていってしまうのでは。」
そうやって生きてきたので自分の心を開くことはなかった。
しかし、大学生になり、社会人になり、主婦になり、母親になり沢山の人たちと関わり合った。ある人は私の本質を見抜いてくれた。ある人は厚い壁を破り、ズカズカと私の心に入って来てくれた。ある人は「なんで仲間を信じないの?」と叱ってくれた。
そうやって今、私は生きている。
しかし人間の本質はそう簡単に変わるものではない。
いまでも、昔の私が顔を出す。
「こんな事を言ったら、この人は離れていってしまうのでは?」と不安になる事がある。でも、その後、思い直す。「私はこの人を信じよう。」と。

あえて私が人を信じる「力」と呼ぶのは、それが簡単なことではないと思うからである。